いそいそと向かったのは銭湯。なるほど、この間もそうであったが彼は銭湯の常連客なんだな。それで枝桜氏も銭湯通いしている、と。


 入り口で堂々と、手を横につけて待つ姿はすっと背の高いシンボルのようであった。それを私は物陰から監視をしていたのだが……。


「……なぜここにいる、ユメ」

「……ヘイ様のゆくところどこへでもユメはついてまいります!」

「……邪魔するなよ」

「……御意に」


 まったく、やれやれなやつだぜ。あれ、ということはーー。


「……やっぱり」

「ネネさんゆくところどこへでもデス!」

「……おまえもか」

「……成り行きデス。しょうがないね」

「……邪魔するなよ、レイ」

「……ハイなー」


 あまり人数が多いと困るんだけどなぁ、と思っているとユメは得意の隠遁術で姿をくらまし、エデン・レイは得意の宇宙兵器て姿をくらました。どちらも敵にしたくない相手だ……。


 そうこうしていると銭湯から相手の樹氏が姿を見せる。枝桜氏はその取り巻き含めて呼び止め、そして樹氏だけをその場に残させた。何と言ったのだろうか。気になる。すると二人で歩き始めたではないか。彼はなかなかに社交的なようだ。積極的でもある。やりおるな。


 道を曲がり、くねり、のぼり、野を超え、川を越え、ワンコインランドリーを通過し、橋を渡って、道なき道を未知なる方へと進み、二人についていくこと十数分。いったいどこまで行くつもりなんだと思いながら来てみると、そこは観覧車であった。


 そう。私の感情が生み出したあの超巨大観覧車。


 着いた頃合いは、ちょうどライトアップが点灯したところだった。



 ※ ※ ※




 世界初の電動式観覧車は、シカゴ万国博覧会にて『George Washington Gale Ferris, Jr.』氏が設計、発表した大観覧車であるという。観覧車を英語で『Ferris Wheel』というが、それは彼の名前から取ったのだそう。前回会のパリ万国博覧会で発表されたエッフェル塔に対抗する試みだったらしい。ルーツを辿れば17世紀には木製の巨大な輪にブランコを取り付け、人力で回す貴族の遊具なるものが該当するらしいが、私は専門家ではないので詳しいことはネット以上の情報を知らない。

 
 ルーツ。

 roots. 

 →『累乗根、根。特に平方根√』を意味するroot.の複数形。

 
 root. 

 →道筋


 ……それはroutだ。日本語の同音異義。


 
 私はこの数日考えていた。私の行動は正しかったのかと。考えに間違いはなかったのかと。


 一応、筋は通っている。不可思議を鵜呑みにすれば理屈もそのとおりだ。全て観覧車から始まり、それを目印に宇宙人が飛来。未来が変わり、未来人と超能力者が現れ、世界は可能性の数だけ新たに分岐した。今私がいる世界も一つの可能性にすぎない。何かをかけ違えれば大きく結末が変わる、表裏一体で二律背反。そう、矛盾。パラドックスを可能性で誤魔化しているように見える。ああ、そうだ。これが正解だなんていうのは口が裂けても言えないだろう。それでは他の可能性を生きるすべての人に無礼で、すべての選択肢への背徳であり、最悪冒涜になる。
 

 私のいる世界では、この不可思議は大きく変わらないだろう。私が私である以上、百合を愛する限りは変わらない。私のいない世界は平和なのかな。私が消えてしまえば、世の中は平穏なのかな。私が生きてきた意味はあったのかな。生きてる意味はあるのだろうかな。その意味は、きっと、おそらくだけども、たぶんないだろうな。


 百合とは文学ではない。おふざけでも遊びでもない。レズビアンは性的嗜好であり、ホモソーシャルは同姓における二人の関係性。では百合とはなにか。それは二人だけの世界であり、もっと閉じられていて、閉鎖的かつ複雑怪奇で扉も階段もたくさんある心の迷宮であり、揶揄することも立ち入ることもできず、永遠に迷い繰り返す心情そのもの。疑い、妬み、羨み、好み、愛し、愛され、求めて、疑う。観覧車はまさにその象徴と言える。回り始めたら一周するまで降りられない二人だけの関係、二人だけの世界。外部の人間は回るのを見ているのがせいぜいだ。双眼鏡を使っても中を子細に確認することは容易ではない。それは何度も言うが、複雑だから。回り回って回される。時の流れで、心の流れ。それはやがて自ら回りだす観覧車となり、その中心がこれを守る者。


 観覧者。


 作『クロノ・ジョーカー』と刻まれている。



 なるほどな。


 黒川要黒はそれだけを再認識すると、その場をそっとあとにした。



 ーータイム・トラベルの部  fin