いつだってアイツは前にいた。
 見えるのはいつだって背中だった。
 追いつきたい。抜かしたい。
 アイツが俺を見ればいいのに。
 そう思って走り続けてきた。

 終礼と同時に隣の教室へと走る。見慣れたスクールバッグを掴み、今度は保健室へ。
 ドアを開ければ、薬品の香りが一瞬で濃くなる。
「来てますよね?」
「来てるね」
 あっさりと養護教諭の先生は言った。
 休みたい生徒は休ませる。無理に教室に戻るようには言わない。そういうスタンスだった。もう少し厳しくてもいいだろうに。
爽弥(そうや)!」
 シャッと勢いよくカーテンを引けば、「うぉっ」と爽弥が声を跳ねさせた。真っ白なベッドに寝転がって堂々とスマートフォンをいじっている。
 その姿だけでざわざわと心地悪さが胸に広がる。
「部活行くぞ」
「あ、あー、うん」
 歯切れの悪い返事に呆れよりも虚しさが、悲しさよりも悔しさが膨らむ。こんな奴じゃなかったのに、と。
 のっそりと緩慢な動きで起き上がる。ベッドから出てきた爽弥のシャツはシワだらけだった。憧れ続けた背中はひどく頼りない。
「あー、圭斗(けいと)さ、先に行っていいよ」
 教室に忘れ物しちゃった、と視線を揺らして爽弥が笑う。一体、何年の付き合いだと思っているのだ。嘘をつくときのクセぐらい知っている。
 ――早く行こうぜ。
 中学の頃は反対だった。迎えに来るのは爽弥の方だった。誰よりも走ることが好きで、「早く来いよ」と声をかけてくれるのは爽弥だったのに。
「……よくない」
「え?」
「いいから。行くぞ」
 無理やり腕を掴み、引っ張る。シャツ越しに触れた腕は熱く、引き締まっていた。
「いや、忘れ物が」
「荷物なら俺が持ってる」
 肩に掛けているバッグの存在には気付いていただろう。こうやって迎えに来るのも今日が初めてではないのだから。
「失礼しました」
 パタパタと上履きを鳴らしながら保健室を出る。爽弥は振り払いはしなかった。引かれるまま半歩後ろを歩いている。それでも不安や戸惑いは手から伝わってくる。
 ――いい加減、気付けよな。
 わずかに力が強くなる。爽弥は何も言わない。
 ――ここが、お前の居場所なんだって。
 爽弥の走る姿は風のようだった。力みのない自然なフォーム。一瞬でトップスピードへと持っていく力。触れさせてはくれないのに、こちらの視線は掴んで離さない。誰もが憧れる選手。大会に出れば必ずと言っていいほど他校の生徒から話しかけられていた。
 高校でもまた俺の前を走っていくのだと、そんな爽弥を追いかけるしかないのだと思っていた……のに。
 初めて爽弥に勝った。大会ではなく記録会だったけど。それでも確かに俺が爽弥の前を走った。
 そのときの爽弥は悔しさを隠さなかったし、俺以上に喜んでもくれた。
 これでようやく爽弥の視界に入れる。ここから一緒にもっと強くなっていきたい。
 そう思ったのも束の間、爽弥は調子を崩した。周り以上に本人自身の期待が大きかったのかもしれない。ここまで挫折らしい挫折のなかった爽弥は、調子を取り戻すどころか、本気で走ることを避け始めた。
 本気ではないから負けても仕方ない。そうやって自分に言い訳をして、悔しがることもしない。次第に周りの目も変わっていった。かけていた期待が大きければ大きいほど落胆の色は濃かった。
 俺が憧れたのはこんな爽弥ではない。
 追いつきたかったのは全身で走る喜びを表す爽弥で。前に行きたかったのは爽弥に本気で悔しがって欲しかったから。
 爽弥の視界に入りたかった。俺が背中を見続けたように、爽弥にも見て欲しかった。追いかけて欲しかった。手を伸ばして欲しかった。俺を。俺だけを――。
 いくら勝っても爽弥の意識がこちらに向かなければ意味なんてない。走っても走っても。いくら賞を手にしても。虚しさだけが積もっていく。
 信頼して欲しかった。頼って欲しかった。爽弥の抱えている不安を話せる存在に、居場所になりたかった。
 ――まだ、気付いてはくれないのだろうか。
 誰に呆れられても。誰が諦めても。
 俺だけは爽弥のそばにいる。諦めたりしない。また本気で走れるようになると信じている。
「……なんで気付かねーの」
 下駄箱へと向かう途中。ひと気のない廊下でポツリと落とされた声。微かな震えが手のひらから伝わり、足が止まる。
「え」
 振り返れば、爽弥がまっすぐ俺を見ていた。
「いい加減、気付けよ」
 頭の中で繰り返し続けた言葉を爽弥に言われ、戸惑いが広がる。
 わずかに緩んだ力の隙間、爽弥が俺の手を振り払った。
「ウザいんだよ」
「爽弥?」
「幼なじみだから気を遣ってるのかもしんないけど。そういうのもういいから。そういうのウザいんだって」
 投げられた言葉に何を言えばいいのかわからなくなる。耳の奥へと落とされた音がグルグルと回る。幼なじみだから? 気を遣ってる? ウザいってなんだよ。
「もう誰もオレに期待なんかしてないって知ってるし。オレだってもうしてないし。だからもうオレのことなんか放っておけよ」
 強く結ばれていた視線はいつの間にか揺れていた。
「……放っておけるわけないだろ」
 怒りと悔しさで声が震える。
「何も気付いてないのは爽弥の方だろ!」
 どれだけ俺が憧れていたのか。今も憧れているのか。爽弥は何も知らない。気付かない。こんなのもうチームメイトでも幼なじみでもない。俺にとっての爽弥は――。
「っ……」
 出かかった言葉を飲み込む。伝えるべきは今じゃない。そっと息を吸い込み、揺れたままの視線を俺から結び直す。
「俺は諦めてないよ」
「……」
「爽弥と走ること、俺は諦めないから」
 不安なんていくらでもぶつければいい。恨み言だって何だって聞いてやる。受け止めてやる。それで爽弥が戻ってきてくれるなら。また一緒に走ってくれるなら。俺はなんだってする。
「爽弥が諦めても俺は諦めないから」
「……そういうところが、ウザいんだって」
 同じ言葉でも先ほどとは違う響きだった。静かな廊下に落とされたのは小さな笑いを含んだ声。
「あー、仕方ねーな。圭斗がウザすぎるから行ってやるよ」
 爽弥がため息を吐き出し、歩き出す。
「爽弥……」
 ――ほんの少しでも、俺の想いは届いたのだろうか。
 爽弥の体が真横で止まる。ここからまた並んで行けるのかと思い、顔を向けたそのとき。
「部室まで競争」
 小さな声が落とされると同時、爽弥が駆け出した。
「え、ちょっと」
 戸惑いながらもすぐに追いかける。静かな廊下に響く足音。視界の真ん中ではシワだらけの白いシャツが風に膨らむ。
 アイツは前にいた。
 見えるのはいつだって背中だった。
 俺が本当に追いつけるのは、抜かせるのはきっとまだ先で――。
「早く来いよ」
 それでもたまに振り向いてくれるくらいにはなったらしい。