高斗は目が覚めた。
 そして、すぐ不快になる。隣にあるはずのぬくもりがない。
「のぞみ……」
 床に敷かれた布団からのそりと上半身を起こす。希望はトイレだろうか。ぼんやりと暗い部屋の中を見回す。
「きゃっ!」
 襖を開けた希望が、小さな悲鳴を上げた。
「お、起こしちゃった?」
「大丈夫だ」
 高斗は手招きする。希望がおそるおそるといった体で近寄ってきた。
「早く」
 ぐいっと腕を引っ張ると、希望の体は高斗の胸の中に収まった。が、もぞもぞとその腕の中から逃れようとしている。
「どうした、寝るぞ」
 ぐいっと彼女を引き倒す。仰向けになった希望はそっと高斗に背を向けた。
「どうした……?」
 そのよそよそしい様子に不審なものを感じ、問いかける。希望は「なんでもないの」と呟いた後、「眠いだけだよ」と言って静かになった。

   ***

「真紀。集成センターは楽しめたか?」
 翌朝。結局集成センターの仮眠室に泊まった真紀は帰って来なかった。瞳は和哉と共にまずは真紀を迎えに行った。
「和哉さんが迎えに来たの?」
 真紀は不服そうに眉を寄せた。
「俺だってお前の身内だからな」
「そうなのか?」
 瞳は意外に思った。和哉も天涯孤独で瞳の家にいたものだと思っていたのだが、家を出てから縁者がみつかったということだろうか。
 真紀は苦笑した。
「違うよ。一緒に暮らしていただけ。私の血縁じゃないよ」
「一緒に暮らしていれば、家族みたいなものだ」
 和哉は軽くいなした。真紀は不服そうに口を尖らせた。
「大事な家族をよく砂漠に放り出せたもんだね」
「お前がこっち方面にネアンデルタール人の気配がすると言ったから、安心して帰ってきただけだ」
 真紀は反論する気も失せたようで、車に向かって歩き出した。
「和哉さん。浅間に戻るんでしょう? ネアンデルタール人はどうしたの」
 瞳は眉を寄せた。真紀も希望の生い立ちを知っていたということだろう。いや、彼はきっと元々希望を探しに来たのだ。砂漠で彷徨っていたのは、希望の後を追っていたのだろう。そして、同族の勘か、手がかりになりそうな高斗に出会い、うちに乗り込んできたのだ。
 和哉は真紀の頭をがしがしと撫でた。
「ちょ、何すんの!」
「よく逃げなかったな」
 和哉はにやりと笑った。瞳はいぶかしんで口を挟んだ。
「逃げる? なんでだ」
 和哉は真紀をちらりと見て、それから瞳を見た。
「浅間に戻ったら、こいつをネアンデルタール人と番わせる」
「は?」
 思わず真紀の顔を見る。真紀は顔を歪めていた。
「番わせるって、希望と真紀を結婚させるってことか?」
「まあ、かわいく言えばそんな感じだな。要するに子供を作らせる」
 瞳は混乱した。
「ま、待て。いったいどういうこと……」
「実験だ」
 和哉は立ち止まった。
「純粋なネアンデルタール人である希望とやらと、遺伝子操作でできあがったネアンデルタール人の亜種である真紀。子を成すことは可能なのか。そして、ホモサピエンスより強靱な個体ができるのか。もし可能なら、後は体外受精でネアンデルタール人の亜種を大量生産する。それからは、ホモ・サピエンスと子を成せるかの実験……」
「待て」
 瞳は額に手をつけた。
「それじゃあ、この二人はまるで子供を産む機械……」
「人類の為だ」
 和哉は真紀を顎でしゃくった。
「ちなみに、真紀の方はホモ・サピエンスとの交合、そして繁殖に成功している」
「は……?」
 瞳は真紀をみつめた。真紀はくしゃりと顔を歪めたあと、ぼそりと言った。
「知らなかったんだよ。自分が遺伝子操作されて生まれたなんて」
 和哉は再び歩き出す。
「真紀は女の子として、女の園で育てられた。その園の中で我々が選んだホモ・サピエンスと交合してもらった。子供は無事生まれた。……まあ、母親は自分がネアンデルタール人の子を産んでしまったと知って発狂してしまったがな」
「お、お前らはいったい何を研究して……」
「純粋なホモ・サピエンスは早晩絶滅する」
 和哉は瞳の目を見据えた。
「人類が生き残る為には、ネアンデルタール人が必要だ」
 瞳は頭を抱えた。
「だからと言って、希望をそんな目に遭わせるわけには」
 ーー嘘だ。
 それはわかっている。
 人類の滅亡の前には、希望の処遇など軽いものだ。殺されるわけではない。むしろ子種として大事にされるだろう。
 けれど、高斗とはどうなるのだ。
 甘いとはわかっている。が、どうしても罪悪感が拭えない。
「松山って、豪快に見えて、かなり繊細だよな」
 そんなことを言われたのはつい最近だ。
 和哉は車に乗り込んだ。真紀も助手席に乗り込む。
「ほら、瞳も早く乗れよ」
 和哉が促すが、動けない。
 これから、希望を迎えに行くのだ。それはつまり高斗から希望を奪うことを意味する。
 じっと動かない瞳を見て、和哉はチッと舌打ちをした。
「お前の奥さんは、寝てるだけだ。そのうち目覚める」
 瞳は顔を上げた。何を突然言い出したのだろう。
 が、と和哉は続けた。
「さて、腹の中の赤ん坊は母親が目覚めるまでもつかな」

   ***

「あれ? 瞳」
 高斗は車に乗り込む直前、遠くに家族と言える友人の姿を見つけた。希望はお手洗いに行ってから来ると言っていた。
 瞳は無言で手を上げた。その表情は険しい。
 なんなんだ、どいつもこいつも。
 高斗は眉間に力が入った。
 希望もどこかよそよそしい。最初は恥ずかしがっているのかとも思ったが、どうもそんな雰囲気ではない。
 何かに怯えるようにしているのだ。
「……希望はどうした。一緒じゃないのか」
 瞳は目を眇めてこちらの様子を窺った。
「トイレに行ってるだけだ。すぐ来るぞ。……と、来た」
 言うが早いか、瞳は駆け出した。希望に向かって真っ直ぐに。
「おい、どうした……」
 高斗は目を瞠った。
 瞳が希望の口を何か布のようなもので覆ったのだ。
 希望はかくりと力なくへたりこんだ。その体を抱えて瞳は今来たほうへ走り出す。
「おい、何やってんだ!」
 高斗が瞳に駆け寄ろうとしたその時だ。
「ぐはっ!」
 希望が腕を突き上げて瞳の顎を押さえた。そのまま鳩尾に拳を入れる。
 瞳の力が緩んだところでその腕の中から逃げ出した。しかし、少しふらふらしている。何か薬品をかがされたのだろう。
「……さすがネアンデルタール人は薬品耐性もすごいな」
 後ろから聞こえた声に振り返る。
「かずや……?」
 久しぶりだな、と懐かしがっている場合ではなかった。和哉は胸元から煙草のような物を取り出し、希望向かって投げつけた。
 それを希望は片手で止めた。
「チッ」
 和哉が舌打ちし、腰から銃を取り出す。
「やめろ!」
 高斗は和哉の腕をはたいて銃を取り落とさせた。その間に、希望は森の奥へと走って行く。
「真紀! 捕まえろ!」
 少し後ろに立っていた真紀は、気が進まなそうに顔を歪めたあと、希望のあとを追った。
「いてえよ! 離せ!」
 和哉が喚く。が、離せるわけがない。
「なんなんだよ、お前ら! いきなり来て何やってんだよ」
 腕をねじり上げる。和哉は咽せながら高斗を見た。
「説明してやるから、とりあえず手を緩めろよ」
 高斗は手を緩めた。和哉はげほげほと咳をしてその場にへたりこんで胡座をかいた。
「くっそ。お前昔っからそうな。普段弱そうにしてるくせに、いざとなると容赦ねえ」
「お前がいきなり意味不明なことをするからだろう」
 見下ろしながら高斗は言った。顔を上げると、瞳がぼんやりとした表情でこちらを見ていた。
「瞳。お前も、なんなんだよ」
 瞳はのろのろとこちらに近づいてきた。
「すまん」
 頭を下げられた。
「すまんで済む話じゃ……」
「希望をこちらに寄越してくれ。そうしないと、俺の子供の命がない」

   ***

「大丈夫ですか、お嬢様」
 森の中に駆け込んですぐ。希望は女将に手を引かれ、防空壕のような場所に連れてこられた。
「だいじょ、けほッ、だいじょぶ、です」
 咽せながら希望は答えた。薬が効いているのか、喉が痛い。
「やはり、迎えが来ましたね」
 女将は穴の外を見るように目を眇めた。希望は無言で頷いた。
「あたし、本当にホモ・サピエンスじゃないんですか……?」
 まだ信じられない。確かに日本人にしては色素の薄い髪の色と瞳の色をしてはいたが、これは西洋の血が混じっているのだろうかというくらいのレベルだった。背も通常の女性よりは高いが、モデルの世界には自分より背の高い女性などいくらでもいる。
 縋るように女将を見るが、女将は寂しそうに微笑んで頷いた。
「ご両親はお嬢様は普通のホモ・サピエンスの子供だとしてお預かりになったんですけどね。あの神社に来られた時に真相を明かされて。かなり戸惑ってらっしゃいましたね」
 それはそうだろう。
 自分でもまだ信じられない。
 自分が数万年前に生を受けたネアンデルタール人だなどと。
 昨夜、女将に聞いた時はいまいち実感が沸かなかった。が、女将の「お嬢様を狙う人間が出てくるかも知れません」という言葉が今現実になったのだ。信じるしかない。
「あたし、これからどうしたら」
 もうどこにも戻れない。瞳に狙われたのだ。
「申し訳ありませんが、それはお嬢様がお決めになってください」
 女将は申し訳なさそうに答えた。
「ただ、私はお嬢様に手荒な真似をする輩からはお守りしますよ」
 どうするの?
 希望は息が止まっていたことに気づいて深呼吸をした。
 希望は狙われている。
 が、命を狙われているのではない。むしろ逆だ。研究者達は希望が死なないように最大限の努力をするのだろう。貴重な実験体だから。
「お前は人類の希望だよ」
 あの時の声が響く。
 自分の人体が人類の役に立つということだ。
 このままこうして逃げ隠れていても、何も始まらないんじゃないの?
 ホモ・サピエンスはこのまま絶滅してしまうかもしれない。ネアンデルタール人の強靱な肉体を手に入れなければ。
 でも、どんな扱いを受けるのか、全くわからない。それが怖い。
 希望の脳裏に高斗の顔が浮かぶ。
 もう会えないのか。それとも実験体でも人と会うくらいの自由はあるのか。
 ほんの数時間前まで思っていた。
 高斗と結婚して、子供を産み、孫ができて。
 とんでもなかった。ネアンデルタール人の希望とホモ・サピエンスの高斗の間では子を作ることができるかすらわからない。
 希望は顔を覆った。
 出会わなければ良かった。
 砂嵐に巻き込まれた時、熊鷹に喰われて死んでしまえば良かった。
 それが無理でも、高斗に出会う前に、浅間の研究所の人間に捕まってしまえれば良かった。そうすれば、何をされるのかという恐怖以外の未練はなかった。
 希望は顔を上げた。
「ここにいても、いつかみつかりますよね」
 逃げ回っていても、高斗との望んだ未来はもう来ない。
 それならば。
「あたしが人類を絶滅の危機から救えるのならば」
 行こう。

   ***

 高斗はしゃがみこんだまま動けなかった。
「おい、俺は説明したからな。だから希望を貰っていくぞ」
 そうして車に乗り込む。思い出したように窓を開けて瞳に向かって言った。
「お前の子供はまだ生きてるだろうよ。あと、一日くらいはな」
 瞳は項垂れた。
 あかりがすぐに目を覚まさなければ、腹の中の赤ん坊への栄養が行き届かなくて死んでしまう。
「俺もすぐ捜索に加わる。ちょっと高斗と話したいだけだ」
 瞳はそう告げると、去って行く車を見送った。高斗の前に腰を下ろす。
「すまん。俺の子供の命がかかってるんだ。希望はなんとしても和哉の許に連れて行かねばならん」
「……希望はどうなるんだよ」
 なんとか絞り出してそれだけ言う。瞳はわずかに言い淀んだ。
「悪いようにはしない。だってそうだろう。貴重なネアンデルタール人なんだから。俺も浅間研究都市に一緒に行くことになったし、安心しろ」
「嘘をつくな! じゃあなんでさっきあんな手荒な真似をした」