「希望!」
 草に足下を取られながら、林の中を駆けていく希望の腕をやっとのことで掴んだ。希望が逃れようと腕を振り回す。
「落ち着け!」
 高斗は希望を地面に押さえ込んだ。そうでもしないと、希望の腕力には叶わないと知っている。
「なんで逃げるんだ」
 仰向けの希望の上に跨がって、高斗は詰め寄った。腕を振り回さないように、両手首を地面に押さえつける。希望は倒されて呆然とこちらを見ていたが、やがて涙目になった。
「それはこっちのセリフだよ!」
 希望が叫んだ。
「なんでこんな所にいるの!?」
「なんでって、俺も浅間に住む予定で……」
「え?」
 希望がきょとんとする。高斗は説明を始めた。
「瞳が。和哉に脅さ……誘われてこっちの研究所に来ることになって。でもあかりが臨月だから俺が先に」
 その説明で間違っていない、そう思ったのだが。
 希望の目から感情が消えた。
「そっか。引っ越しなんだね」
 希望の抵抗する力が弱まったので、高斗も押さえつけていた手首の力を弱めた。希望が高斗の体をすり抜けるように半身を起こした。
「じゃあ、元気でね」
 立ち上がりかけた希望の腕を慌てて掴んだ。
「待てよ。なんでそこでお別れの挨拶なんだよ」
 希望の両肩を掴む。希望は目線を逸らした。
「だって、もう会うこともないでしょう?」
「だから、なんでだよ」
 希望は顔を上げた。そして、こちらをキッと睨み付けた。
「あたしみたいなのと一緒にいるの、気持ち悪いでしょう!」
 そう叫んだと同時に、希望の目から涙がこぼれ落ちた。
「なんでだよ!」
 高斗は希望の体を抱き締めた。逃げられないようにきつく。
「離し……」
「離すか」
 希望はしばらく腕の中で抵抗していたが、やがて諦めたように力を抜き、高斗の胸の中に収まった。
「なんで……」
 希望の口から言葉がこぼれ落ちる。
「一緒にいたいからだ」
 高斗は希望の髪に顔を埋めた。抱き締めている体がかすかに震えた。
「でも、あたし、気持ちわる……」
「気持ち悪くない。好きだ」
 言葉を途中で遮って、唇を己のそれで塞いだ。何度か舌を絡めてお互いの息が上がってきた頃、高斗はそっと希望の体を横たえた。
「待って!」
 希望が腕を突っ張って高斗の体を拒否した。
「そんなには待てない」
 希望の髪に触れながらそう言うと、希望はおどおどとした表情で呟いた。
「あたし、ホモ・サピエンスじゃないんだよ……?」
 高斗は微笑んだ。
「どうでもいい。お前がお前なら」
 希望の腕から力が抜けた。その腕に、そっと口づける。
「お前のことが好きだ」
 そして、彼女の体を求め始めた。

   ***

 おぎゃあ、おぎゃあ、と赤ん坊の泣き声が聞こえる。
 瞳は座布団から慌てて腰を上げた。
 襖を開けると、中から産婆が出てきた。
「おめでとう。予定日よりちょっと早かったけど、元気な男の子だよ」
 瞳はその腕に抱かれる赤ん坊をまじまじと見た。そして、慌ててその奥に横たわる妻に目をやる。
「奥さんも、元気だよ」
 産婆にそう言われるまでもなく、あかりはぐったりした様子ながらも、こちらを見て微笑んだ。瞳は妻の側に行き、その手を取った。
「よく頑張ったな」
 あかりは嬉しそうに笑う。
「うん。ちょっと辛かったけど、あかりさん頑張っちゃったー。昨日浅間に行かなくてよかったね。車の中で産気づくとこだった」
 日が昇ってきた。室内にまぶしい光が差し込んでくる。
 産婆がこちらに近寄ってきた。
「奥さんよく頑張ったわねー。この子、こんなに大きいもの」
 そう微笑んだ後、少し首を傾げた。
「でも不思議ね。とても軽いわ」

   ***

「高斗。夜が明けちゃうよ」
 寝転びながら抱え込んだ希望が、もぞもぞと動いた。
「ああ。服着るか」
 だるい体を起こす。体はだるいが、気力は漲るようだった。
 希望ものろのろと起き出した。
 着替え終わった後、希望は膝を抱えて動かなかった。
「どうした?」
 高斗が髪を撫でてやると、希望はぎこちない笑顔を作った。
「あたし、帰らなきゃ」
 自分の顔が一瞬で強張るのがわかった。
 そうだ、わかっていたはずだ。
 自分は希望に会いに来た。
 そう、会いに来ただけだ。
 希望はこれからネアンデルタール人である真紀と夫婦になる。その後は、体外受精でネアンデルタール人の遺伝子を持つ子供をたくさん作っていく。
 それが、希望のたいして長くないだろうこの先の未来。
 そんな彼女の側にただ、いたかった。
「……欲が出てきた」
 高斗は膝の間に顔を埋めた。
「欲?」
 希望がこちらを覗き込んでくる。高斗は顔を上げた。
「お前を誰にも渡したくない」
 その言葉に、希望は一瞬だけ嬉しそうに頬を緩めたが、すぐに寂しそうに笑った。
「でも、あたし戻らなきゃ。人類を絶滅させるわけにはいかないもの」
 高斗はその顔をじっと見つめ続けた。
 多分。希望はもう決心している。
 自分の遺伝子で人類を滅亡の危機から救おうと。
 一緒に逃げないかと誘っても、きっと断るのだろう。
 ならば。
「なあ。俺を和哉に会わせてくれるか」

   ***

「松山さん、申し訳ありません。至急来てください」
 その電話が入ったのは、あかりが出産してから半日と経っていない昼頃のことだった。
「今すぐにか」
 相手は瞳が妻の出産に立ち会っていたと知っているはずだ。それでもなお電話を寄越すくらいなのだから、今すぐなのだろう。それでも確認したくなる気持ちにはなった。
「瞳くん。あたしは大丈夫だよー。産婆さんたちもいるし。お仕事行ってらっしゃーい」
 あかりが呑気な様子で手を振る。瞳は苦笑した。
 女のほうが度胸が据わってるな。
 瞳は「早めに戻る」と言って、家を出た。
 残されたあかりは赤ん坊を抱いてそのぷにぷにした頬をつついた。そして微笑みながらひとりごちた。
「大丈夫。大丈夫だよ。ネアンデルタール人にされちゃっても、あたしたちの大事な子だからね」

「お、これはどうしたってんだ」
 瞳は目を見開いた。
 研究所内のハウスの中。研究していた植物が今にも溢れようとしていた。
 部下の一人が泣き笑いをしながら悲鳴を上げた。
「どうしたもこうしたも。松山さんが交配した、竹と矢車菊からできた植物、やばいっすよ」
 その植物は、音が聞こえてくるくらいにょきにょきと目の前で成長をしていた。
「こりゃ、一日で三十センチは伸びますね」
「真空パックで良かった……」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
 瞳はハウスの天井を見上げた。一週間もしないうちに天井にまで届くかも知れない。
 高斗にやったのは、この苗だ。

   ***

「お、お前だけ先に来たのか」
 研究所の応接室で、和哉は高斗を迎え入れた。
 希望は和哉と高斗を引き継ぐと、発信器を首に埋め込む手術に向かった。
 本当はそんなものを希望の体に埋め込みたくはないのだが、希望が拒否しないものを自分がどうこうできるはずもない。
「久しぶりだな」
 高斗は進められたソファに腰を下ろした。和哉が胸ポケットから煙草を取り出した。
「で、なんだ、話って。手短にお願いしようか」
「俺をネアンデルタール人にしてくれ」
 和哉の手から煙草が落ちた。
「手短過ぎだ」
「お前がそう言ったんだろ」
 高斗は和哉を見据えた。その瞳に全く臆することもなく、和哉は見つめ返してきた。
「なんでだ、と言いたいところだが、理由はわかる。希望の番いになりたいのだろう」
 無言で頷くと、和哉は呆れたように肩をすくめた。
「たかが女一人の為に、ホモ・サピエンスであることを捨てるのか」
「そうだ」
「ははは。これは面白い」
 和哉は全く面白くなさそうに笑い声を上げた。
「その純愛に免じてお前をネアンデルタール人にしてやろう、と言いたいところだが、不可能だ」
「なんでだ」
 最初は断られるだろうと思ってはいたが、「駄目だ」ではなく「不可能だ」というのは何故か。
 和哉はかわいそうなものを見る目で話し始めた。
「お前は知らないんだな。残念ながらな。生まれてからのネアンデルタール人の遺伝子注入で成功したのは、真紀一人だ。現在は、全て受精卵の段階で操作をしている」
「そうなのか……?」
 高斗は目を見開いた。顔が赤くなるのを感じる。自分の無知を恥じた。
 ネアンデルタール人になりさえすればいいものだと簡単に思っていた。
「そうだ。だからお前はもう生まれてるからネアンデルタール人にはなれない」
「でも、真紀は成功しているんだろう? ならもしかしたら俺も……」
「バカが。貴重なネアンデルタール人の遺伝子を、失敗必至な実験になど使えるか」
 一笑に付され、高斗は唇を噛んだ。
「まあ、体外受精でお前の精子を使うくらいのことはしてやる。それで諦めろ」
 和哉が立ち上がる。
「じゃあ、これで話は終わりだな。俺は明日の準備に向けて忙しいから失礼するぞ」
「待て!」
 高斗は立ち上がった。
「どうしても、ネアンデルタール人の子供が必要なのか?」
 和哉は眉を顰めた。
「それは、もちろん」
 高斗は唾を飲み込んだ。前々から心のどこかで思っていたことが顔を覗かせてきている。言っていいものかわからない。けれど。
「ーーこのまま、人類が緩やかに滅びるに任せるってのは、駄目なのか?」
「駄目に決まっている!」
 和哉が応接セットのテーブルを蹴倒した。高斗は突然怒りだした和哉に面食らった。
「お前は! 自分が何を言っているかわかってるのか? 人類が滅びるだと? それじゃあ今まで犠牲になってきたホモ・サピエンス達はどうするんだよ!」
 そのあまりの興奮の仕方に、高斗は返って冷静になった。
「それは、もう返ってこないから仕方ないだろう?」
「仕方なくない!」
 和哉の胸元から、何かが投げられた。
「いてっ……て、なんだ、これ」
 高斗はキャッチした手のひらの中のそれを広げて見つめた。
 骨壺?
「それは、俺の子供だ」
 ぜえぜえと肩で息をしながら和哉が答えた。高斗は和哉を見つめた。
「お前、子供いたのか」
 和哉は自らを落ち着かせるようにソファの背もたれに手をついた。
「ああ。本当は被検体になんかしたくなかった。失敗続きなのは知っていた。けど、あいつらが『ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交配種を作るしか、ホモ・サピエンスに残された道はない』って無理矢理……!」
 高斗は口を噤んだ。和哉はしばらく俯いていたが、そろりと顔を上げた。
「お前、さっき、人類が滅びればいいって言ったな?」
「滅びろとまでは言ってな……」
「俺は、ホモ・サピエンスは滅びればいいと思っている」
 高斗は和哉の顔をまじまじと見つめた。
「どうせ脆い人類なんだよ、ホモ・サピエンスは。豊富な水がなきゃ生きていけない。俺も、お前もな。けど、ネアンデルタール人は違う。水が少なくても生きていけるんだ」
「だから、か」
 おかしいとは思っていた。いくらホモ・サピエンスより肉体的知能的に優れているとは言え、所詮同じ人類だ。必死になって研究しても同じく絶滅の一途を辿るのではないか、そう心の隅で感じていた。
「その子はな」
 和哉が高斗の手の中の骨壺を差した。
「一年ほどネアンデルタール人として過ごした」
 和哉は暗く笑った。
「ネアンデルタール人は生き延びなければならない。俺の子供の同胞が生きていれば、それは俺の子が生きているのも同じだ」

   ***

 手術は一時間ほどで終わった。
 希望は首筋に手をやった。懐かしい感じがする。それはそうだろう、生まれてからずっと埋め込まれていたのだろうから。
 研究所の廊下を自室まで歩いて行く。
 これからどうなるのだろう。
 高斗はどうやら自分もネアンデルタール人になるつもりらしい。はっきりそう言われたわけではないが、「お前と添い遂げられるかも知れない」と言って和哉に会いに行った。
 そうなったら、いいな。
 自分の卵子が人類の未来の為に実験で使われても。高斗がずっと側にいてくれるならば。