「おーい、環。何してるんだよ?」

 県内でも有数の進学校の制服を着た高校生が、登校時間に橋の上でぼーっとしている。
 環は俺の声に気づいているはずなのに、無反応で黄昏ていた。

「環。遅刻するんじゃないか」

 そういう俺も長々と道草食っている場合ではないのだが、環を置いていくわけにも行かず、足を止めている。

「環、」
「かなちゃんは先に行けばいいじゃない。学校違うんだし」
「方向は同じなんだから一緒に行こう」
「なんで?僕のこと置いて行きなよ」
「何怒ってるんだ?」
「怒ってないよ」

 こちらを振り向いた環は明らかに不機嫌そうにしている。

「かなちゃんが僕を置いて音高に入ったことなんて怒ってないよ」
「怒ってるのか」
「怒ってないって言ってるでしょ」

 またぷいっと顔を背ける環に、やれやれと肩を竦める。

 俺は環とは違う地元から離れた音楽大学附属高校に入学した。高校の方向は同じなので、たまにこうして同じ電車に乗ったりと違う高校の割には会っている。
 なのに環は不満なのか、もう入学して3ヶ月経とうとしているのにまだこんな調子なのだ。

「いい加減俺以外の友達作りなよ」
「いらな〜い」
「どうして?」
「めんどくさいからねぇ」

 環は俺に心を開いてくれるようになったが、他人との関係は希薄だ。これを機に他の人とも打ち解けられるようになるかと思っていたが、そんなことはなく中学を卒業した。
 高校でも大して変わっていないらしい。

「環、俺そろそろ学校行かないと……」
「ねぇ、サボっちゃおうよ」
「えっ!?」
「かなちゃんはたまにはワルイコちゃんになったらぁ?」

 そう言って環は明らかに学校とは反対方向に向かって歩き出す。
 学校をサボったことなどない俺は、どうしていいかわからずその場に立ち尽くす。その間にも環はズンズン進んでしまう。

 今日もピアノのレッスンがあるのに……。最近はスランプ気味で怒られてばかりで――

「あーーっ、もう!待てよ環!」

 俺は人生で初めて学校をサボった。高1の夏だった。





 二人で訪れたのはある公園だった。どこにでもあるような小さな公園。ブランコと滑り台と砂場、ジャングルジムといった遊具がある。
 当たり前だが学校のある時間帯なので誰もいない。
 時計を見てもう授業が始まる頃だと思うと、罪悪感で胃が痛い。

「ブランコ乗ろうよ」
「えーブランコ?」

 俺の返事を待たず、環はブランコに腰掛ける。

「僕さぁ、ブランコって好きなんだよね」

 そう言うと環は地面を蹴り上げ、ブランコを漕ぎ始めた。

「こうやって漕いでるとさぁ、空を飛んでるような気がしない?」
「……」
「なあに?その顔」
「いや、環でもそんなこと言うんだと思って」
「どういう意味〜?」

 環はなかなかに激しく前に飛び出したり、後ろに引いたり。男子高校生がブランコを漕いでいる姿はどことなく滑稽だ。
 俺も隣のブランコに腰掛けてみた。

「俺はブランコってあまり乗ったことなかったな」
「そうなの?」
「昔から手を怪我するなって言われてきたから、そもそも公園で遊ぶってことがほとんどなくて」

 奏斗くんにとって手は、特に指は何よりも大事なんだから無闇に怪我をしてはいけない。ピアノを始めてからずっと言われてきたことだった。

「だからちょっと、新鮮かも」
「かなちゃんってさぁ、なんでそんなに真面目なの?聞き分け良すぎるっていうかさぁ」
「いや別に……」
「かなちゃんって基本的に言われるがままだよねぇ。もっと自分を出せばいいのに」

 そんなことを言われても。ピアノを弾くことは好きだし楽しいし、自分の好きなことをやらせてもらえているのだから、当然だと思うけれど。別に俺は困ることもないし。

「それに期待されてるってことだからね。その期待に応えたいから」
「真面目だねぇ。真面目すぎてつまんないよ。だから最近、上手く弾けてないんじゃないの?」
「っ、」

 最近スランプ気味で思うように弾けなくて、先生からも怒られてばかりいることは、話していないはずなのに。

「言ってみなよ。何に悩んでるわけ?」

 環はのらりくらりとしていて気まぐれで、野良猫みたいな奴なのに時々鋭いから困る。

「悩んでるっていうか、スランプ気味っていうか」
「へー」

 環は俺の話を聞いている間もブランコを漕ぎ続けていた。

「一生懸命弾いてるつもりなんだけど、何を弾いても上手く音が乗らないっていうか。思っている音と全然違う音を奏でている感覚で。コンクール前なのにって先生にも怒られるし……」

 詰められれば詰められる程、上手く指が動かなくなっていく。焦りも感じている。このまま上手く弾けないで終わるかもしれないという不安もある。
 本来は、こんなところでサボるなどあってはならないのだ。
 だけど環を一人にしておけなかったから、なんて環に責任を押し付けて逃げてきてしまった。

「かなちゃんの取り柄はピアノと顔だけだもんね」
「地味に傷つくな」
「だってそうでしょー。バカみたいに真面目で優柔不断で優しくて、そのせいで損してばっかでさぁ。ピアノ以外は全部不器用だしねぇ」

 その通りすぎて返す言葉がない。

「行き詰まった時のガスの抜き方も知らないし」
「ガス?」
「息抜きってこと。やらなきゃいけないって思ってる時こそ上手くいかないものなんだよ。たまには忘れたらー?」

 環は大きく足を伸ばし、青空に向かってキックする。本当に空に飛び出してしまいそうな勢いだった。思わず金具が壊れてしまわないかと気にしてしまう。

「ブランコだってそうじゃない。手を怪我するかもとか考えないで、思いっきり漕いでみればいいのに」

 確かに無意識に怖くてストッパーをかけていた。飛び出してそのまま転んだりしたら、なんてしょうもないことを考えていた。
 俺は思い切って足を伸ばし、勢いよく蹴り上げてみた。

 体がふわりと軽くなったような感覚を覚えた。前を向いて、初めて気づいた。夏の青空がどこまでも澄み渡っていて、真夏の太陽がギラギラとこちらを睨み付けていることに。
 ただ漠然と夏がきたんだ、とその時思った。何故だかその時気づいたんだ、とっくにわかっていたことなのに。

 涼しい風が後押ししてくれて、ブランコを漕ぐスピードがどんどん上がっていった。ブランコに乗ることがこんなに開放的で気持ちが良いなんて、知らなかった。
 本当に空を飛んでいるような気持ちになった。

 午前中から男子高校生二人が必死にブランコを漕いでいる。道行く人からは何をしているんだ、と思われたに違いない。
 汗をかきながらそれでも漕ぎ続けて、あまりにもおかしかったけどすごく楽しかった。終わった頃には両手が金属臭かった。

「楽しかった!」

 まさかこの年になってブランコではしゃぐとは思っていなかった。

「なんか手が臭いんだけど」
「そんな手で鍵盤触ったら怒られるんじゃないのー?」
「綺麗に洗うに決まってるだろ」

 その時、頭の中にメロディが流れてきた。今までは無機質な金属音が擦れたような音しか聞こえてこなかったのに、急に澄んだ滑らかなメロディが奏で始めた。

「環、ありがとう。なんだか弾けるかもしれない!」
「……かなちゃんは結局ピアノなんだねぇ」
「え?」
「なんでもない。よかったねぇ。じゃあワックでも行こ」
「えっ!?今から学校戻ろうと思ったんだけど」
「僕を置いていく気なの?汗かいたし冷たいもの飲みたいんだけど」
「あー、それは確かに」
「ほんとにかなちゃんは世話が焼けるねぇ」
「え?なんだって?」
「早くワック行こ」

 環は猫のように気まぐれでマイペースで、どことなく危なっかしい。自分がわからないと言っていたあの寂しそうな表情が、忘れられなかった。
 だから、俺がなるべく傍にいようと思った。夏瀬環という人間の記憶の一つになれたらと。少しでも環が安らげる場所になれたらいいと思っていた。

「――ほーんと、かなちゃんは僕がいないとダメなんだから」

 ……でも、本当に傍にいて欲しかったのは、俺の方かもしれない。まだ若くて青かった高校生の俺は、全く気づいていなかったけれど。