「おい、松山。速報やってるぞ」
 研究所の休憩室。コーヒーを飲んでいた瞳に同僚が声を掛けてきた。
「ただいま入ってきた速報です。市民の人権団体による暴動が内戦に発展していた大宮研究都市ですが、」
 瞳はテレビに目をやった。
 大宮は希望の暮らしていた街だ。
「本日市長始め市職員が県外に逃走したもようで、人権団体側の勝利となりました」
 研究都市は独立性が高い。ほぼ一個の国のような力を持っている。その市長が追放された形になったということは、大宮に別の政権が誕生したようなものだった。
「うわー」
 隣で同僚が声を上げた。
「やべえよな。あそこの研究は確かにやばめではあったけど、ホモ・サピエンスを絶滅の危機から救うヒントがあったかもしれないのにな」
 瞳は視線をテレビに向けながら頷いた。
「確かにな。うちの都市との連携はあまりなかったが、あそこの遺伝子解析技術はすごいものがあった」
 テレビは崩壊した大宮の状況を映し出している。
「このたびの内戦により、失われたホモ・サピエンスの個体数は、まだ詳しくはわかっていませんが三百とも言われています」
「……何やってんだかな、人間てやつは」
 瞳は呟いた。
 人間を殺しておいて、人権も何もあったものではない。
 瞳は立ち上がった。
「松山、もう休憩終わりか? テレビ見てけばいいじゃん」
「あとでネットでみるからいい」
「松山って、図体はでかいくせにけっこう繊細なとこあるよなー」
 同僚がそうからかうような声をかけてきたが、それは無視した。
 歩き出した瞳の耳に、テレビの音が届いた。
「また、人権団体はこの混乱で政府方の要人が行方不明になったと言って捜索をしています。まずは菊池希望さん」
 瞳はテレビに振り返った。
 テレビでは、希望の写真が映し出されていた。
「しつこいことだな」
 娘は研究に関係ないだろうに。捜索してまで亡き者にするつもりか。
 瞳は窓の外に目をやった。そのまま外に新鮮な空気を吸いに行った。

   ***

「何やってんだ、お前ら」
「うわあっ!」
 高斗は慌てて希望の頭から手を離した。体も後ろに引く。その拍子に二人の周りに散らばっていた青い花が舞った。
「帰ってたんなら声かけろよ、瞳」
 縁側に腰掛ける二人の背後には瞳が立っていた。
「だから今声かけただろ」
「瞳くん、早かったんだね」
 希望が後ろを振り返って「お帰りなさい」と微笑んだ。
 それが高斗は面白くない。
 希望に「お帰りなさい」と言ってもらえるのは自分だけでいい。
 しかも、せっかくいいところだったというのに。
「不満そうだな、高斗」
 瞳がわけありげににやりと笑う。
「不満に決まってんだろ」
 高斗は気持ちを隠すこともなくふてくされた。
 そう、さすがにもう気づいていた。
 俺は希望が好きだ。
 単に好きなだけじゃない。これからもずっと希望に「いってらっしゃい」「お帰りなさい」を言って貰える関係になりたいと思っている。
 だから早く口説きたいのに、仕事で家は空けがちだわ、だいたい瞳かあかりが側にいるわでなかなか口説けない。
「どうしたの? 高斗」
 きょとんとした目で希望がこちらを見つめる。
 全く自分の気持ちが伝わっていないのがこれでもかというくらいわかるのが辛い。
 いやもちろん好意は抱かれていると思う。が、その好意は瞳やあかりにたいするものと同じだ、多分。
「何でもねーよ」
「いたっ!」
 弾力のある頬を軽く引っ張ると、希望が大袈裟に痛がった。
「お前たちのいちゃついてるのに水を差して悪いが、この花、どうしたんだ?」
 瞳が二人の周りにちらばる矢車菊を見て尋ねる。
「これよくそのへんに咲いてる雑草だろ。今の時期でもまだこんなに咲いてたのか」
「あ、これはエゾナキウサギからのプレゼントなんだよ」
 希望は自慢げに答えた。
「この雑草が? あのネズミみたいな獣からの?」
 瞳は片膝をつき、床に落ちている花びらをつまんだ。
「希望、ここにもついてる」
 高斗が耳のあたりについた花びらをつまむと、希望は真っ赤に頬を染めた。
 かわいいな、ちきしょう。
「高斗、そんなことで俺相手に張り合うなよ」
 瞳が呆れたように言うが、高斗は無視して別のことを言った。
「雑草とかネズミみたいなのとか言うなよ」
「あのね、瞳くん。これ矢車菊って言うの。キレイだよね」
 希望が花びらを弄びながら説明した。
「矢車菊って、コーンフラワーのことか?」
 瞳が目を細めた。反対に希望は目を見開いた。
「詳しいね!」
「いや……」
 瞳が言い淀んだのが、高斗は気になった。

「真紀ちゃん遅いね-」
 あかりが玄関から外を見ながら言った。その名前に希望はびくりと肩を震わせた。
「確かに遅いな」
 高斗も呟いた。
 もう夕方の六時だ。夏の終わりのこの時間帯は、既に夕闇が濃くなってきている。高斗が帰ってきてから既に一時間以上経っている。
「遠縁の人と積もる話でもしてるのかな」
 希望が上の空で呟くと「そんなに長電話はいくらなんでもしないでしょー」とあかりが突っ込んだ。
「ああ。真紀は電話したあと、研究所の職員について集成センターに行くって言ってたんだ」
 集成センターというのは、各地の研究を一同に閲覧できる機関のことを言うらしい。各研究都市にひとつ建っている。各地の研究は共有しなければいけない法令がある。早く有効な方法を発見し、ホモ・サピエンスを絶滅の危機から救うためだ。
「なんだ、それを早く言えよ。誘拐でもされたのかと思うだろ。電話の為だけに出て行ったのかと思ったぞ」
 瞳がほっとしたように呟いた。
「あ、帰ってきたよ!」
 あかりが大声を上げた。希望は恐る恐る立ち上がって玄関のほうへ歩いて行く。
 薄暗がりの奥から、人影が見えた。
「ん? どうした、真紀のやつ」
 隣で高斗が眉間に皺を寄せた。
 よくよく見ると、真紀が歩いて来たのではない。真紀を背負った男性がこちらに歩いて来ていた。
「お世話様です。真紀さん、施設内で熱出してしまって」
「あ、そうなんですか。田中さんお世話かけました」
 集成センターの職員だろう。高斗が真紀を彼から受け取った。
「お、見かけによらずけっこう重いな」
 真紀を横抱きにして高斗が呟いた。
「ん。確かに熱があるな」
 両手が塞がっているからだろう、高斗は自分の額をこつんと真紀の額にくっつけた。
 ただそれだけのことに、希望は胸が締め付けられた。
 きゅっと手を握りしめてそちらを見ていると、あかりが心配そうにこちらを見上げた。
 真紀は高斗の腕の中でぐったりしている。こちらに歩いてきた高斗が瞳に向かって言った。「こいつの部屋どこだ? 運んどく」
 瞳は「こっちだ」と既に用意してある希望の隣の部屋のほうに向かっていった。
「のぞみちゃーん」
 あかりが口をへの字に曲げて囁きかけてきたが、頭に入ってこなかった。

「おかゆ、作れるか」
 高斗が台所に入ってきた。希望は頷いた。この「作れるか」は、希望に作って欲しいと言う意味ではなく「作れる材料はあるか」という意味だ。高斗はわりとマメに料理をするタイプだった。
「梅干しとか卵とかあるよ」
 ごはんは元々真紀の分も炊いてある。食糧が乏しい現代社会であるが、研究職の家庭は裕福なのはつくばでも同じらしい。
 高斗は手早くおかゆを作るとお盆に載せた。そのお盆にもうひとつ通常メニューが載せてある。
「心配だから俺もあっちで食べるわ」
 そう言って高斗は真紀の部屋に行ってしまった。
 希望はしょんぼりと肩を落とした。
「希望ちゃん!」
 あかりに声を掛けられてはっとする。あかりが不服そうにこちらを見上げていた。
「高斗、ちょっと真紀ちゃんのこと気にかけすぎじゃない?」
 希望は笑顔を作った。
「高斗は優しいから……」
 そう。砂漠の真ん中で希望を拾ってくれたように。優しい人なのだ。
 今の真紀はあの時の希望と同じ状況だ。
 同じ。
 そう気づいて動揺する。
 心のどこかで、自分は高斗にとって特別だと思っていた。
 そのことに気づき、更に動揺する。
 なんで? 特別って何?
「希望ちゃん!」
 あかりが声を荒げた。
「やきもち焼いたっていいんだよ!」
「やきもち……?」
 そうなのだろうか。自分は彼女にやきもちを焼いているのだろうか。
 なんで?
 そんなの決まっている。
 高斗を取られたような気持ちになったのだ。
「そっか。やきもちだったんだ……」
 誰にともなくそう呟くと、あかりが目を丸くした。
「希望ちゃん、もしかして気づいてなかったの?」
 希望は首を縦に振ろうとして止まった。
「え。もしかしてあかりちゃん、気づいてたの?」
 ぱしんとあかりが希望の肩を叩いた。
「バレバレだから!」
 希望は顔がぼっと熱くなった。
 そんな、周囲の人にもわかるほど自分の気持ちが露わだったとは。
「高斗に言っちゃいなよ。真紀ちゃんばっかりかまってないでって」
 希望は苦笑した。
「そんな。真紀ちゃんまだ子供なのに」
 真紀は十四歳だという。
「あたしと四つしか変わらないよ。てか、あたしが瞳くんに告白したのあたしが十四、瞳くんが二十六の時だよ」
 あかりが主張する。その言葉に心が慌て始める。
 どうしよう。
 希望は心がこんがらがってきた。
 今自分の気持ちに気づいたばかりなのに、いきなりライバルが登場していたなんて。
「待って。ちょっと落ち着かせて」
 希望は両手で顔を押さえて、後ろを向いた。

「北関東ニュースの時間です。本日は『水辺の神社』で有名な、霞ヶ浦のほとりのせんげん神社付近で発見された熊鷹の大量死についての続報です」
「瞳くん、なんか面白いニュースやってる?」
 あかりがお盆を運びながら瞳に声を掛けた。瞳が振り返る。
「ああ。研究者にとっては面白いニュースだが」
「あ! うちの研究所に運び込まれた熊鷹のニュースだね」
 あかりが食いつく。瞳はあかりに頷いてから希望を振り返った。
「そうじゃない人間が食事前に見るニュースじゃないよな」
 そう言ってテレビのチャンネルを変えた。
「あ、遠慮しなくても。うちの親も研究者だったから大丈夫だよ」
 希望はこてんと首を傾げた。瞳は「まあ、こっちのほうが面白そうだからこっちでも見るか」と別のチャンネルの懐メロ特集を指さした。
 夕食が始まる。
 せっかく高斗が家にいるのに。一緒にご飯を食べられないのはつまらないなあと、希望は素直に思った。

 夜も更けてきた。高斗は一旦真紀の部屋から自分の部屋に戻ったようだ。希望はほっとした。お風呂に入って今日はもう寝ようと、洗面道具を持って、広めのお風呂に向かう。
 その途中、たらいを持った高斗にばったり会った。たらいの中にはお湯が入っていて手拭いがかかっている。
「お。風呂か」
 高斗が希望に笑いかける。そしてそのまま横を通り過ぎようとした。
「まって」
 希望は高斗のシャツの裾を引っ張った。高斗が怪訝な顔で振り返る。咄嗟に引き留めてしまったが、何も言うことはない。希望は言葉を探した。
「あ、えっと。何してるの? たらいなんか持って」
 すると高斗は何でもないことのように答えた。
「ああ、これか? 真紀が目が覚めたから体でも拭いてやろうかと思って」
 じゃあな、と高斗は希望に笑いかけて歩き出そうとした。
「待ちなさい」
 今度は明確な意思を持って希望は高斗のシャツの裾を引っ張った。
「あなた、何言ってるの?」
 真紀の体を拭く? いくら子供だからって、女の子の体を若い男が拭くってありえる? 真紀ちゃんにも失礼でしょう?
 ふつふつと怒りがわいてくる。優しい人でもこれはない。これはないわ。
 希望の迫力に気圧されたように高斗は身を引いたが「いや、だから真紀が熱っぽくて辛そうだから手伝ってやろうと」とぶつぶつと言った。
 希望は高斗の手からたらいをひったくった。
「おい、何す……」
「高斗が手伝うくらいなら、あたしが手伝う!」