飛び降りると言う行為は、あまり良いものではなかった。
母親の車を大破させ、早川さんはそれを目撃して、それによって警察が動いて、クラスメイト、家族に事情聴取するということまで行ったのだ。
あの車を早川さんは、『コネクト』でもよく見る車だと言っていた。見間違いにもほどがある。
それなのに、早川さんも中野もわざわざ見舞いに来る。
何度か断っていたけど、あまりにも来るのでついに折れてしまった。
やってしまったと、今では後悔している。
二人が目の前でべらべら喋っているので、それに付き合うことがとても大変だったことに怒りすらわいている。
しかし、今日の二人はいつもと違う。
雰囲気が違うと言うべきだろうか。
骨折した箇所もだいぶ良くなったそうで、ギプスが外れているこの体は、動くたびに錆びた機械のようなギシギシとした痛みを感じる。
そんな痛みの中、体を起こし二人に聞く。
「何かあった?すごい嫌な空気が流れてるんだけど」
夏祭りの日以降、四日間目を覚まさなかったという僕は、目が覚めると一人用の病室にいた。
地獄にでも来たんだろうかと思ったその天井は、病室で、そもそも天国も地獄も存在するわけがないだろうがと、心の中で思った。
この病室ではどんな話でもできる。
騒ぎすぎて、怒られていた早川さんをどう思うかは別だけど。
「あ、いや、別に」
何とも歯切れの悪い返しだ。
八つ裂きにしてやろうか。
「あんまりいい話じゃなくてさ。その、それに深山はあまり知らない方が良いっていうか」
中野まで反応に困っているのかよ。
八つ裂きにしてやろうか。
「そ、そういえば、お前の弟、病院に何度か来てたみたいだけど」
「――話変えるの下手くそかよ」
「……だって、深山くんには言えないよ」
言えないならせめてその顔をやめろ。
言いたいけど、自分からは言わないし、聞いてほしいみたいな表情だっただろうが。
「わかった俺が言ってやろう」
お前、躊躇ったくせにどこからそのどや顔が出せるんだよ。
やっぱ、八つ裂きにしてやろうか。
「藤川が死んだ」
その言葉を飲み込むには、時間が必要だった。
二人が悲しんでいる理由も、辛そうにしている理由も俺には理解できなかった。
だって、あのいじめっ子が死んだんだぞ?
そんなの嬉しいに決まってるじゃないか!
なんで?なんで、そんな憂鬱な顔してんだよ!
喜べよ!祝えよ!
中野の言葉を理解できるとすぐにそんな気持ちになった。
こんな醜い言葉を自分が思えてしまう。
それはひどく気持ち悪くていつから、こんなにも汚いものへと変わってしまったのだろう。
……ああ、いや、中学生の時からか。
思えば、彼氏を作った日から家族は変化した。
父親は、今まで見せなかった怒りをぶつけるようになった。
家族の恥さらしだ、と。お前は、いつからそんな感性になってしまったのか、育て方を間違えたのか、と。
男と付き合ったことを後悔したことはない。ただ、あれ以降何かを始めても続かなかった。勉強しても集中できなくなった。
親の教育方針に従えなかった。
家族の恥だと言ったあの言葉は今でも覚えてる。
今の時代であれど、多様性なんてものは肯定することだけじゃない。
否定されても仕方ない。
間違ってるわけじゃない、ただ、その事象を嫌っているのだ。
アニメを嫌う人がアニメの文句を言うように、別にアニメの存在を間違っていると言ってるわけじゃないのだから。
多様性とは、価値観を尊重したうえでの本人の気持ちだろう。
理解があるとか、認めるとかそんな言葉があっても人は、心の言葉まで理解できない。
本当は、気持ち悪いと思っている人でもそれを言わない。
言ってはいけないから。
言ってしまえば、社会から省かれてしまうから。
母親も変わった。
父親がそんな風に僕に当たることを知った。
誰から聞いたのかなんて知らない。父親は、母親がいないところでいつも叩いてくる。
中学三年生の受験勉強を始めたときのことだ。
母親は、なにやら不動産を調べていたみたいで、候補を何個か上げた。
『物件、どこにしようか迷ってるの』
最初は、そんなことだった。
パソコンの隣に伏せてある写真もきっと不動産なのだろう。
でも、何を言ってるのかわからなかった僕は、どうして?と聞くほかなかった。
『離婚を考えてるの。そのために別居しようと思う』
頭から離れなかった。
察してしまったんだ。自分が、父親に叩かれていることも屈辱的な言葉を毎日聞いていることも全部、知っているんだ、と。
僕のせいで離婚する。
僕が男と付き合ったから離婚した。
中学三年の夏、別居した。
環境の変化に耐えれず、自分のせいだと責任を感じた。
母親に何度も謝罪した。
父親とのことを知っている母親は、あなたのせいじゃないと言っていたけど、そんなものは違う。
頭を垂れても、謝っても何も変化はない。
当然だ。事後なのだから。
離婚もした。別居もした。環境も変わった。
母親は、夜遅くまで働いていた。
誰のせい?……僕のせい。
なぜ?……彼氏を作ったから。
どうして?……彼氏を作るのも悪くないかなって思った。
いつから?……中学一年生の冬から。
勉強しても身が入らなくなった。
誰のせいでこうなったのか考えれば考えるほど、同じ結果で責める気持ちは増していった。
成績も落ちていった。
気が付けば、行ける高校も減った。
担任には心配された。色々あったと思うし、何でも相談乗るから気軽にねと。
無理だった。ダメだった。
こんな状況を作ってしまった僕が、相談に乗ってもらうなんてありえない話。
弟の態度も変わった。
今まで、明るく話しかけてきた弟もこんな状況では話したくないみたいで、避けるようになった。
高校に入学してすぐに言われた。
『俺は、受験生だから、家事全般よろしく。あと、お金もないらしいからバイトして』
断ることはできなかった。誰のせいでこうなったのか。
わかってる。
だから、分かりましたと、答えた。
それから、早く帰らないといけない日々が続いた。
高校は、弟の通う中学よりも遠いけど、部活を終え、受験に向けた勉強を進める彼は、プレッシャーやストレスによって僕に当たるようになった。
部活が終わって、すぐに風呂に入り夕飯を取りたい彼は、一つでも何かできていないとものに当たり怒りを露にした。
何度も罵声を浴びせた。
その時、気づいてしまった。父親に似ている。
怒り方も、その目付きもすべて似ていた。
もし、僕が怒ったらこんな風に父親に似るのだろうか。
弟を見るのが怖くなった。
もう、怒らないでください、許してください、頭を垂れて謝っても変化はなかった。
それどころか、エスカレートする一方だ。
僕のせいでこうなった。
そのくせに、謝罪して責任を軽くしようと甘んじた。
自分のせいなのに……。
逃げることさえできなくなった。
家と言う檻の中、家族という監獄。
逃げ場はどこにもなかった。
逃げ道はなかった。
逃げた先に希望があるとは思えなかった。
中学生のころから、汚く醜いものになった。
自分が自分でやったことなのに、誰かのせいにする無責任な人。
それが、僕だった。
あれからずっとこんなにもどす黒いものを感じていたんだ。
そんな中、学校でも藤川といういじめっ子がいた。
「そっか」
彼らは、驚いたようだった。
「何も思わない?」
「うん、別に」
「……深山の弟が、藤川と仲良かったことも?」
「え?」
「え?」
「は?」
「あれ?」
「何それ」
「知らないの?」
「知らないけど」
なんで、弟が藤川と仲良くなってるんだよ。
絶対、いじめてること知ってるだろ。
「弟さん、藤川とすごく仲良かったみたいで今日の葬儀にもいくみたい」
早川さんはそういった。
「家族葬らしいから、俺たちも、本当は弟さんもいけないはずなんだけど、母方の父母が許したみたい」
「……」
「何が、そうさせたのかわかんないけど、弟さん曰く、もっと一緒に居たかったっていうほどらしい」
「中野たちは、会ったことあるのか?弟に」
「いや、警察から聞いた。俺たちも藤川について軽く聞かれたし」
「等価交換とか言って、聞いたらしいよ。バカだよね」
と、中野を睨む早川さん。
「知りたくないこと、バンバン話してくれた。そこまで求めてねえよって思ったし、警察が口軽くてどうするんだよって思った」
凄く嫌そうな顔。
軽く聞いてしまったが故に、相当重たい内容だったのかもしれない。
中野なら軽く聞いていそうだし……。
「何聞いたんだよ」
気になった。藤川がどんな生活をして、死に至ったのか。
「事故死なんだって。それに駆け付けたのがお前の弟。最後、涙を流してたらしい」
いじめた分際でよくもまあそんなことができるよな。
「日記とか、遺書とか出てきたんだって」
そんな真面目な奴には見えなかったけどな。
「親が好きで、好かれたくて必死だったけど、小学六年の時にいじめっ子として名が挙がって親が呼ばれたんだって」
「文脈なさすぎない?」
「……。えっと、なんていうのがベストかわかんねえんだよ。元々、いじめられてたやつをいじめっ子から解放したらしいんだけど、それがいじめっ子からしたら気に食わなくて、いじめられてたやつに藤川がいじめてきたんですって言えば、いじめてないって言われたみたいで」
「それって、でっち上げたってこと?」
「まあ、そんな感じ。それ以降、親は、藤川を好きになれなくて、中学に上がるころ離婚したらしい」
だから、母方の父母って言い方をしたのか。
「……」
「藤川の母親は、いじめっ子だったことを知って、気を病んだらしい。中学の先生から呼ばれて、いじめていたという話が浮上した時からひどくなって、入院したんだって」
「その母親、この病院にいるみたいなの」
と、早川さんは付け足した。
「だから、藤川と弟は出会ったのか」
それ以外に、接点がない。
「それから、自暴自棄になったみたいな話を警察がべらべらとするもんだから、こっちが参ったよ」
「そう。だから、いじめは許してあげろとでも言われたのか」
「そんなんじゃないけど、なんていうか、同情するっていうか」
「ふざけんな。そんなのあるわけないだろ。いじめをする理由にそんな過去を作ればいいだけだ。小学生の時の日記は?それがあったとしても、自分でそういうなら簡単だろ。あいつは、そういうやつだ。嘘でも平気で言う」
「嘘?例えば?そんな話、知らないなぁ」
そもそも、藤川とあんま仲良くなかっただろ、早川さん。
「教えてよ」
「……」
言えない。言えるわけがない。早川が僕のことを好きだと嘘ついたことを言えるわけがない。
「いや、まあ、それなりに」
「……?え、教えてくれないの?」
「まあ、良くない話もあるし。嘘じゃなくてもあいつやばいから」
「例えば?教えてくれても良くない?」
無理です、絶対無理です。
早川は、絶対に胸がでかいぞ、ボンキュッボンだぞ!なんて言って猥談してたとか言いたくないです。それ以上のことも言ってたし……。
ほら見ろ、会話に参加してた中野もちょっと気まずそうな顔してる。
「えぇ?ダメなの?じゃあ、中野教えてよ」
「は⁉な、なにを、何を言うんだね……」
「いいじゃん。どうせ、ろくでもない話でしょ?大丈夫、中野がデブデブ言うから慣れてるよ」
もっと、酷い話をしてた彼らを早川さんは知らないんだろうな。
部活に顔出してたし、小道具が完成しないからとか言ってほとんどいなかったもんな。
「な、慣れていても、慣れていないこともあるはずで……。それは、まあ、うん、やめとこうよという話でありますのよ……」
言葉遣いおかしくなってるぞ。
藤川と関わっていたツケが回って来たな。
残念だなぁ。
中野、早川さんのこと好きそうなのに、こんな質問されちゃって。
冷められて付き合えなくなる可能性も出てきたな。
早川さんも、中野のこと他とは違う目で見て、笑うことあるし。
「変なのー……」
「あ、そうだそうだ。藤川がいなくなった今、いじめとかないし、お前に会いたいクラスメイトもいるし、治ったら学校来いよ。足滑らしたってことで、自殺の意図はないって説明してるから大丈夫!」
……学校、か。
彼らが帰ったあと、よく考える。
学校に行きたくない。
できれば、このままけがが治らず退院せず、学校に行けなくなればいい。
転校とか、出来ないかな……。
「話逸らすの下手だよね、中野って」
と、僕に向かって笑みを浮かべた。
とても怖かったとは言いません。
「そ、そうだね」
「ああああ、じゃあ、あれは?退院したらどっか三人で出かけないか?」
「いいねそれ!」
乗っかることにした。
もし、中野がミスをして藤川とほかの男子で話していたことがバレたら、僕にまで被害が及ぶ気がしたからだ。
「だよな!県内でも県外でもいいし!」
「いいねいいね。遠出もいいかもしれない」
「それな!よし、場所決めようぜ!」
「県内か県外か。この時期だし、冬休みとかの方が良いのかな」
「遠出ならそっちだろうな!」
「近ければ、べつにいつでも行けそうだな」
「どっちも行くか!」
「いいね」
「――ねえ」
早川さんの低い声で、会話はかき消された。
「そこまでして逸らす必要なくない?」
ジトッとした目で、睨まれる。
え、いや、ちょっと待って、話逸らしたの中野ですよ⁉
プクッと膨らませた頬は、だんだん萎んでいき、ため息をついていた。
「だって、聞いたもん。私のこと、ボンキュッボンとか。使えなくなったら捨てればいい
とか、使い回したいとか言ってたんでしょ」
その日、僕たちは、男の結束力も消え、早川さんに負けた。
隣に座る中野は、そーっと逃げようとしたが、軽く引っ張られ逃げ場を失った。
「最低」
さっきと同じ低い声で鋭利な刃物のように睨みつけていた。
殺気が溢れていた。
中野、もう付き合うこともできなくなっただろうね。
「深山くんまで中野に合わせる必要なかったじゃん……」
「な、中野、お前のせいだ。僕はやりたかったわけじゃない」
しかし、彼女の奇麗な瞳から放たれる怒りの視線はそう簡単に逃がしてはくれない。
「退院したら、覚えておいてね」
まるで、逃がしてくれない彼女は、戦慄する一言を発した。
面会の時間も終わりに近くなったことで二人は、帰って行った。
中野、頑張れよ。
二人のいなくなった病室。
一人きりの病室であの日を思い出す。
今も、一人になると思い出してしまう。
夢に出てきてしまう。
忘れられるはずのない出来事。
花火祭りの日、早川さんと見に行く約束をしていた。
早川さんが遅れるから待っていてほしいという連絡が入り、弟用に夕飯を作った。
六時から花火祭りの会場に行く予定だったが、その時間も過ぎ七時から始まる花火には間に合うだろうなんて軽く考えていた。
そもそも、どうして僕を誘ったのかさえわからないから、遅れてこられる分にはどうでもよかった。
遅れて、花火が見れなくても正直それはそれでよかった。
夕飯も作り終えたころ、インターホンが鳴った。
早川さんは、インターホンを鳴らしに行くと言っていたので、きっと彼女だろうとインターホンの画面を見ることなくドアへと向かった。
浴衣を着てこいと言われていたし、着くころにまた連絡すると言っていたくせに、一切連絡がなかった。
そのせいで、浴衣もヘアセットもしていないけど、仕方ない。
こんなタイミングで来るなら急いで連絡しなくてもよかっただろう。
「はい」
ドアを開けて、確認すると目先には人の胸元があった。
彼女は、背が低くて見下ろす形になると思ったのにそうではなかった。
「久しぶりだね」
声が出なくなった。
その声が、誰のものなのか一番理解しているから。
弟は、学校の自習室で勉強するからと今はいない。
母親も、仕事があるからといつも通り帰ってきていない。
家には、一人。
「返事は?なんでしないの?」
「……ぁ、ぁ……」
「……入るね」
僕を押しのけた父親は、すぐにマンションの五階であるうちに入って行った。
「なるほど、こんな家に住んでいたんだね」
気持ちを落ち着かせ、父親のもとへ行く。
「かえって」
「え?なに?父親の俺に何か言ったか?」
「……」
「また黙るのか。そうやって、いつも黙るよな。男と付き合ったことが原因だ。お前、怒られるのはわかってたよな。恋をするのは自由、だけど女とするものだと言ったはず。それを守らなかったお前が、口答えするのか?父親の教えを無視したのに?」
「……」
「これ、うちから持っていった炊飯器と電子ポットだよね。炊飯器、使ってんだ」
「……」
「良い米が食べられるありがたみを知ってるか?この炊飯器、米を入れて、設定したら固い米もフワフワな米も作れる。誰が買ったと思ってる?誰のお金だと思ってる?」
「……」
「そうやって、また黙るのか。……ん?これ、お前が作ったの?」
フライパンの蓋を取り、匂いを嗅いでいた。
そして、みそ汁を作った容器の蓋も開け、指につけみそ汁の汁を舐めた。
「……ふーん、これがお前の作る料理ね」
蓋はそのままに、周りを見渡す。
「まずくて、最悪だ。こんなものをいつも作ってんの?斗真は、受験生だよ?こんな不味いものを食べさせてるんだ」
「……も、もう、帰ってください」
「いい加減にしろ!」
ビクッと震えた。
机をたたいた音が静かなリビングに響いた。
「俺はな、いつもいつも料理を作ってる。お前らのために毎日だ。そのくせ、離婚した。誰のせいかわかるか?掃除も洗濯も料理もやっていた俺に向かって離婚届を見せた。どうしてだ?お前が、悪いよな。お前が、そうやって男と付き合うから。いや、わかる、分かるんだ。多様性だろ?それを理由に認めてほしかったんだろ?でも、俺は認めない。多様性の中に、肯定だけしか入ってないのはおかしいだろ?否定されることもある。そんなものだろう。自分の性格が誰かに受け入れられても、それを嫌う人だっている。そんな当たり前のことを多様性という言葉一つで認められるわけがないだろ?お前を育てたのは、俺だ。俺の責任だ。だけどね、お前は教えを守らなかった。俺を怒らせないための行動は何度も教えただろ。あれはだめ、これは良し、そうやって教えて、それを守らなかったのは、お前だ」
違うか?と、問いてくる。
「……」
「お前の肌がきれいな理由は?夕飯をしっかり考えて作ったからだ。洗顔料も俺が買っただろう?勉強に励めるように努めたは誰だ?お前は、俺の教えや行動を否定したんだ。男と付き合うっていうそんな愚行で」
「……もう、別れたじゃないか」
「言うようになったな。こんな不味い料理を作るおまえが!なあ!おかしいだろ!教えたはずだぞ!見え方が悪いんだって!男と付き合えば、大人の社会で肯定してくれる人はそんな居ない。バカげたことをして、女子と付き合えなくなったらどうする?俺は、それを危惧しているんだよ?女子と付き合い、結婚し、子供を育む。それは、親孝行の観点から一番親を安心させられるものだと俺は考えてる。だから、これまで一生懸命やって来たし、それにこたえるように学力も向上した」
それなのにと、続けた。
「お前は、それらすべてを破壊した。離婚して、お前の生活はどうだ?昔よりひどくなったんじゃないか?スマホを与えたのに、フィルターがかかって、使い者にならないだろう。それはなぜか、分かるか?お前にスマホを与えるべきではなかったからだ。積み上げたものを壊したお前に、なぜ与えなきゃならない」
「……すみませんでした」
「すみませんじゃないんだよ‼ふざけるな、ありえない。お前、俺をどれだけ怒らせれば気が済む?」
弟の部屋を開けた父親。
「これはなんだ?こんな風に、ガラクタばかりを集める趣味ができたのか?しっかり教えてきたはずだろう」
「それは、……弟の部屋」
「……これすらもちゃんと弟を守る言葉が出ないんだな。まぁ、そうか。」
「……⁉」
「斗真は、優秀だ。お前みたいに学力が下がることもないし、物事を見極め、取捨選択ができる。時には、嘘もついてでも人を守る選択をする。でもお前はそれができない。それができる彼には、与えられるものがある。……お、ちゃんと棚もあるのか。お父さん、嬉しいぞ」
「……そ、そんなの」
「だから、こうやって言われるがままの人生なんだろ。俺は、教えるべきことを教えた。いつも言ってるだろ、逃げずに答えろって」
「……」
「お前は、逃げれるわけがない。フラフラと下校していれば、折角別居した場所でもバレるんだ。なんで、そんなことがわからないかな」
「……まさか、今日、ここに来れたのは」
「想像通りだね」
学校帰りを毎回、尾行して徐々に特定したんだ。
バレないように、細心の注意を払いながらここまで来たんだ。
「と、なれば、お前の部屋はここか」
弟の部屋をドアを閉めた後、すぐに僕の部屋を開けた。
「や、やめろ……!」
父親はため息をつくと、振り返り僕の頬を殴った。
交わすこともできず、よろけて椅子を倒してしまった。
「あまり口答えするなよ。どうせ、何も言い返せないんだから」
扉を開けた。
自分の部屋が映し出される。
その時、ふと思った。
どうして、こんなにも僕の部屋には何もないのだろう。
もしかして、僕の性格を知っているからこそ、わざと弟の部屋を開けたんじゃないだろうか。
自分には何もないのだと、知らしめるために。
「アハハッ!良いね、この部屋。モデルルームとして最高に輝いてる。小説も三冊ほどか。漫画は……ないみたいだね。それと、アニメのグッズがあるわけでもないのか」
何もない。
「空っぽだね。バイトしてるんじゃないの?」
「してる……」
「ああ、そっか。嘘をつける斗真のことだから、その辺もしっかりしてるのか。でもまあ、精神面を考えたらやめるべきだけどね。お金、母親に渡してるんだろ?だから、自分のものが極端に少ない、そのはずだろう?」
「……っ」
全部、バレていた。
そのはずだろうってことは、その辺も全部理解していた。嘘をつける斗真もそこは嘘をつかなかったのか。
でも、お金は母親に渡すからと弟がもらってたはず。弟がもらったものを後で母親に渡していた。
「これでも、父親だから、わかるんだよ。だって、お前、何もないでしょ?空っぽでいつも言ったとおりにする。だからこそ、可愛かったよ。何でも言うことを聞いてくれるロボットみたいで」
「…………は?」
「そのままの意味だ。じゃあ、見てみろよ、お前の部屋と!斗真の部屋を!」
隣にある弟の部屋をもう一度開けた父親。
「何かを持ってる人は、自分で考えて部屋の構成までも真剣になる。だけど、お前の部屋はどこにでもありそうな、モデルルームと一緒。空っぽなんだよ。意見も言えなければ、考えることもできなくなった」
「……やめて、やめて……ください」
「え?」
「もう、やめてください……」
このまま、居続けられたら弟が帰ってくる。
母親が帰ってくる。
早川さんと遭遇してしまうかもしれない。
こんな惨めな姿を誰にも見られたくない。
「お願いします……。本当に、やめてください……っ」
土下座した。
「お願いします。お願いします」
「いやいや、無理」
「……っ」
「考えてないでしょ?今、この場を収めようとしている理由くらいわかる。こんなにも空っぽな部屋になんで、浴衣があるの?」
「……ぁ」
「誰かとこのあとどこかに出かけるんでしょ?昔だったら、喜んだのにね。今は、もう離婚してるし、お前に何か思うことはない。褒めても意味ないし」
「……」
「でも、今回は中学の時とは違うよね。明らかに、浴衣を着るほどのことはないはずだからさ。中学の時は、私服だった。今回は、女?女子と付き合えたの?男子じゃなくて?」
「……女子です、だから、もう許してください」
「……え?何を?」
鼻で笑うような言い方だった。
「許すも何も、今回ここに来た理由は、一つだよ。お前さ、人に迷惑ばかりかけてないでちゃんと意思を持って生きようよってこと。家族は、家族だし、愛するものだし、愛されるもの。でも、愛されていないって思ってるんでしょ?逃げたいとさえ思ってる。だから来たの。だって、逃げられるわけないじゃん、家族だし」
そもそも逃げるものじゃないと、付け足した。
「この部屋さ、イラつくね。何もない空っぽさが溢れてるっていうか。自分が被害者みたいな面よくできるね、よくそんな謝罪ができるね」
しゃがみ込んだ父親は、僕に頭を上げさせると今度はさっきよりも強く横顔に拳を当てた。
壁にぶつかり、横たわる。
「被害者でいるのは簡単だ。だけどね、被害者でいていいのは、一時だけ。お前は、もう被害者ではないんだよ。そもそも、被害なんて被ってないのだから」
「……」
「よし、じゃあ、壊そうか」
「……え?」
「いやいや、気持ち悪いでしょ。この部屋」
僕の部屋に入った父親は、中学生の時に使っていたテニスラケットをケースから取り出すと机や、本棚を次々と壊していった。
そして、教科書は床に落ち、大切にしていた本たちにも傷がついていった。
「よし、これで完了」
「……なんで」
「なんで?そりゃあ、被害者意識が高いから。加害者だってことに気づいてない。そのくせ、逃げている。ほら、今まで通りだよ。自覚がなかったらペナルティが発生する。よくあったでしょ?斗真だって、ペナルティあったし、何も変わらない。被害者でいる今も買わなくていいじゃない」
「でも、もう……」
「離婚したから、他人だって?でも、家族なんだよ。考えたんだ。なんで、離婚する原因がお前にあるのに、俺が被害者にならないのだろうって。教え方を間違えたことはわかる。だから、その分厳しくした。何も間違ってない。原因ってつぶさないといけないでしょ?そうすることで、改善する」
原因である僕をつぶす。それで改善する。
もしも、そうならきっとクラスのことも原因が消えれば、改善するのだろう。
原因である僕がつぶれればいい……。
嫌われちゃったな、家族に。
愛してたんだけどなぁ……。
僕は今、疫病神のような存在なんだろう。
ほら、父親の目がそう言ってる。
弟も似たような顔をする。遺伝を受け継いでる。
僕もそうなっちゃうのかな……。
嫌だなぁ……本当に、それだけは嫌だなぁ……。
「今、何を思ったか知らないけど、改善するためにもっとよく考えよう。親としてそれを言いに来た。また来るよ」
テニスラケットをポイっと捨てると、僕の横を通って行った。
「ああ、それと」
彼は立ち止り、振り返った。
「料理は、改善することでおいしくなる。最初は、まずいものさ。俺も一緒だ。少しずつおいしくしていきなさい」
父親にとって、離婚しても親は親らしい。
親として、僕に料理のアドバイスをした。
でも、違う。違うだろ。
僕は、アドバイスが欲しいんじゃない。
僕が、この家族に必要とされたい。
愛されたい。
愛した分返してほしかった。
僕のことを愛してくれる両親、弟がいてくれれば、それでよかった。
もう父親は、僕のことを子供としてみてない。
昔の平穏な家庭が欲しい。壊した僕の願いなんて届かない。
その証拠が、今の僕の部屋だ。
壊れてしまっているんだ。
僕が、一つ間違ったことをしたばかりに破滅した。
僕が、崩壊させた。
だから、今ここは空っぽなんだ。
そのくせに、僕は縋った。
父親という像に縋った。
許してください。
そう願う一心で、想いを吐き出した。
父親が向かう玄関の前で、土下座する。
「家族なら、愛してください……、僕は、間違ったことをしたかもしれない。あなたにとって最低な行為であったかもしれない。だから、逃げたくないから、教えてください……。なんで、一度のミスでここまで僕を嫌うんですか……。そんなに許されないことをしましたか?僕が、空っぽだと言うなら、埋めてくださいよ……っ。あなたたちの愛で埋めてほしい……。お願いします……、お願いします……っ」
家族愛を教えてよ……。家族なら、それを教えてほしい。
「底のない空っぽな人間に愛を与えても、下へ下へと落ちるだけ。お前は現に、愛を受け入れなかっただろう?家族で良いことがあった時、母親がハグを求めたとき、それに応じたことは?家族でゲームをしていた時、参加したことは?家族で旅行に出かけたとき、三人で盛り上がってる中何を読んでた?愛してすらいない家族に対し、愛で埋めてほしいって、自分勝手もいいところだな」
「……ぁ」
そうだった。
僕は、人とのハグを拒んだ、ゲームに参加せず、勉強した、旅行に出かけたときも本を読んでた……。
男子と付き合って、父親の思う子供になれなくて一歩踏み間違え、嫌われ愛されなかったから、愛されたかった。
だから、愛を知りたかった。
ハグだけじゃ、足りない。
今の学力じゃ、足りない。
語彙力が、足りない。
「足りないものばかりだから……。補いたかった……っ。だから、欲しかった……。それと同時に怖かった……。愛が、愛されることが……」
「無条件に愛していた人の気持ちを無下にした人をいまさら誰が愛する?離婚して、親として見られていない人に愛を求めてどうする?」
「………、ぁ……、ぁぁ………っ」
父親の顔を見た。
その表情を悲しく見えて、憎んでいるようにも見えて、哀れな自分を見て笑っているようにも見えた。
「元凶……」
父親は、訝しんでいた。
「僕が、元凶だから、愛は、愛されることは悪なんだ……っ。そうだ、ああ、そうか……」
「何を、言ってる?」
「僕は、僕を許せない。自分を許してないから、知識を求めた。無条件にくれるものをもらわなかったから、みんな離れていった。離れたから、戻ってくることはない。僕が、あの日あの時あの瞬間を無駄にしたから。僕が、僕を殺したんだ……」
「……」
「父さん……っ、ゆるして……。お願い!お願いします!もう、嫌だ!こんな人生は嫌だ……!許して!嫌わないで!……空っぽだって言わないで!お前って言わないで!空って名前で言ってよ!空の名前の由来は……?空っぽだから空?ロボットのように何でも聞く、心が空っぽなままだから空…………?父さん!もう限界だよ!許してぇ……っ!」
足にしがみつき、泣きながら許しを請う。
誰が悪かっただろう。
誰のせいにしようとしただろう。母親、父親、弟。
全部、僕のせいだ。
理解してしまえば、はやかった。
すぐに解決した。
僕が家族を壊した、それこそが最初から変わらない答え。
「俺はもう、お前の父親じゃない。それは、お前が一番よくわかっている」
父親は、しがみつく僕を蹴り飛ばした。
解放されると安堵したようにため息をついて、出て行った。
「……ぁ、ぁぁぁあああああああああああああ…………っ‼ごめん……っ、ごめん、ごめんなさい……っ。許して、僕を嫌わないで…………っ」
力なく玄関先で倒れた。
仕方なかったんだ。
弟に嫌われるのも、母親が僕を避けるのも、父親が僕を元凶とみなすのも全部、愛を恐れ避けてきたからだ。
怖くても、逃げずにいれば、もしかしたらきっと愛されていたかもしれないのに。
玄関のカギを閉めた。
弟の部屋を閉め、自分の部屋を眺めると何も残らないぐしゃぐしゃに崩れ、空っぽになった跡だけ。
空という名前に、意味があると言うのならきっと今も今までも空のように青く空っぽだと言うこと。
空っぽだから、深山空。
空のように澄んでいるとも考えられる。
何もないのだから、きれいな色をしているだろう。
自分が、悪くなければ、誰かのせいにできた。
でも、自分が悪い。悪いのは自分。
ああ、空気が悪い。
考えるための頭が鈍い。
外の空気を吸おう。
ベランダにつながるドアを開ける。
あれ、何にも変わらないや……。
底のない空っぽな人間、深山空。
あるじゃん……。
底はあるよ。この五階のベランダからは地面が遠く見えることと同じように見えないだけ……。
あるんだよ、こんな人間にも……。
落ち続けるだけの人生なんて嫌だ……。
逃げずに戦ったつもりだ……、でもそうじゃなかった……。
ベランダの柵に座った。
自分の部屋を見れば、今までの自分の心情を映しているように見えた。
こんなにも汚かったんだ……。
汚れてしまったんじゃなくて、自分で汚した。
汚いなぁ、僕は……。
でもさ、底はある。あるんだ。
本当にあるんだ。
玄関の鍵が開いた音が聞こえた。
もしかして、父親がまた戻って来た……?
なら、証明する。できなかった、証明をここでしてやる。
底はあるんだ。
ほら、見ろよ、僕を見ろ。怖くない。
こんなところから落ちても、底は見えるものなんだって教えてやる。
子供から親への教えに対する答えだ。
体を後ろに向ける。
足だけでは支えられなくなった。
誰かの声がする。
もう、待つ必要はない。助けなんていらない。
僕は、逃げてなんかないから。
逃げずに戦い続けるから。
だって、逃げるのは恥なんだろう?
スッとベランダの柵から足を離した。
軽い。荷が軽くなった。
気持ちがいい。
花火の音がした。
まるで、底を照らすように、落ちている自分を祝福するように。
そして、地面ではない何かにぶつかった感触があった。
鈍い痛みが体中を走った。
だけど、もう逃げてないこともそこがあることも証明できた。
僕は、この体をもって証明したんだ。
自殺行為でもいい。
もしそうだとしても、充分生きた。
満足だ。何も悲しくない。
……ああ、そっか。こんな逃げ方もあったんだ。
嬉しくなった。
気分がよくなった。
もう、自分を責めることも、苦しくなることもない。辛い経験もしなくていい。
喜びの中、意識はなくなった。
でも、逃げた。
死んだと思った。
その喜びは、今も残ってる。
なのに、頭に包帯を巻いて体の傷も痛みも治ってきている。
頑丈過ぎないか?
終わりだと思ったのにな、と何度もつぶやいた。
この人生に終わりはまだ来ないらしい。
順調に回復する体が憎かった。
できるなら、藤川みたいに死にたかった。
唯一、羨ましいとさえ感じる。
お前も、親に愛されなかったんだって?
でもさ、僕は家族を愛してなかったみたいなんだ。態度に出てなくて、それどこか行動にも移してない。
藤川は、どうだったんだ?
もし、僕と藤川が似た者同士なら理解しあえたか?
無理だろう。
お前も父親と一緒で男と付き合うのは否定派だろ?
だから、いじめられたわけだし。
やっぱり、わかり合うことなんてないよな。
お前から得られたことなんて何もない。
終わりにしたい。
切実にそう思う夜が今日も続いた。
母親の車を大破させ、早川さんはそれを目撃して、それによって警察が動いて、クラスメイト、家族に事情聴取するということまで行ったのだ。
あの車を早川さんは、『コネクト』でもよく見る車だと言っていた。見間違いにもほどがある。
それなのに、早川さんも中野もわざわざ見舞いに来る。
何度か断っていたけど、あまりにも来るのでついに折れてしまった。
やってしまったと、今では後悔している。
二人が目の前でべらべら喋っているので、それに付き合うことがとても大変だったことに怒りすらわいている。
しかし、今日の二人はいつもと違う。
雰囲気が違うと言うべきだろうか。
骨折した箇所もだいぶ良くなったそうで、ギプスが外れているこの体は、動くたびに錆びた機械のようなギシギシとした痛みを感じる。
そんな痛みの中、体を起こし二人に聞く。
「何かあった?すごい嫌な空気が流れてるんだけど」
夏祭りの日以降、四日間目を覚まさなかったという僕は、目が覚めると一人用の病室にいた。
地獄にでも来たんだろうかと思ったその天井は、病室で、そもそも天国も地獄も存在するわけがないだろうがと、心の中で思った。
この病室ではどんな話でもできる。
騒ぎすぎて、怒られていた早川さんをどう思うかは別だけど。
「あ、いや、別に」
何とも歯切れの悪い返しだ。
八つ裂きにしてやろうか。
「あんまりいい話じゃなくてさ。その、それに深山はあまり知らない方が良いっていうか」
中野まで反応に困っているのかよ。
八つ裂きにしてやろうか。
「そ、そういえば、お前の弟、病院に何度か来てたみたいだけど」
「――話変えるの下手くそかよ」
「……だって、深山くんには言えないよ」
言えないならせめてその顔をやめろ。
言いたいけど、自分からは言わないし、聞いてほしいみたいな表情だっただろうが。
「わかった俺が言ってやろう」
お前、躊躇ったくせにどこからそのどや顔が出せるんだよ。
やっぱ、八つ裂きにしてやろうか。
「藤川が死んだ」
その言葉を飲み込むには、時間が必要だった。
二人が悲しんでいる理由も、辛そうにしている理由も俺には理解できなかった。
だって、あのいじめっ子が死んだんだぞ?
そんなの嬉しいに決まってるじゃないか!
なんで?なんで、そんな憂鬱な顔してんだよ!
喜べよ!祝えよ!
中野の言葉を理解できるとすぐにそんな気持ちになった。
こんな醜い言葉を自分が思えてしまう。
それはひどく気持ち悪くていつから、こんなにも汚いものへと変わってしまったのだろう。
……ああ、いや、中学生の時からか。
思えば、彼氏を作った日から家族は変化した。
父親は、今まで見せなかった怒りをぶつけるようになった。
家族の恥さらしだ、と。お前は、いつからそんな感性になってしまったのか、育て方を間違えたのか、と。
男と付き合ったことを後悔したことはない。ただ、あれ以降何かを始めても続かなかった。勉強しても集中できなくなった。
親の教育方針に従えなかった。
家族の恥だと言ったあの言葉は今でも覚えてる。
今の時代であれど、多様性なんてものは肯定することだけじゃない。
否定されても仕方ない。
間違ってるわけじゃない、ただ、その事象を嫌っているのだ。
アニメを嫌う人がアニメの文句を言うように、別にアニメの存在を間違っていると言ってるわけじゃないのだから。
多様性とは、価値観を尊重したうえでの本人の気持ちだろう。
理解があるとか、認めるとかそんな言葉があっても人は、心の言葉まで理解できない。
本当は、気持ち悪いと思っている人でもそれを言わない。
言ってはいけないから。
言ってしまえば、社会から省かれてしまうから。
母親も変わった。
父親がそんな風に僕に当たることを知った。
誰から聞いたのかなんて知らない。父親は、母親がいないところでいつも叩いてくる。
中学三年生の受験勉強を始めたときのことだ。
母親は、なにやら不動産を調べていたみたいで、候補を何個か上げた。
『物件、どこにしようか迷ってるの』
最初は、そんなことだった。
パソコンの隣に伏せてある写真もきっと不動産なのだろう。
でも、何を言ってるのかわからなかった僕は、どうして?と聞くほかなかった。
『離婚を考えてるの。そのために別居しようと思う』
頭から離れなかった。
察してしまったんだ。自分が、父親に叩かれていることも屈辱的な言葉を毎日聞いていることも全部、知っているんだ、と。
僕のせいで離婚する。
僕が男と付き合ったから離婚した。
中学三年の夏、別居した。
環境の変化に耐えれず、自分のせいだと責任を感じた。
母親に何度も謝罪した。
父親とのことを知っている母親は、あなたのせいじゃないと言っていたけど、そんなものは違う。
頭を垂れても、謝っても何も変化はない。
当然だ。事後なのだから。
離婚もした。別居もした。環境も変わった。
母親は、夜遅くまで働いていた。
誰のせい?……僕のせい。
なぜ?……彼氏を作ったから。
どうして?……彼氏を作るのも悪くないかなって思った。
いつから?……中学一年生の冬から。
勉強しても身が入らなくなった。
誰のせいでこうなったのか考えれば考えるほど、同じ結果で責める気持ちは増していった。
成績も落ちていった。
気が付けば、行ける高校も減った。
担任には心配された。色々あったと思うし、何でも相談乗るから気軽にねと。
無理だった。ダメだった。
こんな状況を作ってしまった僕が、相談に乗ってもらうなんてありえない話。
弟の態度も変わった。
今まで、明るく話しかけてきた弟もこんな状況では話したくないみたいで、避けるようになった。
高校に入学してすぐに言われた。
『俺は、受験生だから、家事全般よろしく。あと、お金もないらしいからバイトして』
断ることはできなかった。誰のせいでこうなったのか。
わかってる。
だから、分かりましたと、答えた。
それから、早く帰らないといけない日々が続いた。
高校は、弟の通う中学よりも遠いけど、部活を終え、受験に向けた勉強を進める彼は、プレッシャーやストレスによって僕に当たるようになった。
部活が終わって、すぐに風呂に入り夕飯を取りたい彼は、一つでも何かできていないとものに当たり怒りを露にした。
何度も罵声を浴びせた。
その時、気づいてしまった。父親に似ている。
怒り方も、その目付きもすべて似ていた。
もし、僕が怒ったらこんな風に父親に似るのだろうか。
弟を見るのが怖くなった。
もう、怒らないでください、許してください、頭を垂れて謝っても変化はなかった。
それどころか、エスカレートする一方だ。
僕のせいでこうなった。
そのくせに、謝罪して責任を軽くしようと甘んじた。
自分のせいなのに……。
逃げることさえできなくなった。
家と言う檻の中、家族という監獄。
逃げ場はどこにもなかった。
逃げ道はなかった。
逃げた先に希望があるとは思えなかった。
中学生のころから、汚く醜いものになった。
自分が自分でやったことなのに、誰かのせいにする無責任な人。
それが、僕だった。
あれからずっとこんなにもどす黒いものを感じていたんだ。
そんな中、学校でも藤川といういじめっ子がいた。
「そっか」
彼らは、驚いたようだった。
「何も思わない?」
「うん、別に」
「……深山の弟が、藤川と仲良かったことも?」
「え?」
「え?」
「は?」
「あれ?」
「何それ」
「知らないの?」
「知らないけど」
なんで、弟が藤川と仲良くなってるんだよ。
絶対、いじめてること知ってるだろ。
「弟さん、藤川とすごく仲良かったみたいで今日の葬儀にもいくみたい」
早川さんはそういった。
「家族葬らしいから、俺たちも、本当は弟さんもいけないはずなんだけど、母方の父母が許したみたい」
「……」
「何が、そうさせたのかわかんないけど、弟さん曰く、もっと一緒に居たかったっていうほどらしい」
「中野たちは、会ったことあるのか?弟に」
「いや、警察から聞いた。俺たちも藤川について軽く聞かれたし」
「等価交換とか言って、聞いたらしいよ。バカだよね」
と、中野を睨む早川さん。
「知りたくないこと、バンバン話してくれた。そこまで求めてねえよって思ったし、警察が口軽くてどうするんだよって思った」
凄く嫌そうな顔。
軽く聞いてしまったが故に、相当重たい内容だったのかもしれない。
中野なら軽く聞いていそうだし……。
「何聞いたんだよ」
気になった。藤川がどんな生活をして、死に至ったのか。
「事故死なんだって。それに駆け付けたのがお前の弟。最後、涙を流してたらしい」
いじめた分際でよくもまあそんなことができるよな。
「日記とか、遺書とか出てきたんだって」
そんな真面目な奴には見えなかったけどな。
「親が好きで、好かれたくて必死だったけど、小学六年の時にいじめっ子として名が挙がって親が呼ばれたんだって」
「文脈なさすぎない?」
「……。えっと、なんていうのがベストかわかんねえんだよ。元々、いじめられてたやつをいじめっ子から解放したらしいんだけど、それがいじめっ子からしたら気に食わなくて、いじめられてたやつに藤川がいじめてきたんですって言えば、いじめてないって言われたみたいで」
「それって、でっち上げたってこと?」
「まあ、そんな感じ。それ以降、親は、藤川を好きになれなくて、中学に上がるころ離婚したらしい」
だから、母方の父母って言い方をしたのか。
「……」
「藤川の母親は、いじめっ子だったことを知って、気を病んだらしい。中学の先生から呼ばれて、いじめていたという話が浮上した時からひどくなって、入院したんだって」
「その母親、この病院にいるみたいなの」
と、早川さんは付け足した。
「だから、藤川と弟は出会ったのか」
それ以外に、接点がない。
「それから、自暴自棄になったみたいな話を警察がべらべらとするもんだから、こっちが参ったよ」
「そう。だから、いじめは許してあげろとでも言われたのか」
「そんなんじゃないけど、なんていうか、同情するっていうか」
「ふざけんな。そんなのあるわけないだろ。いじめをする理由にそんな過去を作ればいいだけだ。小学生の時の日記は?それがあったとしても、自分でそういうなら簡単だろ。あいつは、そういうやつだ。嘘でも平気で言う」
「嘘?例えば?そんな話、知らないなぁ」
そもそも、藤川とあんま仲良くなかっただろ、早川さん。
「教えてよ」
「……」
言えない。言えるわけがない。早川が僕のことを好きだと嘘ついたことを言えるわけがない。
「いや、まあ、それなりに」
「……?え、教えてくれないの?」
「まあ、良くない話もあるし。嘘じゃなくてもあいつやばいから」
「例えば?教えてくれても良くない?」
無理です、絶対無理です。
早川は、絶対に胸がでかいぞ、ボンキュッボンだぞ!なんて言って猥談してたとか言いたくないです。それ以上のことも言ってたし……。
ほら見ろ、会話に参加してた中野もちょっと気まずそうな顔してる。
「えぇ?ダメなの?じゃあ、中野教えてよ」
「は⁉な、なにを、何を言うんだね……」
「いいじゃん。どうせ、ろくでもない話でしょ?大丈夫、中野がデブデブ言うから慣れてるよ」
もっと、酷い話をしてた彼らを早川さんは知らないんだろうな。
部活に顔出してたし、小道具が完成しないからとか言ってほとんどいなかったもんな。
「な、慣れていても、慣れていないこともあるはずで……。それは、まあ、うん、やめとこうよという話でありますのよ……」
言葉遣いおかしくなってるぞ。
藤川と関わっていたツケが回って来たな。
残念だなぁ。
中野、早川さんのこと好きそうなのに、こんな質問されちゃって。
冷められて付き合えなくなる可能性も出てきたな。
早川さんも、中野のこと他とは違う目で見て、笑うことあるし。
「変なのー……」
「あ、そうだそうだ。藤川がいなくなった今、いじめとかないし、お前に会いたいクラスメイトもいるし、治ったら学校来いよ。足滑らしたってことで、自殺の意図はないって説明してるから大丈夫!」
……学校、か。
彼らが帰ったあと、よく考える。
学校に行きたくない。
できれば、このままけがが治らず退院せず、学校に行けなくなればいい。
転校とか、出来ないかな……。
「話逸らすの下手だよね、中野って」
と、僕に向かって笑みを浮かべた。
とても怖かったとは言いません。
「そ、そうだね」
「ああああ、じゃあ、あれは?退院したらどっか三人で出かけないか?」
「いいねそれ!」
乗っかることにした。
もし、中野がミスをして藤川とほかの男子で話していたことがバレたら、僕にまで被害が及ぶ気がしたからだ。
「だよな!県内でも県外でもいいし!」
「いいねいいね。遠出もいいかもしれない」
「それな!よし、場所決めようぜ!」
「県内か県外か。この時期だし、冬休みとかの方が良いのかな」
「遠出ならそっちだろうな!」
「近ければ、べつにいつでも行けそうだな」
「どっちも行くか!」
「いいね」
「――ねえ」
早川さんの低い声で、会話はかき消された。
「そこまでして逸らす必要なくない?」
ジトッとした目で、睨まれる。
え、いや、ちょっと待って、話逸らしたの中野ですよ⁉
プクッと膨らませた頬は、だんだん萎んでいき、ため息をついていた。
「だって、聞いたもん。私のこと、ボンキュッボンとか。使えなくなったら捨てればいい
とか、使い回したいとか言ってたんでしょ」
その日、僕たちは、男の結束力も消え、早川さんに負けた。
隣に座る中野は、そーっと逃げようとしたが、軽く引っ張られ逃げ場を失った。
「最低」
さっきと同じ低い声で鋭利な刃物のように睨みつけていた。
殺気が溢れていた。
中野、もう付き合うこともできなくなっただろうね。
「深山くんまで中野に合わせる必要なかったじゃん……」
「な、中野、お前のせいだ。僕はやりたかったわけじゃない」
しかし、彼女の奇麗な瞳から放たれる怒りの視線はそう簡単に逃がしてはくれない。
「退院したら、覚えておいてね」
まるで、逃がしてくれない彼女は、戦慄する一言を発した。
面会の時間も終わりに近くなったことで二人は、帰って行った。
中野、頑張れよ。
二人のいなくなった病室。
一人きりの病室であの日を思い出す。
今も、一人になると思い出してしまう。
夢に出てきてしまう。
忘れられるはずのない出来事。
花火祭りの日、早川さんと見に行く約束をしていた。
早川さんが遅れるから待っていてほしいという連絡が入り、弟用に夕飯を作った。
六時から花火祭りの会場に行く予定だったが、その時間も過ぎ七時から始まる花火には間に合うだろうなんて軽く考えていた。
そもそも、どうして僕を誘ったのかさえわからないから、遅れてこられる分にはどうでもよかった。
遅れて、花火が見れなくても正直それはそれでよかった。
夕飯も作り終えたころ、インターホンが鳴った。
早川さんは、インターホンを鳴らしに行くと言っていたので、きっと彼女だろうとインターホンの画面を見ることなくドアへと向かった。
浴衣を着てこいと言われていたし、着くころにまた連絡すると言っていたくせに、一切連絡がなかった。
そのせいで、浴衣もヘアセットもしていないけど、仕方ない。
こんなタイミングで来るなら急いで連絡しなくてもよかっただろう。
「はい」
ドアを開けて、確認すると目先には人の胸元があった。
彼女は、背が低くて見下ろす形になると思ったのにそうではなかった。
「久しぶりだね」
声が出なくなった。
その声が、誰のものなのか一番理解しているから。
弟は、学校の自習室で勉強するからと今はいない。
母親も、仕事があるからといつも通り帰ってきていない。
家には、一人。
「返事は?なんでしないの?」
「……ぁ、ぁ……」
「……入るね」
僕を押しのけた父親は、すぐにマンションの五階であるうちに入って行った。
「なるほど、こんな家に住んでいたんだね」
気持ちを落ち着かせ、父親のもとへ行く。
「かえって」
「え?なに?父親の俺に何か言ったか?」
「……」
「また黙るのか。そうやって、いつも黙るよな。男と付き合ったことが原因だ。お前、怒られるのはわかってたよな。恋をするのは自由、だけど女とするものだと言ったはず。それを守らなかったお前が、口答えするのか?父親の教えを無視したのに?」
「……」
「これ、うちから持っていった炊飯器と電子ポットだよね。炊飯器、使ってんだ」
「……」
「良い米が食べられるありがたみを知ってるか?この炊飯器、米を入れて、設定したら固い米もフワフワな米も作れる。誰が買ったと思ってる?誰のお金だと思ってる?」
「……」
「そうやって、また黙るのか。……ん?これ、お前が作ったの?」
フライパンの蓋を取り、匂いを嗅いでいた。
そして、みそ汁を作った容器の蓋も開け、指につけみそ汁の汁を舐めた。
「……ふーん、これがお前の作る料理ね」
蓋はそのままに、周りを見渡す。
「まずくて、最悪だ。こんなものをいつも作ってんの?斗真は、受験生だよ?こんな不味いものを食べさせてるんだ」
「……も、もう、帰ってください」
「いい加減にしろ!」
ビクッと震えた。
机をたたいた音が静かなリビングに響いた。
「俺はな、いつもいつも料理を作ってる。お前らのために毎日だ。そのくせ、離婚した。誰のせいかわかるか?掃除も洗濯も料理もやっていた俺に向かって離婚届を見せた。どうしてだ?お前が、悪いよな。お前が、そうやって男と付き合うから。いや、わかる、分かるんだ。多様性だろ?それを理由に認めてほしかったんだろ?でも、俺は認めない。多様性の中に、肯定だけしか入ってないのはおかしいだろ?否定されることもある。そんなものだろう。自分の性格が誰かに受け入れられても、それを嫌う人だっている。そんな当たり前のことを多様性という言葉一つで認められるわけがないだろ?お前を育てたのは、俺だ。俺の責任だ。だけどね、お前は教えを守らなかった。俺を怒らせないための行動は何度も教えただろ。あれはだめ、これは良し、そうやって教えて、それを守らなかったのは、お前だ」
違うか?と、問いてくる。
「……」
「お前の肌がきれいな理由は?夕飯をしっかり考えて作ったからだ。洗顔料も俺が買っただろう?勉強に励めるように努めたは誰だ?お前は、俺の教えや行動を否定したんだ。男と付き合うっていうそんな愚行で」
「……もう、別れたじゃないか」
「言うようになったな。こんな不味い料理を作るおまえが!なあ!おかしいだろ!教えたはずだぞ!見え方が悪いんだって!男と付き合えば、大人の社会で肯定してくれる人はそんな居ない。バカげたことをして、女子と付き合えなくなったらどうする?俺は、それを危惧しているんだよ?女子と付き合い、結婚し、子供を育む。それは、親孝行の観点から一番親を安心させられるものだと俺は考えてる。だから、これまで一生懸命やって来たし、それにこたえるように学力も向上した」
それなのにと、続けた。
「お前は、それらすべてを破壊した。離婚して、お前の生活はどうだ?昔よりひどくなったんじゃないか?スマホを与えたのに、フィルターがかかって、使い者にならないだろう。それはなぜか、分かるか?お前にスマホを与えるべきではなかったからだ。積み上げたものを壊したお前に、なぜ与えなきゃならない」
「……すみませんでした」
「すみませんじゃないんだよ‼ふざけるな、ありえない。お前、俺をどれだけ怒らせれば気が済む?」
弟の部屋を開けた父親。
「これはなんだ?こんな風に、ガラクタばかりを集める趣味ができたのか?しっかり教えてきたはずだろう」
「それは、……弟の部屋」
「……これすらもちゃんと弟を守る言葉が出ないんだな。まぁ、そうか。」
「……⁉」
「斗真は、優秀だ。お前みたいに学力が下がることもないし、物事を見極め、取捨選択ができる。時には、嘘もついてでも人を守る選択をする。でもお前はそれができない。それができる彼には、与えられるものがある。……お、ちゃんと棚もあるのか。お父さん、嬉しいぞ」
「……そ、そんなの」
「だから、こうやって言われるがままの人生なんだろ。俺は、教えるべきことを教えた。いつも言ってるだろ、逃げずに答えろって」
「……」
「お前は、逃げれるわけがない。フラフラと下校していれば、折角別居した場所でもバレるんだ。なんで、そんなことがわからないかな」
「……まさか、今日、ここに来れたのは」
「想像通りだね」
学校帰りを毎回、尾行して徐々に特定したんだ。
バレないように、細心の注意を払いながらここまで来たんだ。
「と、なれば、お前の部屋はここか」
弟の部屋をドアを閉めた後、すぐに僕の部屋を開けた。
「や、やめろ……!」
父親はため息をつくと、振り返り僕の頬を殴った。
交わすこともできず、よろけて椅子を倒してしまった。
「あまり口答えするなよ。どうせ、何も言い返せないんだから」
扉を開けた。
自分の部屋が映し出される。
その時、ふと思った。
どうして、こんなにも僕の部屋には何もないのだろう。
もしかして、僕の性格を知っているからこそ、わざと弟の部屋を開けたんじゃないだろうか。
自分には何もないのだと、知らしめるために。
「アハハッ!良いね、この部屋。モデルルームとして最高に輝いてる。小説も三冊ほどか。漫画は……ないみたいだね。それと、アニメのグッズがあるわけでもないのか」
何もない。
「空っぽだね。バイトしてるんじゃないの?」
「してる……」
「ああ、そっか。嘘をつける斗真のことだから、その辺もしっかりしてるのか。でもまあ、精神面を考えたらやめるべきだけどね。お金、母親に渡してるんだろ?だから、自分のものが極端に少ない、そのはずだろう?」
「……っ」
全部、バレていた。
そのはずだろうってことは、その辺も全部理解していた。嘘をつける斗真もそこは嘘をつかなかったのか。
でも、お金は母親に渡すからと弟がもらってたはず。弟がもらったものを後で母親に渡していた。
「これでも、父親だから、わかるんだよ。だって、お前、何もないでしょ?空っぽでいつも言ったとおりにする。だからこそ、可愛かったよ。何でも言うことを聞いてくれるロボットみたいで」
「…………は?」
「そのままの意味だ。じゃあ、見てみろよ、お前の部屋と!斗真の部屋を!」
隣にある弟の部屋をもう一度開けた父親。
「何かを持ってる人は、自分で考えて部屋の構成までも真剣になる。だけど、お前の部屋はどこにでもありそうな、モデルルームと一緒。空っぽなんだよ。意見も言えなければ、考えることもできなくなった」
「……やめて、やめて……ください」
「え?」
「もう、やめてください……」
このまま、居続けられたら弟が帰ってくる。
母親が帰ってくる。
早川さんと遭遇してしまうかもしれない。
こんな惨めな姿を誰にも見られたくない。
「お願いします……。本当に、やめてください……っ」
土下座した。
「お願いします。お願いします」
「いやいや、無理」
「……っ」
「考えてないでしょ?今、この場を収めようとしている理由くらいわかる。こんなにも空っぽな部屋になんで、浴衣があるの?」
「……ぁ」
「誰かとこのあとどこかに出かけるんでしょ?昔だったら、喜んだのにね。今は、もう離婚してるし、お前に何か思うことはない。褒めても意味ないし」
「……」
「でも、今回は中学の時とは違うよね。明らかに、浴衣を着るほどのことはないはずだからさ。中学の時は、私服だった。今回は、女?女子と付き合えたの?男子じゃなくて?」
「……女子です、だから、もう許してください」
「……え?何を?」
鼻で笑うような言い方だった。
「許すも何も、今回ここに来た理由は、一つだよ。お前さ、人に迷惑ばかりかけてないでちゃんと意思を持って生きようよってこと。家族は、家族だし、愛するものだし、愛されるもの。でも、愛されていないって思ってるんでしょ?逃げたいとさえ思ってる。だから来たの。だって、逃げられるわけないじゃん、家族だし」
そもそも逃げるものじゃないと、付け足した。
「この部屋さ、イラつくね。何もない空っぽさが溢れてるっていうか。自分が被害者みたいな面よくできるね、よくそんな謝罪ができるね」
しゃがみ込んだ父親は、僕に頭を上げさせると今度はさっきよりも強く横顔に拳を当てた。
壁にぶつかり、横たわる。
「被害者でいるのは簡単だ。だけどね、被害者でいていいのは、一時だけ。お前は、もう被害者ではないんだよ。そもそも、被害なんて被ってないのだから」
「……」
「よし、じゃあ、壊そうか」
「……え?」
「いやいや、気持ち悪いでしょ。この部屋」
僕の部屋に入った父親は、中学生の時に使っていたテニスラケットをケースから取り出すと机や、本棚を次々と壊していった。
そして、教科書は床に落ち、大切にしていた本たちにも傷がついていった。
「よし、これで完了」
「……なんで」
「なんで?そりゃあ、被害者意識が高いから。加害者だってことに気づいてない。そのくせ、逃げている。ほら、今まで通りだよ。自覚がなかったらペナルティが発生する。よくあったでしょ?斗真だって、ペナルティあったし、何も変わらない。被害者でいる今も買わなくていいじゃない」
「でも、もう……」
「離婚したから、他人だって?でも、家族なんだよ。考えたんだ。なんで、離婚する原因がお前にあるのに、俺が被害者にならないのだろうって。教え方を間違えたことはわかる。だから、その分厳しくした。何も間違ってない。原因ってつぶさないといけないでしょ?そうすることで、改善する」
原因である僕をつぶす。それで改善する。
もしも、そうならきっとクラスのことも原因が消えれば、改善するのだろう。
原因である僕がつぶれればいい……。
嫌われちゃったな、家族に。
愛してたんだけどなぁ……。
僕は今、疫病神のような存在なんだろう。
ほら、父親の目がそう言ってる。
弟も似たような顔をする。遺伝を受け継いでる。
僕もそうなっちゃうのかな……。
嫌だなぁ……本当に、それだけは嫌だなぁ……。
「今、何を思ったか知らないけど、改善するためにもっとよく考えよう。親としてそれを言いに来た。また来るよ」
テニスラケットをポイっと捨てると、僕の横を通って行った。
「ああ、それと」
彼は立ち止り、振り返った。
「料理は、改善することでおいしくなる。最初は、まずいものさ。俺も一緒だ。少しずつおいしくしていきなさい」
父親にとって、離婚しても親は親らしい。
親として、僕に料理のアドバイスをした。
でも、違う。違うだろ。
僕は、アドバイスが欲しいんじゃない。
僕が、この家族に必要とされたい。
愛されたい。
愛した分返してほしかった。
僕のことを愛してくれる両親、弟がいてくれれば、それでよかった。
もう父親は、僕のことを子供としてみてない。
昔の平穏な家庭が欲しい。壊した僕の願いなんて届かない。
その証拠が、今の僕の部屋だ。
壊れてしまっているんだ。
僕が、一つ間違ったことをしたばかりに破滅した。
僕が、崩壊させた。
だから、今ここは空っぽなんだ。
そのくせに、僕は縋った。
父親という像に縋った。
許してください。
そう願う一心で、想いを吐き出した。
父親が向かう玄関の前で、土下座する。
「家族なら、愛してください……、僕は、間違ったことをしたかもしれない。あなたにとって最低な行為であったかもしれない。だから、逃げたくないから、教えてください……。なんで、一度のミスでここまで僕を嫌うんですか……。そんなに許されないことをしましたか?僕が、空っぽだと言うなら、埋めてくださいよ……っ。あなたたちの愛で埋めてほしい……。お願いします……、お願いします……っ」
家族愛を教えてよ……。家族なら、それを教えてほしい。
「底のない空っぽな人間に愛を与えても、下へ下へと落ちるだけ。お前は現に、愛を受け入れなかっただろう?家族で良いことがあった時、母親がハグを求めたとき、それに応じたことは?家族でゲームをしていた時、参加したことは?家族で旅行に出かけたとき、三人で盛り上がってる中何を読んでた?愛してすらいない家族に対し、愛で埋めてほしいって、自分勝手もいいところだな」
「……ぁ」
そうだった。
僕は、人とのハグを拒んだ、ゲームに参加せず、勉強した、旅行に出かけたときも本を読んでた……。
男子と付き合って、父親の思う子供になれなくて一歩踏み間違え、嫌われ愛されなかったから、愛されたかった。
だから、愛を知りたかった。
ハグだけじゃ、足りない。
今の学力じゃ、足りない。
語彙力が、足りない。
「足りないものばかりだから……。補いたかった……っ。だから、欲しかった……。それと同時に怖かった……。愛が、愛されることが……」
「無条件に愛していた人の気持ちを無下にした人をいまさら誰が愛する?離婚して、親として見られていない人に愛を求めてどうする?」
「………、ぁ……、ぁぁ………っ」
父親の顔を見た。
その表情を悲しく見えて、憎んでいるようにも見えて、哀れな自分を見て笑っているようにも見えた。
「元凶……」
父親は、訝しんでいた。
「僕が、元凶だから、愛は、愛されることは悪なんだ……っ。そうだ、ああ、そうか……」
「何を、言ってる?」
「僕は、僕を許せない。自分を許してないから、知識を求めた。無条件にくれるものをもらわなかったから、みんな離れていった。離れたから、戻ってくることはない。僕が、あの日あの時あの瞬間を無駄にしたから。僕が、僕を殺したんだ……」
「……」
「父さん……っ、ゆるして……。お願い!お願いします!もう、嫌だ!こんな人生は嫌だ……!許して!嫌わないで!……空っぽだって言わないで!お前って言わないで!空って名前で言ってよ!空の名前の由来は……?空っぽだから空?ロボットのように何でも聞く、心が空っぽなままだから空…………?父さん!もう限界だよ!許してぇ……っ!」
足にしがみつき、泣きながら許しを請う。
誰が悪かっただろう。
誰のせいにしようとしただろう。母親、父親、弟。
全部、僕のせいだ。
理解してしまえば、はやかった。
すぐに解決した。
僕が家族を壊した、それこそが最初から変わらない答え。
「俺はもう、お前の父親じゃない。それは、お前が一番よくわかっている」
父親は、しがみつく僕を蹴り飛ばした。
解放されると安堵したようにため息をついて、出て行った。
「……ぁ、ぁぁぁあああああああああああああ…………っ‼ごめん……っ、ごめん、ごめんなさい……っ。許して、僕を嫌わないで…………っ」
力なく玄関先で倒れた。
仕方なかったんだ。
弟に嫌われるのも、母親が僕を避けるのも、父親が僕を元凶とみなすのも全部、愛を恐れ避けてきたからだ。
怖くても、逃げずにいれば、もしかしたらきっと愛されていたかもしれないのに。
玄関のカギを閉めた。
弟の部屋を閉め、自分の部屋を眺めると何も残らないぐしゃぐしゃに崩れ、空っぽになった跡だけ。
空という名前に、意味があると言うのならきっと今も今までも空のように青く空っぽだと言うこと。
空っぽだから、深山空。
空のように澄んでいるとも考えられる。
何もないのだから、きれいな色をしているだろう。
自分が、悪くなければ、誰かのせいにできた。
でも、自分が悪い。悪いのは自分。
ああ、空気が悪い。
考えるための頭が鈍い。
外の空気を吸おう。
ベランダにつながるドアを開ける。
あれ、何にも変わらないや……。
底のない空っぽな人間、深山空。
あるじゃん……。
底はあるよ。この五階のベランダからは地面が遠く見えることと同じように見えないだけ……。
あるんだよ、こんな人間にも……。
落ち続けるだけの人生なんて嫌だ……。
逃げずに戦ったつもりだ……、でもそうじゃなかった……。
ベランダの柵に座った。
自分の部屋を見れば、今までの自分の心情を映しているように見えた。
こんなにも汚かったんだ……。
汚れてしまったんじゃなくて、自分で汚した。
汚いなぁ、僕は……。
でもさ、底はある。あるんだ。
本当にあるんだ。
玄関の鍵が開いた音が聞こえた。
もしかして、父親がまた戻って来た……?
なら、証明する。できなかった、証明をここでしてやる。
底はあるんだ。
ほら、見ろよ、僕を見ろ。怖くない。
こんなところから落ちても、底は見えるものなんだって教えてやる。
子供から親への教えに対する答えだ。
体を後ろに向ける。
足だけでは支えられなくなった。
誰かの声がする。
もう、待つ必要はない。助けなんていらない。
僕は、逃げてなんかないから。
逃げずに戦い続けるから。
だって、逃げるのは恥なんだろう?
スッとベランダの柵から足を離した。
軽い。荷が軽くなった。
気持ちがいい。
花火の音がした。
まるで、底を照らすように、落ちている自分を祝福するように。
そして、地面ではない何かにぶつかった感触があった。
鈍い痛みが体中を走った。
だけど、もう逃げてないこともそこがあることも証明できた。
僕は、この体をもって証明したんだ。
自殺行為でもいい。
もしそうだとしても、充分生きた。
満足だ。何も悲しくない。
……ああ、そっか。こんな逃げ方もあったんだ。
嬉しくなった。
気分がよくなった。
もう、自分を責めることも、苦しくなることもない。辛い経験もしなくていい。
喜びの中、意識はなくなった。
でも、逃げた。
死んだと思った。
その喜びは、今も残ってる。
なのに、頭に包帯を巻いて体の傷も痛みも治ってきている。
頑丈過ぎないか?
終わりだと思ったのにな、と何度もつぶやいた。
この人生に終わりはまだ来ないらしい。
順調に回復する体が憎かった。
できるなら、藤川みたいに死にたかった。
唯一、羨ましいとさえ感じる。
お前も、親に愛されなかったんだって?
でもさ、僕は家族を愛してなかったみたいなんだ。態度に出てなくて、それどこか行動にも移してない。
藤川は、どうだったんだ?
もし、僕と藤川が似た者同士なら理解しあえたか?
無理だろう。
お前も父親と一緒で男と付き合うのは否定派だろ?
だから、いじめられたわけだし。
やっぱり、わかり合うことなんてないよな。
お前から得られたことなんて何もない。
終わりにしたい。
切実にそう思う夜が今日も続いた。