「暑くないか、希望」
 車は水辺の浅間神社に向かっている。
「んーん。大丈夫だよ」
 何の気なしのふうを装って希望は答えた。
「やっぱり砂漠の中のオアシスより森林のほうが涼しいね-」
「そうか? けっこう汗出てるぞ」
 信号待ちで高斗が希望の額に軽く指先で触れる。
「え、エアコン入れよっか」
「だな」
 エアコンの風が出てくるまでの間にこの汗が収まりますように。
 希望は窓の外をちらっと見やる。
 熊鷹の群れだ。
 都市から離れれば離れるほど熊鷹は増えてくる。
 しかも、向かう先は熊鷹が大量死した場所だ。何故向かおうと思ってしまったのか。
 今更後悔がわいてくる。
 それなら高斗にそう言えばいいだけの話。きっと高斗は車を家に戻してくれる。
 でも。
 何故か、向かわないといけない気がしたのだ。
 ねえ。もしかして。
 希望は心の中で問う。
 お父さんとお母さんが向かおうとしたのは、浅間神社だったんじゃないの?
 だとしたら納得がいく。砂嵐で方向感覚がなくなったのではない。大宮から車は確かに越谷方面に向かっていたのだ。浅間研究都市ではなく。
 思い返せば、両親はずっと浅間研究都市に行くことを嫌がっていた。あの日暴徒が家の前を囲んだ時も「あさまに行く」と行っただけだ。希望が勝手にあさまと言えば伯母夫婦のいる都市だと思っただけで。
 ならば、行かなければ。
 希望は膝の上できゅっと手を握る。
 車がスピードを落とした。道路脇に止まる。
「あれ? 休憩?」
 希望が横を振り向くと、高斗が心配そうな顔をしてこちらを見ていた。
「……無理、してるだろ」
「え」
 すっと高斗の腕が伸びてきて抱き寄せられた。
「行きたくなくなったんなら、帰ろうって言えばいいだけなんだぞ」
 お見通しだった。でも希望はかぶりを振った。きゅっと高斗の背中に手を回す。
「ありがとう。行きたくなくなったのもあるんだけど、行きたくもなったの」
「なんだ、それ」
 高斗が場を和ますように笑った。
 希望は高斗の肩に顔を埋めたまま呟いた。
「あのね。もしかして、あたしたち浅間研究都市じゃなくて、水辺の浅間神社に向かってたんじゃないかなって思うの」
「あー、なるほど」
 特に驚いたふうもなく、高斗は答えた。
「おかしいなと思ってたんだ。あの後伯母さんちに連絡取ってたふうもなかったから。普通来るもんが来なきゃ心配するだろ。元々行く予定じゃなかったんだな」
「あ、そっか」
「そっか、じゃねえよ」
 こつんと軽く頭を叩かれた。高斗が深いため息をつく。
「こっちはいつ伯母さんの迎えが来るか、気が気じゃなかったっつうのに」
「迎えが来たら困るの?」
 からかうように笑いながら顔を上げる。けれど、高斗の表情は真剣だった。
「困るに決まってんだろ。ーーもう離したくない」
 希望を抱く腕に力が入った。希望もぎゅっと高斗を抱き返す。
「すき」と呟いて、高斗の頬にキスをした。

   ***

「真紀は出掛けている、と」
 和哉は特に驚いた様子もなく茶を啜った。
「すまんな。集成センターに見学に行っているだけだ。夕方には戻ってくる」
 すると、和哉は胸ポケットから煙草を取り出した。
「吸うのか? 裕福だな」
 煙草は高級品である。瞳の経済レベルでは手が出ないこともないが出そうとは思わない金額だ。
「あ、すまん。吸ってもいいか?」
 瞳は苦笑いした。
「遠慮して貰えると助かる。妻が妊娠中なんでな」
「へえ。結婚したのか」
 和哉は驚いたように目を丸くした。瞳は「あれだ」と庭に目をやった。
「もしかしてあれ、あかりか? 俺が知ってるあかりは幼児だったが」
「幼児はオーバーだろう。十年前は既に小学生だった」
 和哉は立ち上がった。
「あかりじゃやりにくいが仕方ないな……」
 煙草が手の中から放たれた。
 次の瞬間、あかりがその場にくずおれた。
「お前! 今、何を……!」
 あかりの元へ走り出しそうになる瞳の腕を和哉は掴んだ。
「大丈夫だ。眠ってるだけだ」
 和哉は煙草の形をした超小型銃を見せた。ぎり……と唇を噛む瞳を、和哉は表情のない目で見た。
「ただし、このまま一生起きないかもしれないけどな」

   ***

「嬉しいよ。君みたいな若い子に興味持ってもらえて」
 集成センターの所長は歩きながらにこにこして真紀に語った。
 ここはセンターの地下にあるデータ室。先程まで熊鷹の死骸を観察させて貰っていた。
 真紀はにっこり笑ってお辞儀をした。
「ありがとうございます。でも、こんなに中まで見せていただいてもいいんですか?」
 所長は笑った。
「いいんだよ。研究は全てのホモ・サピエンスに開かれていなければならない。昔は功を焦った学者たちが己の研究を隠していたらしいが、そんなことをしていたら研究スピードが絶滅に追いつかなくなってしまう」
 一台のディスプレイの前で所長は立ち止まる。
「君はこれから浅間研究都市に行くんだろう? そこで役に立つ研究があったら、どんどん吸収していきなさい」
「はい」
 真紀はゆっくりと答えた。
 データが映し出される。
「これが、さっきの熊鷹一号の遺伝子データ。こっちを押すと第二号のデータが見られる」
 真紀はキーボードを器用に操った。
「所長。お電話です」
 白衣を着た男性がドアを開けて声を掛けてきた。
「今行く。真紀くん、私はそこで電話をしているが、ゆっくり見ていきなさい」
 さすがに真紀一人をここに残すことはしないようで、所長はその場でスマホを手に取って電話の転送処理をした。
 真紀は軽くお辞儀をしてディスプレイに向き合う。
「やっぱりね」
 ひとつひとつの遺伝子配列を確認しながら真紀は独りごちた。
「進化じゃないよね。遺伝子操作されてる」
 手をすっと首筋に持っていく。そこに残る傷跡を撫でた。

   ***

 湖が近づいてきた。
 希望は窓の外の空を眺めた。
 出てくるときは晴れていたが、神社が近づくにつれ曇ってきた。が、それと同時に熊鷹も見えなくなってきたので希望には好都合だった。
「せっかく来たけど、こりゃ雨に降られるかも知れないな」
 高斗もガラス越しの空を見ていた。
「ん?」
 隣の高斗が小さな声を上げた。ブレーキを踏み、路肩に車を寄せた。
「なに……」
 その瞬間、大きな音が空から落ちてきた。雷だ。
「うっわ、やべえ。今の近かったな」
「う、うん……」
 雷なんてテレビで見たことはあるが、実際に間近で見たのは初めてだった。がくがくと震えてくる。高斗がちらりとこちらを見た。
「このあたり、雷多いんだよ。大宮はオアシスの中にあるから雷とかあんまりなかったのか?」
「はじめて、かも。実際に雷見たの」
「そうか……っと」
 ガシャーンとまた雷が落ちた。
 と、急に雲が厚くなり辺りが暗くなってくる。ぽつりぽつりと落ちた雨が、土砂降りになるまでに、いくらもかからなかった。
「こりゃ、ワイパーもきかねえ。前が見えない」
 雨は危険だ。
 このあたりは森林だから大丈夫かもしれないが、砂漠で大雨が起きると鉄砲水になる。高斗の両親もそれで命を落としたと言っていた。
「ねえ。神社はまたあとでいいから、とりあえずどっか避難しよ……」
 希望は神社に後ろ髪を引かれながらも高斗にそうお願いした。雷も大雨も慣れていないので怖い。
「ああ。そうだな。大丈夫。このあたりすぐに確か宿屋があったから」
 高斗が交差点でUターンした。
 途中で横道に逸れて一本道をひた走る。その宿屋まで一分もかからなかった。
 宿屋というから古びた建物を想像していたが、そこは真新しい二階建ての旅館だった。
 駐車場に乗り入れる。入り口までは遠い。
「傘持ってくれば良かったかー」
「仕方ないよ。走ろ」
 入り口に着くまでに、二人はびしょ濡れになっていた。高斗が庇ってくれたので希望の方が濡れ方は多少マシだったが。
「いらっしゃいませ」
 五十代くらいの女将が出てきて挨拶をする。
「あらあらずぶ濡れじゃありませんか。すぐにお風呂に入られたらいかがです」
 女将はタオルを持ってきてくれていた。
「一枚しかなくて申し訳ありません。すぐもう一枚持ってきますからね」
 高斗が受け取ると、すぐに希望に掛けてくれた。
「高斗が先に拭いていいよ」
 タオルを押し返す。すると押し返された。
 そんなやりとりを微笑ましそうに見ていた女将が懐から白いハンカチを出してこちらに向き直る。
「そちらのお嬢さんも、風邪引いちゃいますよ」
 ハンカチを持って差し出されたその手は、途中で止まった。
「あなた……」
 そう口を動かしたまま女将は絶句した。
「え?」
 希望は首を傾げる。何かおかしなところでもあるのだろうか。
 希望が女将の次の言葉を待っていると、女将ははっとしたように笑顔を作った。
「すぐもう一枚タオルをお持ちしますね」
 女将はすぐにその場から立ち去った。
「なんだ?」
 希望の頭をがしがし拭きながら高斗も首を傾げている。
「なんだろうね?」
 希望も女将の背中を不思議な思いで見送った。

   ***

「和哉。なぜこんなことを」
 ソファに腰掛け腕の中で眠るあかりを抱えながら瞳は和哉を睨みながら唸った。和哉は対面のソファに腰掛けながら胸ポケットから煙草を取り出した。咄嗟に警戒すると、「これは本物だ」と言って煙草をふかし始めた。
 妊婦への思いやりはゼロってことか。
 瞳は悟った。今の和哉は昔の和哉ではない。共に暮らし遊び、「人類の未来の為の仕事がしたい」と目を輝かせて語っていた和哉とは。別の人格として警戒して接しないといけない。 まだ吸える煙草をポケット灰皿にぎゅっと押し込むと、和哉は口を開いた。
「真紀と一緒にお前を浅間研究都市に連れて行きたい」
「は? それだけか」
 瞳は意外な思いで呟いた。
 瞳は遺伝子組み換え、ゲノム解析の世界では日本で十本の指に入る研究者とされている。自分を欲しがる研究都市が多いのも知っている。現に勧誘されたのはこれが初めてではない。が、身内を人質に取ってまで迫るようなことだろうか。
 確かに瞳はつくばでの研究を大事にしている。普通に言われても断る可能性が高いのは確かだが、まずは提案してみるのが尋常なやり方だと思うのだが。
 すると瞳の困惑を見越したように和哉は笑った。
「もちろん話はそれだけじゃない。ひとつ補足させてもらうと、浅間での研究はお前にとっては不快なものになるかもしれない。が『人類』の未来の為の研究であることだけは確かだ。それは約束する」
 瞳は躊躇う。不快なものとは何だ。
「お前が来てくれるというのなら、今すぐ解毒剤をあかりに打つ。すぐに目覚めるわけではないが、通常の呼吸を始めるだろう」
 瞳は腕の中のあかりの口元にそっと手をやる。あかりは確かに呼吸をしていないのだ。心臓が正常に動いていることだけがあかりの命があることを教えてくれていた。
 瞳はため息をついた。
「わかった。行く」
 自分の研究に誇りを持っているし、途中で投げ出すのは断腸の思いだが、あかりより大切なものは瞳にはなかった。
 和哉は満足そうに頷くと立ち上がる。胸ポケットから小さな注射器を取り出し、警戒を緩めない瞳の目を一瞥してからあかりの首筋に注射を打った。
 すぐにあかりの口から呼吸が開始された。心臓は特に変化なく打っている。ほっとして瞳は和哉に向かって言った。
「お前の胸ポケットは四次元ポケットか」
 瞳の軽口に和哉はにこりとして、再びソファに深く身を沈めた。
「じゃあ次に話を進めよう。ここに真紀以外にもネアンデルタール人がいると聞いたが、本当か」
 瞳は一瞬何を言われたのかわからなかった。
 ネアンデルタール人? 真紀以外?
 当惑する様子の瞳を見て、ここに来て初めて和哉は驚いたような様子を見せた。
「なんだ、お前。もしかしてここにネアンデルタール人がいるの知らなかったのか?」
 瞳は首を縦に振った。
「いや、知らん……。ていうか、あれか?」
 瞳の脳裏に映ったのは若い一人の女性。