「希望が、ネアンデルタール人なのか……?」
 和哉はほっとしたように息をついた。
「のぞみというのが誰だかわからないが、お前がそうと思ったならそいつだろう」
 瞳は希望とのこれまでを思いだした。
 初めて見た時、おかしいと思った。
「これは普通のホモ・サピエンスではない」と。
 瞳は生物の遺伝子組み換えやゲノム解析を研究している。もちろんホモ・サピエンスは対象ではないが「ある生物が通常と異なっている」という感覚は人一倍鋭い。
 それに、あの青い花。希望が眠っていた時にエゾナキウサギが運んできた矢車菊。
 ネアンデルタール人の遺体には、スナネズミがコットンフラワーを運んでくるという言い伝えがある。真偽のほどはわからないが、ネアンデルタール人の骨の周りからコットンフラワーの花粉が多数出土された例がある。
 瞳は額を押さえた。
 ネアンデルタール人が現在に生きているはずはない。が、生きているとすれば、自分の周りでは希望くらいしか思いつかない。
 そこでもうひとつの疑問に辿り着く。
「ちょっと待て。真紀もそうなのか?」
 真紀には何も感じたことはない。ただひとつ、熱を出した日にコットンフラワーを纏っていたことを除けば。
 和哉は口の端を上げた。
「さすがの遺伝子研究第一人者のお前でも、真紀には気づかなかったということか。まあそうだろうな。真紀のほうがネアンデルタール人には遠いからな」
 瞳はうろたえた。一つの仮定に辿り着いて。
「お前たちの研究って、ホモ・サピエンスの遺伝子操作か?」
 和哉は満足そうに「正解だ」と呟いた。

   ***

「では、ゆっくりお休みくださいませ」
 女将が出て行くと、高斗は希望と部屋に二人きりになった。旅館らしく用意された浴衣を身につけている。
 布団が並べて敷かれている。
「寝るか?」
 高斗が声を掛けながら隣を見ると、希望が緊張した面持ちで固まっていた。
 高斗は希望の頭にぽんと手を乗せた。希望がぎくりと肩を震わせた。
「今日は疲れたろ。もう寝ろ」
 できるだけ平坦な声を作ってそう促すと、希望はきょとんとした。
「ね、ねるの?」
「そりゃ夜は寝るもんだろ」
「そ、そうだけど……」
 希望は釈然としない様子である。
 それはそうだろう。その理由はわかっている。
 恋人同士で旅館のひとつ部屋に泊まっていて、ただ眠るだけとはありえないだろう。倦怠期の恋人同士ではないのだから。
 でも高斗としてはこんななし崩しに希望を抱いてしまうのは気が引けた。今日はそんなつもりはなかった。だからただ眠ろうと思ったのだが。
 顔を上げた希望の瞳が、その体から漂ってくるせっけんの匂いが、理性を壊しにかかっていた。
「のぞ……」
「あ、あの。あのね。あ、あたし、べ、べつに、そうなっても、いいよ?」
 どもりながら希望は訴えてきた。緊張しているのが嫌でも伝わってくる。
 くそ。人の気もしらないで。
「……んなこと言ってるとほんとに襲うぞ」
 希望は頬を真っ赤にした。
「も、もういい大人だし……」
 いい大人かどうかは年齢は関係ない。彼女はどう見ても初めて感を醸し出しているというのに。
 高斗は項垂れた。そして白旗を上げた。
「持ってねえんだよ……」
「え? 何を?」
 希望が身を乗り出して尋ねてくる。
 近寄るな! と叫びたい気持ちを抑えて、高斗は呻いた。
「避妊具。今日、そんなつもりなかったから、用意がない」
 だから、もうこれ以上俺を煽らないでくれ。
 そう思ったのだが。
「それ、ないと困るの?」
「は?」
 高斗は顔を上げた。希望は今にも泣きそうな顔をしていた。
「こ、子供。あたしにできちゃったら困る?」
 その言葉が引き金だった。
「ーー困らない」
 高斗は希望を抱き寄せた。
「ん……」
 口づけを交わすと、希望の口からあえかな声が漏れた。
 体をまさぐりながら何度か口づけを交わした後、高斗は唇を首筋に移動した。
「ん?」
 かさりと傷跡のようなものに触れた。
 これと同じものを、どこかで見たような覚えがある。
「なに?」
 ぼんやりとした瞳を希望がこちらに向けた。その瞳にさえ欲情する。
「なんでもない」
 思考することを途中で放棄し、高斗は希望の胸元を直にまさぐった。

 己の下で自分を受け入れてくれる女に、欲望を吐き出した時。
「知ってたらこんなことしなかった」
 いつかの誰かの言葉が脳裏に浮かんだ。
 知ってたらって、なんだ。知るか、そんなこと。
 高斗は希望の裸体を抱えて、そのまま眠りに就いた。

「お。起きたか」
 高斗は隣に横たわる希望に囁いた。
 まだ外は真っ暗だ。掛け時計を見ると、寝入ってから二時間ほどしか経っていないだろう。「お、おはよう……じゃないね」
 暗さに希望も気づいたようでくすりと笑う。そして、先程までの行為を思い出したのか、真っ赤になった。その顔を隠すように胸に顔を埋めてくる。
 高斗は希望の細い体を抱き締めた。
 くっそ、かわいい。
 髪に顔を埋めていると、希望が「くるしいよ」ともぞもぞ動いた。しぶしぶ腕の力を緩める。
「結婚しよう」
 高斗は呟いた。
「異論はないよな?」
「ないよ」
 希望が吹き出す。
 言葉はひどいものだったが、おどおどと窺うような表情になっていたのだろう。
「高斗の子供をほしがったのに、プロポーズ断るわけないじゃない」
「なら良かった」
 ほっとして高斗はごろんと仰向けになった。希望の頭の下に腕を入れる。
「帰ったら籍入れよう」
「スピード結婚だね。みんな驚くよ」
 こちらに寄り添ってくる希望が照れたように笑った。
「神社は、また今度でいいか?」
 昨日、いやまだ今日か。行く予定だった場所について聞いてみる。善は急げと言うから、今すぐにでも入籍したかった。人類が絶滅に瀕している現代社会では、いつ命の炎が消えるかわからないから、結婚は即時実行が常だった。
 希望の顔をそっと見ると、困ったような顔をしている。
「やっぱり行きたいのか?」
 尋ねると希望は眉を下げた。
「ごめん……」
 高斗は希望に笑いかけた。
「ばか、謝るな。俺が先走りすぎなだけなんだから」
「ありがとね」
 そう言うと、希望は眠そう目を擦った。
「まだ夜だからな。ゆっくり寝ろ」
 髪を撫でてやると、そのうち希望は安心したように眠りに入った。
 高斗もあくびをしてから眠る体勢に入る。
 その時は思っていた。
 このあと、希望と結婚してささやかだけれど幸せな生活が待っているのだと。
 子供ができて、孫ができて。そんな未来が普通に用意されていると。そう思っていた。

   ***

 夜も更けてきた。
 和哉は浅間行きの用意をするよう瞳に指示した。真紀がまだ帰ってこないのが気に掛かったが、集成センターにいるのだから心配はいらないだろうと思った。いやむしろ今日はあちらに泊まってきてもいい。いや、そうしてくれ、とさえ思った。
 真紀にどう接したらいいのかわからない。
 希望と高斗からは連絡があった。瞳も知っている旅館に泊まっているということだ。
 和哉にそれを知らせると、「じゃあ浅間に行きついでに回収するか」とこともなげに言っていた。
 希望も回収するとはどういうことだ。
 高斗のことを考えるとそのことが恐ろしくもあったが「むしろこの家を捨てて高斗も浅間に来ればいいだろう」と結論づけた。あまり多くのことを考えるのを脳が拒否したのだ。
 目をベッドに移す。そこには最愛の妻が横たわっていた。
 あかりはまだ眠っている。胸のあたりが規則的に上下している。和哉の話だと三日から一週間くらいは眠り続けるという話だ。あかりが生きているのは確かだったから、それを信じるしかない。
 荷造りが一段落すると、どんどんと疑問がわいてくる。
 ホモ・サピエンスの遺伝子操作は禁止されているはずだ。
 今から二百年近く前。
 ホモ・サピエンスの遺伝子操作が盛んになった時期があった。
 まずは受精卵の操作。そうして生まれた子供たちはデザイナーベイビーと呼ばれ多くの富裕層の間でもてはやされた。
 が、「デザイナーベイビーを誰の手にも」という運動から、技術的に未熟な医師や研究者によるデザイナーベイビーや、公的な認証を受けていない技術を使用したデザイナーベイビーが多く作出される事態になった。中には健康に育った者もいたが、多くは若いうちに亡くなっていった。これが世界的な少子化に繋がり、ホモ・サピエンスの個体数減少の一因となった。
 また、健康に育ったデザイナーベイビーの間でもその後問題が増えてくることになる。
 富裕層は富裕層同士で縁組みをすることが多い。そしてデザイナーベイビーの二世、三世が増えていった。その二世、三世もより発達した遺伝子操作の技術をもってデザイナーベイビーを作っていくことが多かった。
 が、ある年。人類が根絶したはずの天然痘が再び世に姿を現したのである。
 何故再び出現したのかは、実は根絶されていなかった、バイオテロによるもの、など諸説あったが、確実にはわかっていない。確実にわかったのは「デザイナーベイビーが天然痘に感染すると致死率百パーセント」ということだ。天然痘に対する免疫遺伝子が、彼らには全くなくなっていたのだ。
 これがただでさえ環境問題で減っていたホモ・サピエンスの個体数現象を大幅加速させた。 その為、ホモ・サピエンスの遺伝子操作は世界的に全面禁止とされた。中には病気の治療に効果のあった研究もあったのだが。
 環境問題、飢餓、戦争、遺伝子操作、その他諸々。
 それらが複雑に絡み合って、ホモ・サピエンスは絶滅危惧種となった。
 なのに。
 何故ネアンデルタール人にされたホモ・サピエンスがいるんだ?
 どう考えても、真紀と希望は遺伝子操作をされてネアンデルタール人にされたのだろう。
 ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスよりも脳の容量が大きく、体も強靱だったと言われている。ホモ・サピエンスと掛け合わせたら、劇的な進化を遂げるかも知れないと考えたのだろう。二人は人体実験の犠牲になったわけだ。
 元々、ホモ・サピエンスの数パーセントはネアンデルタール人の遺伝子を持っているとされる。だから多少持っているホモ・サピエンスを集めた、というだけではネアンデルタール人とは言わないだろう。そして、どうやら真紀と希望の間の差を鑑みるに、希望の方がより多くの遺伝子操作をされているのだろう。
「かわいそうに……」
「どこがだ?」
 ぎくりとして瞳は振り返る。そこには紫煙をくゆらせた和哉が立っていた。瞳は眉を寄せた。
「ホモ・サピエンスの未来の為に、ネアンデルタール人にされたことだ」
 和哉はポケット灰皿に煙草を押し込んだ。
「違うな。それは二つの意味で」
「どういうことだ」
 和哉はその場にどかりとあぐらをかいて座り込んだ。そのぞんざいさが、どこか昔に返ったような気にされ、瞳は不快になった。
「ひとつは、『ホモ・サピエンス』の為じゃない。『人類』の為だということだ」
「同じことだろ、と、待て」
 瞳は何かが引っ掛かった。
 自分で心の中で言った台詞に。「ネアンデルタール人にされた」と。
 つまり、彼らはもはや「ホモ・サピエンス」ではない、と。
 ホモ・サピエンスが滅びても、別の「人類」が生き残れるようにと。
 そういうことか?
 瞳は顔を上げて和哉を見た。顔は青ざめていたかも知れない。
「で、ふたつめだ」
 和哉は話を続けた。
「希望に関してだけ言えば、かわいそうなことなど何もない。むしろ研究者達に感謝して欲しいくらいだ」
「なんでだ」
 和哉はふっと遠い目をした。
「希望は、数万年前にこの世に生を受けたネアンデルタール人だ」
「ーーは?」
 和哉は「正確には違うか」と訂正した後、瞳をみつめた。
「シベリアの永久凍土の中から発見された女性のネアンデルタール人の腹の中に、臨月の胎児が宿っていた」
 瞳は目を見開いた。
「まさか……」
「そのまさか、だ。その胎児を取り上げてこの世に誕生させたのが、研究者たちだ」

   ***