希望を振り返ってぎょっとする。
希望は真っ青になってがたがたと震えていた。
「菊池さん?」
なんなんだ。
高斗は首を傾げた。今の今まで元気いっぱいにしゃべっていたのに。
情緒不安定なのか?
そうかもしれない。砂嵐に巻き込まれたのだから。元気そうに見えるのは空元気というやつなのだろう。
けれど、先程の格闘を見るに、希望がこれほどまでに熊鷹を恐れるのが意味がわからない。
「菊池さんは車の中で待ってな。甘いもんでも買ってきてやるから」
笑いかけると、希望はがばりと顔を上げてこちらを向いた。
「駄目です! 車の中から出ちゃ駄目」
「おっと」
希望は高斗を引き留めるように腕にすがりついた。そしてハッと目を見開いて手を離す。それは、失礼なことをしたとか、恥ずかしいとかの様子ではなかった。
現に、希望は今度は高斗の手を取ってハンドルに押しつけた。
「早く! 早く車出して!」
「あ、ああ……」
必死な様子の希望に気圧されて高斗はエンジンをかけた。その間も希望はがくがくと震えている。戸惑いながら高斗は告げた。
「あの、菊池さん。この車特別装甲車だから」
大事な荷を運ぶ車によくある装備だ。銃弾や動物からの襲撃にもほぼ耐えられる。熊鷹が襲ってきても車は無傷とはいかないまでも、中に被害が及ぶことはない。
「だから、そんなに怖がるなよ……」
どうしてやったら彼女が落ち着いてくれるのかわからない。
わからないから、高斗は希望の頭を左手でそっと撫でた。
その瞬間、希望は緊張の糸が切れたように気を失った。
***
ーーお父さん、お母さん。
希望は自分の声で目が覚めた。
周りは砂埃が舞っていてよく見えない。どうやら地べたにうつ伏せで転がっているようだ。
洞窟?
目の先が明るいから、ここは洞窟の入り口近くのようだ。必死で目を凝らす。
なんで洞窟になんかいるの?
ここはどこだっけ。
先程まで自分がいた状況を必死で思い出そうとする。
そうだ、自宅のある大宮研究都市から浅間研究都市に家族で移ろうということになって。それで大宮を出て、北に向かっていて。
砂嵐が襲ってきた。
希望にとって、これほどまでに大きい砂嵐は初めての経験だった。いつもほぼ大宮の自宅から出たことがなかったから。出るのは学校と部活の競技会くらい。
ごほごほと咳をする。砂嵐がだんだんと弱まってくる。
目の前に、人の顔が見えた。
「お母さん……!」
良かった、お母さん、ここにいた。
手を伸ばす。母はふわりと微笑んだ。
次の瞬間、その手は母の手によってはたき返された。
「おかあさ……」
首を少し持ち上げる。そして息を飲んだ。
母の背の上には、巨大な熊鷹が爪を下ろしていた。
「お……」
母の背中から血が滲んでいる。
体が震えて動くことができない。
助けなきゃ、助けなきゃ。今まで見たことある熊鷹の倍以上あるけど、あたしならできる。
指に力を入れたその瞬間。
ぼきり、と音がして、母の首が折れた。熊鷹がくちばしで折ったのだ。
そこからじゅるじゅると熊鷹は肉を吸い上げ始めた。
助けなきゃ。
足を動かそうとする。その足を思い切り引っ張られた。
「……!」
叫びそうになった口を大きな手で塞がれた。
「ここに隠れていなさい」
父の声だった。
「あの熊鷹は体が大きい。ここには入れないから」
その言葉に安堵する。
安堵して、そして安堵している自分に一気に憎悪がわいた。
「でも、おかあさ……!」
「ホモ・サピエンス二体」
泣き声に近い声の希望とは対照的に、父の声は穏やかだった。
「熊鷹の腹を満たすにはそのくらいだ」
希望は一瞬言われた意味がわからず首を傾げる。が。
「ぎゃっ!?」
思い切り首の付け根を千切られて、希望は悲鳴を上げた。
「これは貰っておく」
父は狭い洞窟の中、希望の脇をすり抜けた。
「お、おとうさん……?」
父の手が希望の頭に優しく載る。
「……お前は俺たち夫婦の希望だよ。いや……」
言葉の最後の方はよく聞こえなかった。
父の体が半分ほど洞窟の外に出たところで、一気に飛んでいく。熊鷹が引っ張ったのだ。
希望は目の前で繰り広げられる惨状を、ただただ呆然と眺めていた。
父と母が、ほぼ骨だけになるまで。
「あ。菊池さん、起きたか?」
低い優しい声に、希望は今度こそ本当に目が覚めた。
ここはどこだっけ。
そうだ、山内さんの車の中だ。
ぼんやりとした瞳が焦点を結ぶと、高斗が心配そうな表情でこちらを見ていた。
「すみませ……げほっ」
希望は咽せた。まだ気管支に砂でも残っていたのだろうか。
「ああ、無理しなくていいからな。飲めるか?」
高斗はペットボトルの水をこちらに差しだした。容器が汗をかいているから、先程買ったものだろう。
「甘いのもあるぞ」
高斗が両手でひとつずつペットボトルを掲げてみせる。いちご練乳と濃厚ミルクティーと書いてあった。
「ありがと、ございます」
こてんと頭を下げて、とりあえず水を貰う。
こくりこくりとゆっくりと喉を潤しているのを、高斗はじっと見ていた。
「……何か?」
ペットボトルから口を離して問いかけると、高斗は首を傾げた。
「いや、こんなに熊鷹苦手そうなのに、よく一人でこんなとこ移動してたな、と思って」
「熊鷹が得意な人っていないでしょう?」
冗談めかして笑うつもりが、うまくできなくて顔が強張ってしまった。
あ、この物言い失礼かな。
「あ、あの、これはそういう意味じゃなくて」
希望は弁解しようとしたが、全く意に介してなさそうに高斗は言った。
「まあそうだろうけど。熊鷹って食物連鎖の頂点に君臨する森の王者だからな。でも、ホモ・サピエンスは基本その連鎖の中に入ってないだろ。襲われることは稀だ」
希望は目をみはった。
「あたし、ちょくちょく狙われますよ……?」
父と母を失ったあの砂嵐の時だけじゃない。幼い頃からよく熊鷹が希望を目がけて飛んできていた。だから、熊鷹を仕留められるよう訓練を積んでいた。
「え。そうなのか? 狙われやすい人間ているのかな。餌の好みというか。それとも、熊鷹のほうの地域性か?」
高斗は首を傾げている。
「俺はこのあたりは通るだけのことがほとんどだからなあ。菊池さんちこのへんなの?」
希望は頷いた。
「多分。うちから三時間くらいしか歩いてないので。あ、うち大宮なんですけど」
「は? 大宮?」
今度は高斗が目をみはった。
「大宮ってあれだよな。オアシスの研究都市」
大宮研究都市は、砂漠の真ん中にある。ほとんどの研究都市が山沿いにあることを考えると珍しい。
「え? 何かおかしいですか」
希望が尋ねると、高斗は「おかしいっつうか」と頭をかいた。
「方向が違うぞ。浅間研究都市に行きたいなら北西方向に行かなきゃ。ここは越谷のはずれ。大宮の東にある街だから」
「そうだったんですか……」
がくりと希望は項垂れた。危なかった。父母と乗っていた車がこちら方面に進んでいた気がしたのでそのまままっすぐ向かえばどこかの街に着くかと思っていたが。
「いや、それにしても。熊鷹は怖いわ、目的地への道も把握してないわ、なんで行こうと思ったんだ?」
希望は瞬間唇を引き結んだ。
「あ、言いたくないなら無理にとは……」
すぐにそう言ってくれたこの人は優しい人だなと思う。見ず知らずの希望を送ってくれると言っただけでも十分優しいのはわかったが。
希望は口を引き結びながら高斗を見上げた。
「聞いてくれますか?」
高斗はほっとしたように微笑んだ。
この人には聞いて欲しいと、そう思った。が、途中で思い返す。
あの凄惨な出来事をきっと誰でもいいから誰かに聞いて欲しかったのだと、希望は思った。
***
「あたし、両親と一緒に車で浅間研究都市に向かってたんです」
希望はぽつぽつとしゃべり始めた。
「あの、山内さんて大宮に縁のある人ですか」
言いにくそうに希望が口ごもった。
「仕事上縁があるっちゃあるが、そんなに行ったことねえなあ」
高斗が仕事でよく行くのは、奥多摩研究都市とつくば研究都市だ。奥多摩は、「海の古都」と言われる東京にある。地球温暖化の影響で今は多くが海に沈んでいる東京の中でも、奥多摩は緑が残っている場所だ。そこに滞在することも多いが、主につくばを拠点として生活している。
実家はない。高斗に両親はいない。小さい頃に砂漠の鉄砲水に流されて亡くなった。
「ーー大宮は、もう終わりです」
希望は小さな震える声でそう呟いた。
「終わり?」
希望は頷く。
「失敗したんです。ホモ・サピエンス繁殖計画に」
「繁殖計画?」
なんだそれは。初めて聞いた。
疑問が顔に出たのだろう、希望は説明してくれた。
「ホモ・サピエンスは貴重な種です。計画的に繁殖させなければならないそうです。だから人々のDNAを研究してました。強靱なDNAを持つ者、繁殖に有利なDNAを持つ者。それらはより貴重です。その為、強い者はより強い者とつがわなければならなかったそうです。そして価値のあるホモ・サピエンスは何人もの妻を娶ることができる、いえ、娶らなければいけなくなったのです」
「それは、なんて言うか……」
ここは現代日本なのか?
数百年前から日本という国家は一夫一妻制だったはずである。大宮だけ法改正をしたのだろうか。それともお妾さん、愛人の類いでお茶を濁しているのか。
高斗は首を傾げざるを得ない。それは何か。競走馬の種付けのようなものか。
そこまで考えて高斗は気分が悪くなってきた。
人間だぞ?
希望はこちらを見ながら、こっくりと頷いた。
「一般の人には不快なお話ですよね。でも、こう考える人も多かったんです。『結婚相手に高学歴高収入高身長を求めるのと似たようなもんだ』と」
「まあ、似てるっちゃ似てるが……」
高斗は苦り切った。
でも、男女問わずハーレムを希望する人間もいるかもしれない。
本人が納得してるならアリなのか?
「ナシでした」
「おわっ!?」
思考を読まれたのかと思い動揺すると、希望は「口に出てましたよ」と微笑んだ。
「こんなこと、人権団体が黙ってるわけありません。人間の価値に値段を付けるな、と」
「まあ、そうなるよなあ」
高斗は気持ちを落ち着けようと、先程買った缶コーヒーに口を付けた。
「先日のオークションで、市長の息子の精子は十億の高値がつきました。ゲノム解析で、強靱なDNAが見つかったから」
「ぶはっ!」
若い女の口からさらりと「精子」などという単語が出てきたので、思わずコーヒーを吐き出してしまった。
げほげほと咽せながら、高斗は数年前に立ち寄った大宮研究都市のことを思い出す。
そういえば、他の地域と比べて貧富の差が大きかった気がする。
「でも、だからって大宮が終わりってことにはならないだろ。元通りの生活をしてまた別の研究を始めればいい」
すると、希望は悲しそうに俯いた。
「もう、遅かったんです」
「なんでだよ。胸くそ悪い研究だったし、失敗して良かったんじゃないか? それにどこの都市も様々な研究に取り組んで失敗してはまた別の研究を……」
「テロが起きます」
高斗は息を飲んだ。希望は続ける。
「というか、もう始まっています。大宮の政庁はまだ無事ですが、研究者とその家族には死者が何人も出ています」
そんな事件が起きていたとは知らなかった。奥多摩から越谷までの間を車で通り過ぎているだけでは全く気づかなかった。
高斗が眉を寄せていると、希望は膝の上の手をぎゅっと握った。
「あたしたちは、すんでのところで逃げましたが」
「あー……」
なんで気づかなかった。
高斗は己を殴りたくなった。
インターハイに出たと聞いた時、気づいたはずじゃないか。彼女は富裕層だと。
「えっと、胸くそ悪いってのは言葉のあやで……どんな研究でも真剣に取り組んでいたものが失敗すれば辛いよな」
なんとかフォローしようと必死に言葉を選んでいると、ふいに希望の目から涙が零れた。
希望は真っ青になってがたがたと震えていた。
「菊池さん?」
なんなんだ。
高斗は首を傾げた。今の今まで元気いっぱいにしゃべっていたのに。
情緒不安定なのか?
そうかもしれない。砂嵐に巻き込まれたのだから。元気そうに見えるのは空元気というやつなのだろう。
けれど、先程の格闘を見るに、希望がこれほどまでに熊鷹を恐れるのが意味がわからない。
「菊池さんは車の中で待ってな。甘いもんでも買ってきてやるから」
笑いかけると、希望はがばりと顔を上げてこちらを向いた。
「駄目です! 車の中から出ちゃ駄目」
「おっと」
希望は高斗を引き留めるように腕にすがりついた。そしてハッと目を見開いて手を離す。それは、失礼なことをしたとか、恥ずかしいとかの様子ではなかった。
現に、希望は今度は高斗の手を取ってハンドルに押しつけた。
「早く! 早く車出して!」
「あ、ああ……」
必死な様子の希望に気圧されて高斗はエンジンをかけた。その間も希望はがくがくと震えている。戸惑いながら高斗は告げた。
「あの、菊池さん。この車特別装甲車だから」
大事な荷を運ぶ車によくある装備だ。銃弾や動物からの襲撃にもほぼ耐えられる。熊鷹が襲ってきても車は無傷とはいかないまでも、中に被害が及ぶことはない。
「だから、そんなに怖がるなよ……」
どうしてやったら彼女が落ち着いてくれるのかわからない。
わからないから、高斗は希望の頭を左手でそっと撫でた。
その瞬間、希望は緊張の糸が切れたように気を失った。
***
ーーお父さん、お母さん。
希望は自分の声で目が覚めた。
周りは砂埃が舞っていてよく見えない。どうやら地べたにうつ伏せで転がっているようだ。
洞窟?
目の先が明るいから、ここは洞窟の入り口近くのようだ。必死で目を凝らす。
なんで洞窟になんかいるの?
ここはどこだっけ。
先程まで自分がいた状況を必死で思い出そうとする。
そうだ、自宅のある大宮研究都市から浅間研究都市に家族で移ろうということになって。それで大宮を出て、北に向かっていて。
砂嵐が襲ってきた。
希望にとって、これほどまでに大きい砂嵐は初めての経験だった。いつもほぼ大宮の自宅から出たことがなかったから。出るのは学校と部活の競技会くらい。
ごほごほと咳をする。砂嵐がだんだんと弱まってくる。
目の前に、人の顔が見えた。
「お母さん……!」
良かった、お母さん、ここにいた。
手を伸ばす。母はふわりと微笑んだ。
次の瞬間、その手は母の手によってはたき返された。
「おかあさ……」
首を少し持ち上げる。そして息を飲んだ。
母の背の上には、巨大な熊鷹が爪を下ろしていた。
「お……」
母の背中から血が滲んでいる。
体が震えて動くことができない。
助けなきゃ、助けなきゃ。今まで見たことある熊鷹の倍以上あるけど、あたしならできる。
指に力を入れたその瞬間。
ぼきり、と音がして、母の首が折れた。熊鷹がくちばしで折ったのだ。
そこからじゅるじゅると熊鷹は肉を吸い上げ始めた。
助けなきゃ。
足を動かそうとする。その足を思い切り引っ張られた。
「……!」
叫びそうになった口を大きな手で塞がれた。
「ここに隠れていなさい」
父の声だった。
「あの熊鷹は体が大きい。ここには入れないから」
その言葉に安堵する。
安堵して、そして安堵している自分に一気に憎悪がわいた。
「でも、おかあさ……!」
「ホモ・サピエンス二体」
泣き声に近い声の希望とは対照的に、父の声は穏やかだった。
「熊鷹の腹を満たすにはそのくらいだ」
希望は一瞬言われた意味がわからず首を傾げる。が。
「ぎゃっ!?」
思い切り首の付け根を千切られて、希望は悲鳴を上げた。
「これは貰っておく」
父は狭い洞窟の中、希望の脇をすり抜けた。
「お、おとうさん……?」
父の手が希望の頭に優しく載る。
「……お前は俺たち夫婦の希望だよ。いや……」
言葉の最後の方はよく聞こえなかった。
父の体が半分ほど洞窟の外に出たところで、一気に飛んでいく。熊鷹が引っ張ったのだ。
希望は目の前で繰り広げられる惨状を、ただただ呆然と眺めていた。
父と母が、ほぼ骨だけになるまで。
「あ。菊池さん、起きたか?」
低い優しい声に、希望は今度こそ本当に目が覚めた。
ここはどこだっけ。
そうだ、山内さんの車の中だ。
ぼんやりとした瞳が焦点を結ぶと、高斗が心配そうな表情でこちらを見ていた。
「すみませ……げほっ」
希望は咽せた。まだ気管支に砂でも残っていたのだろうか。
「ああ、無理しなくていいからな。飲めるか?」
高斗はペットボトルの水をこちらに差しだした。容器が汗をかいているから、先程買ったものだろう。
「甘いのもあるぞ」
高斗が両手でひとつずつペットボトルを掲げてみせる。いちご練乳と濃厚ミルクティーと書いてあった。
「ありがと、ございます」
こてんと頭を下げて、とりあえず水を貰う。
こくりこくりとゆっくりと喉を潤しているのを、高斗はじっと見ていた。
「……何か?」
ペットボトルから口を離して問いかけると、高斗は首を傾げた。
「いや、こんなに熊鷹苦手そうなのに、よく一人でこんなとこ移動してたな、と思って」
「熊鷹が得意な人っていないでしょう?」
冗談めかして笑うつもりが、うまくできなくて顔が強張ってしまった。
あ、この物言い失礼かな。
「あ、あの、これはそういう意味じゃなくて」
希望は弁解しようとしたが、全く意に介してなさそうに高斗は言った。
「まあそうだろうけど。熊鷹って食物連鎖の頂点に君臨する森の王者だからな。でも、ホモ・サピエンスは基本その連鎖の中に入ってないだろ。襲われることは稀だ」
希望は目をみはった。
「あたし、ちょくちょく狙われますよ……?」
父と母を失ったあの砂嵐の時だけじゃない。幼い頃からよく熊鷹が希望を目がけて飛んできていた。だから、熊鷹を仕留められるよう訓練を積んでいた。
「え。そうなのか? 狙われやすい人間ているのかな。餌の好みというか。それとも、熊鷹のほうの地域性か?」
高斗は首を傾げている。
「俺はこのあたりは通るだけのことがほとんどだからなあ。菊池さんちこのへんなの?」
希望は頷いた。
「多分。うちから三時間くらいしか歩いてないので。あ、うち大宮なんですけど」
「は? 大宮?」
今度は高斗が目をみはった。
「大宮ってあれだよな。オアシスの研究都市」
大宮研究都市は、砂漠の真ん中にある。ほとんどの研究都市が山沿いにあることを考えると珍しい。
「え? 何かおかしいですか」
希望が尋ねると、高斗は「おかしいっつうか」と頭をかいた。
「方向が違うぞ。浅間研究都市に行きたいなら北西方向に行かなきゃ。ここは越谷のはずれ。大宮の東にある街だから」
「そうだったんですか……」
がくりと希望は項垂れた。危なかった。父母と乗っていた車がこちら方面に進んでいた気がしたのでそのまままっすぐ向かえばどこかの街に着くかと思っていたが。
「いや、それにしても。熊鷹は怖いわ、目的地への道も把握してないわ、なんで行こうと思ったんだ?」
希望は瞬間唇を引き結んだ。
「あ、言いたくないなら無理にとは……」
すぐにそう言ってくれたこの人は優しい人だなと思う。見ず知らずの希望を送ってくれると言っただけでも十分優しいのはわかったが。
希望は口を引き結びながら高斗を見上げた。
「聞いてくれますか?」
高斗はほっとしたように微笑んだ。
この人には聞いて欲しいと、そう思った。が、途中で思い返す。
あの凄惨な出来事をきっと誰でもいいから誰かに聞いて欲しかったのだと、希望は思った。
***
「あたし、両親と一緒に車で浅間研究都市に向かってたんです」
希望はぽつぽつとしゃべり始めた。
「あの、山内さんて大宮に縁のある人ですか」
言いにくそうに希望が口ごもった。
「仕事上縁があるっちゃあるが、そんなに行ったことねえなあ」
高斗が仕事でよく行くのは、奥多摩研究都市とつくば研究都市だ。奥多摩は、「海の古都」と言われる東京にある。地球温暖化の影響で今は多くが海に沈んでいる東京の中でも、奥多摩は緑が残っている場所だ。そこに滞在することも多いが、主につくばを拠点として生活している。
実家はない。高斗に両親はいない。小さい頃に砂漠の鉄砲水に流されて亡くなった。
「ーー大宮は、もう終わりです」
希望は小さな震える声でそう呟いた。
「終わり?」
希望は頷く。
「失敗したんです。ホモ・サピエンス繁殖計画に」
「繁殖計画?」
なんだそれは。初めて聞いた。
疑問が顔に出たのだろう、希望は説明してくれた。
「ホモ・サピエンスは貴重な種です。計画的に繁殖させなければならないそうです。だから人々のDNAを研究してました。強靱なDNAを持つ者、繁殖に有利なDNAを持つ者。それらはより貴重です。その為、強い者はより強い者とつがわなければならなかったそうです。そして価値のあるホモ・サピエンスは何人もの妻を娶ることができる、いえ、娶らなければいけなくなったのです」
「それは、なんて言うか……」
ここは現代日本なのか?
数百年前から日本という国家は一夫一妻制だったはずである。大宮だけ法改正をしたのだろうか。それともお妾さん、愛人の類いでお茶を濁しているのか。
高斗は首を傾げざるを得ない。それは何か。競走馬の種付けのようなものか。
そこまで考えて高斗は気分が悪くなってきた。
人間だぞ?
希望はこちらを見ながら、こっくりと頷いた。
「一般の人には不快なお話ですよね。でも、こう考える人も多かったんです。『結婚相手に高学歴高収入高身長を求めるのと似たようなもんだ』と」
「まあ、似てるっちゃ似てるが……」
高斗は苦り切った。
でも、男女問わずハーレムを希望する人間もいるかもしれない。
本人が納得してるならアリなのか?
「ナシでした」
「おわっ!?」
思考を読まれたのかと思い動揺すると、希望は「口に出てましたよ」と微笑んだ。
「こんなこと、人権団体が黙ってるわけありません。人間の価値に値段を付けるな、と」
「まあ、そうなるよなあ」
高斗は気持ちを落ち着けようと、先程買った缶コーヒーに口を付けた。
「先日のオークションで、市長の息子の精子は十億の高値がつきました。ゲノム解析で、強靱なDNAが見つかったから」
「ぶはっ!」
若い女の口からさらりと「精子」などという単語が出てきたので、思わずコーヒーを吐き出してしまった。
げほげほと咽せながら、高斗は数年前に立ち寄った大宮研究都市のことを思い出す。
そういえば、他の地域と比べて貧富の差が大きかった気がする。
「でも、だからって大宮が終わりってことにはならないだろ。元通りの生活をしてまた別の研究を始めればいい」
すると、希望は悲しそうに俯いた。
「もう、遅かったんです」
「なんでだよ。胸くそ悪い研究だったし、失敗して良かったんじゃないか? それにどこの都市も様々な研究に取り組んで失敗してはまた別の研究を……」
「テロが起きます」
高斗は息を飲んだ。希望は続ける。
「というか、もう始まっています。大宮の政庁はまだ無事ですが、研究者とその家族には死者が何人も出ています」
そんな事件が起きていたとは知らなかった。奥多摩から越谷までの間を車で通り過ぎているだけでは全く気づかなかった。
高斗が眉を寄せていると、希望は膝の上の手をぎゅっと握った。
「あたしたちは、すんでのところで逃げましたが」
「あー……」
なんで気づかなかった。
高斗は己を殴りたくなった。
インターハイに出たと聞いた時、気づいたはずじゃないか。彼女は富裕層だと。
「えっと、胸くそ悪いってのは言葉のあやで……どんな研究でも真剣に取り組んでいたものが失敗すれば辛いよな」
なんとかフォローしようと必死に言葉を選んでいると、ふいに希望の目から涙が零れた。