最終日の朝、僕はお父さんとおばあちゃんに見送られて、森に入った。
すっかり通い慣れた道を進みながら、僕はぼんやりとお父さんの言葉を思い出す。
「もう熊はいいの?」
「ああ、ありゃあ誰も森に入れないためのハッタリだ」
「どうして、森に入れたくなかったの?」
「まあ、野生動物も居なくはないし、湖で溺れでもしたら大変だし……それに」
「それに……?」
「……千景との思い出を、そのままにしておきたかった」
僕に思い出を踏み荒らされると思ったのだろうか。それとも、あの空間ごと、ずっとあの頃のまま閉じ込めておきたかったのだろうか。
「ねえ、大事な友達だったんでしょ? お父さんは、どうして千景と会わなくなったの?」
「……大人になったから、かな」
「?」
「ま、お前の友達の『千景』に、よろしく伝えておいてくれ」
そう言ったお父さんも、よっぽどついて行きたそうにはしていたけれど。一緒に行こうかと誘うと、お父さんは小さく首を振って、少しだけ眉を下げた。
わかってる。あそこに居る千景は、僕とあまり変わらない子供だ。大人のお父さんと会えたとして、お父さんが語った思い出のような無垢な時間は、もう二度と訪れない。
夢のように三人で遊ぶことも、きっとありえないのだ。
「……千景」
「やあ。いらっしゃい、夏夜。昨日は夜に会えなくてごめんね」
「僕こそ、ごめん。夜の森なんて、危ないのに呼んだりして。お父さんにも怒られた」
「ふふ、そっか。冬悟さんは怒ると怖いからなぁ。……今日は気を取り直して、紙飛行機でも飛ばさない? 風があまりないから、どっちが遠くまで飛ばせるか競争」
秘密基地の扉を開けると、窓際に佇む千景が白い紙飛行機片手に出迎えてくれた。
「千景」
僕は彼に近付いて、変わらずそこに居る千景の存在を確かめるように、紙飛行機ごとそっと手を握った。
白い手はひんやりとしていて、夏の暑さを感じさせない。けれど確かに、ここに居る。今この場所に居る彼は、幻なんかじゃない。
「夏夜? どうかした?」
「僕、昼に村を出るんだ」
「そう……寂しくなるね」
「ねえ、千景は……」
不老不死の異種族、湖の精霊、この小屋に住む幽霊。はたまた夏の暑さが見せる蜃気楼。それとも、三世代そっくりで同じ名前の不思議な家系か、ここで何度も同じように夏を繰り返す残留思念か。
空想の作文を書くように頭の中でいろんな憶測を立てるけれど、なんだって構わなかった。
無理矢理正体を暴いて、鶴の恩返しのようになっても困る。
今目の前に居る千景は、ほんの小さな僕の世界を変えてくれた、ほんの一時の思い出を共有する、ほんの少し不思議な、唯一無二の存在。
僕だけの、この夏のすべてだ。今は、それだけで十分だった。
「来年も、会ってくれる?」
「うん。来年の夏も、ここで待ってるよ」
「約束だよ」
「うん……約束」
指切りを交わしながら、ぽつりぽつりと名残を惜しむように約束を重ねて、別れの時間はあっという間に訪れる。
小屋から見送り手を振る千景の姿を目に焼き付けるように、僕は何度も振り返った。
「また……必ず会おうね」
来年の今頃。制服を着て少し大人になった僕は、きっと背も千景より伸びて、勉強も歌も駆けっこだって頑張って、たくさん出来ることも増えて、少しずつ成長していくのだろう。
そしてきっと今と変わらぬ千景と、終わりに近付く刹那の宝物のような夏を共に過ごすのだろう。
やがて森を抜けて、僕は夏の空に滲む太陽を見上げる。
ふと僕の真上を、どこからともなく彼が持っていた白い紙飛行機がふわりと飛んで、通り抜けていく。
そして手を伸ばしても届かぬ内に、遠くの雲に吸い込まれ、溶けるように消えてしまった。