獣は人間を怖がらないようだ。頭を撫でてやると「ぴー」と鳴き声を上げた。
「あっ。エゾナキウサギだね!」
 あかりがぴょこんと横から顔を出した。
「ウサギ?」
 ウサギと言えば長い耳が特徴だが、このウサギは小さな耳が頭の上についているだけだ。が、尻尾もちょこんとついているだけで、確かにネズミのようでもなかった。
「最近このあたりによく出没するんですよ。昔は北海道にしかいなかったそうですが」
 瞳の説明に希望は頷いた。
「ああ、だから蝦夷」
「昔は絶滅危惧種だったようです。多分保護研究の目的で持ち込まれたのが繁殖したんでしょうな」
「ぴきー」
 エゾナキウサギは一声鳴くと、希望の手の中からするりと抜け出した。
「……行っちゃった」
 希望は残念な気持ちで三人の顔を見て微笑んだ。
「また来てくれるよー。三日にいっぺんくらいは来るから」
 あかりが笑う。高斗が希望の横に腰を下ろしながら苦笑した。
「菊池さんは明日には浅間に行くんだからな」
 希望は思わず俯いた。
 行きたくない。
 浅間には、本当は行きたくないのだ。

 父方の伯母の家族が浅間研究都市には住んでいる。
 実は希望の家族は以前から浅間に来ないかと誘われていたのだ。
 だが、両親は頑として頷かなかった。浅間の研究に協力することはできない。大宮での研究を放り出すわけにはいかないと。
 それならば、希望だけでも、との誘いもあったらしい。が、これが希望には不可解だ。
 何故家族と引き離してでも希望が欲しかったのか。
 希望は研究者ではない。高校でもスポーツを頑張ってきた。将来は大宮政庁に入って、街の人たちに動物たちから身を守る護身術を教える仕事に就きたいと思っていた。
 では、希望のことを気に入っていたのか。その答えは明らかにノーだ。
 何度か大宮にやってきたことのある伯母夫婦は、希望を見下すような態度をとっていた。最初は両親の研究が気に入らないのだろうと思っていた。そういった視線には慣れていたから。
 が、希望が十歳くらいのある日、一緒に外食に行った時のことだ。両親はお気に入りの中華料理屋に二人を連れて行った。店内に入ると、食欲を刺激する美味しそうな匂いがした。中を見回すと回転するテーブルに、色とりどりの料理が盛られている。希望はわくわくとした気持ちで伯母を見上げた。
 伯母は冷たい視線でこちらを見下ろしていた。そして、ふいと視線を逸らすと、そのまま店外に出て行こうとする。
「お義姉さん? どこ行くんです」
 母がそう声を掛けると、伯母は母には答えず父に向かってこう言った。
「あんた、あたしたちにこの子と同じ皿のモノを食べろって言うの?」
 それだけ言うと、伯母は伯父と一緒に出て行った。
 母はおろおろしていた。母がおろおろしているので、希望もどうしたらいいのかわからず父を見上げた。
「ーー食べようか」
 父は一言そう言うと、こちらに笑いかけた。
 希望はこくんと頷いた。
 席に着き、料理が運ばれてくる。
 あんなに美味しそうだったのに。
 料理は何の味も感じられなかった。

「えーっと、菊池さん」
 遠慮がちな高斗の声で希望は我に返った。他の二人も心配そうにこちらを見ている。
「ごめんなさい! ちょっとぼーっとしちゃって!」
 希望は高斗から料理に視線を移した。
「わあ! 美味しそう」
 腕を上げてぱんと手を叩く。
「ちょっと待て、菊池さん」
 困ったような高斗の声に、希望は腕を下ろした。
「もしかして、なんだけど。菊池さん、浅間に行きたくないんじゃないか?」
 希望は口を引き結んだ。
 行きたくない。
 が、行かなくてどうするのだ。他に行くところなどないと言うのに。
 行きたくないと言ってしまったら困るのは高斗だ。希望を目的地まで送り届けなければならないのだから。
 浅間に着いたらできるだけ早く住む場所と働き口をみつけよう。大学は中退になってしまったけどそんなことを言っている場合ではない。そして、伯母夫婦にはできるだけ近づかないようにすればいい。
「あの、さ。菊池さん。もし菊池さんが良かったら」
 そのまま高斗は口を何回か空回りさせた。
 あかりが希望と高斗の顔を順番に眺めてから、ぱんと手を打った。
「あ、そうなのねー! 良かったら希望ちゃんここに住まない?」
「えっ」
 驚いて希望はあかりの顔を見る。
「そうだな、それがいい。そうとなれば話は早い。希望、お前も今日から俺たちの家族な!」
「はい?」
 瞳に突然呼び捨てタメ口で話しかけられ、希望は混乱する。
「で、でも、それはかなりご迷惑というやつなのでは!」
 あまりに早い展開に希望が目を回していると、高斗が身を寄せてきて、耳打ちした。
「ここは身寄りのない人間が集まって暮らしてる所なんだ。瞳の両親が建てた孤児院みたいな場所だ」
「こ、孤児院て言っても、あたしもう二十歳……」
 高斗は苦笑した。
「みたいな、って言ったろ。俺も五歳で両親を亡くして以来、ずっとここに住んでる」
 高斗は「まあ俺は仕事で家にいることはあんまりないけどな」と付け足した。
「じゃ、じゃあ」
 そんな都合のよいことがあっていいのだろうか。
 あかりと瞳が片手でハイタッチをした。
「じゃあ決まりね! 希望ちゃん今日からよろしくー」
 希望は頭を下げた。
「は、はい。こちらこそよろしくお願いしま……」
「ノーノーノー」
 あかりはちっちっちと指を振った。
「希望ちゃんは家族! お互いタメ口でいこうね」
「は、はい! よろしくお願いします!」
 そう敬語を使ってしまい、三人に笑われた。

「ふっ、ふ……っ」
 夜中、トイレに起きた高斗は希望の部屋から聞こえてきた息づかいに足を止めた。
 ドアを軽くノックする。
「希望? まだ起きてるのか」
 今は深夜二時だ。十くらいある部屋のうち、一番母屋に近い部屋を希望は使うことになった。高斗の部屋は一番遠い場所だが、トイレは母屋近くにあるのだ。用を足し、自分の部屋に戻ろうとしたとき、先程は聞こえなかった声が聞こえた。
「わっ」
 中から小さな悲鳴が上がった。しばらくしてからドアがかちゃりと開いた。中から寝間着代わりのジャージを着た希望が顔を出した。
「ごめんなさ……ごめんね。起こしちゃった?」
 希望は眉を下げる。
「いや。あんなに離れてて聞こえるわけないだろ。トイレに起きてきた」
「そっか。あたしももう寝るね」
 希望はふっと笑うと後ろを向いた。その顔が見えなくなるまでの一瞬を高斗は見逃さなかった。
「泣いてたのか?」
 目が真っ赤だった。
 希望はもう一度こちらを振り向いて眉を下げた。
「寝てたんだけど。熊鷹が襲ってきた時の夢見て目が覚めちゃって。今、訓練始めてた」
「いや、訓練て」
 高斗はため息をついた。多分熊鷹から両親を守れなかったことを気に病んでいるのだろう。だからと言って、こんな夜中に訓練など始めなくても。
 今日はゆっくり休んで欲しい。
「あんまり無理するなよ。体壊したら元も子もないぞ」
 軽く頭を叩く。希望は叩かれた場所に手をやってから、にこりと微笑んだ。
「うん。もうほんとに寝るからね」
 おやすみ、と呟いてドアが閉じられた。
 高斗はしばらく閉じられたドアの前で佇んだ。
 ちゃんと寝られるのだろうか。
 しばらくそのまま立っていたが、夜中に女の部屋の前に立ってるなんてこれじゃ変態だと思い、自分の部屋に帰ろうとする。その時。
「ふっ、うっ」
「希望?」
 啜り泣くような声が聞こえ、高斗は思わず声を掛けた。びくりとしたように啜り泣きが止まる。
「た、高斗。まだいたの……?」
 希望が目元をこすりながら出てきた。
「悪い。気になって」
 頭をかき視線を逸らしながら告げると、希望は「ごめん! 今度こそ寝るっ!」と宣言した。
「ちょ、待て」
 高斗は希望の腕をとった。
「寝なくていい。ごめん」
 高斗は頭を下げた。
 きっと、体を動かすことで気を紛らわしていたのだ。
「お前がしたいようにすればいい。ごめん」
 再び謝罪を口にすると希望は首を傾げた。
「なんで高斗が謝るの?」
「なんでって……」
 何故だろう。寝ることを強要したからか? いや、別に強要してはいない。ただ、自分は希望に無理をして欲しくなかっただけで。
「……俺の気持ちを押しつけたから、か?」
「なんで疑問形なの」
 希望はぷっと吹き出した。そしてじゃあ、と言ってドアが閉じられようとする。
 そのドアを、気づいたら押さえていた。
「た……」
「俺も入っていいか?」
 希望の目が丸く見開かれた。高斗は焦った。
「いや、その! なんかトレーニングで俺も手伝えることないかって思ってだな!」
「しーっ」
 希望が口の前で人差し指を立てた。
「瞳くんたちが起きちゃうよ。って、あたしが言うなって感じだけど」
 高斗は口を噤んだ。希望は少し考えるような様子をしたあと、高斗を手招きした。
「トレーニングはうるさくなると困るからやめとくね。これからお世話になるんだし、あたしあなたたちのこと知りたいから、少しお話しようか?」
「そうだな」
 高斗は部屋の中に入っていく。部屋の真ん中にある座布団に隣り合って腰をおろした。
「えーと、まず俺はさっきも言ったけど、各研究都市の間の研究成果の運搬とかを職業にしてる」
 希望は興味深そうに聞き入った。
 瞳とあかりは研究職だ。瞳は特に遺伝子情報の研究をしている。これまでにあまたの遺伝子組み換え生物を世に出している。組み換え生物に詳しい日本人十本の指に入ると言われている。
「遺伝子組み換え技術には色々批判も危険性もあるから、けっこう攻撃されることも多かったそうだ」
「あー、わかる……」
 自身も研究者を親に持つ希望は寂しそうに頷いた。
 どこの研究都市でもそうだ。自分たちホモ・サピエンスが生き残る為にはある意味ブラックな研究にも手を染めなければならないこともある。
「瞳も人権団体の一部の過激派の人間に襲撃されたことがある」
 人権団体の言い分もわかる。自分だって希望の両親の研究に嫌悪感を示したではないか。
「そこまでして生き残らないといけないのかという意見もある。二百年前には『地球に優しい』とかのフレーズが流行ったらしいが、地球には関係ない。ホモ・サピエンスが絶滅しても地球は困らない。『地球に優しい』は『ホモ・サピエンスが生きやすい地球』に『優しい』ってことだ」
 高斗自身わからないのだ。
 緩やかに滅びていくのに身を任せてもいいのではないかという気持ちもある。
 こんな絶滅の危機が迫っていても人間は戦いを繰り返す。今日本はどこの国とも戦争をしていないが、世界では今も戦争が繰り返されている。
 希望は黙って高斗の話を聞いていたが、こちらを見上げて困ったように笑った。
「それでもいいんじゃないかな。生き物って結局は種の繁栄を目指してるものなんじゃないかな。あたしたちが子孫を残したいって考えて、そのためにもがくのは、きっと自然なことだよ」
 高斗は隣に座る希望の頭をそっと撫でた。
「まあ、そうだな……」
 ふわあと希望があくびをした。掛け時計を見るともう三時だ。一時間も二人で話をしていたらしい。
「お?」
 突然、希望は電池が切れたように前につんのめった。咄嗟に手を伸ばして支える。
「のぞ……」
 腕の中の顔を覗き込むと、既に安らかな寝息を立てていた。
「そりゃ、疲れてるよな」
 高斗はゆっくりと希望の茶色い頭を撫でた。髪がふわふわとして柔らかい。
 ずっと撫でていたい気持ちがわいてきて、高斗はぱっと手を離した。
「何、思ってんだ、俺」
 希望をベッドに運ぼうと抱き上げる。その軽さに何度でも驚いてしまう。
 ベッドに横たえたあと、名残惜しくてもう一度髪に触れる。
 やばいな。
 髪から頬に指を移しながら高斗は思った。
 
  ***

「あかりちゃん、これはここでいい?」
「うん、ありがとー」
 この家にやって来てから四ヶ月ほど。季節は夏になっていた。