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 オレだけを見ればいい。
 アイツが追いかけるのはオレだけでいい。
 追いかけてくれるなら、見ていてくれるなら、手を伸ばしてくれるなら――それだけでオレは走っていられる。
 そう思っていた。

 いつのまにか寝ていたらしい。
 柔らかな日差しはカーテンの向こう側。揺れる影に風が入ってきたのだとわかる。湿気を含んだ熱に、夏が近づいていることを実感する。
 ――自分がこんなふうになるなんて思わなかった。
 薬品の薄い香りと真っ白な布団の清潔さ。保健室という場所はひどく心地良くて、ひどく不安になる。もうここから出られなくなるのではないか、そんな気がして。
 チャイムの音が響き、校舎全体がざわめきだす。教室から離れたここでもその空気は伝わってきた。
 枕元のスマートフォンへと手を伸ばす。今が何時なのかなんて見なくてもわかる。ほんの数か月前まではこの時間が来るのを心待ちにしていたのだから。
 変えられずにいる待ち受け画面はロックを外せば消える。寝落ちる直前に見ていたのはスパイクの画像だった。新商品の情報。無意識に検索していたことに自分で笑ってしまう。オレはまだ走るつもりでいたのか、と。
 バタバタと廊下を駆ける足音のあと、耳慣れた声が響く。圭斗には見られたくない。まだ諦めきれていない自分なんて。そんな格好悪い自分なんて。
 画面を閉じたのと、圭斗がカーテンを開けたのはほぼ同時だった。
「爽弥!」
 カーテンを引く音よりも大きく自分の名前が呼ばれる。「うぉっ」と声を跳ねさせれば、圭斗の視線がオレの顔から手元へと移る。きゅっと一瞬寄せられた眉。呆れ。落胆。瞳に映ったのはどの感情だろうか。わずかに身構えるが、圭斗は小さく息を吐き出しただけだった。
「部活行くぞ」
「あ、あー、うん」
 言えばいいのに。もういい加減にしろって。これ以上は付き合いきれないって。圭斗が諦めるなら、オレだって諦められるのに。
 柔らかな温もりから体を起こす。ベッドの下に置いていた上履きへと足を入れる。「行きたくない」という思いが体の動きを緩慢にさせた。そんなオレを圭斗はじっと見つめ、待っている。肩にはふたつのスクールバッグ。クラス違うのに。わざわざ寄ってから来たのかよ。オレがここにいると、部活をサボろうとしていると、最初からわかっていたみたいじゃないか。
「あー、圭斗さ、先に行っていいよ」
 教室に忘れ物しちゃった、と笑ってみせる。もういいよ。もうオレなんか放っておけばいい。オレには圭斗が必要だったけど、圭斗は違うのだから。
 ――次は勝つから。
 ゴール直後。息を切らしたまま圭斗は言った。
「絶対、爽弥のこと抜かしてやる」
 競い合うたび繰り返される言葉。
「期待してるわ」
 笑って答えれば悔しそうな表情を見せる。その顔が好きだった。オレだけを見てくれる、その一瞬が。
 何度だって見たい。何度だって感じていたい。
 オレだけを見ていると。オレだけを追っているのだと。幼なじみだから。友達だから。ライバルだから。名前を付けられる関係以上に、オレは圭斗を意識していた。
 変わってしまったのは圭斗に初めて負けてから。本気で悔しかったけど、同時に嬉しくもあった。いつもとは違う表情が見られて、本気で自分を目標にしてくれていたのだとわかって。だからといってそのまま前に行かせるつもりはなかった。
 本気で悔しがる顔も好きだから。オレだけを追う足音を、視線を手放すつもりはない。なかった――のに。
 オレが前にいなくても、圭斗は変わらず走っていた。
「……よくない」
「え?」
 落とされた言葉を拾いきれずに聞き返せば、
「いいから。行くぞ」
 強い声とともに腕を掴まれる。シャツ越しに大きな手が熱を伝えてくる。
「いや、忘れ物が」
「荷物なら俺が持ってる」
 わずかな抵抗も一瞬で掻き消された。
「失礼しました」
 オレの腕を掴んだまま、圭斗が歩き出す。静かな廊下に響くふたつの足音。目の前の背中が大きく見える。体格はそれほど変わらないのに。
 圭斗にはオレなんかもう必要ないだろう。ひとりでも走っていけるじゃないか。記録は伸びているじゃないか。
 ――期待はずれだな。
 耳の奥で蘇った言葉に、胸がぎゅっと痛みだす。すぐに戻れると思っていた。一度調子を崩したくらいで戻れなくなるなんて思わなかった。それほど自分が弱い人間だなんて知らなかった。聞こえた言葉に体の奥が冷たくなっていく。入部したときはあんなに喜んでくれたのに。結果が出せなくなったら、変わってしまうのか。こんなにも簡単に。
 ――爽弥。
 まっすぐ自分を見つめてくれる圭斗でさえ、いつかは離れていくのだろうか。ぎゅっと込められた力に不安が膨らむ。この手もいつかなくなるのだろうか。離されるくらいなら。自分から離したほうが傷つかずにすむのではないだろうか。
 ――離したくない。そばにいて欲しい。
 傷つきたくないと叫ぶ臆病な自分が隠している本音。
 苦しい。苦しくて仕方ない。思い通りにいかない現実も、本気になるのを恐れている自分も嫌いだ。全部手放してしまえばラクになれるのに。それなのに諦めきれない。陸上も、圭斗も。諦められないから苦しい。
「……なんで気付かねーの」
 足を止めたオレを圭斗が振り返る。
「え」
 戸惑いに揺れる声。繋がった視線。
「いい加減、気付けよ」
 もうオレはお前が憧れてくれるような存在じゃないって。
 気付いて、諦めてくれよ。諦めさせてくれよ。
 掴まれていた力がわずかに緩む。振り払うなら、今しかない。ほんの少しの力であっさりと離れていく熱。こんなにも簡単なことだった。圭斗の気持ちなんて初めからこの程度のものだったのだ。オレが振り払いさえすれば簡単に離れていくような、そんな……。自分で振り払ったのに。苦しさは増していく。
「ウザいんだよ」
「爽弥?」
「幼なじみだから気を遣ってるのかもしんないけど。そういうのもういいから。そういうのウザいんだって」
 もういい。もういいから。圭斗はもうオレに構わず、自分の力で走っていけばいい。オレなんか置いていけばいい。
「もう誰もオレに期待なんかしてないって知ってるし。オレだってもうしてないし。だからもうオレのことなんか放っておけよ」
 八つ当たりに近い言葉だった。圭斗へと向けたそれが胸へと返ってくる。痛くて痛くてたまらない。自分で自分を傷つけながら自覚する。この痛みこそ自分自身が諦めきれていない証拠なのだと。わかったところで、もうどうすればいいのかわからない。
「……放っておけるわけないだろ」
 聞こえたのは小さく震える声。圭斗から感じるのは静かな怒り。
「何も気付いてないのは爽弥の方だろ!」
 声が廊下に響く。いつも背中にいた、自分を追いかけるだけだった圭斗が、オレをまっすぐ見つめる。
「っ……」
 わずかに飲み込まれた言葉。一瞬の間を置いて落とされた声は大きくはなかったが、確かな重みを持って胸に響く。
「俺は諦めてないよ」
「……」
「爽弥と走ること、俺は諦めないから」
 ――諦めないから。
 圭斗にそう言われたら諦められなくなる。自覚せざるを得なくなる。まだ戻りたいのだと。まだ走りたいのだと。苦しくても痛くても。これ以上、自分を嫌いにはなりたくないのだと。
「爽弥が諦めても俺は諦めないから」
 追いかけているのはどちらなのだろう。その目に映りたいと走っているのはどちらなのだろうか。
「……そういうところが、ウザいんだって」
 知らないからな。諦めさせるなら今だったんだからな。そうしなかったのは圭斗だからな。
「あー、仕方ねーな。圭斗がウザすぎるから行ってやるよ」
 もう逃げられない。――逃げない。
 もう諦められない。――諦めない。
 陸上からも。圭斗からも。
 離れた手の距離を自分から縮める。
「爽弥……」
 振り返った圭斗の横、足を止めたオレの意識は、もう前へと向かっていた。
「部室まで競争」
 声と同時に駆け出す。
「え、ちょっと」
 すぐに足音は重なる。
 この音が好きだった。自分だけを追っているのだとわかるから。圭斗が自分を見てくれているのだとわかるから。
 オレだけを見ればいい。
 アイツが追いかけるのはオレだけでいい。
 追いかけてくれるなら、見ていてくれるなら、手を伸ばしてくれるなら、それだけでオレはまた走っていける。
「早く来いよ」
 だからオレはまだ前を譲らないよ。