希望は洗濯物をタンスにしまうと、縁側に座るあかりの隣に腰を下ろした。
 あかりは今日から産休に入った。あと一月半ほどで子供が生まれる。
 希望はお茶をすすった。
「ごめんねー。あたしまだ仕事見つけられなくって」
 希望はしゃんぼりと肩を落とす。あかりは大きくなったお腹を撫でながらほがらかに笑った。
「んーん。丁度あたしつわりが大変だったから、希望ちゃんに家のことやってもらえて助かっちゃった。あたしこそごめんね。希望ちゃんがうちのことやってるから就職活動が進まなかったんだよね」
 この家は孤児院のようなものだということだが、今現在住んでいるのは瞳、あかり、高斗、そして希望だけだった。二年ほど前までは他に四人ほど住んでいたらしいが、皆独立してここを出て行った。
「高斗はねー、車が自宅みたいなもんじゃん? だから家借りるよりここにいればって瞳くんが言ったんだよねー」
 あかりの言うとおり、高斗は家にいないことが多い。日帰りできない場所まで行くことも多いし、帰ってきても深夜に顔を見て終わりのことがある。
 でも。
「あ、帰ってきたんじゃない?」
 あかりに言われなくてもわかる。高斗の車の音がしたから。
 希望は玄関に小走りに走って行く。
「お帰りなさい」
 こうやって高斗を迎える瞬間が、希望はとても好きだった。
「ただいま、希望」
 高斗が笑いかける。そこまではいつもと同じだった。
 が、今日は。
 希望は目を見開いた。高斗の背に隠れるように人影が見えたから。
「高斗。そちらは……?」
 希望が小さな声で尋ねると、高斗は後ろを振り向いた。
「ほら、真紀。今日からお前の家族だぞ」
 高斗の背中からおそるおそるといった体で小さな細い体が現れた。年は十四、五歳か。背中の中程くらいまである髪をひとつに縛っている。
 その小柄な少女と目があった。希望はぎくりと体を強張らせた。
「はじめまして。中本真紀です」
 ちょこんと頭を下げられたので、慌てて希望も頭を下げた。
 が、なかなか顔を上げられない。
 睨まれた。
 今、目があった瞬間。
 睨まれたのだ。

「真紀ちゃん、よろしくー」
 あかりは持ち前の親しみやすさですぐに真紀に打ち解けた。
 真紀はつくば研究都市の近くの砂漠に置き去りにされていたという。
 この風習はここ数十年くらいでできたものらしい。
 貧困で育てられなくなった子供を街の近くの砂漠に置き去りにする。置き去りが許されるのは子供が十を過ぎてからだ。それ以前は保護責任者遺棄で罰せられる。
 子供が砂漠でのたれ死ぬか、それとも街に辿り着き生き延びられるか。それは運を天に任せるしかないのだ。
 真紀は運よく高斗に拾われた。
「よろしく、あかりちゃん」
 はにかみながら挨拶をする真紀は庇護欲を誘う感じだった。こんなかわいい子を捨てなければならなかったなんて、両親も辛いことだっただろうと希望は思う。思うのだが。
「よ、よろしくね」
 希望はどもりながら笑顔を作る。先程睨まれたのが胸に渦を巻いている。すると、真紀はにっこりと笑った。
「よろしく、希望ちゃん」
 あれ? さっきの見間違いかな。
 真紀の笑顔に裏は見えなかった。
 もしかして、緊張してただけかな。
 希望はほっと胸をなで下ろした。
「じゃあ、真紀、行くぞ」
 高斗が真紀の肩をぽんと叩いて外に促した。
「えっ。どこに?」
 希望は声を上げた。
 今帰ってきたばっかりなのに。
 会えなかった二日間、話したいことがいっぱいたまったのに。
 目に見えて萎れてしまっていたのかもしれない。高斗は困ったように笑うと、希望の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「真紀が交配技術に興味があるらしいんだ。丁度研究助手を探してた施設がつくばにあったから、今から行ってくる。三日くらいで戻ってくるから」
 そう言われてもなおもしゃんぼりした気分は治らない。本当は心配をかけたくないのだが、希望が無理をすると何故か高斗にはばれてしまう。そしてかえって心配をかけてしまうのだ。だから希望は高斗の前では素直になることにした。
 高斗はしばらく無言で希望を見つめていた。
「真紀。先行ってろ」
 そう言われると、真紀ははっとしたように顔を上げ、にこりと笑って「じゃあ車で待ってるよ」と駆けていった。
 真紀が庭に出たのを確認すると、高斗は「はー」と盛大なため息をついた。
「ど、どうしたの、高斗」
 希望は首を傾げる。高斗は希望の目をみつめた。
「行きたくなくなるから、やめて欲しい」
「え……」
 希望は動揺する。
 どうしよう。あたし、高斗の迷惑になってる?
 瞳が潤み始めると、高斗は「そうじゃなくってだな」と頭をかいた。
「そんな顔されると、俺が希望と離れたくなくなるから困るって言ってんだよ」
「え」
 希望は一瞬で顔が熱くなった。高斗はそれだけ言うと、後ろを振り向く。「行ってくる」と言った耳が赤い。
「い、いってらっしゃい……」
 顔を赤くしたまま高斗を見送っていると。
 車の中の目が、こちらを睨んでいた。
 なんで?
 希望は高斗と真紀の二人を目で追う。
 真紀は高斗の腕をとって楽しそうに話しかけた。
 そして真紀はこちらを再びちらっと見た。
 そのまま車は走り出して行った。

   ***

「高斗、そろそろ帰ってくるかなあ」
 希望は縁側でごろりと横になっていた。
 八月もお盆を過ぎると秋の気配が漂い始める。
 今、家の中の家事を全部片付けたところだ。一休みしたら夕飯の支度に取りかかる。
 希望はポケットから一枚の紙を取り出した。求人情報が掲載されている。
「あたしも早く仕事みつけなきゃ」
 まなうらに真紀の顔が浮かぶ。
 あんな小さな子だってもう仕事をみつけられそうなのに。
 負けてられないぞ、そう拳を握りしめる。
「あかりちゃんが出産したら、あたしも仕事探しに本腰入れよ」
 求人に目を通そうとするが、眠気が襲ってきた。ひとねむりしよう。
 希望は目を閉じた。
 しばらくして、希望はくすぐったくて目が覚めた。
 多分エゾナキウサギだろうなあ。
 そう思って目を開ける。
 案の定、横向きになった顔の頬の側には小さな毛皮があった。
 あかりの言ったとおり、エゾナキウサギはちょくちょく希望のもとを訪れてくれた。時には友達と一緒に。時には家族と一緒に。
「ふふっ。くすぐったい」
 呟くと、エゾナキウサギはぱっと庭に飛んでいった。
「あー。行っちゃった」
 寝転びながらぼんやりと獣の後ろ姿を追っていると、それはすぐ戻ってきた。口に何かを咥えている。
 希望の顔の前でちょこんと立ち止まり、口から青い花を落とした。
「矢車菊?」
 よく見かける青い花だ。
「かわいいね。あたしにくれるの?」
 よしよしと頭を撫でる。エゾナキウサギは「ぴきー」と鳴いた。
「なんてことになってんだ、お前」
「うわっ!?」
 突然聞こえてきた声に驚いて、頭を上に向ける。上からは高斗が見下ろしていた。
「びっくりした! 帰ってきてたの?」
 希望はよいしょと起き上がりながら「お帰りなさい」と言った。
 そんな希望の頬にすっと高斗の手が伸びてくる。びくりと希望は目を瞑った。
「いや、悪い。そうじゃなくて、ていうかそうってなんだよ」
 何やら高斗はごちゃごちゃ言ったあと、今度は希望のおでこに指を伸ばしてきた。
「ほら、これ。すげえことになってるぞ。お前の体のまわり、この花だらけ」
 高斗が目の前に差しだしたのは、先程の矢車菊だった。
 自分の体を見下ろしてみると、確かに至る所に青い花が散っていた。
「エゾナキウサギのプレゼントだよ」
 両腕を広げて希望はおどけてみせる。
「随分と盛大にくれたもんだな」
 苦笑しながら高斗が希望の体についた花をとってくれた。そうして、あらかた取り終わってから、髪を整えるように撫でた。
「真紀ちゃんは?」
 撫でられているのがくすぐったくて、希望は話を変えてみた。高斗は希望の頭から手を離すと、思い出したように言った。
「外で電話してる。もしかすると、遠縁の身寄りがみつかるかもしれない」
「そうなんだ!」
 良かった。
 それは、真紀にとってなのか、自分にとってなのか。
 自分にとって良かったと思っているのを認められたら楽になれるかもしれない。そう思ったが、まだ認めたくはなかった。

「もしもし。真紀です」
 家から少し離れたところで、真紀はスマホに話しかけていた。
「……はい。間違いありません」
 ちょろりとエゾナキウサギが足下にまとわりつく。
「見つけました。私の同胞ですから見間違うはずはありません」
「ぴー、ぴきー」
 小さな声でエゾナキウサギが鳴いては、走り回る。
「彼女です。ネアンデルタール人は」
 真紀の足下には、無数の青い花が散っていた。