十月の初め。
気持ちのいい天気だ。
こんな朝を毎日迎えられるのなら、どれだけいいだろう。
昼も少し暖かく薄めの長袖でも十分なこの季節。
暑さを嫌う俺としては、未だに半そでである。
目の前にいる女子は、七分袖というべきなのかそんな服を着ている。
さて、なぜ今『コネクト』の店内で同じクラスメイトの女子と向かい合って座っているのだろうか。
「お天気がよろしいようで……。ご機嫌如何?」
刹那、目の前に座る女子生徒は俺の足に蹴りを入れた。
足をぐりぐりと踏みつけると怒りを混ぜた笑顔でコップを机に置いた。
左様、分かっておりまする。
何をしたんだって思っているのだろう。
そこにいる店員、分かるぞ。俺もよくわかっているんだ。
クラスの男子たちで猥談をしていたときの話だ。
話題に上がったのは早川のこと。
それを近くで聞いていた早川の友達が告げ口をしたという。
まさか、それが深山の病室でバラされるとは思いもしなかった。
ごめんな、深山、折角協力してくれていたのに。
「ぶっ殺すよ?」
「暴言はよくない。傷つく」
「は?」
「いえ、何でもありません」
「そうだよね」
「……え、えぇ、もちろん」
今日は、彼女への謝罪として行きつけだと言う『コネクト』のスイーツを奢ることになっている。
見てください、目の前に広がるスイーツの量。
とても高校生が払うには痛い金額である。
このスイーツ、全部食べられるのか?
俺は無理だぞ?
ていうか、甘いのあんま得意じゃないし。
ブラックのコーヒーを飲んで、スイーツを食べてみても中和された試しはない。
こんな量、食べれるわけがない。
あ、いやでも、元はデブだし食べれるのか……。
これくらい朝飯と同じではないだろうか。
「何か良くないことを考えているように見えるけど?」
「まさか。そんなことより、食べさせてやろうか?少女漫画みたいで良いんじゃないか」
「殺す」
「うわぁ、殺気がすごいね」
「昔だったら喜んだかもね」
「ああ、何されてもときめくような人だったっけ?」
「言い方……。そうじゃないよ、好きな人以外は断るよ」
いつだって彼女はこうやって、友達としての好意を伝えてくる。
俺の気持ちなんてわかってないくせに、そんな風に思わせぶりなことばかりを言う。
もし、俺が今ここで好きだと、付き合ってほしいと言ったらどうなるだろう。
無理なことくらいわかってる。
早川が好きなのは俺じゃなくて、深山なのだから。
「深山のどこが好きなの?」
「ふぇ⁉」
紅茶を飲んでいた彼女は、むせて口の周りについた水滴を紙ティッシュで拭いた。
「な、何を⁉急に、なんてこと言うの‼」
「好きだろ、お前」
「……ま、まさか?そんなわけないし」
「じゃあ、なんであんなに病室に行くわけ?お前だって、部活あるだろうに休んでまで行くことか?大会近いだろ」
「……」
「バレてないと思うか?」
「別に。好きじゃない」
「嘘つけ」
今の驚いた反応で誰がそれを真に受けんだよ。
「深山のどこが好き?あいつの母親曰く飛び降りたって話だろ?だから、警察も動いたわけだし。学校には、帰ってきやすいように足を滑らしたって話を広めたけどさ。もし、本当に自殺を図ったのなら、好きになればなるほど苦しくなるだろ」
「……」
目の前に広がるスイーツのようにこの世界が、学校が、人間関係が甘いわけじゃないことくらいわかってる。
「ひどいね。変わったね、中野」
「……え?」
ひどく悲しそうな顔をしていた。
「私が転校してきた時、精神的につらかったんだよ?死にたくなることだってあった。中野が傍にいてくれたじゃん……。そばにいて、助けてくれた」
「俺は、何も」
「――してくれたんだよ。一緒に居てくれた。話し相手になってくれた。私のこと見捨てないでくれた」
「……でも」
「だって嫌じゃん。私には助けてくれる人がいるのに、深山くんにはその相手がいないなんて」
心を許してくれる相手になりたいと、彼女はつづけた。
「そう……」
「でも、好きかどうかって言われたら違うと思うなぁ。なんか、それとは違う気持ちだと思う」
彼女は気づいていなかった。
自分が、深山に対してどんな気持ちを抱いているのか。
彼女自身、理解できていない。
「……あのさ、いつまで足踏むの?」
「………うるさい」
「……」
高校入学してから彼女の性格は悪くなった。
怖いですね、女子高生。
「まあ、いいや」
足を踏まれたまま、机の隅に置かれた本を見る。
「それ、何?参考書?」
「え?……ああ、これ?演技の本」
「演技?」
「……ほら、言ってくれたじゃん。表に立てばいいのにって」
「ああ……」
「だから、やってみようかなって。部員少なくて出る人も多くするみたいだからちょうどいいなって」
「いいじゃん」
「でも、演技って難しくてさ」
「それで、その本を?」
「うん……。難しくて、嫌になる」
「見せて」
「ほい」
手渡されたその本を見ると、演技論だの表情だのそんなものが書かれていた。
逆に言えば、その表情以外のものや声音だと嘘っぽく見えるわけだ。
リアルが求められている。漫画や小説のようなリアリティよりリアルを求める。
そんな内容がズラッと書かれていた。
演技の上達のために必要なことも書かれていた。
「うわ、難しそ」
「でしょ‼」
「こんなのよくやろうと思うね。無理すんなよ?」
「無理はしてない。私がやりたいって思ったから。見に来てくれるんでしょ?コンクール」
「もちろん。にしても、これやばいな。演技を身に着けるってある意味、嘘を見抜く力にもなるわけだろ?」
「え?どゆこと?」
「なんか、これを知ってれば、相手の心情に合わせて言葉は変わる。その言葉が言いたくない言葉だったら、声音とか表情で全部察することができるとか。演技ができる人は、自分をよく魅せることも相手の痛いところを突くこともできるわけだし」
「……?」
「えっと、だからその、演技は自分を守るための武器になりえるって話」
「守るための武器……」
「人によって守り方は変わるだろうけど、これを知っていれば、察する能力とか身に付きそうだな」
鈍感だとか言われる俺にとってはちょうどいいものかもしれない。
「これをちゃんと理解できれば、人の恋心なんかも理解できるかもなぁ」
「中野はないから安心して」
「おい?ちょっと?」
「大丈夫、中野はそのままの方が、安心できるから」
「それって、恋人もできない童貞ってことが言いたいんですかね?」
「ま、そんな感じ」
「うっせえ、デブ」
ザクッと刺さるような痛みが足に来る。
「君みたいな人のことを好きになる女の子もいるんだから、言葉遣いくらい気を付けてね」
その笑みやめて?怖いよ?
「こんなやつ好きになるって、大馬鹿者くらいしかいないだろうな」
好きな人がいる早川にそんなこと言われたくはなかった。
「だから、いるんだってば!変なこと言ってるといつまでも童貞だよ」
「やめろ、刺さる」
「中野ってちょっと卑屈だよね。落ちぶれてるっていうか」
「そんなことないです」
「あるよ。もっと自分を肯定してもいいと思うんだけど?」
「そんな早川はできるのかよ。自分のこと、肯定すること」
「……それは」
「コンクール出れば、何か変わるかもな。俺は、落ちぶれてないし、すぐに童貞も捨てる。お前とは違う」
「い、いや、私も別に」
「え?彼氏いたの?」
まさか、とっくに男子とヤっていたり……。
「いないけど」
「……なんだよ」
もうこれ以上、変な話したくないってばよ。
彼氏いたくらいでショックを受けるわけにはいかないってのよ。本当に。
その日、支払金額は万桁になった。
食い過ぎなんだよこの、デブ。
すごく美味しそうに食べるので、見てる側はなぜだか嬉しかったよ。
だけど、まあ、よくあんな机に並べられたものを平らげたよな。
俺、スイーツ食ってないし。
「今日は、デートですか?」
その女性の店員さんは、気安く聞いてきた。
ふざけるな、こいつがこの店に二人できたことをデートだと思うはずないだろ。
思いあがってんのは、俺だけだからな、殺すぞ?
「え⁉で、デート……。デート、なのかな?」
やめよ?上目遣いで、そんなこと聞いてこないで?
「ただの謝罪含めたおごりですよ」
「謝罪?」
不思議そうなのは、よくわかるけど、言えない。
早川をネタにして猥談してたとか言えない。
「デートなんてそんなこと……」
俺だけが、思ってる。
彼女は、何もそんな気持ちで誘ってない。
「おいしかったです。また来ます」
「あら、食べてたっけ?」
「……え、ええ、そりゃもちろん。こいつが」
と、彼女に指さした。
食べてないこと気づいていそうだ。
店員の名札を見ると深山と書いてあり、この店の店長らしい。
「よく来てくれるものね」
「おいしいから、つい……」
なんで恥ずかしがってんの?
恥ずかしいことじゃなくない?
「嬉しいよ。また来てね。今度来るときは、デートかな?」
なぜいじる?
こっちの気持ち考えて?
できれば、デートとして奢りたかったよ?
「そ、それは……」
早川が困っている。
深山という店員さんに、俺は耳打ちした。
「デートで来れるように頑張りますね」
「え⁉」
あ、こいつ、俺の恋心、気づいてなかったな?
とっくに付き合っていると勘違いしているな?
その証拠に、デートじゃなかったのって顔してんな?
「じゃあ、また来ます」
外に出ると秋の涼しさを感じた。
「あの店長って深山と同じ苗字なんだなん」
「え?」
「いや、流石に何度も来てる場所なら知ってるだろ」
「……あ、ああ、うん。そうだね」
「見てなかったのかよ」
「知ってるよ。でも、それは違うと思うよ……」
気まずそうに目を逸らす早川。
その姿でさえ愛おしい。
「スイーツおいしかったか?」
「うん!また行こうよ」
「嫌だね。絶対、万札出すことになるから」
「じゃあ、割り勘で」
「損するの俺だけ」
「だったら、食べよぉー!おいしいのにもったいない。コーヒーだけとかもったいない。ブラックとかまずいに違いない」
「シレッと、酷いこと言ってんな」
「それ以上にひどいこと言ったのはどこの誰ですか?私のことでヤな盛り上がり方したのは誰ですか?」
「……お、俺です」
ジトッと見る彼女は、本来、本気で怒って今後関わらないこともできるのに、きっとそうしないのは、中学生の時の恩に似た何かを未だに抱えているからなのだろう。
あんなの、気にしなくていいのに。
「ま、まあ、じゃあ、また行こう。俺で良ければ一緒に行く」
「ほんと⁉じゃあ、明日も行こう‼」
「バカ言うなよ!流石にあれだけ食った次の日も食えるわけがない」
「それがなんとこの胃袋には入るんですよね!」
「四次元ポケットじゃないんだから」
「可愛さを代償にいっぱい食べられる胃袋を得たので!」
「その自虐、面白くねえ」
「え⁉」
「可愛くないって誰が言ったよ」
「……え」
あ、これ、告白の流れっすか?
ちょっと待って、違うんだ。
そうだ、話を逸らそう。
「ほら、またこんな太ってさ。腹大きいぞ」
ツンツンと触ろうとすると、彼女は二歩引いた。
「変態!」
「また今度な。明日も行ったら金欠になる」
「……ちぇ、一緒に行きたいのになぁ」
「可愛く言っても、行かねえぞ」
俺は、歩を進めた。
俺よりもきっと深山の方が良い。
早川は深山が好きだ。
あの目は、好きな人に向けるだろう。
俺は恩があるだけで、深山には恋心がある。
それだけの違い。
振り向かせることができるなら、とっくにやっていただろう。
とっくに付き合うためのデートくらい行くだろう。
できない。
早川が、深山とデートに行くとき、俺は止めるべきだった。
好きで、付き合いたいのなら、やめとけっていうべきだった。
もしかしたら、そのままやめてたかもしれない。
遅い。遅かった。
付き合う未来なんてなかった。
「おまえさ、深山のこと好きなんだろ……?」
そんな負け惜しみを彼女に伝える。
中学生の時のあの好きだという言葉を勘違いして聞いていれば、付き合っていただろうに。
俺はそんなことできなかった。
「え……」
そんな惚けた顔するなよ。
辛いんだよ。
お前が見てるのは、深山で俺じゃないことをあの病室で、一学期の教室で、出かけに行っているたびに思う。俺はお前の恋を応援したくない。
「そ、それは……違――」
「行くぞ」
彼女の言葉を聞かずに歩を進める。
何をバカなことを聞いてしまったんだろう。
きっと、今も俺のことよりも深山を想っているのだろう。
自殺を図った彼のどこを好きになったのかなんて知らない。
それでも勝てないんだ。
負けてしまっているんだ。
彼女が見ているのは、俺ではないから。
+++
中野は、部活で来れないらしい。
深山くんの病室に向かう私は、インフォメーションに行き、そのことを伝える。
「あ、よかったら、これ渡しといてもらえるます?」
「え?」
看護師であろう人が、私にそう言ってあるものを手渡した。
「深山さんと仲良いみたいね」
「……え、えっと」
「ほら、いつも来てるし」
「ええ、同じクラスで」
「そうなんだ。じゃあ、よろしくね」
自分で渡そうとは思わないのかと思ったけれど、聞かないことにした。
中野は、昨日私と『コネクト』に行った。
まさか本当に奢ってくれるとは思わなかったけれど、まあ、あれだけ酷いことを私のいないところで男子同士話していたのだからしかたない。
あんな話を誤魔化すために深山くんまで一緒になるなんて考えてもいなかったから、ショックというか少し悲しくなったというか。
そもそも私の体は、痩せたとはいえ、まだ余分な肉はある。
あれだけスイーツを食べた事もあって体重も増えた。
いや、まあ、でも深山くんが太ったことに気づくとは思えないけどね。
太った……。
なんだろう、すごいショック。
前までストレスもあって暴飲暴食を繰り返していて、自暴自棄になっていたことはあるけど、まさかここまで傷を負うとは……。
病室に向かうと声が聞こえた。
クラスの担任と深山くんの声。
とても、入れる空気じゃないことは声だけでわかった。
「学校どうする?単位とか諸々はちゃんと考えてほしいところよ」
「……そうですね」
「そんな調子じゃ、何もできないよ?そもそも、どうしてこんなことしたの?そろそろ答えてくれない?」
「……」
「中野が言ってたように、足を滑らせただけならそれでいい。ただ、担任としては、ちゃんと相談してほしい?」
「……相談したら、何か変わりますか?」
「それはもちろん。君が望むようにする」
「じゃあ、いじめに乗じた人を殺してくれとか言ったら殺します?」
「……」
「ほら、口だけだ」
「……法に乗っ取った上での話」
「いじめは、法で裁けないですもんね。ほら、少年法とか。たくさん調べました。でも、いじめに対してちゃんとした取り締まりはない」
「……」
「先生たちに何ができるっていうんですか?先生なら、先生らしく勉強だけ教えればいいじゃないですか」
「……。深山、君が飛び降りた時どう思った?怖いとか思わなかった?」
「さあ、どうだったか覚えてないですね」
「君は、人を頼らなすぎる。誰かの優しさは、無下にするものじゃない。手を伸ばしてくれる人が近くにいるなら、その人を頼ってほしい。もし、先生を頼りたくなったらいつでも言って。真剣に向き合う」
「…………。そう、じゃあ、その時が来たら」
「単位とか、その辺はこっちでなんとかするから自分の事、もっと大切にして」
話がついたのか、先生が病室から出てきた。
気まずい。
まさか、深山くんがあんな風に人を殺してと言うことがなぜだか苦しかった。
「早川」
「ど、どうも。今日、きてたんですね」
「……ええ、まあ。あなたたちといる時はどう?普通に話してくれるの?」
「はい。でも、今の深山くん怖かった」
「そうね。一学期も優等生で真面目な子だったから、保健室登校も十分すぎる理由があると思って許可したの。まさか、いじめに遭っていたなんて知らなかった」
「……」
「もし、深山のことで気になることがあったら言ってね」
歩を進める担任の背に言った。
「あの、ありがとうございます。保健室登校を許可してくれて」
「……それは、あなたが言う言葉ではないでしょ?それに、深山からも言われたわ。病室に行った日にすぐ」
「……」
「じゃあ、また学校でね」
担任は、病院を後にした。
病室に入ると、深山くんは軽く手を振った。
「元気?」
「何それ。初めて言ったね、そんなこと」
「確かに」
「そっちこそ、元気?」
「それ、私も初めて聞いた」
「確かに」
「あ、これ、さっきインフォメーション行ったらもらった。何かよくわかんないけど」
「そんなのもらって大丈夫なの?いつか、刺されるよ?」
「大丈夫。刺す側だから」
「怖いって」
「魔女ですから」
「その設定、まだあったんだ。ていうか、魔女なら言葉巧みに誘惑すべきじゃない?」
「誘惑しようか?虜になるよ?」
「大丈夫大丈夫。中野じゃないんだから」
「なんで、中野が」
「え?」
「え?」
「あ、えっと、いいや。なんでもない」
「何それ、気になる」
「野暮なこと聞くな」
「いいじゃん、教えてよ」
「まあ、まあ」
「お願いー」
ベットで座る彼の前にいく。
顔と顔の距離が近い。
誘惑する魔女なので、気にしないでどんどん近づこう。
「近いぞ」
「誘惑ってやつですよ」
待ってよ、ちょっと嫌そうな顔しないでよ。
「そんな顔することなくない?」
「こんな近いと何されてもおかしくないぞ」
「深山くんなら、大丈夫」
「んなわけない。清純派が何を言い出すんだ」
「女優じゃないし」
そんな話もしていたらしいことを私は知っている。深山くんも察したらしい。
深山くんではなく、中野だけどね。
あいつ、そんなこと言う奴だとは思わなかったけど、最低な男だ。
ああ、なんで、あんなやつ好きになったんだろう。
あんなに優しかったのに、今はよくわかんないな。わかってるくせに、分かりたくない。
今も優しくしてくるくせに、変な気分だよ……。
「はいはい。もうやめよう。わかった、降参、誘惑に負けた。負けたので、許してください」
「じゃあ、教えてよ」
「……さすがにそれは、僕から言うことじゃないから」
「ふーん、女優とか言ってたくせに?」
気まずそうな顔してる。
「もういいから。わかったから、それに僕が言ったんじゃない」
「じゃあ、誰が言ったの」
「知らない。そもそも、こんな話をしていた時、中野は嫌そうだった。それだけは知ってる」
「え?」
嫌なのに、話題になるからって深山くんにそんな話したの?
何それ、最低じゃん、うざ。
「中野も嫌がってた。それだけだから。ほら、もうこんな近くなくてもいいだろ。いつも通り、椅子に座りなよ」
「……」
「は、早川さん?」
「……」
なぜだか、涙が溢れた。
「あ、あれ、おかしいな……」
「……」
「なんでだろ。深山くんにそんな話してるなんて、嫌だな……っ。そんな話してる中野がすごく嫌い」
「……」
「全部、知っちゃってるんだよ?こんな話。嫌な話だよ。中野がそのグループで一緒になってそんな話してるの、すごく嫌だ……。男子だから、仕方ないって思ってたのにな……。なんで、こんなに許せないんだろ……。いつもなら、そんなことないのにな……」
慣れているはずなのだ。
いじめで受けた罵詈雑言も、そういう卑猥な話も。
全部、仕方ないと受け入れてきた。
逃げ出した先に、中野がいてずっとそばにいてくれて、一人にしなかった。
優しくて、逞しい。
テニスをしている姿は、カッコよくて強い。
笑顔には、ちょっとした悩みもモヤモヤも全部吹き飛んでいた。
嫌だ。
そんなこと、一緒になって言わないでほしい。
中学生の時、一回フラれた。
ただの感謝だと思われた。
苦しかった。勇気を出したのに、好意に気づかれなくて、悩んだ。
そのくせに、次の日もいつも通り接してきた。
あの優しくて、強くて、かっこいい彼は、何もなかったように話しかけてきた。
だから、私も同じようにいつも通りにした。
それから、ずっと言う機会を待った。
でも、彼との関係が終わってしまうような気がして、ためらった。
怖くて踏み出せなくなった。
もし、また告白してフラれたら彼はなんていうのだろう。
なんて返してくるだろう。
好きだと、同じ気持ちだと、付き合おうと言ってくれるだろうか。
そんなものはただの妄想で、理想。
あの彼が、高校に入って私のことをそんなふうに言っていることがとても不快で気持ち悪くて吐き気がした。
どうして、その話をやめてくれなかったのか。
どうして、一緒になって気持ち悪い話をしたのか。
どうして、どうして、どうして?
あの頃の優しくて強くてかっこいい彼はどこへ行ったの?
なんで、好きだって想う気持ちに違和感を覚えるの?それすらも気持ち悪く思うの?
「……っ。好きなのに……大好きなのに……好きで好きで堪らないはずなのに……」
「……」
優しい彼は、彼の胸板に私の顔を埋めた。
抱きしめてくれた。
でも、それが気持ち悪かった。
だって、私は、深山くんの気持ちなんて考えず、中野の面影を重ねたのだから。
それが何より、気持ち悪くて最低だった。
+++
早川さんは、中野が好きだったらしい。
彼らが何を言っていたのか、全部知っていたはずの彼女がその日、泣いた。
中野が早川さんを好きだったことくらい、わかっていたが、まさか早川さんが中野を好きだったとは思わなかった。
なんとなく、あの雰囲気からして特に気にしていないのではないかと思っていたけど、そうではなかった。
いや、女子にそんな話をして気にしない方がおかしいのかもしれない。
むしろ、それが好きな人ならば当然嫌だろう。
好きだと、泣いていた彼女に僕は何ができただろう。
あの抱きしめるという行為は正しかったのだろうか。
彼女は、あれを許してくれるだろうか。
流れるように、身を委ねるように、泣き続けた彼女に僕は、あれ以上何ができただろうか。
何かするべきだったのだろうか。
……一丁前に、人の恋について考えている。
気持ち悪いな。
何、考えているんだ。
てか、早川さんってあんなこと言われてたのに、一途に中野の事を想ってたんだ。
純粋で、いい子じゃないか。
中野、もう傷つけてやるなよ。
かわいそうだろう。
あ、僕が言わなきゃよかったのか。
ああ、憂鬱だ。
「あれ、早川は?」
「……中野」
「おっす。今日来てない?」
「ああ、さっき帰った」
「帰った?」
「なんか、予定あるんだって」
まさか、中野とあわせる顔がないからって泣きはらした顔で言われたら、こいつに言えない。
「そっか……」
「おう」
彼は、病室に入り、椅子に座る。
それから、切り出した。
「俺が、お前を守れなくてごめん」
「……え?」
「あの時、いじめの対象になるとき、俺はお前を守るべきだった。藤川と一緒にいて、助けるすべはあったはずなのに、ごめん」
「……ああ、そういうこと」
「ほんとにごめん。ずっと、考えてた。悩んでた。深山に言うべきことがあるはずだって」
「……いいよ、もう。終わった話。それに、その罪滅ぼしでわざわざ足滑らせたっていう噂流したんだろ?」
「……ああ」
「じゃあ、もう充分。友達だろ、僕たち」
「……」
悩んでいた。そんなこと、思わせてしまうほどに迷惑な人。
それが今の僕だ。
そんなある日、父親が病室に来た。
「久しぶりだね」
「……なんでこの場所が?」
そもそも家族は許可してない。
面会を断っているはずだ。
どうやって入ってこれた?
「そんな顔するなよ。あんなに許しを求めていたから来たのに」
「……」
「許してほしいんだろ?違うのなら、どうしてあんなこと言うんだ。あんなにも切羽詰まっていたくせに……。許してくれなかったら、自殺を図るってどれだけメンヘラなんだ」
「……」
「なんか言ってくれない?何をしてほしいの?何を求めてんの?気持ち悪いよ」
「……帰ってくれ」
「無理だね。わかってるだろ?お前のスマホが、なぜ安心フィルターをかけているのか。なぜそのフィルターが夜の8時から10時までなのか」
「……」
「ルールを破り続けたからだろう。そのくせ、最近連絡できる時間を伸ばしてほしいとか言ったよな。おかしくないか?人と連絡を取る前にやるべきことがあるだろう」
「なんで……。ここに来れた?」
「え?ああ、それだよ」
それを指しているのは、間違いなく早川さんが届けに来たものだった。
何が入ってるかわからないと彼女は言っていた。
「それ、斗真に渡してもらうように言ってたんだ。だけど、まさか家族と会うことは許してないみたいでね。届けてもらうには、君と同じ学校の人が必要だったみたいだ。大丈夫、音声とかは取れない。ただ、位置がわかるだけ」
「GPS ……」
「まあ、そんなとこかな。これは回収しておくね」
紙袋から、小型のGPSを取り出した。
「ちゃんと見ていれば、すぐにこれを捨てることもできたのに。でも、無理か。そんな体じゃ」
「何しに来た」
「そんな怒った顔するなよ。家族だろう?離婚したけどね。でも、家族に変わりはない。逃れられない運命だ」
「元から逃すつもりもない」
「逃すも何も逃げられないって言ったばかりでしょ?日本語わかる?」
「そうやって、束縛して楽しいか?」
「束縛?何を言っているんだ。違うよ。そんなことはしていない。俺がしたのはね、ルールだ。家族のルールがないといけないだろ?日本には、法律がある。県にも市にもルールが存在する。家族もルールがないと平和にはならないだろう」
「……ルールがないと、平和になれないのか」
「は?平和にするためのルールだ。なれないんじゃない」
「元から、僕たちを信じてなかった」
「まさか、馬鹿なこと言うなよ」
「ほんとだろ。僕らを信じてない。愛なんてない」
「フハハッ!馬鹿にしてんのか⁉︎どの口が言ってんだ!人様に迷惑かけて、クラスにも学校にも家族にも友達にも迷惑かけておいて何を言ってんだ!そんな奴が、愛を語るな!ルールを語るな!平和を語るな!心配して来てやったのに、口答えかよ。ありえない!父親に向かってどのツラ下げてんだ!馬鹿にするのも大概にしろ!なんだその目は!何様のつもりだ!なんでいつもそんな顔して俺を睨む!俺のことがそんなに憎いか⁉︎俺をそんなに嫌うか⁉︎いい加減にしろ!離婚したこと、笑ってんのか⁉︎離婚したやつに愛を語れなんて、皮肉っているのか⁉︎」
その勢いは、凄まじく血走るような目で、背筋が凍った。
「逃げるとか、束縛とか、無理なんだよ。家族から逃げることは、捨てることと同義だ。お前は、家族を捨てるのか?」
「……っ⁉︎」
「もう二度と来ることはない。いい加減なことはするなよ」
「……」
父親は、出て行った。
家族からは逃げられない。
その言葉ですぐに思い浮かべたのは藤川だった。
藤川の家庭は、彼が小学生の時にいじめを偽装されたことで信頼を失った。
両親は離婚した。父親は、家から出て行った。
藤川はその時どう思ったのだろう。
自分のことを見捨てたと思ったのだろうか。
自分から逃げて行ったのだと思ったのだろうか。
もし、今、僕の父親がそう思っているのだとしたら、きっと別居することになった時、見捨てられたのだと感じたのだろうか。
母親は、置き手紙で出ていくことを伝えた。
離婚届には名前を書いていて、当時はまだ別居する話を両親はちゃんとしていなかったそうだ。
法的な話もある。
金銭の問題もある。
だけど、僕と弟を連れて母親は別居した。
親権は、母親だった。
置き手紙を見た父親は、どう思っただろう。
なんて言葉を吐き捨てただろう。
その紙をどうしただろう。
ある日突然、パッと消えた息子たちと母親。
広い一軒家に一人。
いつも誰かがいたその家に今は誰もいない。
見捨てられた。捨てられたと思ってもおかしくないのかもしれない。
藤川もそうだったのだろうか。
もし、いじめっ子の話が嘘で、でっち上げられた事実なら、彼は捨てられたんだと思ったのだろうか。
家に帰っても、父親はいない。
母親は、ノイローゼになって入院。
誰も自分のことを信じなかった。
自分のことを見て欲しくて、良いことをしても何も思われない、感じない。
だから、いじめという悪を受け入れたのだろうか。
自分は許されない悪でいいと思ったのだろうか。
父親に嫌われた、とっくに見捨てられた子供という共通点。
藤川と僕が似ているのなら、もっと何かあっただろうか。
もっと早くに出会っていて、理解し合える関係なら、彼の寂しさも悲しさも、辛さもわかったのだろうか。
「……無理だ」
今更だった。
考えたって意味がなかった。
死んだ人のことを考えて、何になる?
誰にも愛されなかった彼を哀れんでどうする?
そんなこと、彼は望むだろうか。
僕は、そんな人になりたかったのだろうか。
そんな風に命を捨てたかっただろうか。
違う。
こんな環境から、こんな地獄から逃げたかったんだ。
今のこの生きづらさから出て行きたかった。
息もできないほどに苦しい場所から消えてしまいたかった。
だから、命を絶とうとした。
藤川は、事故死だ。
涙を流したのなら本当はもっと生きたかったはずだ。
僕は、涙を流さなかった。
生きたいと思わなかったから。
環境は似ていたかもしれない。
でも、考え方も感じ方も違った。
藤川の気持ちなんて、僕に理解はできない。
母親は、出て行きたかったのか?
生きづらいって思ったのか?
……そんな仲良くないから、わからないな。
聞きたいとも思わない。
だって、僕は母親がなんの仕事をしているのか全くわからないのだから。
藤川と同じで僕は、両親から好かれていないみたいだ。
「そういえば、この病室、誰が払っているんだ?」
家族との面会許可をしていないのは、自分だ。
また退院した時でも聞けばいい。
でも……。
それまで、生きていたいとは思えなかった。
どうして、いつまでも一人になると消えたいと思うんだろう。
消えたい夜は、いつも乾いた気持ちになる。
このまま枯れ果てて消えてしまえたら、どれだけいいのだろう。
死んでしまえたら、どれだけよかっただろう。
考えたくない。
何も感じたくない。
自己嫌悪に陥る。
この世界の空気がとても気持ち悪い。
何で、いまだに生き続けているんだろう。
久々にベットから立ち上がった。
トイレ以外で立つことがないから、足腰が弱くなっている。
そんな体で、窓まで行く。
窓に身を乗り出す。
地面が遠い。
6、7階の病室なのか。
ここからなら、確実だ。
死ねる。
……もう、いいかな。
窓を開けると、待っていたかのように気持ちのいい空気を感じた。
そうか、十月にも入って秋になったのか。
時間も季節の感覚もおかしくなっていた。
迎えに来ている。
窓の外へと体重を預ける。
めんどくさい。
何もかもが、腹立たしい。
家族も学校もすべて。
こんな窮屈な世界を広いと言ったやつはどこの誰だろう。
どう考えたら、そんな愚かな考え方になってしまうのだろう。
ならどうして、人は死んでいくのだろう。
自殺するのだろう。
自殺者が増えるのだろう。
この世界が窮屈で狭いからだ。
疲れた。
そう、疲れたんだ。
もう十分頑張った。
終わりにしたって誰も文句を言わない。
そのはずだ。
誰かの恋愛とか、誰かの死とか、誰かの別れとか、もういい。
いらない。
聞きたくない。
疲れる。
頑張った、それだけでいいじゃないか。
なんだ……、僕は、早川さんみたく泣くことはできないんだ……。
いつから、泣くことさえできなくなったんだろう。
季節感覚もなくしてしまっている。
こんな子供でごめん。
死にたいだなんて思う子供でごめん。
自殺しようとする子供でごめん。
また、自殺しようとしてごめん。
家族の愛を拒絶してごめん。
そのくせ愛を求めてごめん。
愛されようとしてごめん。
自分勝手でごめん。
誰か助けてくれないかなとか思ってごめん。
あなたのルールに従えなくてごめん。
間違っているのに文句ばかり言ってごめん。
言い訳ばかりしてごめん。
こんな僕でごめん。
もっと良い子供であればよかった。
なにもできない子供でごめん。
「なに、してんの?」
聞き覚えのあるその声。
何度も遊びに来ては、拗ねて頬を膨らませたり、かと思えば笑ったり、泣いたり。
喜怒哀楽の激しいクラスメイト。
なんどか一緒に出掛けたクラスメイト。
早川七海さんがそこにはいた。
いつか、どれくらい経ったのか、中野のことで泣いていた優しく純粋な女の子。
バカな僕は、抱きしめることしかできなかったその子が、今、ドアが閉まると同時に走って来た。
「やめて‼」
彼女は、必死な声で顔で窓から引きずり下ろした。
生まれたての小鹿くらい足に力のない僕は、床に尻もちをついた。
「何してるの⁉」
「……」
顔を合わせられない。
まさかこんな早くに来てしまうとは思わなかった。
四つん這いになりベッドに置いてあるスマホを取り時間を確認する。
四時四十分。
そっか、ここって学校から結構近いんだっけ。
自転車で二十分くらいだって言ってたな。
「外の空気を吸ってた。空気入れ替えたいなって」
嘘ではなかった。
考えれば考えるほど、そう思い行動してしまったことだった。
「ただ、ちょっとまだ足に力はいらなくてさ、落ちそうになって大変だったんだ。仕方ない、仕方ない」
「……嘘だ」
「嘘じゃないよ、ほんとだよ」
「だったらなんで、あなたの体は必死に抵抗しなかったの?腕や手は、動くはずじゃない。病室に戻ろうって力任せに動かすことだってできるはず」
「……」
考えてみれば、確かに体を動かさなかった。
見られているとは思ってなかったし、仕方ないよね。
「……ほんとは、どうしようとしてたの?」
「だから、ほんとに戻れなかったんだよ。ひやひやしてた。怖かったなー」
ベッドに縋るようにして立ち上がる。
体が重たくて、動かなくて近くの椅子に座り、壁に背を預けた。
「助けてくれてありがとね。そんな必死になるほど、心配してくれて嬉しいよ」
「……」
「ああ、やっぱ体力がないと危ないなー。少しずつストレッチをしないと。もうこんな危険なことになるならやめとくべきだったかな」
「ねえ」
「――それに、そろそろストレッチするべきだって思ってたから、いいきっかけだ。体力がないと大変な時多いもんね」
「あのさ」
「今日は、帰ってよ」
「……え?」
「少し、頭冷やさせて。この階、高くて死んじゃう、大変だ!ってなって、冷静にならないと自分自身が大変なことになっちゃうから」
「なんで」
「――いいから、帰って。帰ってほしい。お願いします」
「やめてよ」
「……」
睨みつけるその顔には、怒りがあった。悲しみがあった。
どうして、そんな風に人のことを心配できるんだろう。
どうして、この子はこんなにも純粋に人を思いやれるんだろう。
「人ってさ、バレたくないこととか、言われたくないこと、隠したいことがあるとその話題に触れられないようにべらべら喋るんだって」
「――いい加減、帰れよ‼」
怒りが込み上げた。
「私もそうだったから‼その気持ち、すごくわかる……。全部が全部わかるわけじゃないよ。でも、隠したくなる気持ちはわかる」
「そんなにわかってんなら、踏み込んでくるな!帰れよ」
「無理だよ!あなたを、死なせたくないよ……っ!」
「は?ふざけんなよ、何が死なせたくないだ、勝手に死ぬんじゃないかとか言いやがって。僕が死ぬだって?ありえない。死にはしない。だから、帰れ、いい加減帰れ」
「説得力ないよ。だって、あなたの母親、見てたんでしょ?」
「……⁉」
「私は嫌だ。あなたがどんなつもりだったのか本音を聞くまで帰らない」
「何言ってんだ‼ふざけんじゃねえぞ!」
こいつ、このままにしておくと絶対帰らなさそうだし、ここで脅してでも帰してやる。
……脅す?
え、あ、今、脅すって言った?自分で?
「は……。ハハッ!アハハッ!あああああああああああああ‼」
自分が脅すと言った。
早川さんに言ってしまったか?
わからない。
でも、脅そうとしたのは事実だ。
なんだよ、何なんだよ。
僕は、父親みたいな性格をしているのか?
いやだ、そんなの嫌だ!
父親に似たくなんかない。
そんなの絶対に嫌だ!
逃げ出したい。
この病室から、この場所から出て行きたい。
運よく力の入った足で走り出すが、それも二歩進んだところでベッドにぶつかり、うつ伏せに倒れた。
逃がしてくれない。
『逃れられない運命だ』
……どうして、逃がしてくれないんだ。
父親の言葉を思い出す。
逃げるは恥だから?
先人が、逃げずに戦ってきたから?
強大な相手を前にしたとき、どうやって戦うんだ。
武器なんてない。
戦う意思もない。
だって、負ける。
目に見えた結果だけはすぐに理解できる。
そうだろう?
今まで、勝てたことある?
父親にも負けて、弟にも負けた。
母親は、拒絶する僕のことを好きにならないし、求める僕に手を指しでくれるわけでもない。
何がいけなかったんだよ……。
同じ中学のクラスメイトと付き合ったくらいでなんで、こんなに言われなきゃなんねえんだよ。
高校にも、家族にもなんでそんな風に言われなきゃいけないんだよ‼
いいだろ、それくらい。
自由意思は尊重されないのかよ!
多様性だけが尊重されて、それに伴って、理解する人間が尊重されて、自分の意思は尊重されない、こんな世界が歪以外のなんだよ!
何なんだよ!どうして……おかしいだろ…………っ。
蹲る僕に、彼女は、静かに優しく口を開いた。
「話、聞かせてよ。私で良かったら」
見上げれば、彼女は座っていて、同情でもなく、ただただ優しいその表情に僕は、胸が苦しくなった。
わかってもらえない苦しさじゃない。
彼女は、優しすぎる。
「なんで、なんで……。なんで、こんな酷いことばかりの世の中で、君は人にやさしくできるんだよ……っ!」
「……」
「僕には、無理だ……。できない……。もう、何が正しくて、間違いなのかわからない」
「……今のその感情は正しいよ。聞かせてよ、ほんとの気持ち」
それでも彼女はそうやって、優しく言うのだ。
この時代にこんな歪で気持ち悪い世間の中に、清く純真な彼女がまぶしくて、それでいて温かかった。
「でも」
それは、怖かった。
拒絶しそうなほど、逃げ出したい。
君のその優しさが恐ろしい。
「嫌だ、言えない」
「……」
「怖い……。無理だ……っ」
「……」
「嫌われたくないんだ……っ」
父親に嫌われて、家庭が崩壊した。
男と付き合っただけで変貌を遂げた。
ただ普通に破局しただけなのに、それでも父親は多様性だの理解だの、怒鳴るようになった。
いまだに嫌われている。
ストレスのはけ口に使いやすいのは、僕だけだから、いつまでも使う。
だから、離婚した今でも父親として僕の前に出てくるのだ。
「怖い。嫌われたくない。誰にも、クラスメイトにも家族にも。逃げたくないんだ……」
「逃げたくない……?」
「逃げられないんだよ……!家族という関係は一生続く……!逃げ道があるわけない。離婚したからって何も変わらない。何も変化がない。逃げても逃げても逃げたことにならない」
「……」
「逃げられるわけがない。今までそうだった。ずっとそうだった。そのくせ、戦うこともできなかった。弱いからだ。強くないからだ。でも、強くあろうとしても、ただ強がってただけなんだ。それが、今のこれだ。地に足つけて立ちたくても、もう弱ってまともに動くこともできない。歩くことさえ怖い。何も考えず歩けたならそれでよかった。障害だって、軽いステップやジャンプで越えることができたならよかった。でも、そんなことできない。いつだって、障害はひどく大きくて、その大きさに耐えきれなくて、超えきれなくて。できないと、叩かれる。罵声を浴びる。自分にすら勝てなくて、それがもっと嫌で、逃げ出したくてももうどこにも道はない。追われて、追いつかれて逃げられない。今日を生きることさえ、嫌になる。明日なんてもっと生きたくない。生きるのが、嫌だ。足枷がついて、飛び越えるための脚力さえ奪われて、歩くことも動くことも許さない。そんな風に思える自分がもっと気持ち悪い」
一気に吐き出す、それなのに、彼女はただ黙って聞いていた。
「……ただ、付き合っただけなんだ。彼女じゃなかっただけなんだ。間違えた気分になった。自分は異端児なんだって思えた。誰も許してなんかくれない。ただのエゴだった。多様性なんて言うから、許されると思った。気持ち悪がられることなんてない風潮なんだって思ってた。間違ってないって思ってる。でも、家族や学校を見てるとそうじゃないんじゃないかって思えてくる。とっくにどこかで間違えていて、考え方なんて多様性なら、考えてみれば、否定されることもある。それくらい、すぐにわかるはずだった。けど、じゃあ、何でそれをみんなして多様性、理解なんて言葉を使ってくるのかわけがわからない。でも、もうわかるんだ。否定されたくなんかないんだ……。それなのに、僕は自分を肯定するためにその言葉を使えない。とっくに間違えてしまった人間に使えるような言葉じゃない……っ」
ただ、男子と付き合っただけ。
中学の頃、クラスメイトは言った。いいじゃん、おめでとうなんて祝った。
けど、別れたら、変わった。「やっぱ、男子と付き合うって大変だった?受け入れられないこともあるよね。無理しないで正解だよ」と、クラスメイトは僕を気遣うように言った。
恋心なんて視野に入ってなかった。僕から、別れを切り出したのもあるだろう。多様性とか言うけど、結局は、誰もがみんな受け入れられないものだと思ってた。
僕は、違った。恋をした。それだけだった。
多様性とかそんな理由で、理解があるから付き合ったんじゃない。好きだから付き合っただけなんだ。
そのくせ、僕はその言葉に違うとはいえなかった。
だって、それは多様性の中の話。僕がしたのは恋で、彼に対し、恋心を抱いただけの話。
そこに多様性も理解もない、はずなんだ……。
周りは僕を見ているんじゃない。世間体を気にしていたんだ。
「間違いなんて、とっくに犯してて、そのくせに、自分を肯定しようと必死だった。でも、家族は言った。お前が男と付き合うなんて気持ち悪い。お前、ジェンダーなのか?って。別に、僕は女子じゃない。心が女子なわけじゃない。それを許容してくれるわけじゃない。家族は離婚した。自分を肯定したい。でも、できない。離婚してしまったんじゃない、離婚させたんだ……。そんなことできるわけがない。自分が一歩踏み間違えたことで崩壊した。家族の関係なんてそんなものだった」
だから、と続けた。
「道を踏み外すのが怖い。障害が怖い。分かれ道が怖い。分岐して欲しくない。今が、怖い。今日が、怖い。明日が、怖い。生きているのが怖い。いつかまた地獄を感じてしまうんじゃないかって。この世に、生きていたくない。できれば、なかったことにして消えてしまいたい。この世が終わるより、僕一人が終わりたい。誰かが僕の人生を正解の道へ連れて行ってほしい。勝手に選択してほしい。どうか、僕を許してほしい……。もし、許されるなら僕を、正解の道に連れて行ってほしい……。誰にも叩かれない、馬鹿にされない、怒られない選択を決めてもらいたい……っ」
ずっと感じていた。
何もかもが気持ち悪かった。
世間が許しても、身内は許さない。
他人が許しても、自分は許せない。
生きることが、とても怖かった。
死んでしまうのは怖くなかった。
あの花火が、咲くとき、祝福されていると思った。
空っぽだから、空。
自殺に対して、花束を渡してくれているのだ、と思った。それでよかったんだよって。
生きるよりも死ぬことの方が楽だと思った。
こんな人生を終わらせる方がよっぽどマシなんだと思った。
死ねば、何も考えなくていいから。
地獄や天国なんて宗教の話。無宗教には関係ない。
火葬もされない。土に埋められることもない。
「ずっと……っ‼︎そう思いながら生きてきた……。これが、僕だ。深山空っていう空っぽな人間の名だ。こんな話、するべきじゃないだろう……。こんな話、聞くべきじゃない。……もう、2度と関わらないことをお勧めするよ……」
「……自分でそんなこと言わないで。自分をそんな風に言わないで。空っぽなんかじゃない」
もういい。疲れた。
誰かと関わるのも、一緒にいるのも。
君たちの優しさはとても心が苦しくなる。
一緒にいると、楽になれない。
君を傷つけて、一人になりたい。
誰にも関わらず、死ぬことができる。
「本気で言うのか……?僕は、君と出かけることにしたのは僕に何もないから。何もなくて、だからこそ何もかもできた。僕が、空っぽだから。無色透明なものに色をつけただけ。その場に何もないのに、物を置いただけ。それでもいつかは透明になる、ものも消える。僕は、君との思い出をろくに思い出すことなんてできないよ。何でもいいから、どうでもいい。どうでもいいから、ろくでもない結果を招く。君との関係性なんてどうでもよかった。他人との関係なんてどうでもよかった。きっと、めんどくさいことばかりが僕にまとわりつくから」
「私のこと、どうでもよかった……?」
あの優しい顔に傷を入れた。
泣きそうな顔で、苦しそうにいう。
そうだ、最初から彼女となんて関わらなければよかった。
人と関わらなければよかった。
誰も傷つかない、自分も傷つかない。それが、一番よかったんだ。
「……ああ、どうでもよかった。別に、嫌われなければそれでよかった。人に、迷惑かけないのなら、それでよかった。家族も学校も面倒なことにさえならなければそれでよかった」
そのくせに、自分が傷つかないために他人を傷つける。
矛盾ばっかだ。
「私は……、私は、どうでもよくなんかなかった……」
「嘘つくなよ。君は、中野が好きだろう。僕と一緒にどこかへ出かけることが理解するためには必要で、重要なことだったかもしれない。僕のことは好きじゃない。ただの興味の対象物だろ?こんな人間が居たら、気になるだろ。僕だって、そんな人見たら、そう思う。興味があれば、どうでもよくないって思うよ」
「……そんな言い方、しないでよ……」
「興味の対象物だったってだけだ。君と僕は、いじめられたっていう共通点があるから、気になったんだろう?だから、それを知るため言い合える関係になるためにどこかへ出かけた。映画も行ったし、服だって買いに行った。それは、僕を知るために必要なことでもあったから。僕と一緒に居ることで、理解できることや、同じ傷を共有して自分が、惨めじゃないって、弱くなんかないって思えるから」
「……っ」
彼女の瞳から涙が溢れる。それでいい。それでいいんだ。
僕が、傷つかないために、相手を傷つける最低な男でいい。
ろくでもない人生。今更、どうだっていい。
「君が、どう思ってもいい。それは、僕にとってどうでもいいから。興味を持った人間が僕で、ただそれが自殺を図っただけの人間だったってだけ。君は興味があったんだろう?いじめられた人が、どうやって前を向くのか。可哀想な人を前にすれば、優しさを見せられるだろう。自己満足だろう。君は君を好きになるためにこんなことしてたんだ。僕に恋心なんて一切ないくせに。まだ心の傷が癒えていないから。だから、今こうして僕に優しさを振りまくんだろう?君は、ただの偽善者だ」
最低な男の完成だった。もう少し、傷を入れて悲しませて二度と会わないようにしてやる。
お前は、邪魔ばかりする。君がいると惨めになる。
僕は、決して惨めで哀れな人間じゃない。死を通してそれを証明してやる。
「君が、中野を思い泣いた理由は、いじめから助けてくれた人が自分をそんな風に、体だけしか見ていないと思ったから傷ついたんだ。君が、僕を思うより、ずっと中野のことを想ってる。そもそも、僕じゃなくて、彼を想っていたのだから。だから、興味のある人に対して、勘違いさせるような言葉を言ってほしくなかった。僕に恋心を持たれても困るから。自分が、好意を寄せているのは、中野であって僕ではないから。僕は、ただの興味の対象物。観賞用のものでしかない」
「……違う、そんなんじゃなくて」
「違うならなんだよ。僕に話しかけてきた理由は?入学したばかりで君と関係を築いたのはそのすぐ後だ。もしも、君が僕と以前に出会っていたならわかる。でも、そんな話はなかったし、以前会ったわけでもない。君は、単純に僕という存在が気になったんだ。家庭のことで悩んでいた僕を見たことで、もしかしたら、僕をいじめられていた可哀そうな人で、同じ境遇にいたんじゃないかって。傷をなめ合える。自分以外にもいたんじゃないかって、一人じゃなかったんだって思えるから……。僕に話しかけたんだろ……っ?」
僕は、人から見れば、惨めで哀れで可哀そうな人だから。
精神的に追い詰められていた人の表情を見れば、同じ境遇の人なら察することができる。
ゲイが、ゲイなんじゃないかって憶測を立てたように。
自分と同じ人がいると安心感があるのは、自分よりも弱い人がいるからだ。
弱い人を見ると、安心する、落ち着く、自分は惨めじゃないと思えるから。
太田が、周りを考えずに僕をゲイだと推測し、広まるようにしたのは、自分と同じ人がいてほしいから。
多様性を謳う哀れな時代で、味方が欲しい。マイノリティのこの時代で、少数と言われる人たちが自分はゲイだと言えるように。
誰もがみんな、ゲイだと、レズだと言えるような、言わずとも付き合えるような優しい世界じゃないから。
いつも隠れて、僕みたいにいじめられないように生きるしかないのだから。
この狭い檻の中で生きるにはそれしか方法がないのだから。
「僕は、惨めなんかじゃない!君は、惨めだとか、こちら側の人間だとか思うかもしれない。それでも、違うんだ。君は、僕とは違う。中野から聞いた。君は、太っていたみたいじゃないか。それが原因で、いじめを受けた。それで転校した。そして、高校入学すると自分に似たような人がいた。気になるし、興味も沸く。君は、そんな僕を見て少しは安心したんじゃないか?僕が……、僕がいることでまだ底にまで落ちていないから」
「……違う…………違うよ……っ!そうじゃなくて……」
「そうじゃなかったらなんだよ。なんで、僕の病室に毎日のように来る?何でもない話を、普通にできる?日常的な会話をする?中野を連れて話を盛り上げようとする?」
彼女を睨みながら言った。
「君が、僕よりも可哀そうな、哀れな人間じゃない、そして、優しくて純粋に思える人間だって思わせるためだろう?」
それに、と続けた。
「中野は、そういう優しくて純粋な人間好きだもんな。一石二鳥じゃないか。中野の好きなタイプになれて、最高にいい気分だろう」
純粋だと思ったのは事実だ。
だけど、彼女がいじめを受けていた事実は中野から聞いていた。
最近、教えてくれた話だ。
太った腹をつまんで、怒って殴っただけで、それからも関係は良好なままだったと聞いたとき、中野に対して少なからず好意を抱いているのだと思った。
あの中野に対して怒り、僕に微笑みを見せた彼女が、今でも一緒に中野といる理由はわからなかったけど、今はよく理解している。
早川さんは、中野のことが本気で好きなんだ、と。
腹をつまんだら、怒る女子の方が多いだろうし、余計なこと言っても許してしまうのは、やっぱり好きだから嫌われたくないと思ったことこそが理由だ。
中野は、恋愛感情というものに対して鈍感だ。
僕よりも鈍感だ。いや、僕は鈍感じゃない。
「中野は……」
「――関係あるよ。ないなら、なんで、中野はこの病室に来るのさ……。君が呼んだからじゃないの?同じ境遇の人を見ていると自分はまだ弱者じゃないって思えるから」
純粋な彼女に、言いたくない言葉だった。
中野のことが好きな彼女。
こんな言い方しなくたって、彼女は中野となんだかんだあってもくっつくだろう。
彼女の差し伸べた手に、取り合うことができないのは、きっと彼女の本来見ている好意を寄せる相手を知っているから。
彼女に迷惑かけたくない気持ちが、こんなことを言わせているのかもしれない。
自分が嫌われることで、中野への想いを確信的なものへと変化させるために。
それでも、思うのは、純粋な彼女へひどいことを言ってしまったという後悔だった。
だから、最後まで徹底して嫌われるようにする言葉が必要なのだ。
「僕は……、君が嫌いだ……。弱い君を僕に重ねて、優しい自分を演じていることが……。優しくて、自分は、劣等生ではなく、優等生なのだと自己逃避を行おうとする、その隠れた感性がとても嫌いで気持ち悪いことで、それでいて、吐き気を催すほど邪悪で、純粋でも何でもなく、それこそ魔女であることが、とても嫌いで苛立ちを覚えることだって、理解したから……。君が嫌いなんだ……」
僕は、すべてを言った。
言っているうちに思ったこともあった。
惨めな自分を見て、自分はそうじゃないと思う君を見て、僕は僕を哀れで誰よりも底辺なんだって思ってしまうから。
君と一緒に居るのが苦しい。
だから、離れてほしくて、興味を失ってほしくて冷たい態度も取った。
……もう、僕の周りにいないでほしい。
君みたいな純粋な人が、僕と関われば、ろくな目に逢わない。
くだらないって、僕を見下して嗤っていてほしい。
自殺なんてことを考えずに済むのだから。
君をここで最大限傷つけて僕との関係に終わりを告げてほしい。
君に、僕の気持ちを理解してほしくないから。
君には、僕よりもお似合いな人がいて、大切にできる人がいるのだから。
僕の人生に君は本来、必要のない、いらない存在なのだから。
「…………そんな、そんなわけ………っ」
「もう、帰れよ。僕は君のこと大嫌いだ」
「…………っ!」
彼女は、泣いた。
その場で泣いた。
嗚咽を漏らしていた。
その姿を、どうして僕は喜べないのだろう。
喜んで笑って、軽蔑させればそれだけでいいのに。
「おい」
扉から入ってきたのは、中野だった。
「全部、聞こえてんぞ」
「中野、いいとこにきた。さっさとこの最低な女と一緒に帰ってくれ。こいつの涙とか気持ち悪くて見てられないんだ」
「……」
「…………なんで、そんな言い方するの……っ」
中野は、面白かったのか大笑いした。
「おいおい、ちょっとやめろよ。面白すぎるって。俺も馬鹿にされすぎだよな。途中から聞いてたけどさ、馬鹿だってそれは。流石に、そんな嘘誰でも見抜けるぞ?」
「は?」
「おいおい、まさか本気でわかってないな?まじ?嘘だろ、それ。馬鹿だなぁ」
「とっとと帰れ!笑いに来てんじゃねえ!僕は、君たちが嫌いだ!帰れ!」
「言ってること全部、嘘っぽい。なんで、もっと強く言えないの?声を大きくしたって意味ないぞ?圧がないんだから」
「……何言ってんだ」
「中野、わけわかんないこと言わないでよ。やめてよ、私、嫌われたくないのに」
すると、また彼は大笑いを始めた。
「え?お前ら馬鹿なの?いじめられてきた人間って人の感情の裏とか考えないわけ?考えてしまうからこそ、人と話すのが億劫になったりするんだろう?裏を読めよ、裏を」
「裏?」
「は?黙れ、帰れ」
「そんな、同じ言葉ばかり使ってると哀れに見えるぞ?哀れんで欲しくないんだろ?だったら、何度も同じ言葉使うなよ。恥ずかしい」
「中野、テメェ、本気で殴るぞ」
「無理でしょ、その足腰じゃ立つことも難しいだろ」
「……裏って、何?」
中野は、早川さんを横にずらすと僕の前にしゃがみ込んだ。
そして、僕の頬を殴った。
「っ⁉︎」
「え⁉︎な、中野!何してんの⁉︎」
「人のこと傷つけたいんだったら、早川に演技でも学べばよかったな。お前、演技下手くそでわかりやすい。嘘だってすぐに気づける。俺のこと、鈍感だとか言ってたけど、人の表情を読むのは得意な方なんだ」
おい、それは絶対嘘だろ。
「無理して、嘘ついて早川を傷つけてそれでお前は何を得られる?俺は、こいつについてきた嘘に後悔している。お前も後悔するぞ?本心を曝け出さないと意味がない。お前のそのくだらない嘘に付き合う必要は、俺たちにない」
「……嘘って、じゃあまさか」
「こいつのほぼ全部今の言葉、嘘だよ。お前のこと嫌いならなんでこんな苦しそうに言いたくなさそうに言うんだよ。言ってしまえば、ある意味哀れだよな。出来もしない、演技をしようとするから」
「ち、違う!帰れ!僕は本当に嫌いだ!」
「もう、やめろよ。見るに堪えない。気持ち悪い。お前、早川の演劇部のコンクールで何を見てたんだよ」
「……」
「嫌われた後で死のうとでもした?悪いけどね、こいつ優しさだけは人一倍あるんだ。お前のことだって本心で話せば、聞いてくれる。無駄なことせずに、さらけ出せばいいんだよ」
「……無理だ」
「はい、終わり。無理とか、できないとか、ろくでもないとか自分を卑下にするの禁止。人生、つまらなくなるぞ」
本当に哀れだったのは、自分だった。
こんなにも惨めになった。
でも、じゃあ、今まで悩んできたのは何だったのか。
「難しく考えるよな。お前らって。二人とも似てるからよくわかる。ま、俺も難しく考えてた時期もあるよ。けどね、早川のおかげで物事を軽く考えれるようになった。変に難しくするのは自分だ。大変だよ。そんな中、生きるのは。嫌な奴とは関わらなければいい」
「でも」
「また言った、こいつ。もういいって。飽きる。ほんと、つまんないこと言うよな。嫌いな奴とは、話さない。お前の弟さんとか、嫌いなら話さなきゃいいんじゃない?そう言えば、結構傷つくとおもうけどな」
「それは」
「いいじゃん。嫌な人と関わっていい思い出なんてできないから」
「家族でも?」
「そりゃ、そう」
「……」
「え、ちょっと待ってよ」
早川さんは、まだ理解できていなかったみたいで口を挟んだ。
「じゃ、じゃあ、私に言った言葉全て本気じゃなかった?」
「そりゃ、そう」
「はああああああああ⁉︎」
あ、激昂してる。
まずい。
退散、退散。
逃げようと、上半身を使って逃げようとするが、足を捕まえられ引っ張られ、戻ってきてしまった。いや、さっきよりも距離が近づいた。
「ねぇ、殺すよ?」
「……」
「頑張れ、深山。それいけ、早川」
指をバキバキ鳴らし、治りかけの腹を殴った。
「ぐはっ⁉︎」
「最低だ!この!ひどい!どれだけ傷つけられたと思ってるんだ!許さない!絶対に許さない!」
「はい、終了。殴りすぎ。マジで死ぬよ?」
「でも!」
「そもそも、そういう表情とかで見抜く心理はお前が教えてくれたことだぞ?お前、あの本読んだんじゃないの?」
「……あ、いやでも、でも違うじゃん!本気で言われてると思ったし」
「な訳。こいつ、そんな度胸ないから」
「でも……いっ⁉︎」
中野は、早川さんを引っ張り上げた。
「とりあえず、今日は帰ろうぜ」
「で、でも」
「深山、お前、逃げても追われるって思うなら、戦え。俺も、中学の時に戦ったことくらいある。部活のことで。そのあとで、逃げるのもありだ。結果を残せば、惨めに泣きつくものだからさ」
「……中野、もしかして」
「これは、経験者のアドバイス。ただ、戦うことは一人だけって決まってるわけじゃない。一人じゃなくていい。一人じゃないって思えば、力は湧いてくるものだ。これは、部活をやってると感じることだ」
「……」
「だから、そう簡単に手を差し伸べてくれる人にひどいこと言うな。いつか、苦しくなるのはお前だ。お前が助けを求めてくれなかったことに苦しさを覚えるのは俺たちだ。いつでも助けになってやる。それだけは、理解してくれ。友達だって言ってくれたろ?」
中野は、早川さんを引っ張り病室を後にした。
いつだって一人だった。一人で、いつも行動してた。戦っていた。
だけど、彼は、一人じゃなくていいと言った。
言い換えれば、戦うのは何人でもいい。
戦い方は、人それぞれである。
だとするなら、そう思うなら、誰がいるだろう。
彼らが助けを求めてくれなかったことが苦しいのなら、僕は彼らに何を言えばいいのだろう。
なんて言えばいいのだろう。
何も言えない。
言葉に知るのは難しい。
それ以上に、言葉にした後の恐怖の方が怖い。何も言えなくなってしまうのではないかと不安になる。
なら、一人で戦えばよかった。逃げるやり方さえわからないくせに、戦った。
死ぬことが逃げだといつからか錯覚した。
死ぬことは戦いの放棄だとするなら、それでもよかった。
それでもいいから、終わりにしたかった。
彼らは、もし今僕が助けを求めたらなんていうだろう。
何が言えるだろう。
助けの求め方も分からない。
甘え方だって、愛情だって怖かった。
だから、母親の愛情を拒絶した。
なぜだったか。
思い出せないし、そのきっかけさえ忘れてしまっている。
一人じゃない。
なら、戦い方を変えるべきなのだ。
常に一人だと思っていた。
一人だから、一対一になればできることも相手は複数だ。
思えば、こんなの無理ゲーなのだ。
弟、父親、母親、クラス……。
たしかに、誰もが同じ戦法じゃないのだから勝ち方にはそれぞれのやり方がある。
それぞれのやり方をどう対処するべきなのか。
一対一で一本勝負じゃないのだから、いつどこで勝負になるのかわからない。
父親のように不意打ちを突かれたら終わりだ。
病室と言い家と言いいきなりでは対処できない。
なら、その不意を突く必要があるのだ。
父親の対処も母親との距離感も弟の変貌もすべて同時進行で解決しなければいけない。
その解決方法を考える時間はある。
運がいいのか悪いのか、入院している今、考えることができる。
入院前のように学校や家事、バイトに忙殺される最中、家庭やクラスのことを考える暇なんてなかった。
今は、充分に考える暇がある。
自殺未遂をしてよかったと言っていいのだろうか。
だめに決まってる。そのまま死ねば、考えることも放棄できたのだから。
それができなかった今、また死ぬことさえできずにこのざまだ。
逃げることもできずに終わった。
また、戦うのはとても嫌だ。
だけど、戦わなくちゃいけない。
自分のために戦いたいと思うわけじゃない。
今はまだそう思えない。
いつか自分のために生きたいと思えるように戦うのだ。
……にしても、動けない。
見回りに来た看護師さんが動けず横たわる僕を見て、慌てた様子で起こし抱きかかえベッドに入れてくれた。
とてつもない黒歴史になった。
あれ?
前にも一度、こんな経験があったような……。
看護師が、ベッドに置いた僕から上体を起こした時、それは思い出した。
園児のころ、久々に酒を飲み酔ったであろう母親が僕に抱き着きそのまま眠ってしまい圧迫され死にかけた記憶。
だから僕は、今でも母親へ距離を置いてしまうのだ。
抱き着かれれば死にかねない恐れを身をもって知ったから。
+++
私は、彼に嫌われていたかもしれない。
そう思った時、涙が零れた。
あの話が、嘘だとするなら本当は安堵するべきなのかもしれない。
だけど、できなかった。
怒りもあったし、悲しさもあった。
このまま中野が来なくて、言われるがままだったら、きっと私は深山くんを嫌いになって会うこともなかっただろう。
彼は、それを望んでいたように見えた。
中野が来なければ、完璧な計画。
あのまま計画が完了していれば、またいつかどこか早いタイミングで自殺を図ったかもしれない。
どうして、隣で歩いている彼は、阻止できたんだろう。
「大丈夫か?結構、酷いこと言われてたけど」
「……」
「まあ、あんま気にすんなよ。あいつ、無理して言ってるだけだから」
「……なんで、そんなことわかるの?確かに、あの本見せたけど、でもそれだけじゃ」
「演技勉強したって、現実的にそれと同じような表情を作る人っていないだろ」
「……でも」
「男なんてプライド高いから。男にしかわからないこともあるよ。そんなもんなんだから」
「……彼、死なない?」
「死なないね」
「言い切れるんだ……」
余計、胸が苦しくなった。
あれだけ、一緒に居たのに私は、何も理解できてない。
それどころか、彼に興味の対象物でしかなかったって言われてドキッとした。
興味があったのは事実。けれど、ものとしてみたつもりはなかった。
「どうかした?」
「……え?ううん。なんか、私、酷い女だなぁって」
「……は?」
「だって、言い返せないもん。深山くんのこと、本当は好きでも何でもなくて、ただ興味があっただけって彼から言われたら……」
「……興味、って、別に好きだからって意味でもあるじゃん」
「ううん。全然、違う。だって、だってもしそうなら、私、彼の前でほかの男の話で泣かないよ……」
「……」
「気づいちゃったんだ……。彼の言ってることは間違ってないの。同じ傷を抱えている者同士なら一人じゃないって、自分が惨めじゃないって思えるから。だから、いじめも見て見ぬふりをした。気づいてたけど、知らないふりしておけば、それでも一緒に居てくれる優しい人を演じれる」
「お前」
「――私は、優しくもなんともないひどい人。彼が言うまでろくに気づけなかった。いや、気づかないふりをした。最低で最悪な」
「――違う」
「……」
「あいつは、ただそうやって思わせることでお前を傷つけようとしただけ」
「でも」
「なら、なんでお前と一緒に居ることをあいつは許すんだよ。それをわかっていて許す相手がどこにいるんだよ。なんで深山がいじめられている現場を見て、昔受けたいじめの対象になることも恐れず庇おうとした?お前が本当に最低で最悪ならあいつはお前と話さない。お前を病室に入れることもない」
「……」
「目を覚ませ。とっくにお前はデブでも何でもないっていい加減気づけ。言い返せ。俺は、お前が最低で最悪な人だとは思わない」
「……」
優しい言葉だった。
彼は、どうして私にそんな言葉をかけるのだろう。
優しい彼に私は変わらない気持ちを抱いている。
でも、きっとまた彼はその言葉を別の何かに捉える。
もし、今彼に同じ言葉を告げたなら、彼は何というだろう。
何も言わずに、ありがとうと返すだろうか。
なんだか、想像できてしまう。
なら、大胆に行くのはどうだろうか。
キスとか後ろからハグをするとか。
……違う。
まだ、その時じゃない。
彼だってそう思ってる。
「早川……、演劇のコンクール頑張れよ。俺、見に行くから」
「……。うん……。じゃあ、中野のテニスも見に行くよ。頑張ってね」
代わりにそういった。
やっぱり彼は、気づいている。
もとからそんなことには気づいていて、だけど、それを言わないようにしてる。
今度、コンクールに来てくれた時に言おう。
深山くんも呼ぶだろうか。
呼んでもいい。
それでも私は、表に立つと決めたのだから全力で演技をする。
「応援してる」
彼は、いつも通りの口調で私を見て言った。
彼を振り向かせられる最後のチャンスだと思った。
気持ちのいい天気だ。
こんな朝を毎日迎えられるのなら、どれだけいいだろう。
昼も少し暖かく薄めの長袖でも十分なこの季節。
暑さを嫌う俺としては、未だに半そでである。
目の前にいる女子は、七分袖というべきなのかそんな服を着ている。
さて、なぜ今『コネクト』の店内で同じクラスメイトの女子と向かい合って座っているのだろうか。
「お天気がよろしいようで……。ご機嫌如何?」
刹那、目の前に座る女子生徒は俺の足に蹴りを入れた。
足をぐりぐりと踏みつけると怒りを混ぜた笑顔でコップを机に置いた。
左様、分かっておりまする。
何をしたんだって思っているのだろう。
そこにいる店員、分かるぞ。俺もよくわかっているんだ。
クラスの男子たちで猥談をしていたときの話だ。
話題に上がったのは早川のこと。
それを近くで聞いていた早川の友達が告げ口をしたという。
まさか、それが深山の病室でバラされるとは思いもしなかった。
ごめんな、深山、折角協力してくれていたのに。
「ぶっ殺すよ?」
「暴言はよくない。傷つく」
「は?」
「いえ、何でもありません」
「そうだよね」
「……え、えぇ、もちろん」
今日は、彼女への謝罪として行きつけだと言う『コネクト』のスイーツを奢ることになっている。
見てください、目の前に広がるスイーツの量。
とても高校生が払うには痛い金額である。
このスイーツ、全部食べられるのか?
俺は無理だぞ?
ていうか、甘いのあんま得意じゃないし。
ブラックのコーヒーを飲んで、スイーツを食べてみても中和された試しはない。
こんな量、食べれるわけがない。
あ、いやでも、元はデブだし食べれるのか……。
これくらい朝飯と同じではないだろうか。
「何か良くないことを考えているように見えるけど?」
「まさか。そんなことより、食べさせてやろうか?少女漫画みたいで良いんじゃないか」
「殺す」
「うわぁ、殺気がすごいね」
「昔だったら喜んだかもね」
「ああ、何されてもときめくような人だったっけ?」
「言い方……。そうじゃないよ、好きな人以外は断るよ」
いつだって彼女はこうやって、友達としての好意を伝えてくる。
俺の気持ちなんてわかってないくせに、そんな風に思わせぶりなことばかりを言う。
もし、俺が今ここで好きだと、付き合ってほしいと言ったらどうなるだろう。
無理なことくらいわかってる。
早川が好きなのは俺じゃなくて、深山なのだから。
「深山のどこが好きなの?」
「ふぇ⁉」
紅茶を飲んでいた彼女は、むせて口の周りについた水滴を紙ティッシュで拭いた。
「な、何を⁉急に、なんてこと言うの‼」
「好きだろ、お前」
「……ま、まさか?そんなわけないし」
「じゃあ、なんであんなに病室に行くわけ?お前だって、部活あるだろうに休んでまで行くことか?大会近いだろ」
「……」
「バレてないと思うか?」
「別に。好きじゃない」
「嘘つけ」
今の驚いた反応で誰がそれを真に受けんだよ。
「深山のどこが好き?あいつの母親曰く飛び降りたって話だろ?だから、警察も動いたわけだし。学校には、帰ってきやすいように足を滑らしたって話を広めたけどさ。もし、本当に自殺を図ったのなら、好きになればなるほど苦しくなるだろ」
「……」
目の前に広がるスイーツのようにこの世界が、学校が、人間関係が甘いわけじゃないことくらいわかってる。
「ひどいね。変わったね、中野」
「……え?」
ひどく悲しそうな顔をしていた。
「私が転校してきた時、精神的につらかったんだよ?死にたくなることだってあった。中野が傍にいてくれたじゃん……。そばにいて、助けてくれた」
「俺は、何も」
「――してくれたんだよ。一緒に居てくれた。話し相手になってくれた。私のこと見捨てないでくれた」
「……でも」
「だって嫌じゃん。私には助けてくれる人がいるのに、深山くんにはその相手がいないなんて」
心を許してくれる相手になりたいと、彼女はつづけた。
「そう……」
「でも、好きかどうかって言われたら違うと思うなぁ。なんか、それとは違う気持ちだと思う」
彼女は気づいていなかった。
自分が、深山に対してどんな気持ちを抱いているのか。
彼女自身、理解できていない。
「……あのさ、いつまで足踏むの?」
「………うるさい」
「……」
高校入学してから彼女の性格は悪くなった。
怖いですね、女子高生。
「まあ、いいや」
足を踏まれたまま、机の隅に置かれた本を見る。
「それ、何?参考書?」
「え?……ああ、これ?演技の本」
「演技?」
「……ほら、言ってくれたじゃん。表に立てばいいのにって」
「ああ……」
「だから、やってみようかなって。部員少なくて出る人も多くするみたいだからちょうどいいなって」
「いいじゃん」
「でも、演技って難しくてさ」
「それで、その本を?」
「うん……。難しくて、嫌になる」
「見せて」
「ほい」
手渡されたその本を見ると、演技論だの表情だのそんなものが書かれていた。
逆に言えば、その表情以外のものや声音だと嘘っぽく見えるわけだ。
リアルが求められている。漫画や小説のようなリアリティよりリアルを求める。
そんな内容がズラッと書かれていた。
演技の上達のために必要なことも書かれていた。
「うわ、難しそ」
「でしょ‼」
「こんなのよくやろうと思うね。無理すんなよ?」
「無理はしてない。私がやりたいって思ったから。見に来てくれるんでしょ?コンクール」
「もちろん。にしても、これやばいな。演技を身に着けるってある意味、嘘を見抜く力にもなるわけだろ?」
「え?どゆこと?」
「なんか、これを知ってれば、相手の心情に合わせて言葉は変わる。その言葉が言いたくない言葉だったら、声音とか表情で全部察することができるとか。演技ができる人は、自分をよく魅せることも相手の痛いところを突くこともできるわけだし」
「……?」
「えっと、だからその、演技は自分を守るための武器になりえるって話」
「守るための武器……」
「人によって守り方は変わるだろうけど、これを知っていれば、察する能力とか身に付きそうだな」
鈍感だとか言われる俺にとってはちょうどいいものかもしれない。
「これをちゃんと理解できれば、人の恋心なんかも理解できるかもなぁ」
「中野はないから安心して」
「おい?ちょっと?」
「大丈夫、中野はそのままの方が、安心できるから」
「それって、恋人もできない童貞ってことが言いたいんですかね?」
「ま、そんな感じ」
「うっせえ、デブ」
ザクッと刺さるような痛みが足に来る。
「君みたいな人のことを好きになる女の子もいるんだから、言葉遣いくらい気を付けてね」
その笑みやめて?怖いよ?
「こんなやつ好きになるって、大馬鹿者くらいしかいないだろうな」
好きな人がいる早川にそんなこと言われたくはなかった。
「だから、いるんだってば!変なこと言ってるといつまでも童貞だよ」
「やめろ、刺さる」
「中野ってちょっと卑屈だよね。落ちぶれてるっていうか」
「そんなことないです」
「あるよ。もっと自分を肯定してもいいと思うんだけど?」
「そんな早川はできるのかよ。自分のこと、肯定すること」
「……それは」
「コンクール出れば、何か変わるかもな。俺は、落ちぶれてないし、すぐに童貞も捨てる。お前とは違う」
「い、いや、私も別に」
「え?彼氏いたの?」
まさか、とっくに男子とヤっていたり……。
「いないけど」
「……なんだよ」
もうこれ以上、変な話したくないってばよ。
彼氏いたくらいでショックを受けるわけにはいかないってのよ。本当に。
その日、支払金額は万桁になった。
食い過ぎなんだよこの、デブ。
すごく美味しそうに食べるので、見てる側はなぜだか嬉しかったよ。
だけど、まあ、よくあんな机に並べられたものを平らげたよな。
俺、スイーツ食ってないし。
「今日は、デートですか?」
その女性の店員さんは、気安く聞いてきた。
ふざけるな、こいつがこの店に二人できたことをデートだと思うはずないだろ。
思いあがってんのは、俺だけだからな、殺すぞ?
「え⁉で、デート……。デート、なのかな?」
やめよ?上目遣いで、そんなこと聞いてこないで?
「ただの謝罪含めたおごりですよ」
「謝罪?」
不思議そうなのは、よくわかるけど、言えない。
早川をネタにして猥談してたとか言えない。
「デートなんてそんなこと……」
俺だけが、思ってる。
彼女は、何もそんな気持ちで誘ってない。
「おいしかったです。また来ます」
「あら、食べてたっけ?」
「……え、ええ、そりゃもちろん。こいつが」
と、彼女に指さした。
食べてないこと気づいていそうだ。
店員の名札を見ると深山と書いてあり、この店の店長らしい。
「よく来てくれるものね」
「おいしいから、つい……」
なんで恥ずかしがってんの?
恥ずかしいことじゃなくない?
「嬉しいよ。また来てね。今度来るときは、デートかな?」
なぜいじる?
こっちの気持ち考えて?
できれば、デートとして奢りたかったよ?
「そ、それは……」
早川が困っている。
深山という店員さんに、俺は耳打ちした。
「デートで来れるように頑張りますね」
「え⁉」
あ、こいつ、俺の恋心、気づいてなかったな?
とっくに付き合っていると勘違いしているな?
その証拠に、デートじゃなかったのって顔してんな?
「じゃあ、また来ます」
外に出ると秋の涼しさを感じた。
「あの店長って深山と同じ苗字なんだなん」
「え?」
「いや、流石に何度も来てる場所なら知ってるだろ」
「……あ、ああ、うん。そうだね」
「見てなかったのかよ」
「知ってるよ。でも、それは違うと思うよ……」
気まずそうに目を逸らす早川。
その姿でさえ愛おしい。
「スイーツおいしかったか?」
「うん!また行こうよ」
「嫌だね。絶対、万札出すことになるから」
「じゃあ、割り勘で」
「損するの俺だけ」
「だったら、食べよぉー!おいしいのにもったいない。コーヒーだけとかもったいない。ブラックとかまずいに違いない」
「シレッと、酷いこと言ってんな」
「それ以上にひどいこと言ったのはどこの誰ですか?私のことでヤな盛り上がり方したのは誰ですか?」
「……お、俺です」
ジトッと見る彼女は、本来、本気で怒って今後関わらないこともできるのに、きっとそうしないのは、中学生の時の恩に似た何かを未だに抱えているからなのだろう。
あんなの、気にしなくていいのに。
「ま、まあ、じゃあ、また行こう。俺で良ければ一緒に行く」
「ほんと⁉じゃあ、明日も行こう‼」
「バカ言うなよ!流石にあれだけ食った次の日も食えるわけがない」
「それがなんとこの胃袋には入るんですよね!」
「四次元ポケットじゃないんだから」
「可愛さを代償にいっぱい食べられる胃袋を得たので!」
「その自虐、面白くねえ」
「え⁉」
「可愛くないって誰が言ったよ」
「……え」
あ、これ、告白の流れっすか?
ちょっと待って、違うんだ。
そうだ、話を逸らそう。
「ほら、またこんな太ってさ。腹大きいぞ」
ツンツンと触ろうとすると、彼女は二歩引いた。
「変態!」
「また今度な。明日も行ったら金欠になる」
「……ちぇ、一緒に行きたいのになぁ」
「可愛く言っても、行かねえぞ」
俺は、歩を進めた。
俺よりもきっと深山の方が良い。
早川は深山が好きだ。
あの目は、好きな人に向けるだろう。
俺は恩があるだけで、深山には恋心がある。
それだけの違い。
振り向かせることができるなら、とっくにやっていただろう。
とっくに付き合うためのデートくらい行くだろう。
できない。
早川が、深山とデートに行くとき、俺は止めるべきだった。
好きで、付き合いたいのなら、やめとけっていうべきだった。
もしかしたら、そのままやめてたかもしれない。
遅い。遅かった。
付き合う未来なんてなかった。
「おまえさ、深山のこと好きなんだろ……?」
そんな負け惜しみを彼女に伝える。
中学生の時のあの好きだという言葉を勘違いして聞いていれば、付き合っていただろうに。
俺はそんなことできなかった。
「え……」
そんな惚けた顔するなよ。
辛いんだよ。
お前が見てるのは、深山で俺じゃないことをあの病室で、一学期の教室で、出かけに行っているたびに思う。俺はお前の恋を応援したくない。
「そ、それは……違――」
「行くぞ」
彼女の言葉を聞かずに歩を進める。
何をバカなことを聞いてしまったんだろう。
きっと、今も俺のことよりも深山を想っているのだろう。
自殺を図った彼のどこを好きになったのかなんて知らない。
それでも勝てないんだ。
負けてしまっているんだ。
彼女が見ているのは、俺ではないから。
+++
中野は、部活で来れないらしい。
深山くんの病室に向かう私は、インフォメーションに行き、そのことを伝える。
「あ、よかったら、これ渡しといてもらえるます?」
「え?」
看護師であろう人が、私にそう言ってあるものを手渡した。
「深山さんと仲良いみたいね」
「……え、えっと」
「ほら、いつも来てるし」
「ええ、同じクラスで」
「そうなんだ。じゃあ、よろしくね」
自分で渡そうとは思わないのかと思ったけれど、聞かないことにした。
中野は、昨日私と『コネクト』に行った。
まさか本当に奢ってくれるとは思わなかったけれど、まあ、あれだけ酷いことを私のいないところで男子同士話していたのだからしかたない。
あんな話を誤魔化すために深山くんまで一緒になるなんて考えてもいなかったから、ショックというか少し悲しくなったというか。
そもそも私の体は、痩せたとはいえ、まだ余分な肉はある。
あれだけスイーツを食べた事もあって体重も増えた。
いや、まあ、でも深山くんが太ったことに気づくとは思えないけどね。
太った……。
なんだろう、すごいショック。
前までストレスもあって暴飲暴食を繰り返していて、自暴自棄になっていたことはあるけど、まさかここまで傷を負うとは……。
病室に向かうと声が聞こえた。
クラスの担任と深山くんの声。
とても、入れる空気じゃないことは声だけでわかった。
「学校どうする?単位とか諸々はちゃんと考えてほしいところよ」
「……そうですね」
「そんな調子じゃ、何もできないよ?そもそも、どうしてこんなことしたの?そろそろ答えてくれない?」
「……」
「中野が言ってたように、足を滑らせただけならそれでいい。ただ、担任としては、ちゃんと相談してほしい?」
「……相談したら、何か変わりますか?」
「それはもちろん。君が望むようにする」
「じゃあ、いじめに乗じた人を殺してくれとか言ったら殺します?」
「……」
「ほら、口だけだ」
「……法に乗っ取った上での話」
「いじめは、法で裁けないですもんね。ほら、少年法とか。たくさん調べました。でも、いじめに対してちゃんとした取り締まりはない」
「……」
「先生たちに何ができるっていうんですか?先生なら、先生らしく勉強だけ教えればいいじゃないですか」
「……。深山、君が飛び降りた時どう思った?怖いとか思わなかった?」
「さあ、どうだったか覚えてないですね」
「君は、人を頼らなすぎる。誰かの優しさは、無下にするものじゃない。手を伸ばしてくれる人が近くにいるなら、その人を頼ってほしい。もし、先生を頼りたくなったらいつでも言って。真剣に向き合う」
「…………。そう、じゃあ、その時が来たら」
「単位とか、その辺はこっちでなんとかするから自分の事、もっと大切にして」
話がついたのか、先生が病室から出てきた。
気まずい。
まさか、深山くんがあんな風に人を殺してと言うことがなぜだか苦しかった。
「早川」
「ど、どうも。今日、きてたんですね」
「……ええ、まあ。あなたたちといる時はどう?普通に話してくれるの?」
「はい。でも、今の深山くん怖かった」
「そうね。一学期も優等生で真面目な子だったから、保健室登校も十分すぎる理由があると思って許可したの。まさか、いじめに遭っていたなんて知らなかった」
「……」
「もし、深山のことで気になることがあったら言ってね」
歩を進める担任の背に言った。
「あの、ありがとうございます。保健室登校を許可してくれて」
「……それは、あなたが言う言葉ではないでしょ?それに、深山からも言われたわ。病室に行った日にすぐ」
「……」
「じゃあ、また学校でね」
担任は、病院を後にした。
病室に入ると、深山くんは軽く手を振った。
「元気?」
「何それ。初めて言ったね、そんなこと」
「確かに」
「そっちこそ、元気?」
「それ、私も初めて聞いた」
「確かに」
「あ、これ、さっきインフォメーション行ったらもらった。何かよくわかんないけど」
「そんなのもらって大丈夫なの?いつか、刺されるよ?」
「大丈夫。刺す側だから」
「怖いって」
「魔女ですから」
「その設定、まだあったんだ。ていうか、魔女なら言葉巧みに誘惑すべきじゃない?」
「誘惑しようか?虜になるよ?」
「大丈夫大丈夫。中野じゃないんだから」
「なんで、中野が」
「え?」
「え?」
「あ、えっと、いいや。なんでもない」
「何それ、気になる」
「野暮なこと聞くな」
「いいじゃん、教えてよ」
「まあ、まあ」
「お願いー」
ベットで座る彼の前にいく。
顔と顔の距離が近い。
誘惑する魔女なので、気にしないでどんどん近づこう。
「近いぞ」
「誘惑ってやつですよ」
待ってよ、ちょっと嫌そうな顔しないでよ。
「そんな顔することなくない?」
「こんな近いと何されてもおかしくないぞ」
「深山くんなら、大丈夫」
「んなわけない。清純派が何を言い出すんだ」
「女優じゃないし」
そんな話もしていたらしいことを私は知っている。深山くんも察したらしい。
深山くんではなく、中野だけどね。
あいつ、そんなこと言う奴だとは思わなかったけど、最低な男だ。
ああ、なんで、あんなやつ好きになったんだろう。
あんなに優しかったのに、今はよくわかんないな。わかってるくせに、分かりたくない。
今も優しくしてくるくせに、変な気分だよ……。
「はいはい。もうやめよう。わかった、降参、誘惑に負けた。負けたので、許してください」
「じゃあ、教えてよ」
「……さすがにそれは、僕から言うことじゃないから」
「ふーん、女優とか言ってたくせに?」
気まずそうな顔してる。
「もういいから。わかったから、それに僕が言ったんじゃない」
「じゃあ、誰が言ったの」
「知らない。そもそも、こんな話をしていた時、中野は嫌そうだった。それだけは知ってる」
「え?」
嫌なのに、話題になるからって深山くんにそんな話したの?
何それ、最低じゃん、うざ。
「中野も嫌がってた。それだけだから。ほら、もうこんな近くなくてもいいだろ。いつも通り、椅子に座りなよ」
「……」
「は、早川さん?」
「……」
なぜだか、涙が溢れた。
「あ、あれ、おかしいな……」
「……」
「なんでだろ。深山くんにそんな話してるなんて、嫌だな……っ。そんな話してる中野がすごく嫌い」
「……」
「全部、知っちゃってるんだよ?こんな話。嫌な話だよ。中野がそのグループで一緒になってそんな話してるの、すごく嫌だ……。男子だから、仕方ないって思ってたのにな……。なんで、こんなに許せないんだろ……。いつもなら、そんなことないのにな……」
慣れているはずなのだ。
いじめで受けた罵詈雑言も、そういう卑猥な話も。
全部、仕方ないと受け入れてきた。
逃げ出した先に、中野がいてずっとそばにいてくれて、一人にしなかった。
優しくて、逞しい。
テニスをしている姿は、カッコよくて強い。
笑顔には、ちょっとした悩みもモヤモヤも全部吹き飛んでいた。
嫌だ。
そんなこと、一緒になって言わないでほしい。
中学生の時、一回フラれた。
ただの感謝だと思われた。
苦しかった。勇気を出したのに、好意に気づかれなくて、悩んだ。
そのくせに、次の日もいつも通り接してきた。
あの優しくて、強くて、かっこいい彼は、何もなかったように話しかけてきた。
だから、私も同じようにいつも通りにした。
それから、ずっと言う機会を待った。
でも、彼との関係が終わってしまうような気がして、ためらった。
怖くて踏み出せなくなった。
もし、また告白してフラれたら彼はなんていうのだろう。
なんて返してくるだろう。
好きだと、同じ気持ちだと、付き合おうと言ってくれるだろうか。
そんなものはただの妄想で、理想。
あの彼が、高校に入って私のことをそんなふうに言っていることがとても不快で気持ち悪くて吐き気がした。
どうして、その話をやめてくれなかったのか。
どうして、一緒になって気持ち悪い話をしたのか。
どうして、どうして、どうして?
あの頃の優しくて強くてかっこいい彼はどこへ行ったの?
なんで、好きだって想う気持ちに違和感を覚えるの?それすらも気持ち悪く思うの?
「……っ。好きなのに……大好きなのに……好きで好きで堪らないはずなのに……」
「……」
優しい彼は、彼の胸板に私の顔を埋めた。
抱きしめてくれた。
でも、それが気持ち悪かった。
だって、私は、深山くんの気持ちなんて考えず、中野の面影を重ねたのだから。
それが何より、気持ち悪くて最低だった。
+++
早川さんは、中野が好きだったらしい。
彼らが何を言っていたのか、全部知っていたはずの彼女がその日、泣いた。
中野が早川さんを好きだったことくらい、わかっていたが、まさか早川さんが中野を好きだったとは思わなかった。
なんとなく、あの雰囲気からして特に気にしていないのではないかと思っていたけど、そうではなかった。
いや、女子にそんな話をして気にしない方がおかしいのかもしれない。
むしろ、それが好きな人ならば当然嫌だろう。
好きだと、泣いていた彼女に僕は何ができただろう。
あの抱きしめるという行為は正しかったのだろうか。
彼女は、あれを許してくれるだろうか。
流れるように、身を委ねるように、泣き続けた彼女に僕は、あれ以上何ができただろうか。
何かするべきだったのだろうか。
……一丁前に、人の恋について考えている。
気持ち悪いな。
何、考えているんだ。
てか、早川さんってあんなこと言われてたのに、一途に中野の事を想ってたんだ。
純粋で、いい子じゃないか。
中野、もう傷つけてやるなよ。
かわいそうだろう。
あ、僕が言わなきゃよかったのか。
ああ、憂鬱だ。
「あれ、早川は?」
「……中野」
「おっす。今日来てない?」
「ああ、さっき帰った」
「帰った?」
「なんか、予定あるんだって」
まさか、中野とあわせる顔がないからって泣きはらした顔で言われたら、こいつに言えない。
「そっか……」
「おう」
彼は、病室に入り、椅子に座る。
それから、切り出した。
「俺が、お前を守れなくてごめん」
「……え?」
「あの時、いじめの対象になるとき、俺はお前を守るべきだった。藤川と一緒にいて、助けるすべはあったはずなのに、ごめん」
「……ああ、そういうこと」
「ほんとにごめん。ずっと、考えてた。悩んでた。深山に言うべきことがあるはずだって」
「……いいよ、もう。終わった話。それに、その罪滅ぼしでわざわざ足滑らせたっていう噂流したんだろ?」
「……ああ」
「じゃあ、もう充分。友達だろ、僕たち」
「……」
悩んでいた。そんなこと、思わせてしまうほどに迷惑な人。
それが今の僕だ。
そんなある日、父親が病室に来た。
「久しぶりだね」
「……なんでこの場所が?」
そもそも家族は許可してない。
面会を断っているはずだ。
どうやって入ってこれた?
「そんな顔するなよ。あんなに許しを求めていたから来たのに」
「……」
「許してほしいんだろ?違うのなら、どうしてあんなこと言うんだ。あんなにも切羽詰まっていたくせに……。許してくれなかったら、自殺を図るってどれだけメンヘラなんだ」
「……」
「なんか言ってくれない?何をしてほしいの?何を求めてんの?気持ち悪いよ」
「……帰ってくれ」
「無理だね。わかってるだろ?お前のスマホが、なぜ安心フィルターをかけているのか。なぜそのフィルターが夜の8時から10時までなのか」
「……」
「ルールを破り続けたからだろう。そのくせ、最近連絡できる時間を伸ばしてほしいとか言ったよな。おかしくないか?人と連絡を取る前にやるべきことがあるだろう」
「なんで……。ここに来れた?」
「え?ああ、それだよ」
それを指しているのは、間違いなく早川さんが届けに来たものだった。
何が入ってるかわからないと彼女は言っていた。
「それ、斗真に渡してもらうように言ってたんだ。だけど、まさか家族と会うことは許してないみたいでね。届けてもらうには、君と同じ学校の人が必要だったみたいだ。大丈夫、音声とかは取れない。ただ、位置がわかるだけ」
「GPS ……」
「まあ、そんなとこかな。これは回収しておくね」
紙袋から、小型のGPSを取り出した。
「ちゃんと見ていれば、すぐにこれを捨てることもできたのに。でも、無理か。そんな体じゃ」
「何しに来た」
「そんな怒った顔するなよ。家族だろう?離婚したけどね。でも、家族に変わりはない。逃れられない運命だ」
「元から逃すつもりもない」
「逃すも何も逃げられないって言ったばかりでしょ?日本語わかる?」
「そうやって、束縛して楽しいか?」
「束縛?何を言っているんだ。違うよ。そんなことはしていない。俺がしたのはね、ルールだ。家族のルールがないといけないだろ?日本には、法律がある。県にも市にもルールが存在する。家族もルールがないと平和にはならないだろう」
「……ルールがないと、平和になれないのか」
「は?平和にするためのルールだ。なれないんじゃない」
「元から、僕たちを信じてなかった」
「まさか、馬鹿なこと言うなよ」
「ほんとだろ。僕らを信じてない。愛なんてない」
「フハハッ!馬鹿にしてんのか⁉︎どの口が言ってんだ!人様に迷惑かけて、クラスにも学校にも家族にも友達にも迷惑かけておいて何を言ってんだ!そんな奴が、愛を語るな!ルールを語るな!平和を語るな!心配して来てやったのに、口答えかよ。ありえない!父親に向かってどのツラ下げてんだ!馬鹿にするのも大概にしろ!なんだその目は!何様のつもりだ!なんでいつもそんな顔して俺を睨む!俺のことがそんなに憎いか⁉︎俺をそんなに嫌うか⁉︎いい加減にしろ!離婚したこと、笑ってんのか⁉︎離婚したやつに愛を語れなんて、皮肉っているのか⁉︎」
その勢いは、凄まじく血走るような目で、背筋が凍った。
「逃げるとか、束縛とか、無理なんだよ。家族から逃げることは、捨てることと同義だ。お前は、家族を捨てるのか?」
「……っ⁉︎」
「もう二度と来ることはない。いい加減なことはするなよ」
「……」
父親は、出て行った。
家族からは逃げられない。
その言葉ですぐに思い浮かべたのは藤川だった。
藤川の家庭は、彼が小学生の時にいじめを偽装されたことで信頼を失った。
両親は離婚した。父親は、家から出て行った。
藤川はその時どう思ったのだろう。
自分のことを見捨てたと思ったのだろうか。
自分から逃げて行ったのだと思ったのだろうか。
もし、今、僕の父親がそう思っているのだとしたら、きっと別居することになった時、見捨てられたのだと感じたのだろうか。
母親は、置き手紙で出ていくことを伝えた。
離婚届には名前を書いていて、当時はまだ別居する話を両親はちゃんとしていなかったそうだ。
法的な話もある。
金銭の問題もある。
だけど、僕と弟を連れて母親は別居した。
親権は、母親だった。
置き手紙を見た父親は、どう思っただろう。
なんて言葉を吐き捨てただろう。
その紙をどうしただろう。
ある日突然、パッと消えた息子たちと母親。
広い一軒家に一人。
いつも誰かがいたその家に今は誰もいない。
見捨てられた。捨てられたと思ってもおかしくないのかもしれない。
藤川もそうだったのだろうか。
もし、いじめっ子の話が嘘で、でっち上げられた事実なら、彼は捨てられたんだと思ったのだろうか。
家に帰っても、父親はいない。
母親は、ノイローゼになって入院。
誰も自分のことを信じなかった。
自分のことを見て欲しくて、良いことをしても何も思われない、感じない。
だから、いじめという悪を受け入れたのだろうか。
自分は許されない悪でいいと思ったのだろうか。
父親に嫌われた、とっくに見捨てられた子供という共通点。
藤川と僕が似ているのなら、もっと何かあっただろうか。
もっと早くに出会っていて、理解し合える関係なら、彼の寂しさも悲しさも、辛さもわかったのだろうか。
「……無理だ」
今更だった。
考えたって意味がなかった。
死んだ人のことを考えて、何になる?
誰にも愛されなかった彼を哀れんでどうする?
そんなこと、彼は望むだろうか。
僕は、そんな人になりたかったのだろうか。
そんな風に命を捨てたかっただろうか。
違う。
こんな環境から、こんな地獄から逃げたかったんだ。
今のこの生きづらさから出て行きたかった。
息もできないほどに苦しい場所から消えてしまいたかった。
だから、命を絶とうとした。
藤川は、事故死だ。
涙を流したのなら本当はもっと生きたかったはずだ。
僕は、涙を流さなかった。
生きたいと思わなかったから。
環境は似ていたかもしれない。
でも、考え方も感じ方も違った。
藤川の気持ちなんて、僕に理解はできない。
母親は、出て行きたかったのか?
生きづらいって思ったのか?
……そんな仲良くないから、わからないな。
聞きたいとも思わない。
だって、僕は母親がなんの仕事をしているのか全くわからないのだから。
藤川と同じで僕は、両親から好かれていないみたいだ。
「そういえば、この病室、誰が払っているんだ?」
家族との面会許可をしていないのは、自分だ。
また退院した時でも聞けばいい。
でも……。
それまで、生きていたいとは思えなかった。
どうして、いつまでも一人になると消えたいと思うんだろう。
消えたい夜は、いつも乾いた気持ちになる。
このまま枯れ果てて消えてしまえたら、どれだけいいのだろう。
死んでしまえたら、どれだけよかっただろう。
考えたくない。
何も感じたくない。
自己嫌悪に陥る。
この世界の空気がとても気持ち悪い。
何で、いまだに生き続けているんだろう。
久々にベットから立ち上がった。
トイレ以外で立つことがないから、足腰が弱くなっている。
そんな体で、窓まで行く。
窓に身を乗り出す。
地面が遠い。
6、7階の病室なのか。
ここからなら、確実だ。
死ねる。
……もう、いいかな。
窓を開けると、待っていたかのように気持ちのいい空気を感じた。
そうか、十月にも入って秋になったのか。
時間も季節の感覚もおかしくなっていた。
迎えに来ている。
窓の外へと体重を預ける。
めんどくさい。
何もかもが、腹立たしい。
家族も学校もすべて。
こんな窮屈な世界を広いと言ったやつはどこの誰だろう。
どう考えたら、そんな愚かな考え方になってしまうのだろう。
ならどうして、人は死んでいくのだろう。
自殺するのだろう。
自殺者が増えるのだろう。
この世界が窮屈で狭いからだ。
疲れた。
そう、疲れたんだ。
もう十分頑張った。
終わりにしたって誰も文句を言わない。
そのはずだ。
誰かの恋愛とか、誰かの死とか、誰かの別れとか、もういい。
いらない。
聞きたくない。
疲れる。
頑張った、それだけでいいじゃないか。
なんだ……、僕は、早川さんみたく泣くことはできないんだ……。
いつから、泣くことさえできなくなったんだろう。
季節感覚もなくしてしまっている。
こんな子供でごめん。
死にたいだなんて思う子供でごめん。
自殺しようとする子供でごめん。
また、自殺しようとしてごめん。
家族の愛を拒絶してごめん。
そのくせ愛を求めてごめん。
愛されようとしてごめん。
自分勝手でごめん。
誰か助けてくれないかなとか思ってごめん。
あなたのルールに従えなくてごめん。
間違っているのに文句ばかり言ってごめん。
言い訳ばかりしてごめん。
こんな僕でごめん。
もっと良い子供であればよかった。
なにもできない子供でごめん。
「なに、してんの?」
聞き覚えのあるその声。
何度も遊びに来ては、拗ねて頬を膨らませたり、かと思えば笑ったり、泣いたり。
喜怒哀楽の激しいクラスメイト。
なんどか一緒に出掛けたクラスメイト。
早川七海さんがそこにはいた。
いつか、どれくらい経ったのか、中野のことで泣いていた優しく純粋な女の子。
バカな僕は、抱きしめることしかできなかったその子が、今、ドアが閉まると同時に走って来た。
「やめて‼」
彼女は、必死な声で顔で窓から引きずり下ろした。
生まれたての小鹿くらい足に力のない僕は、床に尻もちをついた。
「何してるの⁉」
「……」
顔を合わせられない。
まさかこんな早くに来てしまうとは思わなかった。
四つん這いになりベッドに置いてあるスマホを取り時間を確認する。
四時四十分。
そっか、ここって学校から結構近いんだっけ。
自転車で二十分くらいだって言ってたな。
「外の空気を吸ってた。空気入れ替えたいなって」
嘘ではなかった。
考えれば考えるほど、そう思い行動してしまったことだった。
「ただ、ちょっとまだ足に力はいらなくてさ、落ちそうになって大変だったんだ。仕方ない、仕方ない」
「……嘘だ」
「嘘じゃないよ、ほんとだよ」
「だったらなんで、あなたの体は必死に抵抗しなかったの?腕や手は、動くはずじゃない。病室に戻ろうって力任せに動かすことだってできるはず」
「……」
考えてみれば、確かに体を動かさなかった。
見られているとは思ってなかったし、仕方ないよね。
「……ほんとは、どうしようとしてたの?」
「だから、ほんとに戻れなかったんだよ。ひやひやしてた。怖かったなー」
ベッドに縋るようにして立ち上がる。
体が重たくて、動かなくて近くの椅子に座り、壁に背を預けた。
「助けてくれてありがとね。そんな必死になるほど、心配してくれて嬉しいよ」
「……」
「ああ、やっぱ体力がないと危ないなー。少しずつストレッチをしないと。もうこんな危険なことになるならやめとくべきだったかな」
「ねえ」
「――それに、そろそろストレッチするべきだって思ってたから、いいきっかけだ。体力がないと大変な時多いもんね」
「あのさ」
「今日は、帰ってよ」
「……え?」
「少し、頭冷やさせて。この階、高くて死んじゃう、大変だ!ってなって、冷静にならないと自分自身が大変なことになっちゃうから」
「なんで」
「――いいから、帰って。帰ってほしい。お願いします」
「やめてよ」
「……」
睨みつけるその顔には、怒りがあった。悲しみがあった。
どうして、そんな風に人のことを心配できるんだろう。
どうして、この子はこんなにも純粋に人を思いやれるんだろう。
「人ってさ、バレたくないこととか、言われたくないこと、隠したいことがあるとその話題に触れられないようにべらべら喋るんだって」
「――いい加減、帰れよ‼」
怒りが込み上げた。
「私もそうだったから‼その気持ち、すごくわかる……。全部が全部わかるわけじゃないよ。でも、隠したくなる気持ちはわかる」
「そんなにわかってんなら、踏み込んでくるな!帰れよ」
「無理だよ!あなたを、死なせたくないよ……っ!」
「は?ふざけんなよ、何が死なせたくないだ、勝手に死ぬんじゃないかとか言いやがって。僕が死ぬだって?ありえない。死にはしない。だから、帰れ、いい加減帰れ」
「説得力ないよ。だって、あなたの母親、見てたんでしょ?」
「……⁉」
「私は嫌だ。あなたがどんなつもりだったのか本音を聞くまで帰らない」
「何言ってんだ‼ふざけんじゃねえぞ!」
こいつ、このままにしておくと絶対帰らなさそうだし、ここで脅してでも帰してやる。
……脅す?
え、あ、今、脅すって言った?自分で?
「は……。ハハッ!アハハッ!あああああああああああああ‼」
自分が脅すと言った。
早川さんに言ってしまったか?
わからない。
でも、脅そうとしたのは事実だ。
なんだよ、何なんだよ。
僕は、父親みたいな性格をしているのか?
いやだ、そんなの嫌だ!
父親に似たくなんかない。
そんなの絶対に嫌だ!
逃げ出したい。
この病室から、この場所から出て行きたい。
運よく力の入った足で走り出すが、それも二歩進んだところでベッドにぶつかり、うつ伏せに倒れた。
逃がしてくれない。
『逃れられない運命だ』
……どうして、逃がしてくれないんだ。
父親の言葉を思い出す。
逃げるは恥だから?
先人が、逃げずに戦ってきたから?
強大な相手を前にしたとき、どうやって戦うんだ。
武器なんてない。
戦う意思もない。
だって、負ける。
目に見えた結果だけはすぐに理解できる。
そうだろう?
今まで、勝てたことある?
父親にも負けて、弟にも負けた。
母親は、拒絶する僕のことを好きにならないし、求める僕に手を指しでくれるわけでもない。
何がいけなかったんだよ……。
同じ中学のクラスメイトと付き合ったくらいでなんで、こんなに言われなきゃなんねえんだよ。
高校にも、家族にもなんでそんな風に言われなきゃいけないんだよ‼
いいだろ、それくらい。
自由意思は尊重されないのかよ!
多様性だけが尊重されて、それに伴って、理解する人間が尊重されて、自分の意思は尊重されない、こんな世界が歪以外のなんだよ!
何なんだよ!どうして……おかしいだろ…………っ。
蹲る僕に、彼女は、静かに優しく口を開いた。
「話、聞かせてよ。私で良かったら」
見上げれば、彼女は座っていて、同情でもなく、ただただ優しいその表情に僕は、胸が苦しくなった。
わかってもらえない苦しさじゃない。
彼女は、優しすぎる。
「なんで、なんで……。なんで、こんな酷いことばかりの世の中で、君は人にやさしくできるんだよ……っ!」
「……」
「僕には、無理だ……。できない……。もう、何が正しくて、間違いなのかわからない」
「……今のその感情は正しいよ。聞かせてよ、ほんとの気持ち」
それでも彼女はそうやって、優しく言うのだ。
この時代にこんな歪で気持ち悪い世間の中に、清く純真な彼女がまぶしくて、それでいて温かかった。
「でも」
それは、怖かった。
拒絶しそうなほど、逃げ出したい。
君のその優しさが恐ろしい。
「嫌だ、言えない」
「……」
「怖い……。無理だ……っ」
「……」
「嫌われたくないんだ……っ」
父親に嫌われて、家庭が崩壊した。
男と付き合っただけで変貌を遂げた。
ただ普通に破局しただけなのに、それでも父親は多様性だの理解だの、怒鳴るようになった。
いまだに嫌われている。
ストレスのはけ口に使いやすいのは、僕だけだから、いつまでも使う。
だから、離婚した今でも父親として僕の前に出てくるのだ。
「怖い。嫌われたくない。誰にも、クラスメイトにも家族にも。逃げたくないんだ……」
「逃げたくない……?」
「逃げられないんだよ……!家族という関係は一生続く……!逃げ道があるわけない。離婚したからって何も変わらない。何も変化がない。逃げても逃げても逃げたことにならない」
「……」
「逃げられるわけがない。今までそうだった。ずっとそうだった。そのくせ、戦うこともできなかった。弱いからだ。強くないからだ。でも、強くあろうとしても、ただ強がってただけなんだ。それが、今のこれだ。地に足つけて立ちたくても、もう弱ってまともに動くこともできない。歩くことさえ怖い。何も考えず歩けたならそれでよかった。障害だって、軽いステップやジャンプで越えることができたならよかった。でも、そんなことできない。いつだって、障害はひどく大きくて、その大きさに耐えきれなくて、超えきれなくて。できないと、叩かれる。罵声を浴びる。自分にすら勝てなくて、それがもっと嫌で、逃げ出したくてももうどこにも道はない。追われて、追いつかれて逃げられない。今日を生きることさえ、嫌になる。明日なんてもっと生きたくない。生きるのが、嫌だ。足枷がついて、飛び越えるための脚力さえ奪われて、歩くことも動くことも許さない。そんな風に思える自分がもっと気持ち悪い」
一気に吐き出す、それなのに、彼女はただ黙って聞いていた。
「……ただ、付き合っただけなんだ。彼女じゃなかっただけなんだ。間違えた気分になった。自分は異端児なんだって思えた。誰も許してなんかくれない。ただのエゴだった。多様性なんて言うから、許されると思った。気持ち悪がられることなんてない風潮なんだって思ってた。間違ってないって思ってる。でも、家族や学校を見てるとそうじゃないんじゃないかって思えてくる。とっくにどこかで間違えていて、考え方なんて多様性なら、考えてみれば、否定されることもある。それくらい、すぐにわかるはずだった。けど、じゃあ、何でそれをみんなして多様性、理解なんて言葉を使ってくるのかわけがわからない。でも、もうわかるんだ。否定されたくなんかないんだ……。それなのに、僕は自分を肯定するためにその言葉を使えない。とっくに間違えてしまった人間に使えるような言葉じゃない……っ」
ただ、男子と付き合っただけ。
中学の頃、クラスメイトは言った。いいじゃん、おめでとうなんて祝った。
けど、別れたら、変わった。「やっぱ、男子と付き合うって大変だった?受け入れられないこともあるよね。無理しないで正解だよ」と、クラスメイトは僕を気遣うように言った。
恋心なんて視野に入ってなかった。僕から、別れを切り出したのもあるだろう。多様性とか言うけど、結局は、誰もがみんな受け入れられないものだと思ってた。
僕は、違った。恋をした。それだけだった。
多様性とかそんな理由で、理解があるから付き合ったんじゃない。好きだから付き合っただけなんだ。
そのくせ、僕はその言葉に違うとはいえなかった。
だって、それは多様性の中の話。僕がしたのは恋で、彼に対し、恋心を抱いただけの話。
そこに多様性も理解もない、はずなんだ……。
周りは僕を見ているんじゃない。世間体を気にしていたんだ。
「間違いなんて、とっくに犯してて、そのくせに、自分を肯定しようと必死だった。でも、家族は言った。お前が男と付き合うなんて気持ち悪い。お前、ジェンダーなのか?って。別に、僕は女子じゃない。心が女子なわけじゃない。それを許容してくれるわけじゃない。家族は離婚した。自分を肯定したい。でも、できない。離婚してしまったんじゃない、離婚させたんだ……。そんなことできるわけがない。自分が一歩踏み間違えたことで崩壊した。家族の関係なんてそんなものだった」
だから、と続けた。
「道を踏み外すのが怖い。障害が怖い。分かれ道が怖い。分岐して欲しくない。今が、怖い。今日が、怖い。明日が、怖い。生きているのが怖い。いつかまた地獄を感じてしまうんじゃないかって。この世に、生きていたくない。できれば、なかったことにして消えてしまいたい。この世が終わるより、僕一人が終わりたい。誰かが僕の人生を正解の道へ連れて行ってほしい。勝手に選択してほしい。どうか、僕を許してほしい……。もし、許されるなら僕を、正解の道に連れて行ってほしい……。誰にも叩かれない、馬鹿にされない、怒られない選択を決めてもらいたい……っ」
ずっと感じていた。
何もかもが気持ち悪かった。
世間が許しても、身内は許さない。
他人が許しても、自分は許せない。
生きることが、とても怖かった。
死んでしまうのは怖くなかった。
あの花火が、咲くとき、祝福されていると思った。
空っぽだから、空。
自殺に対して、花束を渡してくれているのだ、と思った。それでよかったんだよって。
生きるよりも死ぬことの方が楽だと思った。
こんな人生を終わらせる方がよっぽどマシなんだと思った。
死ねば、何も考えなくていいから。
地獄や天国なんて宗教の話。無宗教には関係ない。
火葬もされない。土に埋められることもない。
「ずっと……っ‼︎そう思いながら生きてきた……。これが、僕だ。深山空っていう空っぽな人間の名だ。こんな話、するべきじゃないだろう……。こんな話、聞くべきじゃない。……もう、2度と関わらないことをお勧めするよ……」
「……自分でそんなこと言わないで。自分をそんな風に言わないで。空っぽなんかじゃない」
もういい。疲れた。
誰かと関わるのも、一緒にいるのも。
君たちの優しさはとても心が苦しくなる。
一緒にいると、楽になれない。
君を傷つけて、一人になりたい。
誰にも関わらず、死ぬことができる。
「本気で言うのか……?僕は、君と出かけることにしたのは僕に何もないから。何もなくて、だからこそ何もかもできた。僕が、空っぽだから。無色透明なものに色をつけただけ。その場に何もないのに、物を置いただけ。それでもいつかは透明になる、ものも消える。僕は、君との思い出をろくに思い出すことなんてできないよ。何でもいいから、どうでもいい。どうでもいいから、ろくでもない結果を招く。君との関係性なんてどうでもよかった。他人との関係なんてどうでもよかった。きっと、めんどくさいことばかりが僕にまとわりつくから」
「私のこと、どうでもよかった……?」
あの優しい顔に傷を入れた。
泣きそうな顔で、苦しそうにいう。
そうだ、最初から彼女となんて関わらなければよかった。
人と関わらなければよかった。
誰も傷つかない、自分も傷つかない。それが、一番よかったんだ。
「……ああ、どうでもよかった。別に、嫌われなければそれでよかった。人に、迷惑かけないのなら、それでよかった。家族も学校も面倒なことにさえならなければそれでよかった」
そのくせに、自分が傷つかないために他人を傷つける。
矛盾ばっかだ。
「私は……、私は、どうでもよくなんかなかった……」
「嘘つくなよ。君は、中野が好きだろう。僕と一緒にどこかへ出かけることが理解するためには必要で、重要なことだったかもしれない。僕のことは好きじゃない。ただの興味の対象物だろ?こんな人間が居たら、気になるだろ。僕だって、そんな人見たら、そう思う。興味があれば、どうでもよくないって思うよ」
「……そんな言い方、しないでよ……」
「興味の対象物だったってだけだ。君と僕は、いじめられたっていう共通点があるから、気になったんだろう?だから、それを知るため言い合える関係になるためにどこかへ出かけた。映画も行ったし、服だって買いに行った。それは、僕を知るために必要なことでもあったから。僕と一緒に居ることで、理解できることや、同じ傷を共有して自分が、惨めじゃないって、弱くなんかないって思えるから」
「……っ」
彼女の瞳から涙が溢れる。それでいい。それでいいんだ。
僕が、傷つかないために、相手を傷つける最低な男でいい。
ろくでもない人生。今更、どうだっていい。
「君が、どう思ってもいい。それは、僕にとってどうでもいいから。興味を持った人間が僕で、ただそれが自殺を図っただけの人間だったってだけ。君は興味があったんだろう?いじめられた人が、どうやって前を向くのか。可哀想な人を前にすれば、優しさを見せられるだろう。自己満足だろう。君は君を好きになるためにこんなことしてたんだ。僕に恋心なんて一切ないくせに。まだ心の傷が癒えていないから。だから、今こうして僕に優しさを振りまくんだろう?君は、ただの偽善者だ」
最低な男の完成だった。もう少し、傷を入れて悲しませて二度と会わないようにしてやる。
お前は、邪魔ばかりする。君がいると惨めになる。
僕は、決して惨めで哀れな人間じゃない。死を通してそれを証明してやる。
「君が、中野を思い泣いた理由は、いじめから助けてくれた人が自分をそんな風に、体だけしか見ていないと思ったから傷ついたんだ。君が、僕を思うより、ずっと中野のことを想ってる。そもそも、僕じゃなくて、彼を想っていたのだから。だから、興味のある人に対して、勘違いさせるような言葉を言ってほしくなかった。僕に恋心を持たれても困るから。自分が、好意を寄せているのは、中野であって僕ではないから。僕は、ただの興味の対象物。観賞用のものでしかない」
「……違う、そんなんじゃなくて」
「違うならなんだよ。僕に話しかけてきた理由は?入学したばかりで君と関係を築いたのはそのすぐ後だ。もしも、君が僕と以前に出会っていたならわかる。でも、そんな話はなかったし、以前会ったわけでもない。君は、単純に僕という存在が気になったんだ。家庭のことで悩んでいた僕を見たことで、もしかしたら、僕をいじめられていた可哀そうな人で、同じ境遇にいたんじゃないかって。傷をなめ合える。自分以外にもいたんじゃないかって、一人じゃなかったんだって思えるから……。僕に話しかけたんだろ……っ?」
僕は、人から見れば、惨めで哀れで可哀そうな人だから。
精神的に追い詰められていた人の表情を見れば、同じ境遇の人なら察することができる。
ゲイが、ゲイなんじゃないかって憶測を立てたように。
自分と同じ人がいると安心感があるのは、自分よりも弱い人がいるからだ。
弱い人を見ると、安心する、落ち着く、自分は惨めじゃないと思えるから。
太田が、周りを考えずに僕をゲイだと推測し、広まるようにしたのは、自分と同じ人がいてほしいから。
多様性を謳う哀れな時代で、味方が欲しい。マイノリティのこの時代で、少数と言われる人たちが自分はゲイだと言えるように。
誰もがみんな、ゲイだと、レズだと言えるような、言わずとも付き合えるような優しい世界じゃないから。
いつも隠れて、僕みたいにいじめられないように生きるしかないのだから。
この狭い檻の中で生きるにはそれしか方法がないのだから。
「僕は、惨めなんかじゃない!君は、惨めだとか、こちら側の人間だとか思うかもしれない。それでも、違うんだ。君は、僕とは違う。中野から聞いた。君は、太っていたみたいじゃないか。それが原因で、いじめを受けた。それで転校した。そして、高校入学すると自分に似たような人がいた。気になるし、興味も沸く。君は、そんな僕を見て少しは安心したんじゃないか?僕が……、僕がいることでまだ底にまで落ちていないから」
「……違う…………違うよ……っ!そうじゃなくて……」
「そうじゃなかったらなんだよ。なんで、僕の病室に毎日のように来る?何でもない話を、普通にできる?日常的な会話をする?中野を連れて話を盛り上げようとする?」
彼女を睨みながら言った。
「君が、僕よりも可哀そうな、哀れな人間じゃない、そして、優しくて純粋に思える人間だって思わせるためだろう?」
それに、と続けた。
「中野は、そういう優しくて純粋な人間好きだもんな。一石二鳥じゃないか。中野の好きなタイプになれて、最高にいい気分だろう」
純粋だと思ったのは事実だ。
だけど、彼女がいじめを受けていた事実は中野から聞いていた。
最近、教えてくれた話だ。
太った腹をつまんで、怒って殴っただけで、それからも関係は良好なままだったと聞いたとき、中野に対して少なからず好意を抱いているのだと思った。
あの中野に対して怒り、僕に微笑みを見せた彼女が、今でも一緒に中野といる理由はわからなかったけど、今はよく理解している。
早川さんは、中野のことが本気で好きなんだ、と。
腹をつまんだら、怒る女子の方が多いだろうし、余計なこと言っても許してしまうのは、やっぱり好きだから嫌われたくないと思ったことこそが理由だ。
中野は、恋愛感情というものに対して鈍感だ。
僕よりも鈍感だ。いや、僕は鈍感じゃない。
「中野は……」
「――関係あるよ。ないなら、なんで、中野はこの病室に来るのさ……。君が呼んだからじゃないの?同じ境遇の人を見ていると自分はまだ弱者じゃないって思えるから」
純粋な彼女に、言いたくない言葉だった。
中野のことが好きな彼女。
こんな言い方しなくたって、彼女は中野となんだかんだあってもくっつくだろう。
彼女の差し伸べた手に、取り合うことができないのは、きっと彼女の本来見ている好意を寄せる相手を知っているから。
彼女に迷惑かけたくない気持ちが、こんなことを言わせているのかもしれない。
自分が嫌われることで、中野への想いを確信的なものへと変化させるために。
それでも、思うのは、純粋な彼女へひどいことを言ってしまったという後悔だった。
だから、最後まで徹底して嫌われるようにする言葉が必要なのだ。
「僕は……、君が嫌いだ……。弱い君を僕に重ねて、優しい自分を演じていることが……。優しくて、自分は、劣等生ではなく、優等生なのだと自己逃避を行おうとする、その隠れた感性がとても嫌いで気持ち悪いことで、それでいて、吐き気を催すほど邪悪で、純粋でも何でもなく、それこそ魔女であることが、とても嫌いで苛立ちを覚えることだって、理解したから……。君が嫌いなんだ……」
僕は、すべてを言った。
言っているうちに思ったこともあった。
惨めな自分を見て、自分はそうじゃないと思う君を見て、僕は僕を哀れで誰よりも底辺なんだって思ってしまうから。
君と一緒に居るのが苦しい。
だから、離れてほしくて、興味を失ってほしくて冷たい態度も取った。
……もう、僕の周りにいないでほしい。
君みたいな純粋な人が、僕と関われば、ろくな目に逢わない。
くだらないって、僕を見下して嗤っていてほしい。
自殺なんてことを考えずに済むのだから。
君をここで最大限傷つけて僕との関係に終わりを告げてほしい。
君に、僕の気持ちを理解してほしくないから。
君には、僕よりもお似合いな人がいて、大切にできる人がいるのだから。
僕の人生に君は本来、必要のない、いらない存在なのだから。
「…………そんな、そんなわけ………っ」
「もう、帰れよ。僕は君のこと大嫌いだ」
「…………っ!」
彼女は、泣いた。
その場で泣いた。
嗚咽を漏らしていた。
その姿を、どうして僕は喜べないのだろう。
喜んで笑って、軽蔑させればそれだけでいいのに。
「おい」
扉から入ってきたのは、中野だった。
「全部、聞こえてんぞ」
「中野、いいとこにきた。さっさとこの最低な女と一緒に帰ってくれ。こいつの涙とか気持ち悪くて見てられないんだ」
「……」
「…………なんで、そんな言い方するの……っ」
中野は、面白かったのか大笑いした。
「おいおい、ちょっとやめろよ。面白すぎるって。俺も馬鹿にされすぎだよな。途中から聞いてたけどさ、馬鹿だってそれは。流石に、そんな嘘誰でも見抜けるぞ?」
「は?」
「おいおい、まさか本気でわかってないな?まじ?嘘だろ、それ。馬鹿だなぁ」
「とっとと帰れ!笑いに来てんじゃねえ!僕は、君たちが嫌いだ!帰れ!」
「言ってること全部、嘘っぽい。なんで、もっと強く言えないの?声を大きくしたって意味ないぞ?圧がないんだから」
「……何言ってんだ」
「中野、わけわかんないこと言わないでよ。やめてよ、私、嫌われたくないのに」
すると、また彼は大笑いを始めた。
「え?お前ら馬鹿なの?いじめられてきた人間って人の感情の裏とか考えないわけ?考えてしまうからこそ、人と話すのが億劫になったりするんだろう?裏を読めよ、裏を」
「裏?」
「は?黙れ、帰れ」
「そんな、同じ言葉ばかり使ってると哀れに見えるぞ?哀れんで欲しくないんだろ?だったら、何度も同じ言葉使うなよ。恥ずかしい」
「中野、テメェ、本気で殴るぞ」
「無理でしょ、その足腰じゃ立つことも難しいだろ」
「……裏って、何?」
中野は、早川さんを横にずらすと僕の前にしゃがみ込んだ。
そして、僕の頬を殴った。
「っ⁉︎」
「え⁉︎な、中野!何してんの⁉︎」
「人のこと傷つけたいんだったら、早川に演技でも学べばよかったな。お前、演技下手くそでわかりやすい。嘘だってすぐに気づける。俺のこと、鈍感だとか言ってたけど、人の表情を読むのは得意な方なんだ」
おい、それは絶対嘘だろ。
「無理して、嘘ついて早川を傷つけてそれでお前は何を得られる?俺は、こいつについてきた嘘に後悔している。お前も後悔するぞ?本心を曝け出さないと意味がない。お前のそのくだらない嘘に付き合う必要は、俺たちにない」
「……嘘って、じゃあまさか」
「こいつのほぼ全部今の言葉、嘘だよ。お前のこと嫌いならなんでこんな苦しそうに言いたくなさそうに言うんだよ。言ってしまえば、ある意味哀れだよな。出来もしない、演技をしようとするから」
「ち、違う!帰れ!僕は本当に嫌いだ!」
「もう、やめろよ。見るに堪えない。気持ち悪い。お前、早川の演劇部のコンクールで何を見てたんだよ」
「……」
「嫌われた後で死のうとでもした?悪いけどね、こいつ優しさだけは人一倍あるんだ。お前のことだって本心で話せば、聞いてくれる。無駄なことせずに、さらけ出せばいいんだよ」
「……無理だ」
「はい、終わり。無理とか、できないとか、ろくでもないとか自分を卑下にするの禁止。人生、つまらなくなるぞ」
本当に哀れだったのは、自分だった。
こんなにも惨めになった。
でも、じゃあ、今まで悩んできたのは何だったのか。
「難しく考えるよな。お前らって。二人とも似てるからよくわかる。ま、俺も難しく考えてた時期もあるよ。けどね、早川のおかげで物事を軽く考えれるようになった。変に難しくするのは自分だ。大変だよ。そんな中、生きるのは。嫌な奴とは関わらなければいい」
「でも」
「また言った、こいつ。もういいって。飽きる。ほんと、つまんないこと言うよな。嫌いな奴とは、話さない。お前の弟さんとか、嫌いなら話さなきゃいいんじゃない?そう言えば、結構傷つくとおもうけどな」
「それは」
「いいじゃん。嫌な人と関わっていい思い出なんてできないから」
「家族でも?」
「そりゃ、そう」
「……」
「え、ちょっと待ってよ」
早川さんは、まだ理解できていなかったみたいで口を挟んだ。
「じゃ、じゃあ、私に言った言葉全て本気じゃなかった?」
「そりゃ、そう」
「はああああああああ⁉︎」
あ、激昂してる。
まずい。
退散、退散。
逃げようと、上半身を使って逃げようとするが、足を捕まえられ引っ張られ、戻ってきてしまった。いや、さっきよりも距離が近づいた。
「ねぇ、殺すよ?」
「……」
「頑張れ、深山。それいけ、早川」
指をバキバキ鳴らし、治りかけの腹を殴った。
「ぐはっ⁉︎」
「最低だ!この!ひどい!どれだけ傷つけられたと思ってるんだ!許さない!絶対に許さない!」
「はい、終了。殴りすぎ。マジで死ぬよ?」
「でも!」
「そもそも、そういう表情とかで見抜く心理はお前が教えてくれたことだぞ?お前、あの本読んだんじゃないの?」
「……あ、いやでも、でも違うじゃん!本気で言われてると思ったし」
「な訳。こいつ、そんな度胸ないから」
「でも……いっ⁉︎」
中野は、早川さんを引っ張り上げた。
「とりあえず、今日は帰ろうぜ」
「で、でも」
「深山、お前、逃げても追われるって思うなら、戦え。俺も、中学の時に戦ったことくらいある。部活のことで。そのあとで、逃げるのもありだ。結果を残せば、惨めに泣きつくものだからさ」
「……中野、もしかして」
「これは、経験者のアドバイス。ただ、戦うことは一人だけって決まってるわけじゃない。一人じゃなくていい。一人じゃないって思えば、力は湧いてくるものだ。これは、部活をやってると感じることだ」
「……」
「だから、そう簡単に手を差し伸べてくれる人にひどいこと言うな。いつか、苦しくなるのはお前だ。お前が助けを求めてくれなかったことに苦しさを覚えるのは俺たちだ。いつでも助けになってやる。それだけは、理解してくれ。友達だって言ってくれたろ?」
中野は、早川さんを引っ張り病室を後にした。
いつだって一人だった。一人で、いつも行動してた。戦っていた。
だけど、彼は、一人じゃなくていいと言った。
言い換えれば、戦うのは何人でもいい。
戦い方は、人それぞれである。
だとするなら、そう思うなら、誰がいるだろう。
彼らが助けを求めてくれなかったことが苦しいのなら、僕は彼らに何を言えばいいのだろう。
なんて言えばいいのだろう。
何も言えない。
言葉に知るのは難しい。
それ以上に、言葉にした後の恐怖の方が怖い。何も言えなくなってしまうのではないかと不安になる。
なら、一人で戦えばよかった。逃げるやり方さえわからないくせに、戦った。
死ぬことが逃げだといつからか錯覚した。
死ぬことは戦いの放棄だとするなら、それでもよかった。
それでもいいから、終わりにしたかった。
彼らは、もし今僕が助けを求めたらなんていうだろう。
何が言えるだろう。
助けの求め方も分からない。
甘え方だって、愛情だって怖かった。
だから、母親の愛情を拒絶した。
なぜだったか。
思い出せないし、そのきっかけさえ忘れてしまっている。
一人じゃない。
なら、戦い方を変えるべきなのだ。
常に一人だと思っていた。
一人だから、一対一になればできることも相手は複数だ。
思えば、こんなの無理ゲーなのだ。
弟、父親、母親、クラス……。
たしかに、誰もが同じ戦法じゃないのだから勝ち方にはそれぞれのやり方がある。
それぞれのやり方をどう対処するべきなのか。
一対一で一本勝負じゃないのだから、いつどこで勝負になるのかわからない。
父親のように不意打ちを突かれたら終わりだ。
病室と言い家と言いいきなりでは対処できない。
なら、その不意を突く必要があるのだ。
父親の対処も母親との距離感も弟の変貌もすべて同時進行で解決しなければいけない。
その解決方法を考える時間はある。
運がいいのか悪いのか、入院している今、考えることができる。
入院前のように学校や家事、バイトに忙殺される最中、家庭やクラスのことを考える暇なんてなかった。
今は、充分に考える暇がある。
自殺未遂をしてよかったと言っていいのだろうか。
だめに決まってる。そのまま死ねば、考えることも放棄できたのだから。
それができなかった今、また死ぬことさえできずにこのざまだ。
逃げることもできずに終わった。
また、戦うのはとても嫌だ。
だけど、戦わなくちゃいけない。
自分のために戦いたいと思うわけじゃない。
今はまだそう思えない。
いつか自分のために生きたいと思えるように戦うのだ。
……にしても、動けない。
見回りに来た看護師さんが動けず横たわる僕を見て、慌てた様子で起こし抱きかかえベッドに入れてくれた。
とてつもない黒歴史になった。
あれ?
前にも一度、こんな経験があったような……。
看護師が、ベッドに置いた僕から上体を起こした時、それは思い出した。
園児のころ、久々に酒を飲み酔ったであろう母親が僕に抱き着きそのまま眠ってしまい圧迫され死にかけた記憶。
だから僕は、今でも母親へ距離を置いてしまうのだ。
抱き着かれれば死にかねない恐れを身をもって知ったから。
+++
私は、彼に嫌われていたかもしれない。
そう思った時、涙が零れた。
あの話が、嘘だとするなら本当は安堵するべきなのかもしれない。
だけど、できなかった。
怒りもあったし、悲しさもあった。
このまま中野が来なくて、言われるがままだったら、きっと私は深山くんを嫌いになって会うこともなかっただろう。
彼は、それを望んでいたように見えた。
中野が来なければ、完璧な計画。
あのまま計画が完了していれば、またいつかどこか早いタイミングで自殺を図ったかもしれない。
どうして、隣で歩いている彼は、阻止できたんだろう。
「大丈夫か?結構、酷いこと言われてたけど」
「……」
「まあ、あんま気にすんなよ。あいつ、無理して言ってるだけだから」
「……なんで、そんなことわかるの?確かに、あの本見せたけど、でもそれだけじゃ」
「演技勉強したって、現実的にそれと同じような表情を作る人っていないだろ」
「……でも」
「男なんてプライド高いから。男にしかわからないこともあるよ。そんなもんなんだから」
「……彼、死なない?」
「死なないね」
「言い切れるんだ……」
余計、胸が苦しくなった。
あれだけ、一緒に居たのに私は、何も理解できてない。
それどころか、彼に興味の対象物でしかなかったって言われてドキッとした。
興味があったのは事実。けれど、ものとしてみたつもりはなかった。
「どうかした?」
「……え?ううん。なんか、私、酷い女だなぁって」
「……は?」
「だって、言い返せないもん。深山くんのこと、本当は好きでも何でもなくて、ただ興味があっただけって彼から言われたら……」
「……興味、って、別に好きだからって意味でもあるじゃん」
「ううん。全然、違う。だって、だってもしそうなら、私、彼の前でほかの男の話で泣かないよ……」
「……」
「気づいちゃったんだ……。彼の言ってることは間違ってないの。同じ傷を抱えている者同士なら一人じゃないって、自分が惨めじゃないって思えるから。だから、いじめも見て見ぬふりをした。気づいてたけど、知らないふりしておけば、それでも一緒に居てくれる優しい人を演じれる」
「お前」
「――私は、優しくもなんともないひどい人。彼が言うまでろくに気づけなかった。いや、気づかないふりをした。最低で最悪な」
「――違う」
「……」
「あいつは、ただそうやって思わせることでお前を傷つけようとしただけ」
「でも」
「なら、なんでお前と一緒に居ることをあいつは許すんだよ。それをわかっていて許す相手がどこにいるんだよ。なんで深山がいじめられている現場を見て、昔受けたいじめの対象になることも恐れず庇おうとした?お前が本当に最低で最悪ならあいつはお前と話さない。お前を病室に入れることもない」
「……」
「目を覚ませ。とっくにお前はデブでも何でもないっていい加減気づけ。言い返せ。俺は、お前が最低で最悪な人だとは思わない」
「……」
優しい言葉だった。
彼は、どうして私にそんな言葉をかけるのだろう。
優しい彼に私は変わらない気持ちを抱いている。
でも、きっとまた彼はその言葉を別の何かに捉える。
もし、今彼に同じ言葉を告げたなら、彼は何というだろう。
何も言わずに、ありがとうと返すだろうか。
なんだか、想像できてしまう。
なら、大胆に行くのはどうだろうか。
キスとか後ろからハグをするとか。
……違う。
まだ、その時じゃない。
彼だってそう思ってる。
「早川……、演劇のコンクール頑張れよ。俺、見に行くから」
「……。うん……。じゃあ、中野のテニスも見に行くよ。頑張ってね」
代わりにそういった。
やっぱり彼は、気づいている。
もとからそんなことには気づいていて、だけど、それを言わないようにしてる。
今度、コンクールに来てくれた時に言おう。
深山くんも呼ぶだろうか。
呼んでもいい。
それでも私は、表に立つと決めたのだから全力で演技をする。
「応援してる」
彼は、いつも通りの口調で私を見て言った。
彼を振り向かせられる最後のチャンスだと思った。