私には、3年前まで母がいた。
母は、常に心優しく、そして、強かった。
それゆえ、私は滅多に母の涙を目にしなかった。
唯一あるとしたら、私の小学校の卒業式を終えた日の夜に、昔の写真を整理しながら、ひとり、泣いていた時だろうか。
母は夢見病だった。
それも、病名が分かったのは母の死後だった。
当時は夢見病という名も一部の医者の間でしか知られておらず、診断がかなり難しかったらしい。
そのため、母は病院をたらい回しにされた。
それでも、大抵の医者はストレスが起因だと断定し、決まってカウンセリングや投薬治療を勧めた。
その診断に納得のいかなかった母も、終いにはそれを受け入れて治療に励んだ。
ところが、症状は良くなるどころか急速に悪化する。
日に日に弱っていく母は人生の終着駅へと向かっているようだったが、母はいつも微笑みを浮かべて眠りについていた。
それは、私がいつも見る、周りを幸せにする微笑みで、思わず吸い込まれてしまいそうになった。
絶対に大丈夫。
何度もそう言い聞かせた。
けれど、その祈りは届くことがなかった。
母が死んだ。
それも、交通事故死だった。
あっという間だった。
母の死も、通夜も葬式も、母が夢見病だと分かったのも。
全てが一瞬だった。
今でも何度も思い出す。
母が交通事故で世を去った日、夢見病だと分かった日。
病院の廊下で『夢見病は遺伝』だと話す声を聞いた日、事故の対応に追われる父を遠目で見ていた日。
まだ中学生だった私を哀れな目で見る人に数えきれないほど出会った日。
それらを思い出すたびに、夢見病であることを隠し続けると過去の自分に誓う。
母の遺伝だと言われるのも、哀れな目で見られるのも、それを味わうのは過去だけでいい。