絶滅危惧種 ホモ・サピエンス

 ぷんとむくれて希望は歩き出した。いや、歩き出そうとしたが、その腕は高斗によって強く掴まれた。
「あぶな……」
 しゃがんでたらいを下におろす。見上げて高斗を睨むと、逆に睨み返された。
「なに……」
「お前に真紀の体なんか拭かせるわけねえだろ!」
 突然怒鳴られた。希望は身を竦めた。
 なんで? 真紀ちゃんがそんなに大事なの?
 目には涙が浮かんでくる。でも泣くのは悔しかった。
「なんで高斗はよくて、あたしだと駄目なのよ!」
 しゃがんだまま怒鳴り返すと、すっと高斗が希望の前に腰を下ろした。
「お前が好きだからだよ!」
「へ?」
 首を傾げる間もなく、希望はきつく抱き締められた。
「なんで好きな女に、男の裸拭かせなきゃなんねえんだよ。いくらあいつが子供だからってなあ……」
「ま、待って、待って」
 希望は高斗の胸を叩いた。
「男って、なに?」
 高斗の顔を凝視して問いかけると、高斗は一瞬ぽかんとした。
「いや、だからおと……」
 そこまで言って、高斗ははっと何かに気づいたようだった。額に片手をあてて項垂れる。
「あいつ……真紀は男だぞ」
「えっ!」
 希望は声を上げた。
 男? 真紀ちゃんが? だってあんな小柄で髪も長くてかわいくて。
 でも、美少年と言われればそうも見えなくもない。
「ほんと? ほんとに男の子?」
 高斗は脱力した様子で頷いた。
「本当だ。確かに俺も会った時一瞬女の子かと思ったけどな。砂漠からこっち戻る前に二人で公衆便所寄ったから間違いない」
「そ、そう……」
 あからさまな物言いに希望は頬を赤らめた。すると、高斗は希望の肩に頭を乗せてがっくりと項垂れた。
「高斗?」
「あー。こんな勢いで言うつもりじゃなかったのに」
「言う?」
 高斗は顔を上げてこちらを見つめた。
「お前のこと、好きだってこと」
 一気に体中が熱くなった。
「え、あの、えっと」
 高斗は「あー、いい、いい」と手を振った。
「返事とかはいい。忘れてくれ」
「え。やだよ」
 思わず口をついて出た言葉に、高斗が怪訝そうな顔をする。希望はきゅっと高斗のシャツの胸元を掴んだ。
「あたし。あたしも、すき」
 思い切って言ったその瞬間、強く抱き締められた。

「真紀、入るぞ」
 高斗はたらいを持って部屋の中に入った。たらいの中の湯は冷めかけてしまったが、夏だからなんとかなるだろう。
 真紀はベッドの上に半身を起こしてぼんやりとしていた。瞳がまだ熱っぽい。
「どうしたの、高斗」
 ゆっくりとこちらを振り向く。
「汗かいてべとべとで気持ち悪いだろ? 体拭いてやるよ」
「ああ……」
 真紀はパジャマを脱ぎかけて、そして途中で手を止めた。
「自分でできるからいいよ」
「そうか?」
 高斗はたらいをベッドの脇に置いた。真紀はそれをうつろな目で見ている。高斗は目を細めた。
「ほんとに大丈夫か? 遠慮しなくていいんだぞ」
 こくんと真紀が頷くと同時に、前にぱたんと倒れた。高斗はため息をついた。
「ほれ、言わんこっちゃない。せめて顔と首筋くらい拭いとけ……」
 高斗は真紀のパジャマの襟をくいっと引っ張り後ろから首筋にタオルを宛てようとした。
「ん?」
 高斗の手はそこで止まった。
「見るな」
 真紀が一言呟いた。高斗は納得した。
「この首筋の傷を気にしてたのか」
 真紀の首筋には五センチほどの十字の傷ができていた。
「気にするほど目立たないぞ」
 軽い調子でそう言うと、真紀はゆっくりと体を起こした。
「ーー熊鷹の餌食にされたくなかったら、出て行け」
 こちらを鋭い目で睨み付けてくる。高斗は息を飲んだ。
 すると、真紀は「違う」と額を片手で押さえて首を左右に振った。
「違う、そうじゃなくて」
 熱で思考がまともじゃないのかもしれない。
 そう思った高斗は「ゆっくり休めよ」と言って立ち上がろうとした。
 その肩を掴まれた。
「私が、高斗のことを好きだと言ったらどうする?」
「ーーは?」
 真紀の顔が近づいてくる。
「待て!」
 高斗は咄嗟に真紀の体を押しやった。
 真紀はくすくすと笑った。悲しそうに。
「私に好かれるのが、そんなに嫌?」
 あの女も同胞なのにな、という呟きは高斗の耳には届かなかった。
「いや、そんなことない。そういう意味だと困るというだけで」
 高斗が焦りながら言葉を選んでいると、真紀は布団に潜り込んだ。
「熱が下がったら出て行くから。縁者が迎えに来てくれるんだよ。一週間もかからないと思う」
「……そうか。それは良かったな」
 真紀の返事はなかった。
 高斗は静かに部屋をあとにした。

「希望ちゃん、入っていい?」
「え、えっと。どうぞ」
 希望が火照った顔を隠すように湯船に浸かっていると、ドアの外からあかりが声を掛けてきた。
 あかりが大きなお腹を大事そうに抱えながら風呂場に入ってくる。
 この家の風呂場は広い。銭湯とまではいかないが五人くらいは一緒に風呂に入れる作りになっている。
 体をざっと洗ってからあかりが湯船に入ってきて、希望の肩に肩をぶつけた。
「見ちゃったー」
「な、何を?」
 希望はどもりながら答える。顔が赤いのは風呂のせいだからばれないはずだ。そう思ったのだが。
「高斗とさっき抱き合ってたでしょー」
 見られていた。希望は湯船に半分顔を埋めた。あかりが「初々しすぎる……!」と感嘆の声を上げた。
 ひととおりからかってから、あかりはふふっと優しく笑った。
「でも良かった-。高斗のほうもバレバレだったんだから」
「そうなの?」
 全く気づいていなかった。
「うん、良かった良かった。おめでとー!」
「わっ!」
 突然抱きつかれて希望は声を上げた。もぞもぞとあかりを押しのけようとすると、あかり腕が緩んだ。
「あれ? これ痛そうだね」
 あかりが希望の首筋を見て呟いた。
「あ、これ?」
 希望は傷跡を撫でる。
「なんかね、小さい頃怪我しちゃったとかで」
 そこまで言って思い出す。
 そう言えば、あの時、両親が希望を庇って熊鷹に喰われた時、父親がここを引っ掻いてはいなかったか。
 あの時の感触を思い出す。
 肉を抉られて、何か埋め込まれているものが引き抜かれたような感じがした。
「痛い」そう思ったが、すぐあとに繰り広げられた悲惨な光景に気を取られてすぐに忘れてしまった。
 実際、痛くなくなったのだ。そこを抉られてなどいなかったように。
「希望ちゃん?」
 あかりの言葉で我に返る。
「な、なんでもないよ」
 希望はあかりに笑いかけた。

 ふわふわする。
 心が彼でいっぱいになって。
 希望は湯冷めしないように早めに布団に入った。でも眠気は訪れない。
 ころりと寝返りを打ち、きゅっと自分を抱き締めた。
「好き」
 そう口にすると、それはもうずっと以前から心の中にあった感情のように思われた。いや、実際にあったのだろう。はっきりと気づいていなかっただけで。
 一緒にいたい。
 おじいちゃんとおばあちゃんになってもずっと一緒に。
 希望は将来を夢想した。夢を見るのは勝手だ。
 かわいい子供ができて、孫もできて。
 皆に囲まれてわいわい楽しく暮らすの。
 高斗もそう思ってくれていたらいいのに。
「長生きしなきゃなあ」
 くすくすと希望は笑った。

   ***

 真紀は熱を出した日以来、ほとんど部屋から出てこなくなってしまった。トイレと風呂くらいだ、出てくるのは。食事も部屋でとっている。
 希望は心配したが、高斗が言うには「具合悪そうだからそっとしといてやれ」とのことなので、そのとおりにした。
 そんな真紀が部屋から出てきたのは、集成センターから連絡があったときだった。
「真紀さんが見たいと言ってた熊鷹の死骸が到着しましたよ」
 若い女性職員がそう告げた。
 数日前、つくばからほど近いせんげん神社で熊鷹の大量死が発見された。個体の大きさからして進化種だ。真紀が集成センターに行った日、生き残りの熊鷹だけが保護されて届けられていたらしい。死骸は瞳らが勤める研究所で観察個体として扱われていた。
「真紀ちゃん体大丈夫かなあ」
 希望が高斗を見上げると、高斗も難しい顔をした。つられたように職員も難しい顔をする。「そうですねえ。真紀さんが熱を出してしまったのも、その熊鷹に襲われたからですし」
「そうなの!?」
「そうなのか!?」
 二人に詰め寄られ、職員は後ずさった。
「す、すみません、言わなくて。当センターでは色々な動物を扱っているもので、職員が動物に襲われるのもそれで具合が悪くなるのも日常茶飯事でして」
 責められていると思ったのか、職員が汗をかきながら言う。
 高斗が「すみません、責めてるわけでは」と取りなした。希望は高斗を見上げる。
「……怖かったでしょうね、真紀ちゃん」
 自分が襲われた時のことを思い出してしまい、身震いする。
「そうだな」
 そっと高斗が希望の肩を抱いてくれた。
「ちょっと真紀に話してきます。真紀が見たくないと言ったら、ご足労いただいたのに申し訳なかったことになりますが」
 頭を軽く下げて高斗は家の中へと入っていった。
 職員が手持ち無沙汰になったのか、希望に話しかけてくる。
「希望さんは熊鷹とか興味ありますか?」
 希望は苦笑した。
「ちょっと怖くて苦手ですね……」
「そうですよねー。真紀さんもなんで熊鷹なんか好きなんだか。あ、これ見ます? 当センターのパンフレットです」
 バッグから取り出された小さな冊子がこちらに差し出された。
「ここが、当センター。ここが熊鷹が発見された神社ですねー」
 職員が指を差す。
「あさまじんじゃ……?」
 希望は口の中でその名を呟く。どこかで聞いたことがあるような。
 職員が「そうとも読みますけどねー」と口を挟んだ。
「このあたりの人間は『せんげんじんじゃ』って呼んでます」
 浅間神社。

 記憶の中のこの名前を呼び起こす。
「おとうさーん、おかあさーん」
 あれはいつのことだったか。まだ小学校に通っていなかったから、五、六歳の頃か。
 緑が豊かな場所だった。
 大宮研究都市は都会なので緑がそれほどない。都市から外に出れば、周りは砂漠だ。
 希望は珍しいその場所に大はしゃぎだった。
 遊び疲れて境内でジュースを飲んでいると、父が言った。
「ここはあさま神社だぞ。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という神様がいる神社だ」
「ふーん。どんな神様なの?」
 希望が無邪気に尋ねると、父は一瞬表情を曇らせた。
「ああ……」

「真紀、集成センターの職員さんが見えてるぞ」
 真紀は机に向かってスマホをいじっていた。
「ありがとう」
 振り向いてそう微笑む真紀に、あの夜の面影はない。
 高斗は真紀の前に腰を下ろした。
「聞いたぞ。熊鷹に襲われたんだってな」
 そんなことがあれば、誰だって精神をやられるだろう。
「やられてないよ」
「おわ!?」
「口に出てたよ」と言ってから、真紀は微笑んだ。
「あの夜の私は正常だった。ちょっと猫被ってたのがはがれただけ」
「そうなのか?」
 高斗が首を傾げると、ふっと唇に何かが触れた。
「あれ、つまんない」
 唇を離した真紀が皮肉そうに笑う。
「こないだの夜はキスされそうになったら焦ってたのにね。もう希望ちゃんと何回もしたから慣れっこになっちゃったの?」
 高斗は頬が赤くなるのを感じた。
「大人をからかうんじゃ……」
「大人にしては反応が初々しすぎるよ」
 真紀は楽しそうに笑った。
 悪いか。こちとらいい年して希望が初めての彼女なんだ。キスだって希望としかしたことがないんだよ。
 高斗が反撃できずに口ごもっていると、真紀はやれやれといった様子で立ち上がった。
「希望ちゃんとやった?」
「な……!」
 してない。まだ。
 それを言うのは癪に障るので、頑なに口を閉ざす。
 さぞからかうように笑っているのだろうと真紀を見上げて、そして目を見開いた。
「やめといたほうがいいよ。私も言われたから。『知ってたらこんなことしなかった』って」
「……は?」