第一章
  突然舞い降りた運命の再会

 いつもどおりの時間に目を覚まし、顔を洗い歯を磨く。背中まで伸びてしまった紺色の髪をくしで綺麗に解いて、邪魔にならないようにポニーテールよりも少し低い位置でお団子にして結ぶ。青色の輝かしい夜の瞳は、今時の男子高校生では珍しいタイプになってしまったが、牧叶(まきかなえ)は何も気にせず、自分だけを見るように心がけている。
 人と話すことが苦手で、友達と呼べる人は一人も居なかった。そのせいか、叶は成長すると同時に暗いことばかりを考えるようになってしまっていた。
「友達が居なくても、誰か一人でも話し相手が居ればそれでいい」
「でも、このままじゃダメな気がする。友達も恋人も出来ないまま大人になってしまったら、きっと母さんはがっかりす」
「そんなこと言わないでよ! 俺だって少しは分かっているつもりだよ!」
「つもりじゃ何も変わらないよ! もっと本気で考えないとダメだよ!」
「だったら教えてよ! 俺の何がいけないのかを!」
 高校の入学祝いに、母親の牧望(まきのぞみ)がくれた桃色のモフモフで可愛いテディーベアーの桃(もも)君と毎朝話をしている叶を誰もおかしいと言わないことが、叶にとっては不思議でたまらなくなってしまう。
「・・・・・・」
 制服に着替え終わった叶はスクールバッグに今日の授業で使う教科書と筆箱を入れて、部屋を出る。いつもどおりなら、部屋を出る前に桃君に「行ってきます」と言って部屋を出るはずが、さっき桃君とけんかをしてしまったことを後悔し、今日は何も言わずに出て来てしまった。
(帰ったら謝ろう。大事な話し相手を失うのは怖いから)
 話し相手を失う恐怖に包まれながらリビングに行くと、望が謎の鼻歌を歌いながら楽しそうに朝ご飯を作っていた。望も叶と同じ位置で髪を一つ結びにし、それを毎日のように近所の人達にアピールしている。それは叶にとっては嫌なことだが、これで親孝行になるのなら、別に悪くはないと心で許している。
「おはよう、叶」
「おはよう、母さん」
「朝ご飯もうすぐ出来るから、椅子に座って待ってて」
「うん。あっ、野菜ジュースもうなかったよね?」
 叶の素直な質問に、望は体を一瞬震わせて焦りを感じた。
「え? ああ、昨日の夜やけ飲みしてたらすぐになくなっちゃって・・・」
「昨日買ったのにもう無くなってたからびっくりしたよ。どうしてやけ飲みしたの? 何か嫌なことでもあったの?」
 叶の真っ直ぐな青色の瞳が、もう言い訳が聞かないと思った望は深いため息を吐いて、理由を語り始める。
「実は昨日の夜お客様から電話があったの。『最近ケーキが普通の味に戻っていてあまりおいしくない』って言われて、それで」
「・・・はあ」
 望は数々の賞を受賞してきたプロのパティシエで、七年前に今住んでいるマンションの隣に「テディーベアーの部屋」という洋菓子店を開業し、たくさんの人に愛される人気のお店となっている。プロのパティシエである望にとってはかなりショックな出来事だったが、野菜ジュースに執着している叶からすれば、それと野菜ジュースは一切関係のないことだった。
(俺にとって野菜ジュースは特別な物なのに、そんなことで野菜ジュースをやけ飲みしてすぐになくすなんて、いくら母さんでも許せないよ)
「ごめんね。次からは気をつけるから」
「うん、そうして」
 落ち込む叶を見た望が気を取り直して、明るく笑顔で叶の頭を撫でる。
「叶、お待たせ。今日もフレンチトーストにしてみたんだけど、どう?」
 運ばれたお皿に、叶はいつもどおりで少しホッとした。
「・・・いいと思うよ。今日は何の形にしたの?」
 叶の心から少しだけ笑って安心したような表情に、望が満面の笑みで肩を撫でた。
「今日はね、叶の好きなテディーベアーにしてみたの。可愛いでしょ」
 桃君を大事にしているように、叶は小さい頃からテディーベアーが好きなため、今日の朝ご飯はとても楽しくなってきた。 
「うん、可愛いね」
「写真撮る?」
「写真はいいよ。早く食べないと遅刻するから」
「遅刻って言っても、まだ六時三十分よ」
 壁時計の時間は午前六時三十分。授業が始まる九時までに学校に着いていればいいが、叶は誰よりも早く、なぜか学校に行きたいらしい。
「なるべく人に会わないようにしたいから、いつもどおり七時に家を出たいんだよ。だから、早く食べようよ」
 叶らしいと、母親からの温かい目線で望はいつもどおりに首を縦に振って納得し、頭を撫でる。
「分かったわ。叶はいくつになっても可愛いわね」
「なっ! 恥ずかしいから可愛いって言うのやめて。いただきます」
「うふふ。いただきます」
 毎日フレンチトーストで飽きているはずなのに、望の楽しそうな笑顔を見ていたら、文句も何も言えなくなっていた。
「そういえば、さっき叶の部屋から怒鳴り声が聞こえてきたんだけど、大丈夫?」
 桃君との会話を聞かれたことに、叶は食べるのをやめて暗く俯く。
「・・・桃君と、けんかした」
「どうして桃君とけんかしたの?」
「それは言えない」
 何か隠していることがあるのかもしれないけれど、望は明るく笑って話の内容を変えることにした。
「そう、分かったわ。この話は終わりにして別の話をしましょ。今度の休みに、駅前のショッピングモールに行かない?」
 久しぶりに母親の望と出かけることに密かに嬉しく思った叶の顔は、ほんの少しだけ笑っている。
「・・・いいけど」
「じゃあ決まりね。楽しみだわ」
「うん」
 朝ご飯を食べ終わった叶は昨日の夜作って置いたお弁当を望に渡し、自分の分のお弁当をスクールバッグに入れて、忘れ物がないのかを確認すると、後ろから望が肩をポンッと叩いて微笑む。
「叶、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 そう楽しそうにいつもどおりの時間に家を出たはずが、腕時計を見ると、いつのまにか七時三十分になってしまっていた。


 急いで駅に行くと、通勤通学の人たちでいっぱいになっている。
(どうして今日はなってしまったが多いんだろう。嫌な予感がする)
「あの」
 隣から突然声をかけられたことに叶は一瞬動揺したが、無表情で返事をする。
「はい?」
「私と付き合ってください」
 全く知らない女子高生に告白された叶の心は迷うことなく「ごめんなさい」と断る。
(最悪だ。いつもどおりの時間に家を出ていたら告白をされずに済んだのに)
 中学生になって髪を切るのをやめてから、毎日のように告白をされるようになってしまった。半分は興味本位でもう半分はやけになって伸ばしていたら、いつのまにか背中まで伸びてしまっていた。顔は普通で女子力を持っているわけでもないのに、なぜか好かれるようになってしまった。
 誰かと付き合いたいと思ったことは今まで一度もない。友達も居ないのにいきなり誰かと付き合うなんて無理がある。かといって、髪を切るつもりは一切ない。
「まもなく列車が来ます」
 ホームのアナウンスが流れて安心した叶はそのとおりに到着した電車に乗り、奥の方へ歩きながら人が少ない場所を探す。
(いつもどおりの時間だったら落ち着いて椅子に座れたのに、今日は全く落ち着けない。もう嫌だ)
 昨日まではいつもどおりで何も変化はなかったのに、なぜか今日は家を出てから変化ばかりあって、いつもどおりの日常が簡単に崩れ去ってしまったように感じた。
 人が少ない場所を探しても、通勤通学の人たちが乗っている時点で、もう手遅れになってしまった。
 諦めてドア付近の前で立ち止まるのと同時にドアが閉まり、電車が動き始める。
(まだ学校に着いていないのに、考えごとばかりをして疲れてしまった。今日の授業に集中出来る気が全くしないよ・・・はあっ)
 やる気をなくした叶は三つ目の駅で電車を降り、そこから五分歩き、やっとの思いで学校に着く。
 校舎の中に入り、自分の靴箱を開けてみると、たくさんのラブレターが落ちてきた。今日はなぜかいつも以上に量が多く、全部を拾うのに五分以上かかってしまった。
 この様子を周りの人たちに見られた叶は恥ずかしくなり、顔を真っ赤にしながら急いで上靴に履き替えて二階に上がって、自分の教室に入る。窓側にある三番目の席に座り、さっき靴箱から落ちてきて拾ったラブレターをこっそり机の中にしまう。
「牧、おはよう」
「おはよう」
「今日は珍しく遅かったな。寝坊でもしたのか?」
 そう話しかけてきたのは、黒髪の肩まで短く細い髪に紫色の色鮮やかな瞳は隣の席の阿良川鈴(あらかわすず)君だった。阿良川君は優等生で、テストでは毎回一位を取っている眼鏡が似合う誠実そうな人。友達ではないが、人と話すことが苦手な叶にも話しかけてくれる心が広い人だと思う・・・。
「今日は、家を出る時間が、遅かった、だけだよ」
 緊張で言葉がはっきりにならなくても、阿良川君は明るく元気に笑ってくれる。
「そうか、でも顔が赤いぞ。今日も誰かに告白されたのか?」
「うん」
「牧のモテ期はいつまで続くんだろうな」
「分からない。モテ期なんてもういいよ」
「机の中にしまっている手紙の数を見て何も思わないのか?」
 そう言われても、机の中にしまっているたくさんのラブレターを見ても、叶は特に何も感じることはなかった。
「思わない、よ」
「そうか。僕のモテ期はいつなんだろうな」
「・・・早く来るといいね」
「ありがとう。牧」
 お礼を言われたことに慣れていない叶の頭を撫でて、阿良川君はその姿を見て微笑む。
「何?」
「今日のお団子も可愛いな」
「なっ! からかわないでよ」
「あははっ」
(母さんと同じことを言うなんて、恥ずかしいよ)
 叶にとって、学校での話し相手は隣の席の阿良川君ただ一人。今みたいにからかわれても少し怒るだけで、すぐに忘れるようにしている。望やテディーベアーの桃君のように心を許した相手ではないから。
「今日は中庭でお弁当を食べるぞ」
「・・・いいけど」
「手紙はどうするんだ? 捨てるのか?」
「持って、帰る、よ」
「手伝おうか?」
「大丈夫だよ。もうすぐ先生が来るから、もう話しかけないで」
 チャイムが鳴り、他のクラスメイトが自分の席に座っていく姿を見て不安に感じる叶の焦った様子を見て、阿良川君は両手を左右に振って首も同じように左右に振りながら納得する。
「分かったよ。今日の授業も一緒に頑張ろうな」
「うん」 
 少し冷たい叶の言葉を阿良川君は笑って受け流し、そのまま自分の席に座るのだった。


 そして、長い四時間目の授業がやっと終わり、心配した阿良川君が叶の様子を見に来てくれた。
「牧、大丈夫か?」
「全然、大丈夫じゃないよ」
 朝の考えごとで頭を使い切ってしまった叶は三時間目の授業の途中で保健室に行って、静かに休んでいた。
「お弁当食べれるか?」
「食べる、よ」
「そうか。じゃあ早く中庭に行こう」
「うん」
 起き上がった叶はポケットから手鏡を出して、髪が乱れていないかを確認する。正面から見ると綺麗に見えるが、手で触ると想像以上に乱れていた。髪を結んだまま横になると乱れるとは分かってはいたが、まさかここまで乱れるとは思っていなかった叶は急いで髪をお団子ではなく一つ結びに結び直すと、阿良川君がそれに驚く。
「牧の一つ結び、初めて見たな」
「うん」
(本当はお団子にしたかったけど、時間がないから仕方ない)
「はあ」
 疲れ切っている叶を、阿良川君は自分のお弁当と一緒にもう一つ別のお弁当を叶に見せてくる。
「牧のお弁当、これで合ってるか?」
「えっ、持って来てくれたの?」
「ああ、今から教室に戻るのは嫌だろうと思ったから」
 阿良川君の誠実な優しさに、叶は驚きを隠せずにじっとその顔を見つめた。
(阿良川君に気を遣わせてしまった。俺は最低だ)
「ごめんなさい」
 叶が謝ったことに、阿良川君は肩を掴んで真剣に向き合う。
「どうして謝るんだよ。こういう時は『ごめんなさい』よりも『ありがとう』って言ってくれる方が僕は嬉しいな」
 その温かい言葉を聞いて、叶の心は恥ずかしくなりながらも、素直に答える。
「あ、ありがとう」
「ああ」
 微笑む阿良川君に、叶は申し訳なく思いながら少し距離を置きながら中庭に行き、暖かい日差しの中でお弁当を食べる。
「牧っていつもパンだよな」
「うん」
「毎食パンって嫌じゃないのか?」
 阿良川君の家族についての質問に、叶はほんの少しだけ戸惑ったが、その分笑って望のことを話す。
「母さんはご飯が苦手だから、毎食パンにしてるんだよ。嫌だと思ったことはないよ」
 陽だまりの中で包まれているように笑っている叶に、阿良川君にはそれが嬉しくて自然と微笑んでしまう。
「牧は母親想いのいい奴だな」
「阿良川君はどうなの?」
「僕? 家は父子家庭だから牧が羨ましい」
「そうかな? 俺には家族と呼べる人は母さんだけだから、阿良川君の気持ちがよく分からないかな」
 叶の素直な言葉が心に響き、阿良川君は少しずつ本音を語り出す。
「正直に言うと、僕も牧の気持ちがよく分からない。でも僕は、少しでも牧の気持ちを分かっておきたいと思っている。牧はどう思っているんだ?」
「えっ、えっと、俺も同じだと思うよ」
「本当か! 嬉しいな」
「うん」
「牧先輩」
「え」
 名前を呼ばれて振り返ると、五人の一年生女子と四人の三年生男子たちが、二列に並んで叶への告白の準備をしていた。
(どうしよう。逃げたい、今すぐ逃げたい)
 困って震えた手で制服のネクタイを掴んでいる叶を見た阿良川君がすっと風のように一瞬で立ち上がって、叶の震えた手を優しく握って、気づかれないように、静かに教室へ戻って行く。
「もう大丈夫だよ」
「阿良川君、ありがとう」
「全く、告白をされる相手の気持ちも少しは考えてほしいよな」
「うん」 
 阿良川君に握られている手を叶がじっと見ていると、阿良川君がそれに気づいて慌てて口をカツカツと動かしながら謝った。
「あっごめん。手、嫌だったよな。離すよ」
「うん」
 誰かの温もりに触れられた叶は阿良川君に手を離された瞬間、いつもどおりだったはずの凍えるような冷たい手に、ほんの少しだけ阿良川君の温もりが残ってしまった。
「牧」
「何?」
「午後の授業は無理せず一緒に頑張ろうな」
「うん」
(どうしていつも一緒にって言うんだろう。やっぱり阿良川君はよく分からない)


 午前の授業を取り戻した叶はスクールバッグを机に置く。
「牧、お疲れ」
「うん」
「今日の牧、何か変だった気がする」
「うん、そうだよね」
「今から牧の家に行きたいんだけど」
「えっ!」
(今日は全くいつもどおりじゃない。嫌な予感が段々強くなってる気がする)
「牧?」
「・・・いいけど」
「本当か! ありがとう」
「でも帰りにスーパーに行かないといけないから、少し時間がかかるけど」
「それくらい大丈夫だよ。僕も手伝うから」
「うん」
 放課後の教室に夕日が差し込み、少しずつ夜に変わり始めた。
(今日の夜ご飯は何にしようかな。昨日がオムレツだったから、今日は母さんの好きなビーフシチューにしようかな)
「牧、決まったか?」
食品コーナーを何度も行き来して迷っている叶を、阿良川君が肩をそっと撫でてあげて、叶もそれで気を取り戻して首を縦に振って頷いた。
「うん」
 材料をかごの中に入れてレジに並ぼうとした瞬間、叶はあることを思い出す。
(そういえば、もう野菜ジュースがなかったんだ。どうしよう、一本だけだとまた母さんがやけ飲みしそうで怖い。今日は特別に二本買おうかな)
 少しためらいながらも、叶は自分の食生活のためだと思いながら二本の野菜ジュースをゆっくりかごの中に入れて、ちょうど空いたレジでお会計をする。
「袋はどうされますか?」
「・・・大丈夫です」
「かしこまりました。お会計が千七百五十円になります」
 ミニ財布から千七百五十円ちょうどのお金を出して、レシートを貰う。
「ありがとうございました」
 かごの中の物を買い物袋の中に入れて、阿良川君と一緒にスーパーを出て五分歩く。
「着いたよ」
「えっ、ここが牧の家か?」
「うん」
 着いたのは叶の家ではなく、望の洋菓子店「テディーベアーの部屋」だった。
 店の中に入ると、たくさんのお客さんで賑わっている。
「叶、お帰り」
「ただいま」
「今日は遅かったわね」
「うん」
「隣に居る人は誰?」
「同じクラスの阿良川君だよ」
「初めまして、阿良川鈴です」
「いらっしゃい。叶、家に帰ったら桃君と仲直りするのよ」
「うん」
 テディーベアーの桃君の存在を知らない阿良川君が首を傾げて叶の肩をポンッと叩く。
「牧、桃君って誰だ?」
 その質問に叶と望は焦りを感じるも、正直に答える。
「俺の大事な、話し相手」
「桃君はとっても可愛い子よ」
「そうなんですね。僕も会いたいな」
「それ、は」
 続きの言葉が出てこない叶に代わって、望が口を開く。
「桃君は叶以外の人とは会話しないのよね。だから会うのは難しいかもしれないわね」
「そうですか。残念だな」
「・・・帰るよ」
「分かったわ。阿良川君、叶と仲良くしてあげてね」
「はい!」
「行こう、阿良川君」
「ああ」
 店を出てから叶は緊張して冷や汗をかいてしまっていた。誰かを自分の家に入れるのが初めてだったため、何をすればいいのかが分からないままマンションに着いてしまった。
「牧、大丈夫か?」
「大丈、夫だよ」
 スクールバッグから家の鍵を開けようとするも、緊張して手が動かなくなってしまう。
「阿良川君」
「何だ?」
「何でもない」
 深く深呼吸をして、一分かけて何とか鍵を開けることが出来た叶は買い物袋をダイニングテーブルに置いて、自分の部屋に入り、スクールバッグをベッドに置き、桃君に話しかけることを決める。
「桃君」
「・・・何」
「朝はごめんなさい。桃君の言うとおり、俺は何も考えてなかった」
 頭を下げて謝る叶の姿を見た桃君が涙を流して自分も反省した。
「僕もごめんなさい。少し言いすぎた」
「そんなことないよ。桃君が朝言ったことは全部正しいよ。これからはもっと本気で考えられるように頑張るよ」
「うん!」
「じゃあ、また後でね」
 部屋を出ようとした叶を、桃君が小さい手で止める。
「叶」
「何?」
「誰に何と言われても、僕は絶対に叶を裏切ったりしないから」
「うん。桃君、ありがとう」
 さっきまでの緊張が嘘みたいに消えてしまったのはいいことだが、リビングに置き去りにしていた阿良川君を思い出したのは、それから五分経ってからのことだった。
「牧、遅かったな」
「ごめんなさい」
「大丈夫だよ。何しようか」
「あっ、ちょっと待って」
「何だ?」
「夜ご飯の準備を少ししてもいいかな?」
「なら、僕も手伝うよ」
「えっ!」
「牧?」
(阿良川君に手伝ってもらうのはさすがにダメな気がする)
「家事は俺の仕事だから、大丈夫だよ」
 買い物袋から買った物を取り出して、すぐに使う物はダイニングテーブルに置いて、使わないものは冷蔵庫にしまう。
「牧はすごいな」
「母さんには好きなことを一生懸命頑張ってほしいから、それ以外のことはなるべく俺がするようにしてるんだよ。誰かの手を借りることだけはしたくないから」
 真っ直ぐな言葉が、阿良川君には負担になっているのではないかと心配になる。
「少しはその『誰か』に甘えてもいいと僕は思うけどな」
「・・・うん、そうだね」
「準備が終わったら教えて」
「うん」
(十八時三十分までには終わらせないと、遅くなる)
 中学生の時に学校の授業で作った紺色のエプロンを着て、まな板に材料を置いて包丁で食べやすい大きさに切って、鍋に入れて炒める。
(料理を作っている時が一番落ち着く気がする)
「母さんの喜ぶ顔が楽しみだな」
 叶が料理をするようになったのは小学二年生の時からだった。望と叶は今はもう家族ではないある男に捨てられて、家族の縁も一方的に切り捨てられた。望はその男と離婚をして叶を一人で育てると決めた。 
 望は長年の夢だった自分のお店を住みやすくて働きやすい今のマンションに引っ越して洋菓子店を開業した。シングルマザーで仕事と家事をするのは望の性格ではちょっと無理があった。洋菓子店を開業した半年の間は叶を一人にすることが多くあり、叶と話をする暇もなかったため、いつのまにか、叶と望との間に大きな溝が出来てしまっていた。
 叶はその大きな溝を埋めるために、自分に出来ることをしようと家事を始めた。最初は失敗が多く、掃除や洗濯のやり方が全く分からない状態で綺麗にしたつもりが、逆に汚してしまっていた。料理はレシピの本を見ながら作れば簡単だと思っていたが、実はすごく難しくて焦がしてばかりいた。
 それが今では家事が少しずつ好きになっていき、望が好きなビーフシチューを作れるようになって、望との溝も少しずつなくなっていた。
「牧、終わったか?」
「うん」
 エプロンを脱ぎ、阿良川君のところへ行こうとした時、叶は大事なあることを思い出して急いで右手の薬指を見る。
(ない! まさか、つけ忘れたのかな)
「牧、どうした?」
「ううん、何でもない。ちょっと部屋に戻ってもいいかな?」
「いいよ」
 急いで部屋に戻った叶は勉強机の小さい棚に置いてあるお気に入りのハンカチを見て、そこにあったことに心から安心し、すぐにハンカチをめくる。
「良かった、あった」
 ハンカチで大事に包まれているラピスラズリ色の黒いリボンがついている指輪を、学校とお風呂以外は必ずつけるようにしていたはずが、今日はなぜかつけるのを完全に忘れてしまっていた。
(本当に今日は変だ。大事な指輪まで忘れるなんてあり得ないよ)
 この指輪は叶が小学三年生の時、空から天使のように舞い降りた、見た目は当時の叶よりも少し年下で紺色のローブで全身を隠している不思議な少年だった。その少年が大事につけていた二つの指輪の内の一つを叶に預けた。当時は少しサイズが大きくてすぐに外れてしまうことが多かったが、高校生になった今ではピッタリになっていた。 
 当時の叶はその少年との出会いを「運命の出会い」だと今でも思っている。いつかまたその少年に会える日を、叶はずっと夢見ている。
「叶、阿良川君が部屋の前に居るよ」
「えっ」
 桃君に言われて部屋を出ると、阿良川君が恐ろしいほどに自分の行動をそっと隠れながら見ていたような笑顔で待っていた。
「牧、そろそろ帰るよ」
「う、うん」
「平日の牧は忙しそうだから、休日にまた来るよ」
「・・・うん」
「途中まで送ってくれないか?」
「・・・いいけど」
 リビングの壁時計を見ると、午後十九時を過ぎていた。
(俺、阿良川君に何もしてない。最低だ)
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
 心の中で言ったつもりが、いつのまにか口に出して言ってしまった。
「牧は何も悪くない。悪いのは僕だよ」
「違う」
「違わないよ。突然家に行きたいって言ったのに、何もされないのは当然のことだよ」
「でも」
「牧に気にされたら、僕は悲しいよ」
「う」
「牧は僕が嫌いか?」
「嫌いじゃないよ」
「嬉しいな」
 阿良川君の満面の笑みを見た叶はほんの少しだけ阿良川君に、なぜか少し心を許せた気がした。
「牧、早く行くぞ」
「うん」
 靴を履いて外に出ると、空は真っ暗で街灯が街を綺麗に灯している。
(すごい。夜の街ってこんなに綺麗だったんだ)
 夜の街を久しぶりに歩く叶は今まで見たことのない素晴らしい景色に飛び込んだおとぎ話の少年のように、心の中ではしゃいでいた。
「夜の街って本当に綺麗だよな」
「うん」
「牧、あそこの駅まででいいから」
「分かった」
 仕事帰りのサラリーマンや部活帰りの学生たちが次々に駅に入って行き、改札口の前で渋滞をしている。
「阿良川君、帰れるの?」
「ああ、大丈夫だよ」
「それならいいけど」
「牧、今日はありがとうな」
「うん」
「また明日も一緒に頑張ろうな」
「うん、そうだね」
 手を大きく振る阿良川君に、叶も出来るだけ大きく手を振って別れる。嫌な予感がいつ訪れるか分からない状態で帰り道を歩いていると、一人の見知らぬ少女が叶の前に静かに現れた。
「お願い、天使と悪魔の翼を持つ子供を好きにならないで」
「え」
 叶に謎の忠告をする少女の格好が不思議だった。真っ黒なワンピースに真っ黒なハイヒール、顔を一生懸命隠すように真っ黒なワンピースの上に着ているパーカーのフードを極限まで伸ばしている。
 全身を真っ黒に染めている少女に出会ったのが初めてだった叶は言葉が出てこなくなってしまった。
「聞いてる?」
「・・・・・・」
「あたしは悪魔」
「え」
「怖くないよ」
(悪魔が地上に居るなんてあり得ない。早く帰って母さんとビーフチューを食べよう)
 その「悪魔」と名乗る少女の言葉を無視して、家に帰ろうとした時、何かが空から降りて来るのを感じる。
 空を見上げると、少年が川に向かって降りようとしている。
(川に降りるなんて無理だよ。早く助けに行かないと死んでしまう!)
 走って川に行こうとするが、「悪魔」と名乗る少女に手を引っ張られて動けなくなってしまった。
「離して!」
「ダメ! あの子供を助けてしまったら、あなたも皆と同じように殺されてしまう!」
「何の話をしてるの? 俺はただ空から降りて来る少年を助けたいだけなのに、どうして止めるの!」
「もう誰もあの子供に殺されてほしくない」
「いいから離して!」
「離さない」
 根気強く離してくれない「悪魔」と名乗る少女に、叶は少しずつ腹が立っていく。
「人助けの何が悪いの?」
「えっ」
「もしあの少年が死んでしまったら、君はどうするの?」
「どうもしない。見捨てるだけ」
「俺は絶対にあの少年を助ける!」
 力強く少女を突き放した叶は急いで川に向かい、川に降りる直前にジャンプをしながら横に抱えて少年を受け止めた。
「はあ、はあ、はあ・・・」
「あの」 
 受け止めた少年を見ると、叶よりも身長が高くて紺色のロングジャケットに紺色のブーツ、さっきの「悪魔」と名乗る少女と雰囲気がよく似ている。それよりも、肩まで伸びている髪の色が白と黒半分ずつに分けられている細い髪に、瞳の色が宝石の翡翠と同じ色でキラキラと輝いている。
「あの、降ろし」
「君の瞳は宝石の翡翠と同じ色で綺麗だね」
「あっ」
(どうしよう、初対面の相手に失礼なことを言ってしまった)
 叶が一人焦っている様子に、少年は自分の正体を隠したまま、いつも以上にずっとそばにいたいと思えてきた。
「あの。あなたがよければ少しでいいので、あなたの家に住まわせてください」
「え」
 突然の話に驚く叶だったが、少年の行き先を心配して悩む。
(家出をしたのかな。俺は別にこのまま一緒に家に帰ってもいいけど、母さんに聞いてみないと分からない)
「異なる二人の子供を助けるなんて、やはり人間は爪が甘い」
 叶の後ろに静かに再び現れた「悪魔」と名乗る少女が叶の肩に触れる。
「なるべくその子供に触れないように、気をつけて」
 叶に二度目の忠告をする「悪魔」と名乗る少女が姿を消したのと同時に風が吹き始め、少年は何かに恐れて顔が青ざめて叶の腕の中から必死に離れようとする。
「降ろしてください」
「ちょっと待って。ここは足場が悪いから、場所を移すよ」
 その言葉で風は一瞬でやみ、叶がそっと温かく笑い、少年はとても嬉しくなる。
「はい」
 少年の満面の笑みに見覚えがある叶は何か質問をしようとしたが、勇気が出なくて無言で居ることにした。
「はい、大丈夫? どこも痛くない?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
 翡翠の瞳が暗い夜でも輝き続けて、叶に笑いかける。
「綺麗な瞳」
「あっ。はい」
「帰ろう」
「はい」
 自然と繋ぎ合っている手を、お互い熱く感じて道を歩んで行った。


 少年と一緒に帰って来た叶は少年に靴を脱いでもらい、リビングのソファで待つようにしてもらう。望が帰って来る前に今日の夜ご飯であるビーフシチューを少年の分も合わせて三つに皿分けをして、綺麗に盛りつけをする。しかし、サラダを作る時間がなかったため、今日はビーフシチューと自家製のパンだけになってしまった。
 そして叶はあることに気づいてしまった。
(嫌な予感の正体って、この少年だよね)
「あの」
「うん?」
「一人は寂しいので、一緒に居てもいいですか」
 やっと会えたことと、また離れてしまうのではないかという不安がなぜか何も覚えていない叶にも分かって、自然と少年の頭を撫でて、お互い照れたように顔を真っ赤にしながら首を縦に振って頷き、叶が返事をする。
「・・・いいけど」
 その可愛らしい姿に少年は満面の笑みになった。
「ありがとうございます」
 慣れない敬語のお礼に、叶は少年から目を離して素っ気ない態度を取る。
「敬語、恥ずかしいから、やめてほしい」
 しかし、その態度が少年には嬉しく思い、美しい微笑みを見せる。
「分かった!」
「うん」
 機嫌を直し、ダイニングテーブルにナフキンを敷き、スプーンをナフキンの端に置く。
「叶、ただいまー」
 仕事終わりで疲れているはずの望が全力な笑顔で両手を挙げて叶の肩を撫でた。
「母さん、お帰り」
「ただいま。いい匂いがするわね」
「うん、今日は母さんの好きなビーフシチューにしたよ」
「本当! 嬉しいわ!」
「うん、手を洗ってね」
「分かったわ」
 嬉しそうな笑顔で洗面所に手を洗いに行った望を見て、少年が叶の手をそっと握る。
「あの人、誰?」
「俺の母さんだよ。怖がらなくても大丈夫だよ」
「うん」
「君も手を洗ってね」
「はい」
 少年が手を洗っている間に、ビーフシチューを入れたお皿をダイニングテーブルに運んで、パンが入ったかごをダイニングテーブルの真ん中に置く。
「叶、準備は出来たの?」
「うん。ほら、君も一緒に食べるよ」
「あっ。うん」
 少年が叶の隣に座ると、望が笑顔で「いただきます」と言って食べて、叶も続けて手を合わせた。
「いただきます。お代わりもあるから、たくさん食べてね」
 叶のおいしそうに食べる姿を見た少年も同じように手を合わせる。
「うん。いただきます」
(今日のビーフシチューは何かいつもとは違う。何か変な物でも入れたかな?)
 あまり今日の夜ご飯に満足していない叶の心を置いて、望がさっきからずっと気になっていた疑問を叶に聞くことにする。
「ところで、隣に居るその子は誰?」
「えっと・・・」
 隣で自分が作ったご飯を満足して食べている少年を聞かれたことに焦りを感じた叶は望から少し目を逸らして俯くと、それが逃げているのだと真剣な眼差しで望が続けて聞く。
「叶」
「俺に聞かないでよ」
 反抗した態度を取る叶に、望は深いため息を吐いてから聞き方を変える。
「うーん、じゃあ名前は?」
「知らない」
「叶じゃなくて、その子に聞いてるの」
 叶と望の複雑な空気に少年は戸惑う。
「えっと、ぼくは」
 少年が自分の名前をはっきりと言わない様子に、叶はあることに気づく。
(この少年は名前がないのかな)
「翡翠」
「えっ」
「この少年の名前は翡翠だよ」
「そうなの?」
 突然の叶の驚きの言葉に望と少年は戸惑うも、落ち着きを取り戻した望が叶の言葉を信じて少年に確かめると、少年は叶がつけてくれた名前に喜んで返事をした。
「はい! そうです!」
 だが、叶は後から後悔し、心配する。
(この少年の名前を俺が勝手につけてしまったけど、大丈夫かな?)
 叶の心配をなるべく気にしないように、望は少年の名前を受け入れた。
「翡翠君、いい名前ね」
「あ、ありがとうございます」
「翡翠」
「それで、翡翠君は叶の友達? 恋人?」
「母さん、どっちでもないよ」
「そうなの?」
 その質問に翡翠は一瞬夢を見ているのではないかとふわっとした気持ちになったが、まだ思い出せていない叶の想いを優先して、一番いい言葉を見つける。
「ぼくは、叶さんの恋、友達になれたらいいなと思っています」
「え」
(今、俺の名前言ったよね。でも、初めてじゃない気がする)
「あの」
「何?」
「少しの間でいいので、ここに住んでもいいですか?」
 翡翠の緊張した姿に望は喜んで笑う。
「いいわよ」
「えっ、母さん、いいの?」
「もちろんよ」
「よ、よろしくお願いします」
「はい」
 あっさり決まってしまったことに、叶は少し納得が出来ずにいたが、「翡翠」との再会が叶を変えたのは紛れもない事実だった。




  第二章 
  夢のような初恋

 天空の奥にある屋敷で一人の少年が泣いていた。
『翡翠の瞳が気持ち悪い』
『天使と悪魔の翼を持つお前が嫌いだ』
『その醜い姿を誰にも見せるな!』
 夢の中でも悪口を言われて泣いてばかりいる少年は毎日を苦痛に思い、絶望を味わっていた。
『どうしてわたしはいつも一人なんだ? 誰か教えてくれ。わたしのどこが間違っているのかを』
 生まれた時からずっと一人で生きてきた少年は親の顔を知らずに育ったため、「家族」というものを知らない。
『ご主人様』
 執事に呼ばれても返事をすることなく泣き続ける涙で雨が降り、目を覚ます。
「はっ」
(また同じ夢を見たのか。眠りの夢は全てを壊すというのに、本当にこりないな)
 自分の夢に呆れながら体を起こした翡翠は叶のベッドを見つめ、叶が居るかどうかを確認する。
「叶さん」
 名前を呼びながら布団をめくると、叶は居なかった。
(どうして居ないのだろう。嫌われてしまったのか?)
 少し勘違いをしている翡翠の元に、一匹のこうもりが泣きながら姿を現す。
「ご主人様!」
「伊李?」
「ご主人様、どうしてわたくしを置いて行ったのですか? わたくしはもう用済みなのですか?」
 必死に自分の体にすがりついてくる、伊李(いり)を翡翠は呆れて「はあああ」と長いため息を吐く。
「違うよ」
「本当ですか! 良かったです!」
 翡翠のさりげない言葉に喜びを隠せない伊李には執事としてもっと自覚を持ってほしいが、そんなことを毎回気にしていたらキリがなさそうだから、今は別の話に変えて今すぐ離れてもらう。
「あっ」
「それよりも、どうして伊李がここに居るんだ?」
 その質問に伊李は自信を持って胸を張る。
「天空は地上と違って広いのは間違いありませんが、わたくしはこうもりなので、ご主人様を探すのは簡単なことなのですよ」
 自慢話を聞かされたように感じた翡翠はそっと目を逸らし、適当に受け流す。
「そう」
 主人と執事の会話とは思えないほどに冷たく、伊李が翡翠に執着している様子に誰も気づかず、この長い百年もの間二人でいたことが不思議と嫌にはならなかった。
 主人と執事の関係だけを保てていれば。
「翡翠君、起きたの?」
 翡翠の声に気づいた望がドア越しから話しかけてきたことに二人は一瞬驚くも、翡翠が平常心で返事をする。
「あっ。はい」
「朝ご飯テーブルの上に置いてるから、好きな時に食べてね」
「はい」
 そう言って、望が家を出て行ったのをほんの少しだけ部屋を開けて確認した翡翠は布団を畳み、昨日着ていた服に着替えて、顔を洗い歯を磨く。そして鏡に映る自分の姿に「はあ」と短いため息を吐く。
(今は魔法で姿を変えているが、天空の姿を見られるのは時間の問題かもしれないな)
 寝癖がついた髪を適当に手で直して、望が作った朝ご飯のフレンチトーストを一人寂しく食べる。
「これ、初めて食べたかもしれない」
 主人の瞳を輝かせている嬉しそうな様子に、伊李が丁寧にフレンチトーストに指差して聞いてみる。
「ご主人様、それは?」
「分からない。でもおいしい」
 自分が今まで作った料理は何も感じず、何も思わず無言で食べていたのに、人間が作った料理をこんなに嬉しそうに楽しそうに喜んで食べる翡翠の姿に、伊李は首を傾げて笑いかける。
「ご主人様がおいしいとおっしゃるのなら、わたくしが今度お作りしましょうか」
 そんな簡単に作れるはずがないだろうと、翡翠の顔は期待をせずに左手に握っているフォークを見て、試すことを決めた。
「出来る? お前が今まで作った料理をわたしが『おいしい』とは言ったことはないのに、自信があるならやってみればいい。まあ、期待はしないが・・・」
(はあ、伊李が今まで作ってきた料理はまずくはなかったが、おいしいとも言えなかった。このわたしがお前に百年も育てられたことが不思議で後悔している・・・なぜわたしがこうもりのお前を執事にしたのかは、その時のまだ子供だったその時にしか分からない自分の想いに聞いてみる以外は答えが出ないだろう)
 過去の自分に問いかけたいことは山ほどあるけれど、それと今の伊李の自信に満ち溢れているこの顔をしている限りはその過去を思い返すのはやめておこうと、心を入れ替えてようやく答えを聞く。
「どうする? 出来るなら構わず好きにすればいい」
 二度目の試しに、伊李は大人の美しい微笑みで姿勢を正す。
「もちろんやります! わたくしはご主人様の執事です。出来ないことは何一つありません!」
 大きく宣言した伊李を、翡翠は一瞬言葉を失ったものの、気を取り直してそのやり切ったような顔に、冷たく心のこもっていない声で首を縦に振って頷く。
「じゃあ、今度ね」
「はい!」
 嬉しそうな伊李に少し微笑みながらフレンチトーストを完食し、使った食器を伊李に洗わせる。叶も望も出かけているため、何をすればいいのかが分からない翡翠は伊李に相談をする。
「わたくしと遊ぶというのはどうでしょう」
「何をして遊ぶ?」
「そうですね、人生ゲームはどうでしょう」
「嫌だ」
「え! うーん、じゃあトランプは」
「嫌だ」
「えっ! ご主人様、これ以上は出てきません」
「そう」
(九百年も生きてきたというのに、何も変化もなく大人になったわたしを、彼は好きになってくれるだろうか)
 九百年という長く歳を取った翡翠の人生は全て叶のためにあり、これからもそうであるのは間違いないだろう。
 一人ぼっちという悲しい領域の中にいる一人の少年を除いては・・・。
「叶さんはどこに行った?」
 叶の行き先がどうしても気になっている翡翠を、伊李は落ち着いて笑い答える。
「人間の子供は学校に行かなければならないと、昔仲間に聞いたことがあります」
 その言葉に、翡翠は自分の歳と人間の子供の歳を比べて悔しく思う。
「子供か。わたしはもう大人だから行けないな」
「残念でしたね」
「馬鹿にしてる?」
 悔しい想いを抱えている自分を馬鹿にしているように見えた伊李に、翡翠の顔は怒りで今にもこの世界を壊してやろうと感じ知った伊李が急いで深く頭を下げて謝った。
「と、とんでもありません! 申し訳ありませんでした!」
「そう」
 怒りが次第に涙に変わりかけ、叶が居ない寂しさを胸に閉じ込めて窓の外を見つめる。
「今日はお昼から雨が降りそうですね」
「叶さん」
「ご主人様?」
「伊李」
「何でしょうか」
「今すぐ玄関に行って、傘がないかどうかを確認してほしい」
「かしこまりました」
 伊李が玄関に行った後も、窓の外を見つめる翡翠は叶のある言葉を思い出す。
『君の瞳は宝石の翡翠と同じ色で綺麗だね』
(あの言葉はわたしにとって、唯一の救い)
「ご主人様」
「どう?」
「残念ながら、傘はありました」
「そう」
「あと一時間後に雨が降りますが、どうしましょう」
(今は十時だから、十一時から雨が降る)
「行くよ」
「どこにですか?」
「叶さんの学校」
「かしこまりました」
「伊李、場所は分かる?」
「もちろんです。ご案内致します」
「お願い。それと、いつまでこうもりの姿で居るんだ?」
「こ、これは失礼致しました。今すぐ人の姿に変えます」
 伊李の慌てた様子に少し呆れる翡翠だったが、今はそんなことよりも叶が心配でたまらなかった。
「お待たせ致しました」
 こうもりの姿から人の姿に変わった伊李は紫色の太く背中まで長い髪に紫色のスーツに茶色のローファー。白の手袋で執事らしい格好をしているが、一番目立つのが瞳の色だった。右は黄色で左は橙色、伊李はオッドアイだが、こうもりの姿よりも人の姿の方が翡翠は好きだという。
「伊李はそっちの方がよく似合っているよ」
「ありがとうございます」
「行くよ」
「はい!」
 どこに居ても目立つ翡翠と伊李は叶の傘を持って学校へ向かった。


 雨がポツポツと静かに降り始め、二十五分かけてようやく学校に着いた。
「ここが叶さんの学校?」
「はい」
「伊李はここで待ってて」
「かしこまりました」
 校門の前で立ち止まった翡翠は学校全体に結界を張り、校舎の中へ入ろうとした時、強面の警備員の叔父さんに強く腕を掴まれてしまった。
「離せ」
 腕を掴まれて激しく抵抗する翡翠などの心を置いて、警備員は怒りを最大限に怖く顔で表す。 
「お前、この学校の生徒じゃないだろ! 何をしに来た!」
 その怒りの声など何も感じずに、翡翠は平常心でその言葉に答える。
「わたしはとある生徒に、傘を届けに来ただけだ。邪魔をするな」
 翡翠の人間らしくない髪と瞳の色にさらに警備員は怒りが収まらず、地面に押し倒す。
「お前、人間じゃないだろ! 早く帰れ!」
「もういい」
 警備員の態度に腹を立てた翡翠は魔法で警備員を眠らせ、校舎の中へ入る。
(なぜ皆わたしの邪魔をする。わたしは何も悪くないのに)
 叶の教室を知らない翡翠は翡翠魔法で自分の体を透明にし、全ての教室を見回ることにする。
 この学校の校舎が西と東に大きく分かれているため、一人で探すのは難しく、時間もかかってしまっていた。
(人間とすれ違う度に怖くなる。早く彼を見つけないと、これ以上は限界だ) 
 東校舎の最後の教室に着き、授業に集中している叶を翡翠はやっと見つける。
「叶さん」
 喜びと寂しさが思わず溢れてしまった翡翠はすぐに翡翠魔法を解いて、教室の中へ入ると、この時間を担当している一人の教師が翡翠を見て怖がった。
「君は誰だ! ちゃんと許可を取っているんだろうな!」
「先生、その人は誰ですか?」
「知らん。今は授業中だぞ! 帰れ!」
「気持ち悪い」
 数えきれないほどの悪口を言われてきた翡翠にとって、今はそんなことはどうでもよくなっていた。
(誰に何を言われても、わたしが一人ぼっちであることは変わらない)
「翡翠?」
 窓際の三番目の席に座っている叶が、翡翠が学校に居ることに驚いて席を立ってしまっていた。
「牧?」
「ああ、叶さん」
「何だ? 牧の知り合いか?」
「はい」
「叶さん。ぼく」
 翡翠が叶に近づこうとした体を、叶が急いで走って抱きしめて、軽く先生にお辞儀をする。
「先生。すみません、少し席を外します」
「分かった」
「叶さん?」
「行こう」
 叶に強く手を掴まれた翡翠は教室から誰も居ない進路相談室へ連れて行かれた。
「どうして翡翠が学校に居るの?」
「叶さん」
「俺に何か用があって来たの?」
「うん」
「俺、忘れ物したかな?」
「お昼から雨が降るから、傘を届けに来たんだよ」
「雨?」
 朝は晴れていた空が、今では真っ暗になって小雨が降っている。
「翡翠、ありがとう。助かったよ」
「うん! 叶さんの役に立ててぼくは嬉しいよ」
 自分の名前に「さん」付けで呼ばれたことに叶は違和感を持ち、手を離す。
「名前、呼び捨てにしていいよ」
「でも、それは」
「お願い」
 叶の真剣な表情に翡翠も覚悟を決める。
「わ、分かった」
 少し恥ずかしそうな翡翠の頭を、叶がそっと撫でる。
「あっ」
(あの日と同じ温かい手)
「叶。もういいよ」
「ううん、まだ」
 翡翠の言葉を無視して頭を撫で続ける叶の手を、翡翠が優しく離す。
「翡翠」
「心配しなくても、一人で帰れるから」
「うん」
 誰も優しくしてくれない、一緒に居てくれない。生まれた時からずっと一人だった翡翠にとって、叶に頭を撫でられるだけで幸せだと思うが、今はそんなことを思ってしまったら罰が当たってしまう気がして、怖くなっていた。
(わたしはもう大人だ。あなたに甘えることは出来ない)
 無言で暗く俯く翡翠を、叶が笑いかけて二人共落ち着いた。
「今日の夜ご飯は何が食べたい?」
「え」
 生まれて初めて自分の食べたい物を聞かれたことに動揺する翡翠を、叶が首を傾げて心配する。
「翡翠?」
 その心配した頬を撫でて、翡翠は満面の笑みで大きく首を縦に振って頷く。
「・・・じゃあ、叶の好きな物を作ってほしい」
「俺の好きな物・・・」
「うん」
「ハンバーグかな」
「うん! それでいいよ」
 外は小雨から大雨に変わっていったが、叶と翡翠が居る進路相談室だけは晴れている気がした。
「俺は教室に戻るけど、翡翠は家に帰るんだよね?」
「うん。家でゆっくり叶の帰りを待って居るよ」
「ありがとう」
「頑張ってね」
「うん」
 進路相談室から出た翡翠は校舎を出て、警備員にかけた翡翠魔法を解き、伊李を待たせた場所へ着く。
「ご主人様、傘をどうぞ」
 差している傘を伊李から受け取った翡翠はゆっくりと歩き始めた。
「うん。待たせたか?」
「いいえ」
「そう」
「傘は渡せましたか?」
「うん」
「学校に張った結界はどうするのですか?」
「叶が家に帰って来たら解くよ」
「そうですか。では、帰りましょうか」
「うん」
(思っていた以上にひどいことを言われたが、天空と比べれば大したことではない)
 人間の弱さを改めて感じたことに高揚感を覚えた翡翠は気分が高まっていた。
 お気に入りのブルーベリー色のテディーベアーを見知らぬ誰かに壊された時と同じように、悲しむのではなく楽しめばいいのだと、六人目の執事に教えられたことを何気なく生かし続けていることを伊李はまだ知らない。
 教える義務が見つからない。
 教えたとして、それが正しいのかが分からない以上、何も出来ることはないだろう。
 翡翠の俯いた顔に、伊李は元気づけるように明るく微笑みかけた。
「ご主人様が吹くフルートを、もう一度聴きたいですね」
 その何気ない言葉が、過去の荒れていた自分を思い出させて恐怖に包まれる。
「ダメだ! あれはもう誰かを傷つけてしまう強力な武器だ!」
 翡翠の恐怖で乱れた様子に驚いた伊李が急いで謝る。
「こ、これは失礼致しました」
「はあ」
(わたしの嫌な思い出を思い出させるなんて伊李もまだまだだな)
 八人目の執事である伊李を前の執事のように殺そうと思ったことは一度もないが、いつかそうなることが出来てしまうのは、無理やり手に入れてしまった翡翠魔法の衝動のせいだと考えるしかなかった。 
 叶が住むマンションへの道を伊李に任せて歩いていた翡翠だったが、考えごとをしていたせいで、いつのまにか伊李と逸れてしまった。
「伊李? どこに行った?」
 周りを見渡してもここは地上で天使や悪魔は当然居るはずもなく、どうすればいいのかが分からずに悩んでいた翡翠は目を閉じて天空の奥にある屋敷の書斎に置いてある一冊の本を右手で想像しながら「来い」と言って、力を入れて本を天空から落として両手で受け止める。
「この本を開くのは四百年ぶりだが、使い方は今でもはっきり覚えているから、失敗することはないだろう」
 全ての魔法が記されているこの本は、「禁書」と言われている。かつて大天使となったガーネット・シラセという天使が、自身の使うガーネット魔法で天空を白に染め上げ、天使と悪魔それぞれの国に繋がる大きな扉に結界を張り、全ての宝石魔法や禁忌とされている闇魔法の使い方を一冊にまとめた本を「禁書」にした。
 その「禁書」を隠すためにガーネット・シラセは二年かけて建てた屋敷を黒く染め上げて、誰にも近づけないようにしたはずが、天使と悪魔の間に生まれてしまった異なる二人の子供がその屋敷に住んでしまったため「禁書」を取り返すことが不可能となったことを翡翠はまだ知らない。
「わたしが使う翡翠魔法ならこの本に書いてある全ての魔法を使えるはずだが、今回はやめておこう。けがでもしたら彼に余計な心配をさせてしまう」
 自分の命よりも大事な叶には余計な心配をさせたくない翡翠は差していた傘を閉じて、それを見上げながら大雨に打たれる。
「叶。ずっと一緒に居させてほしい」
「うん、いいよ」
「え」
 いつも聞こえる幻の声とは違う声に気づいた翡翠は後ろを振り向き、声の正体が叶だと知って、上手く言葉が出てこずに驚きを隠せない。
「どうして、叶がここに居るの?」
「翡翠が心配で授業に集中出来なかったから仮病を使って早退したん」
「ダメだよ! ぼくなんかのためにそんなことしないでよ」
「そんなことじゃないよ! 昨日翡翠言ってたよね。『一人は寂しいので、一緒に居てもいいですか』って」
「言ったよ。でも!」
「一人が寂しいなら俺と一緒に居ればいい」
「あ」
 これ以上言葉が出てこなくなった翡翠は無言で閉じていた傘を開き、叶から少し離れて歩き始めた。
「翡翠は俺が嫌いなの?」
「え」
 叶からの「嫌い」という言葉に反応して体が動かなくなった。
(わたしがあなたを嫌いになったことは一度もない。あなたはわたしがずっと夢見ていた初恋の相手だから)
 心の中では言える言葉が、いざ口に出して言おうとすると出てこない翡翠に、叶が翡翠の隣に行き、傘を持っていない方の手をそっと握る。
「俺が嫌いなら嫌いって言っていいんだよ」
「嫌いじゃないよ!」
 やっと言葉が出てきた翡翠は再び傘を閉じて、叶と向き合い言葉を続ける。
「ぼくは絶対に叶を嫌ったりしない! 傷つけない!」
「翡翠」
「ぼくは叶を」
「俺を、何?」
「何でもない」
「帰ろう」
「うん」
 少し気まずい雰囲気になってしまったが、叶に優しく握られた手を離さずに叶が差している傘の中に入った翡翠は自分の本音を初恋の相手である叶に言ってしまったことを、顔を真っ赤にしながら後悔した。


 大雨が降る中、二人はその雨粒に濡れたままマンションに帰ってきた。
「ただいま」
 誰もいない部屋の中で言う叶を、翡翠は冷えた体でその肩を掴む。
「叶」
 やっと振り向き、叶は翡翠を見て服に触れていく。
「翡翠、服を脱いで」
「え?」
「濡れている服をずっと着ていると風邪を引いてしまうから、早く脱いで」
「でも」
(わたしの体には傷がある。あなたに見せることは出来ない)
「翡翠?」
 無言でいる自分を不思議に思った叶に、翡翠が笑顔で首を縦に振って頷く。
「分かった。一人で脱ぐから、叶はリビングで待ってて」
「うん。着替えとお風呂を沸かしておくからタオルで体を拭いてね」
「ありがとう」
 洗面所で服を脱ぎ、体を拭いて叶が沸かしてくれた湯船に浸かる。
「温かい。こんなわたしにも温かさをくれるあなたが好きです」
 生まれて初めて雨に打たれた翡翠は冷えた体を骨身に染みるまで、湯船でゆっくり過ごす。
「翡翠、着替えを持って来たよ」
「うん。ありがとう」
 叶が洗面所から出たのと同時に温かくなった体をタオルで拭き、叶が持って来てくれた紺色のチェックシャツに真っ黒なスキニーパンツに着替えてリビングに行く。
「翡翠、サイズ、どうかな?」
「大丈夫。合ってるよ」
「うん、良かった」
 そう言って、微笑む叶を翡翠が嬉しそうに見つめる。
(あなたが言う言葉一つ一つが、わたしにとっては全てが特別です)
 何分経っても翡翠は叶の目を離さなずに見つめ続けたが、叶が顔を真っ赤にして恥ずかしくなった様子を見て、翡翠は叶から目を離して髪を触り始めた。
「翡翠」
「何?」
「はあ、何でもない」
「うん!」
 機嫌が良くなった翡翠とは違って、叶はいつまでも顔を真っ赤にしながら冷蔵庫から牛乳を出して、コップに注いで電子レンジで十五秒温める。
「叶。何をしているの?」
「ホットミルクを作ってるよ」
「それっておいしいの?」
「おいしいよ。一人の時には必ずホットミルクを飲んでリラックスしてるから、翡翠もきっと気にいると思うよ」
「叶がそう言うのなら、そうなんだろうね」
「うん」
 自分の知らない叶を知る度に胸が熱くなる翡翠は一度目を閉じて、心を落ち着かせながら叶の隣に立つ。
「ねえ。叶は天使と悪魔、どっちが好き?」
「えっと、どっちも好きじゃないかな」
「どうして?」
「天使は怖いイメージが強くあって、悪魔は力が強いイメージがあるからかな」
「じゃあ、真ん中はどう思う?」
「真ん中って居るの?」
「居るよ」
「翡翠は会ったことがあるの?」
「・・・うん」
(天使と悪魔の間に生まれた者を皆異なる二人の子供と言って傷つける。わたしはそれが嫌でずっと殻に閉じこもっていた。もしあなたが天使と悪魔の間を好きだと言うのなら)
「好きだと思うよ」
「え」
「俺は天使と悪魔の間、好きになれたらいいなと思うよ」
「本当?」
「うん!」
 叶の予想外の言葉に驚く翡翠だったが、叶らしいと嬉しい気持ちで満たされていた。
「はい。出来たよ、ホットミルク」
「ありがとう」
 生まれて初めて見るホットミルクを、翡翠はほんの一口飲んで、微笑みながら隣に居る叶を見る。
「叶。おいしいよ」
「良かった。あっ! 蜂蜜を入れのを忘れてた。翡翠、コップを貸して」
「このままでもおいしいよ」
「そうだけど、蜂蜜を入れたらもっとおいしよ」
「叶がそう言うのなら、蜂蜜を入れてもいいけど」
 美しい微笑みとは違う言葉の裏腹。それが叶には嫌で頬を膨らませる。
「翡翠」
「何」
「さっきから意地悪ばかり言って、楽しんでるよね」
「うん! 嫌だった?」
 翡翠の瞳を輝かせながら恋人に甘えるような上目遣いで叶を見つめる翡翠は左手で叶の髪に触れる。
「えっ」
「叶の髪はサラサラだね」
「それって褒めてるの?」
「うーん。どうだろうね」
「翡翠」
「叶。顔真っ赤だよ」
 翡翠に髪を撫でられているだけで顔を真っ赤にする叶は恥ずかしさでその美しい姿を見られない。
「誰のせいだと思ってるの。翡翠、そろそろ離して」
「分かった」
 翡翠が叶の髪を触れるのをやめたのと同時に、雷がマンションの近くで鳴り響いた。
「わあ!」
 叶の悲鳴を聞いた翡翠はコップをダイニングテーブルに置いて、その怯える頭をそっと撫でる。
「叶。ぼくが居るから、大丈夫だよ」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「・・・つい」
(あなたはわたしが守ります。何があっても絶対に)
 雷はそれから三十分鳴り響いた。
 雷に怯えていた叶の涙を拭った翡翠は叶をリビングのソファに座らせて、心を落ち着かせる。
「翡翠、ごめんなさい」
「叶。もう謝らないで」
「う、うん」
「あっはは!」
「翡翠?」
「叶。笑って」
「え」
「叶の笑った顔が見たい。ほら、笑って」
「こう、かな」
「うん!」
 少しぎこちない笑顔を見せる叶に、翡翠はホッとする。
(わたしはまだあなたのことを、何も知らない。あの日から変わったはずなのに、今目の前で泣いているあなたを抱きしめることすらも出来ていない)
「翡翠、ありがとう」
「え」
「一人だったら母さんが帰って来るまでずっと泣いてたけど、今は翡翠が居てくれているから、少しは気が楽になったよ」
「そんな、ぼくは、何もしてあげられなかったよ」
 自分の手で救えなかった悔しさを胸に抱いている翡翠を叶が温かい笑顔で頭を撫でた。
「一緒に居てくれたことが嬉しいんだよ」
「うん・・・」
「あっ! ホットミルク冷めてしまったね」
「そう、だね」
「待ってて、入れ直すから」
「うん」
 心に穴が空いたような壊れたような感覚に陥った翡翠はしばらく叶の顔を見ることが出来なかった。
「はい、ホットミルク」
「あ、ありがとう」
「今度は蜂蜜を入れてるから、冷めないうちに飲んでね」
「うん」
 蜂蜜入りのホットミルクを一口飲んで体が温まった翡翠に、叶がさっきの仕返しとばかりに翡翠の髪に触れる。
「あ」
「俺の髪よりも翡翠の髪の方が、サラサラだと思うけど」
「そう?」
「うん」
(天空の姿を見ても同じことを言ってもらえるだろうか)
 今の自分の姿と天空の姿を想像しながら比べて考えていた翡翠は白と黒半分ずつに分けられている髪の白い方を、恐る恐る触る。
「雨、やまないね」
「うん」
「母さん、大丈夫かな」
「心配なら迎えに行ったらいいよ」
「そうだね、翡翠も行こう」
「ぼくは留守番して居るよ」
「分かった。じゃあ、待ってて」
「うん」
 リビングの壁時計を見ると、午後十七時十五分になっていた。
 二人が何時に帰って来たのかは分からないが、翡翠は何も急がずに、叶と望の帰りをゆっくり待つことにした。
「叶も帰って来たから、叶の学校に張った結界を解こう」
 そう言って、翡翠はポケットから宝石のカケラを出して魔法陣を床に描く。
「はあ。夜闇に入ることが出来たら少しはわたしを見てくれたはずなのに、伊李はいつ帰って来るんだ!」
 ため息と伊李への怒りが爆発する前に結界を解いたのと同時に、玄関のドアが開く。
「誰だ」
「ご主人様!」
「伊李?」
 走って一瞬で翡翠の前で床にしゃがみ込んで土下座をする伊李は命をかけてでも、そのままでいようとする。
「申し訳ありませんでした」
「どこに行っていた?」
「ご主人様を探していました」
「本当?」
「はい」
 嘘をついていないように見えても、翡翠にはそれが自分を見捨てたと感じ知った。
(わたしを探していたなら、なぜすぐにわたしのところに来なかったんだ!)
「伊李!」
「何でしょうか」
「次はないからな!」
「は、はい!」
「はあ」
 怒りのため息を吐く翡翠を、伊李が立ち上がって姿勢を正して、学校についての質問をした。
「結界は解いたのですか」
「うん」
 冷たく寂しい翡翠の声に、伊李は仕方のないことだと諦める。
「そう、ですか」
「ただいま」
「え」
(もう、帰って来たのか。さっき家を出たばかりなのに)
 望の洋菓子店「テディーベアーの部屋」がマンションの隣にあることを翡翠は知らなかったため、驚くのも当然のことだった。
「お、お帰り。早かったね」
「翡翠君、ただいま」
「お帰りなさい」
 二人が大雨の中濡れて帰ってきたところで叶が伊李の存在に気づいた。
「あれ? 翡翠、その人は誰なの?」
「えっ」
 伊李の存在を知られたことに動揺する翡翠を置いて、伊李が満面の笑みで自己紹介を勝手にする。
「初めまして。わたくしはご主人様の執事伊李でございます。よろしくお願い致します」
 伊李の丁寧なお辞儀に、叶と望もお辞儀をして笑い合う。
「ご主人様って、翡翠のこと?」
「そうです」
「翡翠君の執事はイケメンね」
「そうですか?」
「翡翠は貴族なの?」
 叶の何気ない質問に、翡翠は迷うことなく首を横に振った。
「違うよ」
「ご主人様はとても偉いお方なのですよ」
「ちっ」
「そうなんですね」
(伊李、わたしの許可なしに勝手にわたしのことを次々と話すとは・・・いい度胸だな)
 誰も知らずに怒っているのに気づかれていない翡翠だったが、隣にいる叶を思い出し、平常心に戻り、望が気を遣って口を開く。
「叶、今日の夜ご飯は何にするの?」
「ハンバーグにするつもりだよ」
「いいわね。買い物は大丈夫?」
「うん」
 望と叶の会話を静かに見つめる翡翠はそれを羨ましく思うのと同時に、悲しくなった。
(家族とはああいうものなのか。わたしには全く理解することが出来ない)
 翡翠には「家族」よりも、好きな相手が居ればそれでいいと思ったことはないが、一人ぼっちから離れられない翡翠は叶に手を伸ばそうと救いを求める。
「翡翠、今から夜ご飯を作るから待ってて」
「ぼくも手伝うよ」
「ありがとう。でも、家事は俺の仕事だから大丈夫だよ」
「そっか。分かった」
「楽しみにしてて」
「うん」
 叶に拒まれたことを、まるで必要とされていないように感じてしまった翡翠は自分が情けなく苦しくなる。
「ご主人様?」
 翡翠の苦しそうで寂しそうな顔に心配になった伊李がその頬に手を伸ばすも、強く拒まれてしまう。
「何」
「わたくしも叶様のお手伝いをしてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
「ありがとうございます」
 少しニヤけた顔でシャツの襟をめくる伊李を無視して、翡翠は叶の部屋に戻る。
「はあ。彼の顔を見る度に自分が無力だと思い知る。どうにも出来ない、あっ」
 ふと叶の勉強机の小さい棚に置いてあるハンカチで大事に包まれているラピスラズリ色の黒いリボンがついている指輪に、翡翠は目を奪われる。
「これは、わたしの宝物の指輪の二つのうちの一つ。どうしてここにある? まさかあの日の出来事を今でも覚えていてくれたのか」
 もしそうだとしたらと考えるも、確証がないことにはどうすることも出来ない翡翠に、またあの幻の声が襲い掛かる。
「お前は悪魔の恥だ、近づくな!」
「天使の美しさを理解出来ないお前は、虹石に入る資格はない!」
「天空に生まれたことを後悔するがいい!」
(彼以外の誰かにわたしのことを受け止めてもらう必要はない)
 幻の声に慣れていなくても「叶」という初恋の相手が居る限り、泣くことが少なくなった。
「翡翠」
「叶」
 部屋のドアが開き、真っ暗だった部屋に光が差し込む。
「夜ご飯、もうすぐ出来るよ」
「うん。分かった」
「あっ! またつけ忘れてる」
「え」
 そう言って、叶は勉強机の小さい棚に置いてあるハンカチで大事に包まれているラピスラズリ色の黒いリボンがついている指輪を急いで右手の薬指にはめる。
「叶。その指輪は」
「これは俺の大事な指輪だよ」
「そう、なんだね」
 翡翠は喜びのあまり涙が出ようとしたが、何とか堪えて平然の振りをする。
「叶はその指輪の持ち主が誰なのかを知っているの?」
「知ってるよ。忘られない大事な相手だからね」
「そう」
(大事な相手、か)
 翡翠の隠された正体を知らない叶にはまだ自分のことを言う資格はないと、翡翠は叶の目の前に立つ。
「今日の夜ご飯は俺の好きなハンバーグだけど、今度は翡翠の好きな物を作るから、何がいいかを考えておいてね」
「うん」
(わたしが好きなのはあなただけだと言ったら、困るだろうか)
「永遠を約束して」
「え? 今、何か言った?」
「ううん。何も言ってないよ」
 自分より少し身長が低い叶の頭を微笑みながらリビングに行き、叶が作ってくれたハンバーグを「おいしい」と言いながら食べる。
「ご主人様、どうでしょうか」
「翡翠」
 伊李が自信満々に胸を張る姿に、翡翠は腹を立てて目を逸らす。
「伊李は何を作ったの?」
「デザートのゼリーを作りました!」
 瞳を輝かせてにっこり笑う伊李を怪しげな笑みで翡翠が問いかけた。
「そんなに自信があるならおいしいはずだよね」
「はい、もちろんです!」
 オッドアイの瞳が強く輝いている伊李に、翡翠は少し諦めたように「はあ」とため息を吐く。
「伊李さん、このゼリーはお店には出せないわね」
 プロのパティシエの望が一口だけ食べて手を止める。
「えっ! そんなはずは」
「母さんが作るゼリーの方が口溶けが良くて柔らかいけど、伊李さんが作ったこのゼリーは硬すぎて何の味かは分からないかな」
「叶さんまで・・・」
 大事な叶においしい物を作れなかった伊李を、翡翠は怒りに満ちて笑顔を崩す。
「伊李。こんな物をぼくに食べさせようとするなんて、執事失格だよ」
「申し訳ありません!」
「謝れば許されると思っているの?」
「うっ」
「翡翠、少し言いすぎだよ」
「まあ、初心者にしては上手な方ね」
「叶様、望様。ありがとうございます」
 叶と望がせっかく褒めてくれたことを感謝して、翡翠も少しだけ冷たく密かに褒める。
「伊李は練習すればするほど上達していくから、ぼくが言ったことを気にする必要はないよ」
「はい」
 伊李は今までの執事とは違って、料理に毒を入れたりベッドに針を刺したりしたことは一度もないため、翡翠は脅しても辞めさせようと考えたことはなかった。
「明日はショッピングモールに行くわよ!」
「あっ、そういえば明日だったね」
「もう、忘れないでよ」
「忘れてないよ」
「明日、どこか出かけるの?」
「うん。駅前のショッピングモールに母さんと一緒に行く予定だったんだけど、二人だと寂しいから翡翠も一緒に行こうよ」
「ぼくも、一緒に行っていいの?」
「もちろんよ。翡翠君と伊李さん、叶と私四人で行きましょ」
「はい」
「あの」
「伊李?」
「わたくしは明日、私用があるので。誘っていただいたのに、申し訳ありません」
「私用なら仕方ないわね」
「伊李さんは忙しいんだね」
「私用?」
 伊李の「私用」という言葉に違和感を覚えた翡翠は伊李を玄関の前に連れ出して、事情を聞こうとする。
「どうして遠慮した?」
「ご主人様の恋を邪魔することは、出来ません」
「それは理由にはなっていない。伊李に私用が出来たことは今までなかったはずだが」
「ご主人様、わたくしは見てしまいました」
「何を?」
「虹石に居るはずの大天使が、この地上で人間の振りをして学校に通っていたのです」
「その大天使の特徴は?」
「一瞬だったのでよく分かりませんでした」
「そう」
(わたし以外にも天空の者がこの地上に住んで居るとは思っていなかったな。どう始末しようか)
「ご主人様、わたくしが始末してもよろしいでしょうか」
「ダメだ」
「なぜですか」
「大天使は天使とは違ってかなり強い。簡単に始末出来る者ではない、まずは様子を見るべきだ」
「かしこまりました」
「遠慮した理由は大天使の件か?」
「は、はい」
「それなら納得できるな」
(大天使がもし近くに居たら、翡翠魔法で始末するしかないだろう。虹石は本当に諦めが悪くて困る)
 翡翠魔法の始末には七つの例が存在しているため、どれを使えばいいかが分からない。事前に決めていても、その時の状況次第で全てが変わってしまうことが今の翡翠の悩みとなっている。
「翡翠、明日着る服を今から決めてもいいかな?」
 二人の会話に少しだけリビングから顔を覗かせる叶を見た瞬間で、翡翠は満面の笑みになる。
「いいよ」
「ご主人様、今日はここで失礼致します」
「うん」
 伊李がこうもりの姿に戻って、翡翠は緊張しないように深呼吸を三回して叶の部屋に戻る。
「翡翠は俺より大きいからどれがいいかな」
「ぼくは紺色の服しか着れないから、紺色にしてほしい」
「どうして、紺色の服しか着れないの?」
「生まれた時から決まっていたんだよ」
「生まれた時から・・・」
 服選びに悩んでいる叶に、翡翠はそっと顔を近づけて微笑む。
「それにぼくは今着ているこの服がいいよ」
「あっ。翡翠、近いよ」
「ダメ?」
「ダメ、じゃないよ」
(また顔を真っ赤にしている。それで少しでもわたしを意識してくれたら、わたしは嬉しいです)
「分かった。じゃあ、明日はその服にしようか」
「うん!」
「翡翠、明日は一緒に楽しもうね」
「そうだね。ぼくも楽しみにしているよ」
 初恋の相手と生まれて初めて出かけることに楽しみはもちろんあると同時に、不安や恐怖が募っていくことを、翡翠と叶はこれから知っていくのだった。




  第三章
  一緒の時間

 いつもどおりの時間より少し遅れて目を覚まし、顔を洗い歯を磨く。平日とは違って、土曜日と日曜日はゆっくり出来るため、何も慌てることはない。
(今日は一つ結びでいいよね)
 背中まで伸びてしまった髪をくしで綺麗に解いて、簡単な一つ結びをいつもより少し低い位置で髪を結ぶ。髪型と服装で女の子に間違われてしまうのが、叶にとって一番嫌なことだった。そうならないために、髪を結ぶ時はお団子か一つ結びのどちらかにしているけれど、時々望にポニーテールや三つ編みにされることが多くなってしまっていた。
「叶。おはよう」
「翡翠、おはよう」
 あくびをしながら寝癖がついた自分の髪を触る翡翠を見て、叶は自然と明るく微笑む。左手を伸ばして、翡翠の寝癖がついた髪を触っていない方の手を掴んで、自分の前に立たせる。
「寝癖はくしで解いた方がいいよ」
「ありがとう。でも、ぼくはこっちの方が楽だから大丈夫だよ」
 そう言っても、翡翠は自分の髪を適当に手で解いているだけで全く整っておらず、叶は不満げにその手を止める。
「ダメだよ。ちゃんとくしで解かないと、絡まって痛くなるよ」
 叶の注意にようやく言うことを聞く気になった翡翠は満面の笑みで、その綺麗に整った髪に触れた。
「じゃあ、叶がぼくの髪を解いてよ。それならいいよね?」
 翡翠が楽しそうに笑っている様子に、自分も嬉しくなった叶はゆっくりと首を縦に振って頷きながら、少し照れた。
「・・・いいけど」
「やったー」
「はっ」
(翡翠は本当に甘えん坊さんだね)
 自分より少し身長が高い翡翠でも、誰かに甘えたいことがあるのだと知るのも悪くはない。一人の時間が長かった叶にとって、この時間を、空の明るい日差しに照らされたように温かく感じる。
「叶はぼくの髪、好き?」
「好きだよ」
「それなら良かった」
 鏡に映る翡翠の顔が暗くなっていることに気づいた叶は何か話しかけようとするも、どんな言葉を言えばいいかが分からずにいた。
「叶?」
「・・・・・・」
 無言で翡翠の髪を見つめていた叶を、翡翠は顔を明るくして後ろを振り向く。
「あっははは! 叶は本当にぼくの髪が好きなんだね」
「え」
(翡翠、俺のために無理して笑ってくれてるのかな)
「翡翠は髪、結ばないの?」
「うん。面倒だからいつも何もしてないよ」
「じゃあ、今日は俺が結んであげるよ」
「えっ。でも」
「せっかくくしで解いたのに、何もしないのはもったいないよ」
 大事な叶からの提案に、自分の髪に触れている翡翠は満足がいくように、叶の言うとおりにしようと決める。
「分かった。叶の好きな髪型にしてくれるならいいよ」
「俺の好きな髪型はないよ」
「じゃあ、今の叶の髪型はどう?」
「一つ結びのこと? それでいいならいいけど」
「うん。お願い」
 翡翠の髪は肩より少し短いため、結ぶのが難しくて約八分と時間がかかってしまった。
「はい、出来たよ」
「ありがとう」
 一つ結びをしただけなのに、さっきとは違って大分大人っぽくなった翡翠を見て、叶はその姿に何か見覚えがあることを思い出すのを、翡翠が手をそっと丁寧に重ねてその記憶が途切れる。
「叶」
「はっ、何?」
「ぼくも叶の髪、結んでもいい?」
「えっ、俺はいいよ」
「どの髪型にしよう」
 首を傾げて天井を見上げたり床を見て悩み考えている翡翠には敵わないと、叶の心は少しずつ翡翠で満たされていくのだった。
(翡翠が俺のために悩んでくれている。嬉しくて涙が出そう)
「はあ、二つ結びでいいよ」
「分かった」
 満面の笑みになった叶は翡翠の前に立ち、ヘアゴムを外して翡翠にくしを渡すと、その姿に翡翠はある質問をする。
「叶は女の子に間違われたことはあるの?」
 何気ない質問のつもりだったのが、一番嫌いな言葉を聞かれたことに、一瞬暗く床を見つめた叶にはそれが仕方のないことだと、少し間を開けて答えた。
「・・・あるよ」
 機嫌が悪そうに見えた翡翠が、悔しく唇を強く噛み、後悔する。
「怒っているよね?」
「別に、怒ってないよ」
「嫌だった?」
「少しだけ」
「ごめんね」
「大丈夫だよ。もう慣れたから」
「そう・・・」
 翡翠の落ち込んだ顔を見た叶が、心の中でひっそりと笑う。
(俺は嫌なことでも慣れていくしかなかったから、翡翠が謝る必要はないよ。あははっ)
 そして、気を取り直して叶の髪を笑顔で楽しそうに二つ結びにしていく翡翠に、叶もつられて微笑む。
「そういえば伊李さんが居ないけど、どこか出かけたの?」
「伊李は昨日言ってた私用に朝早く出かけたよ」
「そうなんだね。翡翠は俺と居て楽しい?」
「楽しいよ!」
 翡翠のはっきりした声に驚く叶だったが、翡翠の少年らしさに心を打たれてしまう。
「叶。出来たよ、どう?」
「いいと思うよ。ありがとう」
「それなら良かった」
 翡翠はとても器用で、叶が結んだ時よりも綺麗に整えられている。
「翡翠の手は俺より大きいね」
「そう?」
「うん、大きくて触れられたい手」
「じゃあ、もっと触れてあげようか」
「え」
 そう言って、翡翠は顔を近づけて叶の髪にキスをする。鏡に映る翡翠の顔はどこか儚くも誰かに恋をしているように感じてしまう自分が恥ずかしいと、叶は顔を真っ赤にしながらそう思った。
「叶」
「・・・あっ」
 真剣な眼差しで翡翠は叶と向き合い、翡翠に右手を握られる。
「約束する。ぼくは絶対に叶から離れない」
 その愛おしい言葉に、叶も約束しようと決めた。
「うん、俺も絶対に翡翠を離したりしない」
「本当?」
「本当だよ。だって、翡翠はもう友達だからね」
「友達、か」
「翡翠?」
 叶の「友達」という言葉を聞きたくなかった翡翠を見て、叶は「ごめんなさい」という気持ちで翡翠の頭をそっと撫でる。
「俺は友達も恋人も居ないから、翡翠が今一緒に居てくれるだけで幸せなんだよ」
「そう思ってくれるなら、ぼくは嬉しいよ」
「うん」
 翡翠の瞳が叶を真っ直ぐ見ていることを知りながら叶は翡翠と一緒に部屋に戻り、今日着る服に着替える。昨日翡翠に貸した紺色のチェックシャツと黒のスキニーパンツとは色違いの水色のチェックシャツに緑色のスキニーパンツに着替えて、おかしいかどうかを翡翠に確認するのと同時に、右手の薬指に大事な指輪をはめる。
「翡翠、どうかな?」
「うん。叶にピッタリで可愛いよ」
 素直で一途な翡翠の言葉が嬉しいはずなのに、なぜか恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「可愛いって言うのはやめて。恥ずかしいから」
「あっはは。じゃあ、ぼくも着替えるから叶は部屋の外で待ってて」
「うん」
 部屋のドアを開け、翡翠と交代して部屋の外で翡翠が着替え終わるまで待つ。
(翡翠は好きな相手が居るのかな。もし居るなら、その相手のことを知りたい)
「叶」
 ドア越しに名前を呼ばれて、心の声が出ていたかもしれないと、叶は慌てて両手で口を塞ぎ、目を閉じる。
「な、何?」
「叶はぼくの髪が好きなんだよね?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、体はどう?」
「体・・・」
(どうして、体の話になったのかな)
 不思議な質問に驚く叶の心を置き、翡翠が続けて語りかける。
「ぼくの体を見ても、叶は好きになってくれる?」
 その真剣で寂しそうな声を聞いて、これが翡翠の本音だと知り、叶も真剣にドア越しに向き合う。
「多分だけど、俺はどんな翡翠でも受け止めると思うよ。それじゃダメかな?」
「・・・ダメじゃないよ。嬉しいよ」
「翡翠」
 この会話のどこかで恥ずかしくなってしまった叶に気づいていない翡翠は小声で「ありがとうございます」と敬語でお礼を言う。
「叶。着替えたから、ドアを開けるね」
「う、うん」
 ドアが開き、翡翠が顔を覗かせる。
「叶。待った?」
「大丈夫。待ってないよ」
「二人共、おはよう」
「おはよう、母さん」
「おはようございます」
 叶と翡翠のお揃いの姿に、望は満面の笑みで喜ぶ。
「今日の二人はいつもとは違って、恋人らしいわね」
 望の本心なのは叶にも分かってはいるけれど、思春期なのか、それがすごく恥ずかしく感じてしまう。
「母さん、それって褒めてるの?」
「褒めてるわよ。叶、どうして今日はその服を着てるの? もしかして翡翠君に合わせたの?」
 嬉しそうに問いかける望の言葉に、さらに恥ずかしくなり、叶は一人顔を真っ赤にするのだった。
「なっ! そ、そうだよ」
「うっふふ。それなら堂々としてなさい」
「叶。ぼくに合わせてくれたんだね。嬉しいよ」
「うん」
(翡翠も喜んでくれているなら、俺も喜んで笑顔にしないとね)
 恥ずかしさを忘れて、可愛らしい叶の笑顔に翡翠と望は二人顔を合わせて、三人笑顔になって最高の朝を迎える。
「さあ、今日のフレンチトーストは可愛いウサギにしてみたの。早く食べましょ」
 いつもより百倍楽しそうな望の後ろを翡翠と歩き、望が作った食べるのがもったいない可愛いウサギを、ゆっくり味わいながら食べる。
「叶。おいしいね」
「そう、だね」
「今日のフレンチトーストはいつもとは違う楽しさもあっていいでしょ」
「そうだね」
(今日は少し量が多い気がする)
「叶。ジャムがついているよ」
「えっ」
 そう言って、翡翠は指で叶の唇を撫でるようにジャムを取る。
「あ、ありがとう」
 叶はまた顔が赤くならないように、フレンチトーストを、出来るだけ早く食べ終わらせた。
「叶。その指輪を少し貸してくれる?」
 突然の翡翠の言葉が叶の心を黒く染まりかけ、戸惑いを隠せずにいる。
「ダメ」
「どうして」
「これは、その、指輪の持ち主の大事な物だから」
「そう」
 翡翠の寂しそうな顔を、叶は心苦しくも見ない振りをしながら、食べ終わった食器を洗いながら七年前の出来事を思い出す。
 あれは一人で空を見上げていた時、突然空から天使のように綺麗に落ちてきた、姿を隠す少年を受け止めてすぐに仲良くなったとても忘れるのことのできない大事な宝物の記憶だった・・・。
『一人が寂しくなったら、俺と一緒に居ればいいよ。俺が君を守ってあげるから』
 当時の明るく元気だった叶の真っ直ぐな言葉が少年を心から安心させ、少年は自分の想いを言葉にする。
『あなたと、叶さんとずっと一緒に居たいと願うのはダメなことですか』
 勇気を出して話してくれたことが、叶にとってはとても嬉しいことで首を横に振った。
『ダメじゃないよ。君の願いを叶えるのは俺だからね』
 そのホッとさせて未来を見させる叶の姿を少年はローブの中で静かに微笑み、首を縦に振って頷く。
『はい! ありがとうございます、叶さん』
 それから七年も経ち、あの少年に言った全ての言葉が間違いだったのではないかと、叶は今更ながらに後悔した。
(あの人に言ってた言葉が今になって、こんなにも重いことだったなんて知らなかった。恥ずかしい)
 叶の落ち込んだ様子に心配する翡翠が隣に立ち、明るく振る舞う。
「叶」
「何?」
「今日は何時に出かけるの?」
「もうすぐだと思うよ」
「分かった。それまでは何をしよう」
 翡翠が一人楽しそうに笑っているのを見て段々と心が軽くなり前を向くと、望も続いて翡翠に今日の朝ご飯の感想を聞く。
「翡翠君、今日のフレンチトーストはどうだった?」
「おいしかったです」
「そう言ってもらえて嬉しいわ」
「叶は毎日こんなにおいしい料理が食べられて幸せだね」
「そう、かな?」
「そうだよ。ぼくは叶が羨ましい」
 悲しいのか、それとも本心なのか。どちらにも当てはまらないような、そんな複雑な翡翠の姿に、叶はなるべく明るく首を縦に振って頷いた。
「うん」
 叶と翡翠の愛らしい光景に微笑む望が手を挙げてくるりと一周回る。
「二人共、準備は出来たの? そろそろ行くわよ」
 全力で楽しく笑う望が玄関に行き、叶も急いで行こうとした瞬間、つまずいて転んでしまい、翡翠が手を貸してくれる。
「叶。大丈夫?」
「うん、あとは靴を履くだけだから」
 つまずいた足の痛みを気にして、翡翠は叶の腕を掴む。
「ぼくが履かせるよ」
 翡翠が自分の靴を持って履かせようとしたが、叶はそれをそっと優しく首を横に振って拒んだ。
「翡翠、俺は子供じゃないから靴くらい自分で履けるよ」
「そう?」
 心配をさせないように、叶は明るい笑顔で一瞬で靴を履き、隣に立つ翡翠に手を伸ばす。
「よし、履けた。翡翠、手を握ってもいいかな」
「うん。いいよ」
 翡翠の手を握ろうとしたが、自分で言っておきながら勇気が出ずに、叶は翡翠に遠慮をする。
「ぼくは叶とずっと一緒に居るから、ゆっくりでいいよ」
「うん」
 翡翠の言葉に励まされて、叶は少しずつ勇気を出して翡翠の手を握る。
「叶。行くよ」
「うん!」
 今日は翡翠と精一杯楽しもうと、満面の笑みで家を出るのだった。


 家から徒歩五分で着いた駅には休日ということもあってたくさんの人で賑わっていた。電車に乗る人も居れば、駅前のショッピングモールに行く人も居るため、平日とは違う楽しい雰囲気になっている。
「やっぱり休日は人が多いわね」
「そうだね」
 人の多さに怯える叶が翡翠の後ろに隠れて望が背中をポンッと叩く。
「叶、どうして翡翠君の後ろの隠れているのよ、目立つからやめなさい」
「でも」
 周りにいるほとんどの人が叶に注目して見て、それに叶は動揺する。
(みんな俺を見ている。嫌だ)
 叶の緊張で震える姿に可愛らしいと、二人組の女の子がコソコソと話し合う。
「ねぇ、あの子見てよ。超可愛くない?」
「あっ、本当だ。ねぇ声かけてみようよ」
「・・・・・・」
 そして、二人組の女の子とは別の男子グループも叶が気になって目が離せずにいる。
「おい。あの二つ結びの子、めちゃくちゃ可愛いじゃん。俺ちょっと話しかけてくる」
「やめとけよ。もしあの子が男だったらどうするんだよ」
「男でも可愛けりゃいいんだよ」
 勝手に自分の姿を見て楽しんでいる人たちに叶はすぐに目を逸らして見ない振りをし、目を瞑る。
(どうしよう、母さんの前では絶対に告白されないようにしないとダメだ。嫌で人前に出るのが怖くなってきた)
「叶。早く中に入ろう」
「あ、うん」
 翡翠に気を遣われてしまったが、望の謎の鼻歌を聴いていたらそういうことはすぐに忘れられるため、叶は隠れるのをやめて、翡翠の隣を歩きながらショッピングモールの中へ入って行く。
「母さん、今日は何を買うの?」
「今日は叶と翡翠君の服を買うわよ」
「今日こそはぴったりのサイズの服を買ってね」
「ダメよ。男の子はピッタリサイズを買ったら、すぐに小さくなって着れなくなるんだから、毎回少し大きいサイズを買っているんじゃない」
「俺はもうこれ以上は大きくならないよ」
「それはまだ分からないでしょ」
「でも」
「叶、毎回言っているけど、少しは母親らしいことを私にもさせて」
「はあ、分かった」
「そう、それでいいのよ」
「はあ」
「叶。さっきからため息が多いけど、どうかしたの?」
「ううん、何でもないよ」
「それならいいけど」
(言えない。後ろから知らない人たちが俺の後を追いかけて居るなんて言ったら、きっと母さんは悲しむに違いない。これは頑張って耐えるしかない)
 いつもとは違う二つ結びをしている今時では珍しい高校二年生の叶を見て、珍しく思う人も居れば、可愛いと思う人が居ることを、ずっと前に知ってしまった叶にとって、これは耐えるしかなかった。
「叶、翡翠君。今日はどの服が欲しいの?」
「どれでもいいよ」
「ぼくは紺色の服しか着れないので、紺色ならどれでもいいです」
 叶と翡翠の適当な服の興味のなさに、望は少し呆れる。
「二人共、もうちょっと服に興味を持たないと女の子にモテないわよ」
「別にモテなくていいよ」
「ぼくも女の子に好かれたいと思ったことは一度もないので、大丈夫です」
「そうなの? 今時の子は皆そういう子が多いのね。勉強になったわ」
(多分違うと思うけど)
 ショッピングモールの中には百五十以上の店舗があり、雑貨や小物はもちろんあるが、百五十以上の店舗のほとんどが服を扱う店が多いため、ファッション好きの人がこのショッピングモールで買い物をするスポットともなっている。
「叶」
「何?」
「危ないから、ぼくから離れないでね」
 人の多さに負けないように翡翠は叶の肩を自分に寄り添わせて、微笑みかけて安心させる。
「う、うん」
「今日はここで服を買うわよ」
「え、ここって」
「最近出来た女の子に人気の可愛い動物のファッション店よ」
「・・・嫌だ」
「ほら、遠慮しないで入るわよ」
(お店自体が桃色で溢れていて、男が入るのには無理がありすぎるよ)
「叶。行こう」
「翡翠は嫌じゃないの?」
「何が? ぼくは叶と一緒ならどこにでも行くよ」
「翡翠・・・」
「二人共、早く来なさい」
「はい」
「うん」
 店の中に入ると、女子高生や男女のカップルが仲良く服を選んだり、見せ合ったりしていた。
「叶。この服叶に似合いそうだけど、どう思う?」
「えっ! これを、俺が着るの?」
「そうだよ」
「いいわね。叶、試着してみなさい」
「はあ、分かったよ」
 翡翠に手渡された服は可愛いパンダをモチーフにした青のジャケットに、可愛いパンダが付いている茶色のブーツ。可愛いパンダのシュシュを左手に付けて試着することになってしまった叶は恥ずかしく思いながらも、少し楽しみになりながら試着室に入り、渡された服に着替える。
「これは絶対に似合わない気がする」
「叶」
 様子が気になった翡翠が試着室の前に立ち、声をかけられたことに叶が激しく驚いたが、服の似合わなさに申し訳なく思う。
「翡翠、ごめんなさい。やっぱり俺には似合わないよ」
「一回、中に入ってもいい?」
「え」
「似合わないかどうかは見てみないと分からないから」
「・・・分かった、入っていいよ」
「うん」
 そう言って、望に気づかれないように試着室に入って来た翡翠に、叶は不思議とドキドキし始める。
「叶。顔が赤いよ」
「え、気のせいだよ」
「そう? 何もしないから、緊張しなくても大丈夫だよ」
「翡翠、また意地悪を言ってるよね」
「叶から見たぼくは、いつも意地悪を言っているように見えるんだね」
「あっ、そういうつもりで言ったわけじゃないよ」
「そう」
 照れ隠しに違う方向を見ようとするが、試着室の鏡に全部写ってしまっていることに気づいた叶は目を瞑ることにする。
(これ以上顔を見られてしまったら、心臓が持たないよ)
「叶。その可愛い顔をよく見せて」
「ダメ、だよ」
 照れすぎてまともに自分の顔が見れない叶の気持ちを尊重した翡翠は一瞬髪を撫でてあげようとするも、すぐに手を止めて明るく笑いかける。
「あっはは。はい、出来たよ」
「あ、ありがとう」
 さっきとは違って、翡翠に整えられた服は可愛いパンダを着た幼い少年に仕上がっている。
「やっぱり恥ずかしいよ」
「そう? よく似合っているよ」
「翡翠はそう言うけど、俺にパンダは似合わないよ」
「叶はパンダが嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ、好き?」
「好きでもないよ」
「嫌いでもなければ好きでもない。叶は真ん中が多いね」
「そうかな?」
「嬉しいよ」
 微笑みながら叶の頭を恐る恐る撫でる翡翠に、叶はなるべく顔を真っ赤にしないように耐えて、試着室から顔を覗かせて望がすごく大げさに喜ぶ。
「叶、よく似合ってるわよ!」
「褒められても嬉しくないよ」
「今日はその服を買ってもいいわね」
「嫌だよ」
「ぼくもその服がいいと思うよ」
「翡翠までそう言うの」
「叶、今日買わないと後悔するわよ」
「はあ、分かった。母さん、この服を買ってほしい」
「分かったわ。じゃあお会計をするから、着替えてきなさい」
「うん」
 試着室に戻り、脱いだ服に着替え直して安心して「はあ」とため息を吐く叶はどうして翡翠にドキドキしてしまったのかを考える。
(俺も翡翠も男なのに、ドキドキするなんておかしい。でも、友達を好きになるのはおかしいことじゃないはずだよね・・・)
「叶」
「翡翠? 着替え終わったからもう出るよ」
 試着した服を丁寧に畳み、靴とシュシュを持って試着室を出ると、翡翠が満面の笑みで待って居てくれていた。
「はい、母さん」
「うん、靴のサイズはこれで大丈夫なの?」
「出来れば一センチ大きいサイズにしてほしい」
「じゃあ、二十四センチでいいの?」
「うん」
「分かったわ。翡翠君と店の外で待って居なさい」
「うん」
 二人笑顔で店から出て、叶はドキドキしたこの感情を翡翠に聞くことにする。
「翡翠、さっきは」
「さっき? 何かあったの?」
 何も覚えていないような感じの翡翠の冷たく凍えそうな声に少しだけ怖くなった叶だったけれど、それは気のせいだと深呼吸を四回繰り返して自分に言い聞かせた。
(翡翠が覚えていないなら忘れよう)
「ううん、何でもない」
 叶の態度に不思議に感じた翡翠は今の楽しい想いを叶と笑い合えるように知ってほしくなる。
「叶と一緒に出かけられてぼくは幸せだよ」
「突然、何?」
 驚く叶に翡翠は心から続けて語りかける。
「叶は好きな人は居る?」
「居ないよ」
「じゃあ、ぼくを好きになっ」
「もう好きだよ」
「えっ」
 予想外で嬉しさと感動、いや、それ以上の物が翡翠の心を震わせ、両手を握りしめて続きの言葉を待つ。
「翡翠はもう、俺の大事な相手だから。離したくない」
 叶からの「大事」という言葉は何度聞いても飽きずに、そのまま抱きしめたいくらいに胸が熱くなった。
「叶。ありがとう」
「でも、好きにも種類があるから、俺の好きが何かはまだ分からない。ごめんなさい」
「謝らないでよ。ゆっくりでいいから、ぼくへの好きを見つけて、いつかその好きをぼくに伝えてほしい」
「うん、分かった」
 二人のいい感じのところを邪魔しないように望が元気よく現れる。
「叶、翡翠君。お待たせ」
 大量の桃色の袋を両手に持つ望を、叶が気遣って手を伸ばす。
「母さん、袋持つよ」
「じゃあ、お願いね」
「うん」
(桃色の袋、初めて見た気がする。少し恥ずかしい)
「叶。もし無理になったら、その袋はぼくが持つから安心して」
「あっ、うん」
「次はあそこに行くわよ」
 そう言って、望が指を差した店はファッション店ではなく、小物や雑貨が並ぶおしゃれなカフェだった。
「母さん、もう服は買わないの?」
「うん、今日はもう十分買ったから、ここのカフェでお昼ご飯を食べて、行きたいところがあるの。食べたらそこに行ってもいい?」
「今日はまだ俺の服しか買ってないけど、いいの?」
「何を言ってるの。ちゃんと翡翠君の服も買ってあるからもういいのよ」
「いつ買ったの?」
「さっきのお店で叶の服と一緒に買ったの」
 その嬉しい言葉に、翡翠は丁寧にお辞儀をして感謝を伝える。
「ぼくの服も買ってくれたのですね。ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方よ」
「え」
「今までは叶の分しか服を買ってあげられなかったけど、今日は翡翠君と三人でこうして買い物が出来て、私はすごく嬉しいの。翡翠君、今日は付き合ってくれて、ありがとう」
 逆にお礼を言われたことに、翡翠が一歩下がって少し遠慮する。
「いえ、ぼくは何も」
「俺も翡翠と一緒に来られて嬉しいよ。ありがとう」
 満面の笑みで感謝を伝えてくれる叶が翡翠の頬を撫でて、その想いに翡翠は心から嬉しく感じる。
「叶。ぼくも叶と望さんと、三人で来られて嬉しいです」
 翡翠の笑顔に、叶も望もつられてさらに笑顔が増えたことが、今日の一番楽しい思い出になったのだと、叶は思った。
(翡翠が笑うと俺も嬉しいと思うのは、ダメなことなのかな?)
「翡翠」
「何?」
「あっ、その、えっと・・・」
「うん?」
「立ち話はここでは邪魔だから、早く中に入りましょ」
「うん、そうだね」
「叶。何かぼくに言いたいことがあるの?」
「ううん、何でもない」
「そう・・・」
 何かを伝えたいわけではないが、「翡翠」と名前を言いたくなる叶は時には言葉を紡ぐもことも必要なのだと、静かに息を飲み込みながら改めて感じた。
 カフェの中に入って、店員さんに案内された席に翡翠の隣に座った叶の後ろに、二人組の男が叶を見てニヤニヤしていることに叶は一瞬で、心の底から嫌にも気づいてしまう。
「・・・・・・」
「翡翠君は何か食べたい物はある?」
「初めて来たのでまだよく分かりませんが、何かおすすめはありますか」
「おすすめね。このブルーベリーのパンケーキはどう?」
メニューの一ページ目に大きく飾られているブルーベリーがたくさん盛りつけされているパンケーキを見た翡翠は、一瞬言葉が出てこずに戸惑ったけれど、すぐに気を取り戻して満面の笑みで返事をする。
「いいですね。じゃあ、ぼくはそれにしようと思います」
「分かったわ。叶は何にする?」
「・・・・・・」
 一人怖く感じて下を向く叶を、翡翠は何か怪むが、それを悟られないように明るく名前を言う。
「叶」
 翡翠の笑顔でようやく顔を上げて、叶は我を思い出す。
「あっ、何?」
「叶は何が食べたい?」
 メニューをそっと自分の目の前に置いてくれた翡翠の笑顔に安心しながら、叶は定番の物を見つける。
「俺はこのイチゴのパンケーキでいいよ」
 出来るだけ少しでも笑顔を保とうとする叶に、翡翠は美しく微笑みながら首を傾げ、その様子に気づいた望もまた、明るく元気に返事をする。
「分かったわ。すみません、注文をお願いします」
「はーい!」
 元気よく返事をして席に注文を取りに来た男の店員さんに、叶は見覚えがあることを思い出す。
「阿良川君?」
「おっ、牧じゃないか。昨日ぶりだな」
「そう、だね」
「阿良川君、こんにちは」
 望の温かく丁寧な挨拶に、阿良川君はすぐに姿勢良くお辞儀をする。
「こんにちは。この前はどうも」
「いいのよ。叶と仲良くしてもらって私は嬉しいわ」
「あっはは。ありがとうございます」
「阿良川君はどうしてここに居るの?」
 少しだけを目を合わせながら質問してくれた叶を、阿良川君が胸を張って答える。
「高校に入ってからこのカフェでアルバイトをしてるんだよ。牧には言ってなかったな」
「うん。今日、初めて知った」
「中々言い出せなくて、隠すつもりはなかったんだ。牧、ごめんな」
「大丈夫、今日知れて良かったよ」
 二人の仲の良さに嫉妬した翡翠が怪しげな笑みで阿良川君を見る。
「あなたは叶の友達、ですか?」
 怪しげな笑みに気づいた阿良川君も負けずに不気味な笑みを浮かべた。
「友達じゃないよ。君は昨日学校に勝手に入って来た人だよな。名前は何?」
「翡翠です」
「え、翡翠君そんなことをしてたの?」
 望の驚きの声に上手く反応できていない翡翠だったが、それには何も感じないようにした。
「はい。叶に傘を届けるために勝手に入ってしまいました」
 翡翠の怪しい言葉に、阿良川君は警備員の叔父さんについて聞いてみる。
「警備員の叔父さんはどうしたんだ?」
「その人が入れてくれました」
「本当か?」
「嘘ではありません」
 早くこの会話を終わらせるように翡翠は目を逸らし、阿良川君も深いため息を吐いて見ない振りをした。
「はあ、まあいいや」
「阿良川君、注文をお願いしてもいい?」
 メニューをそっと軽く見せた望を見て、阿良川君は急いでメモ用紙を手に持つ。
「すみません、長々と話してしまって。どうぞ」
「いいのよ。ブルーベリーのパンケーキを一つとイチゴのパンケーキを一つ、チョコバナナのパンケーキを一つお願いね」
「はい、確認します。ブルーベリーを一つ、イチゴを一つ、チョコバナナを一つ。以上でよろしいでしょうか」
「ええ」
「かしこまりました。お時間が少々かかりますが、よろしいでしょうか」
「大丈夫よ」
「はい、では」
 そう言って、阿良川君は軽くお辞儀をして厨房の中へ入って行ったのを、叶は何も知らなかった自分を憎む。
(俺はまだ阿良川君のことをどう思っているのかが自分でもよく分かってない。でも、悪い人じゃないことは何となく知ってるはずだよ)
 叶の考えている姿に微笑む翡翠が、右手を握って阿良川君との関係を聞く。
「叶はあの人、阿良川さんをどう思っているの?」
「分からない」
「友達じゃないのに仲がいいなんて珍しくて驚いたよ」
「そうかな?」
「そうだよ。でも、良かった」
「何が」
「叶が阿良川さんを、好きにならないことをだよ」
 謎の安心感を味わっている翡翠を、叶には不思議でたまらなかった。
「俺は男を好きになったことはないよ。好きになりたいと思ったこともないかな」
 素直な答えに翡翠は嬉しくなり、それこそが自分が叶を好きになった理由であるのだと改めて知った。
「叶のそういうところ、ぼくはいいと思うけど」
 首を傾げて微笑む翡翠に、叶は「そうだね」と曖昧な返事をするのだった。
(褒められてるのかは分からないけど、翡翠に好きだと言われたら、俺は嬉しいと思うのかな)
 二階にあるカフェの窓から見える青空が広がる景色を見ている叶の手を、翡翠が今度は左手も握り、そっと丁寧に輝きの笑顔を見せていく。
「あっ」
「叶の手は温かいね」
「違うよ」
「え」
「俺の手は凍えてるんだよ」
「どうしてそう思うの?」
「思うも何も本当のことだから」
「叶」
 冷めてしまった二人の雰囲気に気まずい望が別の話題を振りかける。
「ここのパンケーキはおいしいのよ」
「えっ」
「二人共食べたことがないから分からないかもしれないけど、本当においしいのよ」
 ぎこちない望の顔を、叶は少し安心してその話に乗った。
「母さんが作るのよりおいしいの?」
 率直な質問に、望はプロのパティシエとして口を塞ぐ。
「それは言えないわ。お店に失礼になるでしょ」
「そ、そうだね。ごめんなさい」
「謝る必要はないわ。私はプロだから味の判別は食べた時にすぐに分かるけど、二人はそんなことは考えずに、おいしく食べればいいのよ」
「分かった」
「叶。楽しみだね」
「うん」
 自分より少し大きい翡翠の手が優しく包むような温かさを、叶に感じさせてくれた。
「おい。いつあの子に話しかけるんだ?」
「隣の奴が離れてからじゃないと、話しかけるのは無理だろ」
 後ろに座っている謎の二人組の男の会話が当然のように自分の耳に入ってしまったことに、叶の体は少しずつ雪のように凍えていく。
(どうしよう。後ろに座って居る人たち、俺を狙ってるよね。怖い)
「翡翠、手、絶対に離さないでね」
「うん。分かってるよ」
 そう言って、翡翠に手を離されないように強く握る叶は体が震えていることを翡翠に気づかれないように必死に耐える。
「叶。どうしたの?」
「・・・何でもないよ」
「本当?」
「本当、だよ」
「無理をしたらダメだよ」
「わ、分かった」
 翡翠の満面の笑みで心が軽くなったところに、阿良川君が自然な流れで来た。
「お待たせしました。こちらイチゴとブルーベリー、チョコバナナでございます」
「阿良川君、ありがとう」
「いえ、ごゆっくりどうぞ」
 運ばれたパンケーキを楽しみにしていた望がポケットからスマホを取り出し、写真を何枚も撮っていく。
「久しぶりに食べるから、ずっと恋しかったのよね」
「そうなんだね。翡翠、手、離していいよ」
「本当にいいの?」
「うん」
 翡翠に手を離されて少し寂しさが残ってしまったことを、叶は誰にも気づかれないようにした。自分から誰かの手を握るのはあまり慣れていなかったため、隣に居て安心出来る人が居たことを知れて良かったと、叶は不思議と微笑んでそう思った。
「い、いただきます」
 初めて食べるパンケーキを一口食べて一瞬で笑顔にされる。
「叶、どう?」
「うん、おいしいね」
「本当にそう思ってるの?」
 あまり見慣れていない叶の笑顔が、望には嘘のように違和感を持ってしまう。
「俺は母さんが作るパンケーキ以外を今日初めて食べたから、感想を聞かれても困るよ」
「そうだったわね。でもおいしいでしょ」
「うん」
 望が作るパンケーキと比べてホイップクリームの量が多いため、叶はすぐに満腹になってしまった。
「叶。大丈夫?」
「大丈夫、じゃないよ」
「ぼくが食べてもいい?」
「でも」
「無理をして食べる必要はないよ」
 真剣で強く、美しく笑いかけてくる翡翠の姿を見て、叶は少しだけ顔を真っ赤にして照れた。
「分かった、はい」
 翡翠に残ったパンケーキの皿を渡して、満腹になったお腹を触りながら「はあ」とため息を吐くのに対して、望は叶の体について心配する。
「叶は成長期なんだから、もっと食べないとダメよ」
「俺の成長期はもう終わってるから、これ以上は食べなくてもいいんだよ」
「少しは翡翠君を見習ったらどうなの?」
「俺は俺のままで十分だよ」
「ぼくはどんな叶でも受け入れるよ」
 自分より年下に見える翡翠とは違う一人の空間。それがどんなに辛いのか、叶も翡翠と同じように寂しく感じていた。
(俺はこれ以上変わりたくない。変わってしまったら、今までの自分を否定してしまう)
「あっ」
「叶。これ、ぼくに食べさせてくれる?」
 翡翠が笑顔で叶に渡したのは、翡翠が食べていたフォークに乗せられているブルーベリーのパンケーキだった。
「自分で食べるのが嫌なの?」
「ううん、叶に食べさせてほしいと思っただけだよ」
 期待して待っている翡翠の天使のような微笑みに、叶の心は断らずにはいられない。
「・・・いいけど」
「本当にいいの?」
「うん」
「じゃあ、お願い」
 翡翠が顔を近づけて来たことにまたドキドキする叶はなるべく翡翠の顔を見ないようにパンケーキを翡翠に食べさせる。
「翡翠、どう? おいしい?」
「うん! おいしいよ!」
 幸せそうに二人が笑い合っているのを見た望が嬉しく感じ、微笑ましく見守る。
「叶と翡翠君は本当に仲がいいのね」
「はい。ぼくにとって叶は憧れの人なので、一緒に居られて嬉しいです」
 明るく元気な翡翠の笑顔に、望が少し本音をポロッとこぼした。
「翡翠君が叶の彼氏だったら、私は嬉しかったのに残念だわ」
 その言葉に翡翠は驚き照れるも、一方の叶は友達にそんなことを言ったらダメだと、両手を大きく左右に振る。
「母さん、俺と翡翠は友達だから勘違いしないでよ」
「うふふ。分かったわ」
 家族の何気ない会話についていくのが難しくなっていた翡翠だったが、気持ちを整えて隣に居る叶に振り向き、天使の微笑みを見せる。
「・・・叶。はい」
「え」
 今度は自分が食べさせる番だと満面の笑みで「口を開けて」と言う翡翠に、叶は顔を真っ赤にして恥ずかしくなってしまう。
「そんなに照れなくても大丈夫だよ。何もしないから」
「照れて、ないよ。翡翠、恥ずかしいことを言わないでよ」
「あっはは。ぼくは叶よりも年下だから、年上の叶に甘えてもいいよね」
「それとこれとは話が別だよ」
「いいから、口を開けて」
「あっ、うん」
(恋人でもないのに翡翠に食べさせられるとは思ってなかった。でも、翡翠が笑顔なら今はいいかな)
 口を開けて翡翠が食べさせてくれたパンケーキの味が自分で食べていた時とは違う感覚になって嬉しくなる。
「叶。おいしい?」
「うん、おいしいよ」
「良かった」
「二人共、そろそろ出るわよ」
「はい」
「うん」
 席を立ち、望がお会計をしている間に、叶は後ろに座っていた二人組の男に絡まれてしまった。
「ねぇ君可愛いね」
「俺たちと一緒に今から遊ばない?」
「・・・・・・」
「聞こえてる?」
「・・・・・・」
「ねぇこっち見てよ」
 二人組の男の話を恐怖で無視し続ける叶のことを一人の男が怒り、叶の手を強く握る。
「は、離して」
「離したら一緒に遊びに行ってくれる?」
「それは嫌です」
「じゃあ、無理やりにでも連れて行こうか」
「あっ」
(嫌だ。どうして皆俺が男だって分からないんだよ、もう嫌だ)
 叶の今にも泣きそうな顔にお手洗いから帰って来て気づいた翡翠が、男の手を強く握って痛めつける。
「離せ」
「今何て言った?」
「この手を離せ」
「化け物が何言ってんだよ!」
「あっ」
 翡翠に握られている腕を振り解き、男は翡翠に殴りかかろうとした瞬間、自然と動いた体で叶が大きく両手を広げて止めた。
「・・・化け物って言わないで」
「あ?」
「翡翠は化け物じゃない! 俺の友達で大事な相手だ!」
「叶」
 意外にも守ってくれたことが信じられずに立ち尽くす翡翠を、叶がそっと抱きしめる。
「翡翠、大丈夫?」
「うん。ありがとう」
 二人の幸せな雰囲気に、叶の姿がようやく男だと気づく。
「『俺』って言ったのか? もしかしてお前男なのか?」
 その言葉に、叶は堂々と強く、そして頼もしい微笑みで返事をする。
「はい」
「何だよ、期待して損した。帰ろうぜ」
「ああ」
 がっかりして落ち込みながら帰って行く二人組の男に安心する叶を見ていた翡翠が、涙を流しながら微笑む。
「翡翠、どうして泣いてるの?」
「生まれて初めて、自分が認め、られた気がして嬉しかったから。ふふっ」
 年下らしく叶のそばにいたいという、翡翠の密かな想いが、叶にも何となく少しずつそれも「好き」に含まれているのかもしれないと、満面の笑みで抱きしめている腕をギュッと距離をさらに縮める。
「大丈夫だよ。翡翠には俺が居るから安心してね」
「うん! ありがとう!」
「二人共、お待たせ」
「母さん」
 涙を流しながら叶に抱きしめられている翡翠を見た望が、何事かと周りを警戒する。
「えっ! どうして翡翠君が泣いてるの?」
「嬉しくて泣いてるんだよ」
 叶が自分よりも大きい翡翠を抱きしめている腕が、小学生の頃によく繋いであげていたあの頃と同じように記憶が重なって、望も笑顔になって嬉しく笑う。
「そう、じゃあ、今から屋上に行くわよ」
「はい」
「翡翠、手、繋ごう」
「え、いいの?」
「うん、いいよ」
 凍えた手に、翡翠の温もりがまた優しく包み込まれることに、叶は嬉しく思った。
「叶の手に触れられていると、ドキドキして胸が熱くなる」
 首を傾げながら下から顔を覗き込んでくる翡翠に、叶は湯気が出るように顔が真っ赤になって照れてしまう。
「・・・またそんなことを言うなんて、翡翠は俺をどうしたいの?」
 その質問に翡翠は自分の本心を出さないように隠して、一瞬目を逸らして首を横に振る。
「それはまだ言えないよ。ぼくにはまだその勇気が足りないから」
 年下のはずなのに、翡翠は大人のように自分の感情を押し殺して自分を恨み暗く微笑むことに対し、叶もそっと見ない振りをした。
「あっ、そうなんだね」
 お互い目を逸らしたまま望の後をついて行き、屋上に着いた叶と翡翠は屋上から見える青空が広がる景色に驚きを隠せなかった。
「このショッピングモールから見る景色は特別なのよ」
「・・・・・・」
 この綺麗な空に感動する叶を、翡翠は不思議に首を傾げた。
「叶?」
(夜の街も綺麗だけど、この屋上から見る景色も、母さんの言うとおり綺麗だと思う)
 この綺麗な空に言葉が出ない叶に代わって、翡翠が満面の笑みでその言葉を言う。
「綺麗だね」
「えっ、翡翠もそう思うんだね」
「叶と一緒に見る景色は、ぼくにとっては全てが特別だからね」
 真剣な表情で嘘がない翡翠の言葉が、それが自分に対する想いだと、まだその意味が分からなくても、叶には少しだけ分かった気がした。
「は、恥ずかしいこと、言わないでよ」
「あっははは。本当のことだよ」
「叶、翡翠君。こっち向いて」
「え」
 望に言われて振り向いた瞬間を狙われて、翡翠と一緒に写真を撮られた叶はその写真を見て切なくなる。
「よく撮れてるわ」
「この写真、欲しいです」
「分かったわ。今度プリントして翡翠君に渡しておくわね」
「はい。お願いします」
「叶はこの写真、欲しい?」
「・・・うん、欲しい」
「分かったわ」
(この写真に映る翡翠の笑顔が、いつか消えてしまいそうで怖くなるのは気のせいだと思いたい・・・)
「そろそろ帰りましょ」
「そうですね」
「叶、今日も買い物はいいの?」
「あ、今日は行くよ」
「じゃあ、いつも行くスーパーでいい?」
「うん」
(一昨日がビーフシチューで昨日がハンバーグ、今日は魚にしようかな)
 いつも行くスーパーに着いて叶は魚のコーナーの前に立ち、どれにしようか隣に嫌そうに魚を見つめる望に構わず聞く。
「母さん、今日は魚にしようと思うんだけど何がいいかな?」
「・・・そうね。あ、鮭がいいわ」
 一番マシな三つ入りの鮭を取って満面の笑みで叶におねだりする望を、叶が首を横に振った。
「鮭って、母さん、魚は鮭以外も食べないとダメだよ」
 自分のおねだりを拒まれたことが望には悔しく、代わりにため息を吐いて暗く沈んだ顔をした。
「私は魚は鮭以外は食べないと決めてるからいいのよ」
 自分の健康を無視して、いつもこうやってその顔をすれば許してくれると毎回毎回同じような態度を取る望に、叶は毎回諦めてため息を吐く。
「はあ、分かった。今日は鮭にするよ」
 その一言で、望はいつもどおり満面の笑みで両手を大きく上げて喜ぶ。
「うふふっ、嬉しいわ」
 周りのことなど全く気にすることなく望は選ばれた鮭を見つめて瞳を輝かせ、叶はそれを見なかったことにし、じっと自分を見つめていた翡翠の隣に立ち、そっとなるべく明るく笑いかける。
「翡翠は今日の夜ご飯、鮭でいいかな?」
「叶が作る物なら、ぼくは何でも食べるよ」
 いつでも自分のことを一番に優先してくれる翡翠のその真っ直ぐで嘘がない美しい姿に叶が手を伸ばして、そっと包み込むようにその頬を撫でる。
「じゃあ、鮭で決まりだね」
「かご、持つよ」
「ありがとう」
 翡翠の気遣いに、叶はまだ少ししか慣れていないが、少しでも叶の役に立ちたいという翡翠の想いは友達だと思っている叶にもよく伝わっていた。
「材料はこれで大丈夫かな」
「叶、ついでにリンゴジュースとオレンジジュース、あとお菓子も買ってくれる?」
「ダメだよ。ジュースとお菓子はまだ家にあるから買わないよ」
「そんなー」
 まるで親子とは思えないほど逆の立場にいる叶と望は周りから不思議な目で見られるかもしれないけれど、この関係が牧家の家族だと知ってもらえれば、少しでも二人はもっと幸せになれるだろう・・・。
「はあ、叶はいつから厳しくなったの?」
「それは言えない」
 今までの自分の頑張りを仕事を毎日頑張っている望と比べて、叶が素っ気なく目を逸らしても、望はまだまだ成長期なのだと、母親として微笑ましく思いながら頭を撫でてあげてそのまま一人外に出て行く。
「分かったわ。お会計お願いね」
「うん。翡翠、かご貸して」
「はい。重たいよ」
「ありがとう、行こう」
「うん」
 翡翠といつもとは違うセルフレジでお会計をし、かごの中の物を買い物袋の中に入れて翡翠と一緒に外に出る。
「母さん」
「買ったのね。じゃあ、帰りましょ」
「はい」
「うん」
 叶と翡翠の関係が今以上に良くなることを願って、三人は歩き出した。


 五分歩き、マンションに着いて一気に疲れが溜まってしまった叶はダイニングテーブルに買い物袋を置いて「はあ」と深いため息を吐きながら洗面所で手を洗う。
(今日でパンがもうなくなるから、今度たくさん作っておこうかな)
「叶」
 元気な笑顔で翡翠がドアの前に立つ。
「翡翠、今から夜ご飯を作るから待ってて」
「うん」
 エプロンを着て、棚からフライパンを出してアルミホイルを引き、鮭とえのきを敷き詰め、調味料を入れて包む。
「叶、骨はないわよね?」
「ないと思うよ」
 目を合わさずに言ったせいで望が怪しんで隣に立ち、よーく鮭を見つめる。
「ちょっと嘘っぽいわね」
「ああ、骨があっても食べるときに取ればいいだけだよ」
「私はそれが出来ないから、毎回骨なしの魚にしてと言ってるのに、叶はいつもそれを無視しているから嘘だと思ってしまうでしょ」
「はあ、食べる前に骨を必ず抜いておくからそれで許して」
「叶、ありがとう」
 子供のようにわがままを言う望に苦労することが多くなってしまっていることを、叶は知らない振りをするようにしている。母親との大切な時間を大事にしたいという叶の願いの一つだから。
「叶」
 望がソファでくつろぎ、二人だけの空間になった時に翡翠が後ろから抱きしめて暗く俯いた。
「何?」
「今日ぼくが叶の髪を二つ結びにしたせいであんな目に遭わせてしまった。ごめ」
「謝らないで」
「え」
「翡翠は何も悪くないよ。悪いのは俺が何も言えずにただずっと耐えていたことだよ」
「でも」
 いつまでも俯いてもらうのが嫌になった叶が腕を離して棚を見上げ、ちょうどご飯が出来上がった。
「あっ、夜ご飯出来たよ。テーブルに運ぶから翡翠も手伝ってくれる?」
「う、うん」
「ありがとう」
 アルミホイルを皿に移して開き、焼けているかどうかを確認する。
「うん、ちゃんと焼けてる。良かった」
 望の分の鮭の骨を全部取り、ダイニングテーブルにナフキンを敷く。
「叶。今日もパンなの?」
「うん。母さんがパンしか食べられないからごめんなさい」
 少し距離を置いて落ち込んだように床を見つめる叶の姿に、翡翠は心苦しくも、そっと嫌に思われないように静かにため息を吐いて翡翠の瞳で叶と素直に向き合う。
「はあ。叶はそのすぐに謝る癖を直さないとダメだよ」
「でも」
「ぼくの前では何があっても謝らないでほしい」
「そ、それはダメだよ」
「ぼくがいいって言っているのに、叶はそれを無視するの?」
「あっ」
 翡翠の真剣な表情に、叶も自分の過去の記憶を思い出しながら見つめ直す。
(翡翠の言うとおり、直さないとダメだ)
「分かった。翡翠の前ではなるべく謝らないようにするよ」
「うん。そうして」
「これ、お願い」
 翡翠にお箸とパンが入ったかごを渡し、仕上げに鮭にバターを載せて翡翠の隣に座り、「いただきます」と言って空腹のお腹を満腹にする。
「やっぱり叶が作る料理が一番おいしいわ」
「ありがとう、母さん」
「叶が作る物は、どれも心が温まっておいしい」
「翡翠」
 大事な相手から褒められたことに密かに喜ぶ叶を微笑ましく見ていた望がかごの中を見て、少しだけショックになる。
「パンがもうないわね。もう少し食べたかったわ」
「うん、今度作るよ」
 いつもどおりになくなったパンを叶がまた作り足している事実を知った翡翠が驚きで、つい口が一口開いたまま叶に恐る恐る質問してみる。
「このパン、叶が作ってるの?」
「そうだよ。買うよりも作った方が楽だからね」
「叶は何でも出来るんだね」
 深く感心するのと同時に、翡翠は自分がまだ叶に相応しくないと悔しくなりながらも、そう現実を受け止めたが、叶が肩をそっと撫でて首を横に振った。
「そんなことないよ。俺は人間だから体力にも限界があるし、勉強も人並みにやれるだけだから、俺にその言葉は似合わないよ」
「あ」
(でも、翡翠と出会って一つだけ大きく変わったことがある。それは)
「ぼくは叶のいいところ、たくさん知っているよ」
 撫でられている叶の手をそっと翡翠が美しく微笑み、丁寧に絶対に傷つけないように握って、叶も同じように握り返した。
「本当?」
「うん。今度教えてあげるよ」
「約束だよ」
「うん」
 叶は約束の証に左手の小指を出して、「指切りをしよう」と言う。
「指切りをしたら、叶は信じてくれるの?」
「うん、信じるよ」
「じゃあ」
 叶と翡翠は指を絡めて笑顔で信じ合うことを約束した。同時にピンポーン、と玄関のチャイムが鳴る。
「この時間に誰?」
「俺が出るよ」
 急いで玄関に行き、ドアを開けると、そこには二人の少女が居た。二人のうち一人の少女には見覚えがあった。空から降りて来た翡翠を助けようとする叶を止めた「悪魔」と名乗る少女と、もう一人の少女は真っ白な大きいリボンが付いているワンピースに真っ白なハイヒール。そして翡翠と同じ真っ白な髪を後ろでポニーテールにして、宝石のガーネットと同じ色の瞳が叶を睨んでいる。
「あの」
「初めまして、今日隣に引っ越して来たガーネット・シラセと暗橋漆黒です。これからよろしくお願い致します、お隣さん」
「あっ、はい」
「うっふふ」
 この二人の少女が叶と翡翠の時間を引き裂くことを誰も予想出来なかったのは、二人の少女が自身の使うそれぞれの魔法が原因だった。






  第四章
  別れと涙

 今から七年前、当時八百九十三歳の少年は天空の奥にある屋敷で翡翠魔法を綺麗にフルートで奏でていた。
『ご主人様、お上手ですね』
 満面の笑みで伊李から褒められたことに、少年は何も感じず、その輝いた瞳から目を逸らす。
『お世辞はいらない』
『お世辞ではありません。事実です』
『そう』
(翡翠魔法は禁忌の闇魔法に次ぐ危険な魔法だが、使いこなせれば大したことではない)
『伊李』
 ゆっくりとフルートをテーブルに置き、椅子に座ると、伊李が機嫌良く近づいて来た。
『ご主人様、こちらのロイヤルミルクティーを飲んで休憩しませんか?』
『そうだな。これは伊李が入れた物なのか』
『はい! 自信作です!』
『期待はしない』
 そう言いながらも、伊李が入れたロイヤルミルクティーをいつも楽しみながら飲む少年の顔は笑っているような、泣いているような曖昧の表情しか出来なくなっていた。
『伊李。わたしはいつこの命を捨てられると思う?』
 突然の暗く悲しい質問に伊李は激しく戸惑い、紅茶のカップを割ってしまった。
『そ、そんな縁起の悪いことを言わないでください! わたくしの命は今も未来もあなたに捧げています。だから、ご主人様、わ、わたくしを置いて行かないでください!」
 割ってしまったカップを急いで拾い集めて少年の前に伊李は跪くも、少年は続けて命の話を進める。
『誰もが永遠に生きられるわけではない。それは人間や天使と悪魔ではなくわたしもだ』
『そうですが・・・』
 沈んだ空気に少年は怯え始める。
『わたしはもう一人が耐えられない! このまま大人になっても自分が惨めになるだけなのに、それさえも変えられたくはない!』
『ご主人様』
 心配して心が落ち着かない伊李が少年に手を伸ばすも、一瞬で手を強く振り解いて拒まれてしまう・・・。
『今も聞こえるんだ幻の声が。わたしは、わたしはもうどうすることも出来ない!』
 頭を抱えて疼くまる少年は部屋の物をめちゃくちゃに翡翠魔法でフルートを綺麗に奏でながら壊して壊して、涙を流しながら屋敷を飛び出し、その後を伊李が走って止めようとする。
『ご主人様!』
 伊李の泣き叫ぶ声は少年には怒りを覚えて後ろを振り向きながら、止まることなく走り続けた。
『来たらお前をクビにするぞ! 伊李!』
『あっ、ご主人様! 待ってください』
 前を見ずに伊李を脅して走っていた少年は足を滑らせて、天空から落ちてしまう。
『はっ、痛い。そうだ、早く翼を』
 背中の翼を出そうとした時、強い風が少年を襲い、少年の背中に風の切り傷が出来てしまった。
『ああっ! 痛い!』
(どうしていつもこうなる。わたしはもう、生きることすらも許されないのか)
 地上に落ちる直前に少年は誰にも見られないように翡翠魔法を指先で円を描くように使い、ローブを出して羽織る。
『翼、翼、翼! ダメだ、わたしの翼は誰にも見せられない。このまま落ちても困らないだろう』
 少年は諦めて川に落ちようとしたが、見知らぬ少年に横に抱えられて受け止められてしまった。
『はあ、はあ、はあ・・・』
(これは誰だ。なぜわたしを受け止めた?)
『大、丈夫?』
『え』
『けがしてない?』
 名前も知らない見知らぬ少年がそっと抱き寄せ、少年は自然と嬉しくなった。
『あ、はい』
 ローブで顔が見えないはずなのに、見知らぬ少年は一瞬安心したように見えて、明るく元気な笑顔をする。
『良かった。あ、降ろすよ。ちょっと待ってて』
『・・・・・・』
(わたしを見て、何も思わないのか?)
『はい、降りていいよ』
 丁寧にゆっくりと地面に降ろしてくれた見知らぬ少年に、少年は一瞬で心奪われた。
『あ、ありがとうございます』
『うん、またね』
 そう言って、見知らぬ少年が立ち去ろうとした時、少年の体に異変が起こる。
『うっ! あああああっ!』
『どうしたの? あ、けがしてる。よく見せて』
 そっと見知らぬ少年がローブを外そうとしたが、少年がひどく自分を嫌って、自分の正体を恐れて一生懸命両手で自分を抱きしめて離れる。
『ダメ!』
『えっ』
『あ、すみません。何でもありません』
 背中の傷が体に染みていたことを忘れてしまっていた少年は顔を上げて、見知らぬ少年の手を握る。
『あの、お願いします。このことは誰にも言わないでください』
 深く頭を下げて少年が必死にお願いし、見知らぬ少年は戸惑う。
『え、でも』
『お願いします! わたしはもう、誰にも、受け入れてもらえないから』
 その寂しく悲しい話に、見知らぬ少年は温かい微笑みで少年の頭を撫でた。
『君の瞳は宝石の翡翠と同じ色で綺麗だね』
『え』
『俺は翡翠が好きだよ』
 生まれて初めて「好き」だと言われたことに動揺する少年に、見知らぬ少年が少年の頬を撫でて愛おしい笑顔を見せる。
『はっ』
(温かい手。ずっと触れてほしい)
『あははっ、俺の名前は牧叶。君は?』
『えっと、その・・・わたしの名前、まだ言えません』
『まだ?』
 叶の不思議そうな顔に、少年はあることを決心した。
『か、覚悟が出来たら必ず言います。それまで待って居てください』
 少年の真剣な翡翠の瞳が嬉しいのか、叶が笑って受け止める。
『うん、分かった。待っているね』
『はい』
 生まれて初めて「好き」になった相手に、少年は初めて笑顔を誰かに見せた。
『わあ、君は笑ってる方がいいよ』
『そうですか?』
『うん、俺はそっちの方が好きかな』
『あ』
(嬉しい。でも、人間ではないわたしが人間を好きになっていいのだろうか)
『あの』
『何』
『叶さんは家族が好きですか?』
 翡翠の瞳が自分を映し、真っ直ぐで嘘がない質問が叶の心を震わす。
『・・・ああ、俺の家族は母さんしか居ないから、そういうのは分からないかな』
『そう、ですか』
 二人の俯いた暗い雰囲気の中、叶が少年に同じ話をする。
『君は?』
『え』
『君は家族が好きなの?』
 お互い「家族」については嫌なはずなのに、少年はできるだけ笑って答えた。
『わたしには家族が居ないので、好きではありません』
『そうなんだね。俺と君は少し似てるね』
 その何気ない言葉が少年の心を崩し、激しく焦り、首を横に振った。
『ダメですよ!』
『えっ』
『わたしと似ていたら、叶さんまで一人になってしまいますよ!』
 少年の瞳から微かに流れている涙に気づいた叶がその言葉の続きを聞く。
『どうしてそう思うの?』
『一人ぼっちになるのはわたしだけで十分だからです』
『俺は一人でも大丈夫だよ』
『え』
 自分とは違う言葉を返された少年はこれ以上何も言わないように目を瞑る。
『一人が寂しくなったら、俺のそばに居ればいいよ。俺が君を守ってあげるから』
『あ、それは・・・』
(叶さんは温かくてずっとそばで守ってあげたい相手。それなのに、わたしが叶さんに守られるのはわたしがまだ子供だから)
 まだまだ届かない大人の壁に少年は悔しく思うのと同時に恋しくなる。
『あなたと、叶さんとずっと一緒に居たいと願うのはダメなことですか』
 少年の恥ずかしそうでどこか好きになれる言葉が、叶の心を動かして、自然と離れたくないと思う。 
『ダメじゃないよ。君の願いを叶えるのは俺だからね』
 本心の嬉しそうな笑顔に、少年は心が軽くなり、自分も喜ぶ。
『はい! ありがとうございます、叶さん』
『あっはは』
 満面の笑みでお礼を言う少年に、叶がそっと手を握り微笑む。
『俺が大人になった時は、君は今よりも笑顔が似合っていると思うよ』
『じゃあ、大人になっても忘れないようにわたしの宝物をあなたに預けます』
 少年は今まで大事にしてきた宝物の指輪の二つのうちの一つを、叶の右手の薬指にはめる。
『これ、いいの?』
『はい』
『でも、大事なら・・・その」
 叶が申し訳なさそうに俯くと、少年は天使の微笑みでその指輪に触れる。
『わたしが大人になったら必ずあなたに会いに行くので、それまで預かって居てください』
 その言葉に安心した叶は最後に全力で笑うのだった。
『うん、いいよ』
『ありがとうございます、叶さん』
『ずっと待っているから、ちゃんと来てね』
『はい』
 当時八百九十三歳の少年は叶との出会いに感謝して、天使の白鳥のように優雅な翼と悪魔の闇に染まる形のない翼で天空の屋敷に帰り、七年後の成人を待ち侘びた。


 そして今、出会いから再会に変わり、幸せになっている、はず。
「翡翠」
「・・・・・・」
「翡翠」
「・・・・・・」
「翡翠!」
「叶? あっ、何?」
「何って、さっきからぼーっとしてたから心配していたんだよ。大丈夫?」
「う、うん」
 叶の顔を見て、翡翠は気づかれないうちにまた涙を流す。
(どうしてわたしは今更過去を思い出しては涙を流すのだろう。初恋の相手の前で惨めな姿を見せたくはないはずなのに・・・)
「翡翠?」
 心配する叶を、翡翠はできるだけで笑って首を横に振る。
「叶。少し過去を思い出していただけだよ。心配してくれてありがとう」
「過去って、小さい頃のことだよね」
「うん。叶には言えないけど」
 不思議そうに見つめてくる叶に、翡翠が微笑みながら口パクで「好きです」と叶に伝える。
「え? 翡翠、今何て言ったの?」
「何も言ってないよ」
「・・・・・・」
「叶、そろそろ時間でしょ。大丈夫なの?」
「あっ! 今日は俺が当番だったんだ。翡翠留守番お願い」
「分かった。いってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
 笑顔で家を出た叶を、いつまでも待っていたいと飽きることなく願ってしまう自分も悪くはないが、少しずつ叶を好きな想いを表に出したいと、翡翠は心に言い聞かせる。
(大天使がいつ現れるか分からないこの状況に伊李が居ないのはおかしい。わたしに命を捧げていることを忘れているのかもしれないな)
 心配よりも信頼の方が気になって仕方がない翡翠は、望が家を出た後からふらふら歩き回っている。
「美しき華のガーネットよ。その身を現しなさい」
「はっ」
 謎の声と同時にリビングが天空の何も見えることのない真っ白な空間に変わった。
「ここはどこだ」
「やっと見つけましたよ、異なる二人の子供よ」
「誰だ」
「うっふふ。われらを知らないとは世間知らずにも程がありますよ、異なる二人の子供」
 その憎い言葉を続けて言う謎の声に翡翠は怒りを強くし、両手を握りしめる。
「わたしを『異なる二人の子供』と言うな! 姿を見せろ!」
「わたし? あの人間の前では『ぼく』と言っていたのに、われらの前では天空の話し方をするのですね、異なる二人の子供」
「ガーネット、その言い方はダメだよ。あの子供が傷ついたら、虹石に居るサファイアが悲しむよ」
「そうでしたね。すみませんでした、漆黒」
「謝るのはあたしではないでしょ」
「で、ですが!」
 謎の声が二つになって驚く翡翠だったが、「異なる二人の子供」と言われて腹が立っているのは過去の自分と全く同じだということを、あの頃のように翡翠はまだ覚えていた。
「姿を見せないのなら、二人まとめて始末する」
 翡翠の本気の輝きがこもった眼差しが見えたことに、もう一人の声の主が怪しく笑う。
「ふふっ、あたしたちを始末する前に、この主人に忠実なこうもりがどうなってもいいと言うなら、始末されてもいいよ」
 そう言って、姿を現したのはこの間訪ねて来た二人の不思議な少女で、その一人の真っ白な姿の少女に翡翠は何か見覚えるがある気がした。
「あなたは、大天使ガーネット?」
 翡翠の質問に少女は何も驚かず腕を組む。
「大天使? ああ、国王が遊びでつけた称号のことですか。十年前まではそう呼ばれていましたが、今は追放された身なので大天使と呼ぶのはやめ」
「ご主人様! 逃げてください!」
「伊李」
 魔法の檻で閉じ込められている伊李を見てどうしようか考えていた翡翠に、大天使のガーネット・シラセが自身の使う宝石魔法のガーネット魔法で翡翠に落とし穴の罠を仕掛ける。
「ちっ」
「あなたが持っている魔法書をわれに返せば、このこうもりをあなたに返します」
「嫌だ」
 暗く下を俯きながら唇を噛み締める翡翠を見たガーネットが不思議に首を傾げる。
「は?」
「伊李は確かにわたしに命を捧げている」
「そうですよね。なら」
「だが、わたしと大天使のあなたでは話がつかない」
「それはどういう意味ですか!」
 ガーネットの怒りの声に、翡翠は平常心で怪しげ笑みでガーネットを睨む。
「簡単な話だ。虹石の大天使ガーネット・シラセと、天使と悪魔の間に生まれたわたしでは魔法さえも敵わない」
「くっ、それはわれを、侮辱していると言いたのですか!」
「それをどう受け取ろうが、わたしには関係ない」
「漆黒、もう一度ガーネット魔法を使ってもいいですか?」
「え」
「われは無性に腹が立っています! 少しくらい魔法を使ってもいいはずでは?」
「たとえ腹が立っても、地上で魔法を使うのは間違ってるよ」
「漆黒!」
「ガーネットが魔法を使うなら、あたしは闇魔法でガーネットを止めるよ!」
「あっ」
 二人の少女の言い争いに飽きた翡翠は隙を見て、伊李に翡翠魔法を指先で檻の形をなぞりながら使って魔法の檻から救出する。
「ご主人様、ありがとうございます」
「お礼はいらない」
「しまった!」
 隙を見せてしまったガーネットが動揺し、怒りが増えていくが、翡翠にはそれが呆れてため息を吐く。
「はあ、気づくのが遅すぎる。大天使とは思えないな」
「ちっ! このまま放っていたわれらが間違っていました! 忠告します、よく聞きなさい。今すぐ天空に帰らなければ、あなたの大事なあの人間を消します!」
 そんなあっさり言われた叶と距離を離されるよりも、叶の命を、この天地から消されることに強い憎しみが翡翠を襲う。
「彼に手を出したら、あなたたち二人を残虐に始末する」
「・・・・・・」
(わたしの命などどうでもいい。彼さえ生きてくれればわたしはそれで満足だ)
「あなたは今まで何人の天使や悪魔を殺してきたの?」
 真っ黒な少女の質問に翡翠は正直に、いや自分は悪くないのだと腕を組み、目を逸らした。
「あの執事たちが悪い。わたしを殺そうとしたから先に始末した。それの何が悪い?」
 翡翠の呆れた態度に、真っ黒な少女は腹を立てずにそのまま翡翠の言うことを聞き、自分も平常心で言葉を続ける。
「悪いも何も、あの執事たちは、夜闇や虹石の国王があなたのために手配したのに、あなたはそれを裏切って残虐に殺した。どうしてくれるの?」
「わたしがあの執事たちをどうしようが勝手だったはずだ」
「それはそうだけど、あんな殺し方を、血で染めるのは話が別だよ」
「そんな物は今はどうでもいい」
 同じように生きて居る者を物扱いされたことに、とうとう腹を立てた真っ黒な少女が怒りを全て言葉で表す。
「物扱いをしないで! 彼らがあなたにしたことは間違っていたかもしれないけど、立派な執事であったことは絶対に忘れないで!」
「分かった」
 やっと納得してくれた翡翠を信じて、もう何も言わず、真っ黒な少女は首を縦に振って頷くのだった。
「うん」
 その様子を黙って見ていたガーネットが口を開く。
「漆黒、ここからはどうするのですか?」
「そうだね。まずは自己紹介をしよう」
 真っ黒な少女の言うとおりにガーネットは自己紹介を始める。
「分かりました。われは天使の国虹石の国王の元守護者、ガーネット・シラセです」
 ガーネットの自己紹介に翡翠は興味を持たずに服をただ見つめて適当に返事をした。
「知っている。有名だからな」
「ちっ」
 二人の最悪な空気に負けずに少女も続けて話す。
「あたしは悪魔の国夜闇の女王の守護者、暗橋漆黒。よろしくね」
 漆黒の自己紹介で翡翠はやっと二人の関係に興味を持ち始める。
「なぜ天使と悪魔が一緒に居る?」
「それは言えません」
 ガーネットの冷たい視線と言葉に、一瞬で興味を失った翡翠は瞳が二人を映して怒りを抑えてはっきりと目を合わせる。
「そう」
 その不満げな態度に漆黒は無視をして、ガーネットの説明の続きを語る。
「さっきガーネットが言ったことは、あなたの、天地に関わることなの。天空ならまだしも、ここは地上で天空にとって一番厄介な人間が住む危険な場所だから、あなたのような危険知らずな子供が居ていい場所ではないことを、覚えていてほしい」
 正しい言葉に翡翠は仕方なく納得し、首を縦に振って頷いた。
「分かった。だが、今はまだ天空には帰れない」
「なぜですか!」
 翡翠の身勝手な言葉がガーネットの怒りを狂わせるも、翡翠は気にせず自分の想いを二人に伝える。
「大事な相手と離れたくない」
「理由を教えてくれる?」
 漆黒に理由を聞かれて一瞬戸惑う翡翠だったが、それをちゃんと話すことを理解した。
「七年前からずっと好きな相手とやっと再会出来て幸せな時間を過ごしていたのに、また離れろと大天使は言うのか?」
「好きな相手とはどういうことですか!」
 怒りで自分の感情を抑えられないガーネットを漆黒が抱きしめていく。
「ガーネット、落ち着いて。ちゃんと話を聞こうよ」
 漆黒の温かい腕の中でガーネットはようやく落ち着き、翡翠を見つめる。
「わ、分かりました。漆黒の言うとおりにします」
「うん。続けていいよ」
 その続きを待っていたように、翡翠は自分が抱えている大好きな相手への想いを口に全て出す。
「彼はわたしの初恋の相手、ずっと一緒に居たい! だからまだ帰れない!」
「うん、うん」
「天空に帰ってもわたしが一人ぼっちであることは変わらない! 彼と離れるなんて嫌に決まっている・・・」
 全て言い切った翡翠を見て、ガーネットは怪しげな笑みで呆れる。
「やはり考えていることはまだまだ子供のままですね。そんな話をしてわれらが天空に帰らなくてもいいと言うと思いましたか? 虹石も夜闇もそんなに甘くはありませんよ!」
「ガーネット、それ以上は何も言わないで」
 天使と悪魔の話をされるのに困った漆黒が手で口を塞ごうとするも、それが自分に対しての罰だと感じてしまう。
「漆黒はなぜわれを止めるのですか。止めるならあの子供を止めてください」
「それは分かってるよ。ガーネット、少し待ってて」
「はい」
 抱きしめている腕を離し、漆黒は翡翠の前に立ち、お互い真剣に向き合い驚きの事実を聞かされる。
「あなたの両親は禁忌を破り、亡くなった」
「え」
「天使と悪魔が愛し合うことは虹石も夜闇も許されていないから、罰を受けるのは当然のことだった」
「そ、そんな」
「残念だけど、あなたは両親に会うことは出来ない・・・」
 漆黒の言葉が嘘であってほしいという想いが、次第に翡翠にはそんなことを聞いても何も感じない方がいいと思い始めた。
「それをわたしに聞かせてどうする?」
 意外な反応に漆黒は戸惑うも、あなたらしいと言葉を続ける。
「あなたは両親に会いたいと思ったことはないの?」
「ない。合わせる顔がなかった」
「強がってる?」
「そう見えているのなら、残念だな」
「あなたの名前を教えてくれる?」
「それは無理だ」
 名前を絶対に言わない翡翠を漆黒は残念に感じ、下に俯く。
「皆あなたの名前を知らないから、『異なる二人の子供』と言うんだよ」
 その正しいことなのは一人ぼっちだった翡翠にもよく分かっている。けれど、それをどうしようが自分には関係のない事実・・・だが、少しだけでも話しておこうと胸に手を当てて美しく微笑む。
「ふふっ、母親からの手紙で『あなたの名前は誰よりも特別だから、あなたが永遠を約束した相手以外の者には絶対に名前を教えたらダメよ』と書かれていたから、教えることは絶対に出来ない」
「サファイアがそんなことを」
 会ったこともない母親からの言葉を今でも大事にしている翡翠は瞳を大きく開いて、ガーネットと漆黒を強く睨む。
「ご主人様」
「あなたはどうしてあの人間にこだわる?」
「それを言ってどうする?」
「どうもしない。ただ知りたいだけ」
「・・・・・・」
 漆黒とガーネットに呼ばれた空間を見渡して、翡翠は一人首を縦に振って頷いて髪をかき乱す。
(この天空の空間を作ったのは、黒服の悪魔だろう。それに白服の天使を従えさせているのは闇魔法を使えるからだろう)
「質問ばかりしてごめんね。これで最後にするから」
 そう言って、漆黒が闇魔法で取り出したのは翡翠の父親である真黒(しんこく)からの誕生日プレゼントだった。
「これはあたしの大事なパートナー、真黒からの一度だけの誕生日プレゼントだよ」
「一度だけ?」
「あなたの父親真黒はあなたのことが大好きだった。あなたの誕生日を迎える度に泣いて喜んでた」
 そう言われた瞬間、翡翠の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
(今更父親の話をされても、嬉しくはないはずなのに、どうしてわたしは涙を流すのだろう)
「う、ふん。くっ」
「真黒は元々涙もろかったけど、あなたもそうなんだね」
「一緒にするな。親に似ていても嬉しくはない」
「あはは、そっか。プレゼント、開けてみてよ」
 小さく首を縦に振って頷き、プレゼントの袋を開けると、中には小さい箱が入っており、箱の中には二つの指輪があった。
「指輪はもう持っている」
「あなたが今持ってるその指輪は母親のサファイアがくれた物だよね」
「ああ」
「サファイアがあなたにあげた指輪は、多分婚約指輪だとあたしは思うよ」
「婚約指輪? 誰の?」
「あなたとあの人間の物だよ」
「わたしが彼に預けた指輪は婚約指輪だったのか」
「多分、そうだと思うよ」
 漆黒のはっきりしない言葉に不安になる翡翠に、人の姿になった伊李がそっと肩を撫でながら翡翠の不安を和らげる。
「ご主人様、大丈夫です。わたくしがおそばでお守り致します」
「伊李・・・」
「そのこうもりは人の姿にもなるんだね。すごいな」
「わたしが翡翠魔法で姿を変えられるようにしたから、当然だ」
「翡翠魔法を使えるあなたが羨ましいよ。あたしが使う闇魔法はただ攻撃したり、相手を呪って痛めつけるだけの魔法だから、宝石魔法が使えるガーネットとあなたが本当に羨ましいよ」
「・・・・・・」
「あっ。ガーネット、そろそろ話してもいいよ」
「はい」
「そうだ。真黒があげた指輪は、あの人間へのプロポーズにでも使ったらいいよ」
 笑顔で謎の提案を持ちかける漆黒を、ガーネットは心の底から反対した。
「漆黒、何を言っているのですか。この天地が壊れたら、あなたにも罪が」
「そんなことよりも、あの子供たちの幸せを願った方があたしはいいと思うけど」
 漆黒の楽しそうな笑顔が悔しくなりながらも、ガーネットは反対を続ける。
「それと天地は関係ありません!」
「ガーネットはどうして、そんなにも天地にこだわる?」
「そ、それは・・・」
 ガーネットの動揺した姿に、漆黒はため息を吐きながら肩を撫でた。
「理由がないということは、ガーネットも同じことを願ってるはずだよ」
「・・・まあ、サファイアのためになるのなら、そう願ってもいいかもしれませんね」
「あはは、ガーネットは本当にサファイアが好きなんだね」
「大事なパートナーを好きになることは、間違いではありませんからね」
「そうだね。あたしたちはあなたたち二人の幸せを心から願うよ」
「ああ」
「ご主人様、良かったですね」
「うん。伊李、そろそろ帰るよ」
「かしこまりました」
「待って」
「え」
 翡翠と伊李が家に帰ろうとするも、漆黒とガーネットに道を塞がれてしまった。
「退いてください」
 伊李が漆黒を主人の翡翠の命令を守るために真剣に目を合わせて手を引こうとするが、こうもりの伊李は当然悪魔の漆黒に叶うことなく、自然と後ろに一歩下がってしまう。
「ダメだよ。まだ話は終わってない」
 漆黒に睨まれて強力な圧を感じた翡翠はなるべく平常心で深呼吸をして合わせた目を逸らした。
「もう話すことは何もない」
「あたしはあるの」
「漆黒の話を勝手に閉じるなんて、絶対に許しません!」
「あたしたちはあなたが天空に帰らないことを許した覚えはないよ」
「えっ」
「あなたは今日の夜までに天空に帰ることを今ここであたしたちに約束して」
「無」
「無理とは言わせないよ」
「はっ」
(今日彼と離れるなんて嫌だ。まだわたしは彼に、叶さんに想いを伝えられていない)
 悔しそうに唇を強く噛む主人の翡翠を、執事の伊李が抱きしめた。
「今日ではなく、明日に帰るのはどうでしょうか」
「伊李?」
「こうもりの提案は悪くないけど」
「ダメです! 今すぐ天空に帰りなさい!」
「嫌だ!」
 ガーネットに対抗する翡翠を見て、漆黒が闇魔法でガーネットを眠らせる。
「ガーネットは本当に怒りっぽくて困るよ」
「ご主人様のお気持ちを、少しは考えてください。ご主人様は七年間ずっと耐えて待っていたのですよ」
 伊李の心からの願いに、漆黒は仕方なく首を縦に振って頷き、手を振る。
「分かったよ。明日までには天空に帰ればいいよ。ただし、もし明日までに天空に帰らなかったら、夜闇の女王に報告するからね」
「ご主人様、それでよろしいでしょうか」
 叶とまた離れることを予想していなかった翡翠は悔しく思うのと同時に、まだ自分は子供であることを思い知らされてしまった。
「はあ、仕方ない。ただし条件がある」
「いいよ。何?」
「わたしが地上に居ない間は、彼を守ってほしい」
「それだけでいいの?」
「ああ」
 七年前の自分と今の自分は変わったと思っていたはずが、周りから見ればそれは全く変わらず、ただ初恋の相手のことばかりを考えて自分のことは何も考えず、ただ時が過ぎるのを待っていた翡翠は自分を恥ずかしく思いながら、恐怖のどん底に落とされた気持ちにさせられてしまった。
「天空に帰って、少しは自分を見直した方があたしはいいと思うよ」
「分かった」
「安心して、あなたとの約束は必ず守って見せるから。じゃあね」
 そう言って、漆黒は眠らせたガーネットと一緒に霧の中へ消えて行ったのと同時に、天空の空間が一瞬でなくなった。


 そして、目を開けたらいつのまにかリビングに戻っていた。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
「うん」
「本当に良かったのですか?」
「何が」
「明日までに天空に帰ることをですよ」
 その言葉に、翡翠は強い怒りを覚えて伊李を恐怖に包ませるように睨む。
「自分からそう提案をしておいて、その態度は何だ!」
「申し訳ありませんでした」
「謝って済むことではないんだぞ」
 翡翠の必死な悔しさを初めて知った伊李は深く反省し、頭を下げる。
「ご主人様のことを考えていなかったわたくしが悪かったのは分かっていましたが」
「伊李。分かっていたなら、もう余計なことを言うな!」
「はい。本当に申し訳ありませんでした」
「次は絶対にないからな」
「はい・・・」
 頭を下げて謝る伊李にはもう何も言わずに距離を取り、ただ今はもう、悔しさだけでいっぱいになった。
(伊李に怒りをぶつけてもどうしようもないのは分かってはいるが、それでも悔しい)
「ただいま」
「あ」
 玄関のドアが開き、リビングに入って来たのは学校から帰った来た叶だった。リビングの壁時計を見てみると、いつのまにか十七時十五分になっていた。
「叶」
「翡翠、ただいま」
「お、お帰り」
「うん、伊李さんも帰って来たんですね」
「はい。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
「大丈夫ですよ。あっ! 翡翠、何か飲み物出すけど何がいい?」
「え」
「今日はいつもより寒いから、何か温かい物が飲みたいと思って」
 いつもより明るい叶を、翡翠は心を落ち着かせ、笑顔でそばに寄り添う。
「じゃあ、蜂蜜入りのホットミルクがいい」
「分かった。ちょっと待ってて」
「うん!」
 叶の笑顔に胸が締めつけられる翡翠だったが、今日で叶と一緒に居るのは最後にしようと思い始める。
「ご主人様、こうもりの姿に戻ってもよろしいでしょうか」
「うん」
 伊李がこうもりになったのを確認した後、翡翠はもう見られないであろう叶の顔をじっと見つめてそれが叶にバレる。
「翡翠、じっと見ないで」
「あっはは。ぼくは叶の笑った顔が好きだから見てただけだよ」
「翡翠の笑顔の方が俺はいいと思うよ」
「そう?」
「うん、そうだよ」
「あっはは。ありがとう」
(あなたと離れて居る間は、わたしはまた一人ぼっちに戻るだけだ。そう思えば気が楽になるはずなのに、今目の前に居るあなたを見ていると心が苦しくなる)
「はい、出来たよ」
 叶に手渡されたホットミルクはこの前よりも体に快く染み込んで包まれていく。
「おいしい?」
「うん! おいしいよ!」
「良かった。やっぱり翡翠の笑顔の方が一番いいよ」
「叶がそう言うのなら、そうなんだろうね」
「あははっ、翡翠と居ると、自分が好きになる」
 そう言って、叶は今までとは違う温かい笑顔で翡翠の頭をそっと撫でる。
「あ」
(あなたに頭を撫でられる度に、わたしはあの日の出来事を思い出す。あなたと出会えて本当に良かった)
「叶はぼくが人間に見える?」
「うーん、見えないかな」
「そうだよね」
「でも、翡翠が人間じゃなくても、俺は翡翠と一緒に居たいと思ってるよ」
「叶・・・」
(嬉しい。もっとその言葉を聞きたかった)
「ただいま」
 仕事で疲れ切った望が叶に抱きついて離れようとしない。
「母さん」
「叶、翡翠君。ただいま」
「お帰り、母さん」
「お帰りなさい」
「叶、今日は夜ご飯の後にデザートがあるんだけど、食べるわよね?」
「デザートって、お店の売れ残りだよね」
「そうよ。たまにはいいでしょ」
「まあ、いいけど」
「叶。今日の夜ご飯は何にするの?」
「・・・・・・」
「叶? どうしたの?」
 気まずくぎこちない笑顔でいる自分を心配する翡翠に気づいた叶は正直に話そうと決める。
「・・・実は、今日買い物をするのを忘れて何も買ってないから、今日の夜ご飯は作れない」
「えっ! 珍しいわね、叶が買い物を忘れるなんて。何かあったの?」
「何もないよ。ただ忘れてただけだよ」
 叶が翡翠の頭から手を離した瞬間、叶が右手の薬指につけているラピスラズリ色の黒いリボンがついている指輪が、翡翠の瞳に焼きついてしまった。
(今あなたがつけているその指輪をわたしに返してほしいと言ったら、あなたはあの日出会った少年がわたしだと気づいてくれるだろうか)
「今日の夜ご飯は、お弁当にしてもいい?」
「ダメよ。お弁当はご飯が入ってるでしょ」
「そうだったね。じゃあピザにでもする?」
「いいわね。ピザにしましょ」
「翡翠もピザでいい?」
 ピザのチラシを見せてくる叶に、翡翠は首を傾げる。
「それは叶が作るの?」
「俺は作らないけど、おいしいよ」
「叶が作った物が食べたい」
「えっ! どうしよう、ちょっと待って。冷蔵庫見てくるから」
「うん」
(わがままを言っているのは分かっている。でも、今日だけは許してほしい)
「・・・・・・」
 冷蔵庫を確認した叶はあった物を持って二人に見せる。
「食パンと卵があったから、翡翠には卵サンドを作るけどそれでいい?」
「うん!」
「わたしも叶が作る卵サンドが食べたいわ」
 満面の笑みで楽しそうに体をクルクルと回すとても機嫌が良い望の姿を見て、叶は驚きで一瞬言葉を失いかけたけれど、それになるべく笑顔で応える。
「え、母さんも? じゃあ、ピザはやめて今日は卵サンドにしようかな」
「そうね。それがいいわ」
「ぼくもそれがいい」
「分かった。時間はそんなにかからないから少し待ってて」
「うん」
「分かったわ」
 叶が台所に行き、エプロンに着替えている姿を見ていた翡翠は叶の隣で離れないように叶の手をそっと丁寧に握る。
「翡翠、離してくれる?」
「嫌だ」
「これじゃ卵サンドが作れないよ」
「片手があれば大丈夫だよ」
「そういう問題じゃないよ」
「じゃあ、どういう問題なの?」
 イタズラに笑いかけて首を傾げる翡翠を、叶は短くため息を吐いて諦めたような態度を見せる。
「はあ、分かった。手を離してくれないなら翡翠を嫌いになろうかな」
「えっ! 叶。嘘だよね?」
「・・・・・・」
「叶? 何か言ってよ」
 本気で焦って口がガタガタと震えている翡翠の頭を、叶はまたため息を吐いて撫でてあげる。
「はあ、嘘じゃないよ」
「え」
「何度も言うけど、俺は翡翠が居てくれないと寂しいよ」
「叶」
「でも今は料理に集中したいから、離してくれる?」
「う、うん」
 叶の言葉を聞いて嬉しくなった翡翠だったが、叶から手を離されても隣に居続ける。
「翡翠は俺が居なくても一人でやってけるようにしないと、俺は不安で心配になるよ」
「あ」
(あなたにもそう言われてしまうとは、わたしは本当に自分を見ていなかったのかもしれない)
「うん。ぼくは絶対に叶を不安にさせたり、心配をかけないようにするから」
「そういうところだよ」
「え」
「翡翠は俺のことばかり考えて自分のことは後回しにして、それじゃダメだよ」
「叶・・・」
 翡翠がもう一度叶の手を握ろうとするも、叶に強く拒まれてしまう。
「今は一人にして」
「・・・分かった」
 叶が今にも泣きそうな顔をしていることに気づいた翡翠は唇を強く噛みながら、叶の部屋に戻る。
「はあ。彼と唯一繋がっているあの指輪だけがわたしと離れることはないのか。彼の声も言葉も今日で最後になるとは思っていなかったな。せめて最後にわたしの想いが伝えられる物があればいいが。あっ」
 ふと思考に蘇った過去の自分の写真を思い出し、翡翠は紺色のジャケットから七年前に天空の奥にある屋敷の庭で撮った一枚の写真を叶の勉強机に置く。
(この写真でわたしの想いが、伝わるだろうか)
 翡翠の想いが詰まったこの写真を叶がどう受け取るかはまだ誰も知らないが、翡翠が叶を好きな想いは誰にも負けていない。
(写真はこの一枚しかないが、彼にあげるのも悪くはない)
「翡翠、夜ご飯出来たよ。食べよう」
「うん」
 叶に呼ばれて、翡翠は最後だということを胸に焼きつけ、涙を堪えながらリビングへ行く。
「あっ、ごめんなさい」
「叶?」
「母さんが我慢出来なくて、先に食べてしまって」
 叶の目線を辿ると、望が一人何かやけ食いをしているようにどんどん食べている様子が翡翠はそれを初めて見て、叶の顔を下から覗く。
「叶も先に食べたの?」
「俺は翡翠と食べたいから、まだ食べてないよ」
「あっはは。ありがとう」
 翡翠の笑顔に顔を真っ赤にした叶が、唇を震わせる。
「叶。どうしたの?」
「えっ! な、何でも、ないよ」
「本当?」
「翡翠、今は恥ずかしいからこっち見ないでね」
 左手で顔を隠す叶に、翡翠がイタズラをしながら見つめる。
「翡翠、今何をしたの?」
「何もしてないよ」
「嘘をつかないでよ。分かってるんだから」
「あっははは! 叶の顔が見たいから、少しイタズラをしていただけだよ」
「翡翠は本当に意地悪だよね」
「そう?」
 翡翠の満面の笑みに照れる叶は顔を隠していた左手で翡翠の顔に初めて触れる。
「あ。叶?」
(あなたがわたしに触れるのは、友達だと思っているからだろう)
「翡翠の肌は白くていいね」
「ぼくは叶の肌の方がいいと思うけど」
「そう、かな?」
 そう言って、翡翠も叶の顔に触れてお互いを見つめ合う。
「叶」
「二人共、何をしてるの? 早く食べないとなくなるわよ」
 食べ終わった望が叶と翡翠の間に立つ。
「あっ」
「叶。また今度ね」
 少し残念そうに叶の顔から手を離した翡翠は椅子に座って、叶が作った最後の夜ご飯である卵サンドを深く味わいながら食べる。
「翡翠、どうかな?」
「うん! とってもおいしいよ!」
「良かった」
 その愛らしい光景に望は微笑ましく理想の姿を語り出す。
「はあ、叶と翡翠君が結婚をしたら、ずっとこうして三人で叶が作るご飯を食べられたのに残念だわ」
「母さん、何を言っているの?」
「叶・・・」
「翡翠と俺は男だよ。男同士で結婚なんて、俺たちにはまだ早いよ」
 その言葉に嫉妬した望が叶の頬をそっとつまんで不機嫌になる。
「叶こそ何を言ってるの。あと二年が経てば叶は十八歳になるから、そんなことは気にしなくてもいいのよ」
「えっ」
(わたしと叶さんが結婚をしたら、ずっとここに居られるのか。でも今はまだ叶さんの言うとおり、早いかもしれないな・・・)
 期待と夢が見えた翡翠とは違って、叶は何か満足していないようだった。
「でも」
「叶は翡翠君が嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ」
「だったら、別にいいじゃない」
「俺はいいけど、翡翠の想いを俺は知らないか」
「叶、それはただ逃げてるだけよ」
「え、俺が、逃げてる?」
「そうよ。私から見れば、叶だけじゃなく翡翠君も逃げてるわよ」
「えっ! ぼくも逃げているように見えますか?」
 まさか自分も逃げていると言われて驚く翡翠だったが、確かにそうかもしれないと自分に当てはめた。
「見えるわよ。でも私も人のことは言えないから、自分が何から逃げてるかは自分にしか分からないから、そこはちゃんと見直した方がいいわよ」
 望の納得できる言葉に、翡翠は素直に首を縦に振って頷く。
「分かりました。ありがとうございます」
 その一方、叶には自分が何から逃げているのが分からずにいた。
「母さん、俺は何から逃げてるの?」
「それは自分で見つけるのよ」
「見つけられるかな」
 少し落ち込んだように床を見つめる叶の肩を、翡翠がそっと撫でて明るく笑いかける。
「ぼくが見つけられたんだから、叶もきっと見つかるよ」
「翡翠がそう言ってくれるなら、俺も頑張ってみるよ」
「うん」
 叶の微笑むその姿に惹かれていく翡翠を見た叶が、翡翠の髪に触れてキスをする。
「あっ」
「・・・一回だけだからね」
「う、うん」
(生まれて初めて初恋の相手にキスをされたが、これで最後になると思うと悲しくてさらに心が苦しくなる)
「はあ、翡翠君が家の子になってくれたら良かったのに。本当に残念だわ」
「母さん、『残念』って言わないでよ。もう恥ずかしくて死にそうだよ」
「あはは、ごめんね」
「叶の照れた顔は可愛いね」
「翡翠も可愛いって言うんだね」
「え? ダメ?」
 寂しそうに、悲しそうに、顔を真っ赤にしたようにドキドキと鼓動が早くなっていく翡翠が、叶にも同じ体温で伝わって首を横に振る。
「ダメじゃないけど、ドキドキするからやめて」
「叶。そ」
「はい! 二人共、イチャイチャするのはそこまでにして早く食べてしまいなさい」
「あ、うん」
「はい」
 お互い顔を真っ赤にしながら、時間をかけて卵サンドを綺麗に食べ終わる。
「叶。今日は本当にありがとう」
「うん?」
「お風呂、先に入ってもいい?」
「いいよ」
 自然と笑みが溢れる度に幸せを感じる翡翠は洗面所に行き、服を脱ぎ、体を洗って湯船に浸かる。
「彼との思い出を今日で最後にするのもいいが、一度天空に戻って全てをやり直してからもう一度彼に会いに行くのも悪くはない」
 手に水を汲んで顔にバシャっと思い切り水をかける。
(これで最後にする? 何を考えているんだわたしは。彼への想いをまだ口に出して言わずに離れるなんて、絶対に嫌だ)
 まだはっきり決心がついていない翡翠は叶がさっき言った言葉を恋しく感じながら思い出す。
『翡翠の肌は白くていいね』
『・・・一回だけだからね』
「一回だけだなんて言わないでください。わたしにもっと触れてください」
 今日何度も涙が流れたことを叶に知られないように、翡翠は静かに少し冷めた体をタオルで拭き、パジャマではなく叶と再会した時の紺色のロングジャケットに着替える。
「翡翠、今日はその服で寝るの?」
「うん。たまには自分の服で寝たいからね」
「分かった。じゃあ、俺もお風呂に入るから翡翠は部屋で待ってて」
「うん」
 ダイニングテーブルの椅子に座ると、隣に望が座って頭を撫でた。
「翡翠君、本当にありがとう」
「え」
「叶があんなに楽しそうに笑うようになったのは、全部翡翠君のおかげよ」
「そ、そんなことは」
(わたしは彼に何もしてあげられなかった。そばにずっといたのに・・・)
 落ち込んだ翡翠の頭を撫でるのをやめて、望は叶の過去について語り出した。
「叶が暗くなってしまったきっかけは、中学生の時だったの。当時の叶はまだ髪が短くてカッコよくて、同級生や先輩たちに人気があって困ったことを今でもよく覚えているわ」
「・・・っ」
「でも、叶は恋愛に全く興味がないことを知らなかった一人の男の子が叶に無理やりキスをして、叶を泣かせたの」
「え」
「その日は一日中泣いて暴れて大変だった。それから叶は人の目を気にしないように髪を伸ばすようになったんだけど、それが逆に人の目を引き寄せてしまうようになってしまったのよね」
「・・・そんな」
(彼にそんな過去があったとは知らなかったな。わたしが居ない間が心配だが、悪魔を信じるしかないだろう)
「翡翠君は叶が好きでしょ」
 突然の質問に翡翠は迷うことなくはっきり首を縦に振って頷く。
「はい」
「だったら、叶を大事にしてあげてね」
「はい。任せてください」
「二人のこれからが楽しみだわ」
「そう、ですね」
 気まずく思いながら俯く翡翠に、望が肩をそっと撫でる。
「私は叶も翡翠君も大好きよ」
「あっ、ありがとうございます」
「あれ? 翡翠、どうしたの?」
「あ」
 お風呂上がりの叶が二人の様子に違和感を持ったものの、仲が良くなったならそれでいいと思うのだった。
「叶が中々来ないから寂しがっていたのよ」
「そうだったんだね。翡翠、もう寝よう」
「うん」
「おやすみ、叶、翡翠君」
「おやすみ、母さん」
「おやすみなさい」
 翡翠に寂しい思いをさせてしまったことを後悔した叶が、恥ずかしくなりながらも翡翠の手を離さないように握る。
「叶」
「あまりこっちを見ないで」
「うん。分かった」
(今日のあなたは可愛いですね。わたしはそれがとても嬉しいです)
 初恋の相手である叶を傷つけたくない、ずっと一緒に居たい。その想いがある限り、翡翠は今まで強くなれたのだと、誰もが思うだろう。
「叶。今日は叶のベッドで一緒に寝たい」
「うん、いいよ」
 布団を敷かずに叶のベッドに気分が上がる翡翠は叶を壁側に寝かせる。
「翡翠はそっちでいいの?」
「うん」
 電気を消して二人だけの空間で、翡翠が天地について語り出す。
「天空は地上とは違って広くて真っ白だよ」
 翡翠の真っ直ぐな顔が叶の心を突き動かしていく。
「え? そうなんだね」
「ぼくは天空で大人になるまでずっと一人で暮らしてきた」
「一人って、伊李さんはその時は居なかったの?」
「伊李はぼくが大人になる百年前に来たから、一人であることには変わらなかったよ」
「翡翠は天空から来たの?」
「うん。そうだよ」
 天空という謎で不思議な場所から来たことを知った叶は自分の育ったこの地上を思い返す。
「俺は生まれた時から地上に居たから、天空のことは全く知らなかったかな」
「人間は天空に行けないから、仕方ないよ」
「天空には天使と悪魔は居るの?」
「それぞれの国に居るよ」
「国?」
「うん。天使は虹石という国に居て、悪魔は夜闇という国に居る」
「翡翠はどっちの国に居たの?」
 その質問に翡翠は一瞬戸惑うも、大事な叶に隠しごとをしたくないと本音で話した。
「ぼくは大天使ガーネット・シラセが建てた屋敷で生きてきた」
「ガーネット・シラセって、この間引っ越してきたお隣さんだよね」
「そうだよ。彼女は虹石の大天使だよ」
「知らなかった。じゃあ、暗橋さんも天使なの?」
「違うよ。暗橋漆黒は悪魔だよ」
「どうして天使と悪魔が一緒に居るの?」
「それはぼくにも分からない。でも彼女たちは悪い悪魔と天使ではないから、そこは安心しても大丈夫だよ」
「分かった。翡翠は虹石と夜闇に入りたいと思ったことはないの?」
 何度も思ったその言葉に翡翠は止まらず話し続ける。
「・・・あるよ。何度も入ろうとしたけれど拒まれて入れなかった」
「どうして虹石と夜闇は翡翠を拒んだの?」
「それは、ぼくが天使と悪魔の間に生まれたから」
「えっ、それだけで拒んだの? そんなのひどいよ」
「それだけで皆ぼくを嫌った。仕方ないよ、ぼくは天使でも悪魔でもあるんだから」
「翡翠・・・」
 叶の悲しそうな顔に、翡翠の心は愛おしく打ち砕かれていく。
(あなたに隠しごとをするのは、逃げているうちの一つであるからかもしれないだろう)
「俺は翡翠のことを知れて嬉しいよ。話してくれてありがとう」
 満面の笑みでそう感謝を伝えてくれた叶に、翡翠は自分の姿を見てあることを聞くことにした。
「叶はぼくの天空の姿、見たい?」
「うーん、別に見なくてもいいかな」
「どうして?」
「翡翠は俺が見たいって言ったら、見せてくれるの?」
「そ、それは」
「無理して他人に姿を見せる必要はないよ」
「でも」
「焦らなくてもいいんだよ」
 そう言って、叶は微笑みながら翡翠の焦りを頭を撫でながら和らげる。
「叶はよくぼくの頭を撫でてくれるよね。どうして?」
「一緒に居られているように感じるから」
「そう」
「はあ、今日は本当に長い一日だった気がする」
「ぼくは叶と一緒に居るこの時が好きだよ」
「うん、俺も好きだよ」
「叶がつけているその指輪は、持ち主にとっても叶にとっても大事な物なんだね」
「うん、そうだよ」
 その言葉を聞いて安心した翡翠は少しずつ叶に近づいて行く。
「翡翠、近いよ」
「ダメ?」
「・・・ダメ、じゃないけど、恥ずかしい」
「恥ずかしく思うのは、叶がぼくを意識している証拠だよ」
「意識?」
「例えるなら、恋人とか」
「恋人!」
 叶が顔を真っ赤にしたのを、翡翠は思い切り笑って嬉しくなった。
「あっはは。冗談だよ」
「もう、からかわないでよ」
「分かった。叶はぼくが人間じゃなくても一緒に居てくれるんだね。嬉しいよ」
 翡翠の嬉しそうな顔を、叶は少し見ない振りをして目を逸らす。
「・・・正直に言うと、翡翠が人間じゃないって知った時は怖かったよ」
「うん」
「翡翠は俺と変わらないどこにでも居る普通の少年だと思ってたけど、翡翠のおかげで気づいたんだ。生まれた天地は違っても、同じように成長して生きてることは一緒なんだね」
「そうだよ。ぼくは本当に叶と出会えて幸せだよ」
「翡翠、ありがとう」
「ぼくの方こそ、ありがとう」
「もう寝よう」
「うん」
「翡翠、おやすみ」
「叶。おやすみ」
 お互い向かい合って笑いながら、叶が先に目を瞑り、翡翠はその姿に改めて好きになって微笑む。
(まさか二度もあなたに受け止められるとは思っていませんでした。七年前のあなたも今のあなたもわたしは好きです。あなたがわたしを受け入れたように、わたしもあなたを受け入れます)
 二度目の再会を願いながら、叶の髪に起こさないようにキスをする。
「叶さん、次も待って居てください」
 叶の寝ている姿を涙を堪えながら見つめて部屋のドアを開けて玄関に行き、家を出る。
「ご主人様」
「伊李。帰るよ」
「かしこまりました」
 真夜中の夜は冷えて寒く感じるも、翡翠は何も言わずに天使の白鳥のように優雅な翼と悪魔の闇に染まる形のない翼で天空の屋敷へ帰って行った。


 いつもどおりの時間に目を覚まし、洗面所に行こうとした叶は昨日隣で寝て居たはずの翡翠が居ないことに気づく。
「翡翠? どこに居るの?」
 周りを見渡しても翡翠が居ないことに寂しくなった叶は勉強机に置いてある一枚の写真を見つける。
「この後ろ姿、翡翠、だよね」
 一枚の写真には、天空の屋敷で一人寂しい白と黒半分ずつに分けられている背中まで綺麗に整えられた髪に、紺色のロングジャケットで全身を覆っているその姿は七年前に空から降りて来た少年で間違いないが、どこか翡翠に似ているようにも思える。
「まさか、翡翠は七年前に出会ったあの少年だったの? 俺はそれに気づかずに『翡翠』と名前をつけて、友達だと勝手に思い上がってた。うっ、くっ、ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
 翡翠の想いに全く気づかなかった叶は大粒の涙を流しながら「ごめんなさい」と何度も言うのと同時に、翡翠に言われた言葉を思い出す。
『・・・ごめんなさい』
『はあ。叶はそのすぐに謝る癖を直さないとダメだよ』
『でも』
『ぼくの前では何があっても謝らないでほしい』
『そ、それはダメだよ』
『ぼくがいいって言っているのに叶はそれを無視するの?』
『約束する。ぼくは絶対に叶から離れない』
「あっ、俺は、これか、ら、どうすれば、いいの? やっと君が好きな想いに気づけたのに、俺、どうしたら」
「叶、どうしたの?」
 叶の泣いている声に心配する望が、部屋のドアを開けて叶に寄り添う。
「どうして泣いてるの?」
「母さん、俺、好きな相手が出来たんだ」
「それは嬉しいわね」
「で、でも、その相手はもう、居なくて」
「そう、叶はその相手に自分の想いを伝えられたの?」
「ううん。この想いに気づいたのは、今だから」
「叶はまたその相手に会いた」
「会いたいよ!」
「叶、その想いに気づけた自分をまずは褒めてあげなさい」
「え」
 涙を手で拭いながら顔を上げた叶に、望が包むように叶を抱きしめる。
「母、さん?」
「叶、誰かを好きになることは簡単じゃないのよ。叶がその相手を好きな想いに気づけたのはとてもすごいことなのよ。自信を持ちなさい」
「うっ、自信、なんて・・・持ってもくっ、意味ないよ」
「別に意味を求める必要はないのよ。全ての物に意味があるとは限らないんだから」
「・・・・・・」
(会いたい、また君に会いたいよ。次は別の姿じゃなくて、天空の姿で会いに来てよ。約束だから)
七年前の運命の出会いに感謝した叶と翡翠は次の再会を心から待ち侘びた。



 第五章
 永遠を叶える結びの瞳
                                                   
 翡翠が地上から天空に帰って、ニ年が経った。
 叶は高校三年生になり髪も背中より少し長くなったため、お団子にすることが増えてしまっていた。
「牧、今日は一緒に帰ってもいいか?」
 阿良川君がスクールバッグを持って叶の席の前に立つ。
「・・・いいけど」
「牧は今日もお団子が可愛かったな」
「・・・あ、ありがとう」
(ずっと気づかなかったけど、このお団子を褒めてくれるのは阿良川君だけだった気がする。少し嬉しいかな)
「牧? 帰るぞ」
「うん」
 翡翠が居ないいつもどおりの日常は叶にとって、寂しくて陽が当たらない雪の中に埋もれていくように感じるようになってしまっていた。
「今日はスーパーに行かなくていいのか?」
「あっ、うん」
 放課後の教室にいつもどおりなら夕日が差し込むはずが、今日はなぜか真っ暗になっていった。
(今日の夜ご飯は、昨日まとめ買いした俺の好きなハンバーグにしようかな)
「牧はもう進路は決めてるのか?」
「うん」
「何にしたんだ?」
「パン職人だよ」
「理由は?」
 突然の質問だったのに、叶にはそれが不思議と翡翠の姿と一致し、自然と満面の笑みになる。
「好きな相手においしいパンを食べさせてあげたいから」
「そうか、牧らしくていいな」
「阿良川君は?」
「ぼくは料理人だよ。まあ、理由は牧と変わらないけどな」
「阿良川君らしくていいね」
「お互い頑張ろうな」
「うん」
「牧」
「何?」
「いつもありがとうな」
歯を豪快に見せて笑いかける阿良川君の感謝の言葉に、叶も明るい笑顔で首を縦に振って頷いた。
「うん」
「また来週も一緒に頑張ろうな!」
「うん!」
 阿良川君に手を振ってマンションに帰り、家の鍵を開けようとした叶に、赤色のランドセルをからうお隣さんのガーネットが「あの」と言って叶を引き止める。
「あなたは、お隣さん?」
「そうです。少しでいいのでわれと、大天使とお話しませんか?」
美しき宝石のガーネットの瞳で可愛らしく笑う姿を見て、叶ははっきりと目を逸らさずに答える。
「は、はい」
「ではどうぞ」
「お邪魔します」
 親切なガーネットに驚く叶に、ガーネットが怪しげな笑みを浮かべる。
「そちらのソファでお待ちください」
「はい」
そう言われた叶は素直にゆっくりと静かにソファに座り、それを見たガーネットは安心して食器棚を見つめる。
「何が飲みたいですか?」
「え」
「ロイヤルミルクティー、ハーブティー、ココア、コーヒー。どれもおいしいですよ」
「じゃあ、ココアでお願いします」
「ふふっ、分かりました。まだまだ子供らしくて可愛いですね」
「・・・・・・」
(これは褒められている、のかな)
「あなたのような人間は初めてです」
「えっ」
「あなたのような思いやりのある温かい人間と出会ったのは初めてです」
 ココアと名前が書かれているコップをガーネットから手渡された叶は恐る恐るココアをほんの一口飲む。
「どうですか?」
「・・・おいしい、です」
「それは良かったです」
「・・・あの」
「ちょうどいい機会でですから、特別に天空について話しましょう」
「・・・はい」
 叶の想いなど捨て置いて、ガーネットは淡々と話を続ける。
「まずは年齢ですね。天空の成人は九百歳からです」
「九百歳?」
「天空の者は子供の期間が長く、大人の期間がとても短いのです」
「翡翠は今何歳なんですか?」
「あの子供は今は九百歳のはずです」
「じゃあ、もう大人なんですね」
 翡翠らしいと、叶が心から安心して笑顔になる姿に嫉妬したガーネットが、一瞬怒りが芽生えてその怒りを叶に悟られないようにまた話を続ける。
「確かに九百歳からは大人になりますが、子供のまま成長する者がほとんどなので、九百歳になっても大人になるとは限りません」
「じゃあ、ガーネットさんは今何歳なんですか」
「われは今九百八十一歳です。ちなみに漆黒はわれの一つ上です」
「あの、天使や悪魔の寿命は・・・」
「一般では千歳ですが、間違ったことをしなければ寿命は必ず伸びるようになります」
「翡翠は、どうなんですか?」
「あの子供の寿命は誰にも分かりません。知っていたとしても、あなたには教えません」
「どうして、ですか」
「あなたが人間だからです。人間には教えません」
「そう、ですか」
「あなたはあの子供が好きですか?」
 ガーネットの期待した問いかけに叶は迷うことなく、真っ直ぐに首を縦に振って頷く。
「はい、好きです」
「後悔はしていませんか?」
「・・・少しだけしてます」
「やはりそうでしたか」
「翡翠・・・いや、あの日の少年が一度俺に会いに来てくれたんです。でも俺は翡翠の想いに全く気づかなくて、傷つけてしまったんです」
「それがあなたの後悔ですか?」
「はい」
 覚悟をして言ったつもりが、ガーネットは期待外れで少年と全く同じだと呆れた。
「そんなことは後悔とは言いません! あなたはもう少し前向きに考える必要がありますよ」
「でも」
「あなたとあの子供は天地を壊そうとしています」
「え? どういうことですか?」
 身に覚えのない天地に大きく自分が関わってしまっているこの状況が、叶には理解が出来ずに固まってしまうが、ガーネットは何も気にせず話し続ける。
「あの子供の両親の話を聞いたことはありますか?」
「いえ、ないです」
「われと漆黒はあの子供の両親のパートナーでした」
「パートナー?」
「仕事のパートナーです。われと漆黒は虹石と夜闇で国王の守護者をしていました。まあ今は追放された身なので、国のことはもう思い出したくもありません」
「どうして追放されたんですか?」
「われのパートナーであの子供の母親であるサファイアが、漆黒のパートナーであの子供の父親である真黒と愛し合ってしまったからです」
「でも、ガーネットさんには関係ないことだと思いますが・・・」
「われはそうは思ってはいませんでしたよ」
「え」
「サファイアはわれの大事なパートナーだったので、せめて相談はしてほしかったです」
「そう、ですか」
「現在の虹石は壊れようとしています。まあわれが追放された理由は単純なことでした」
「単純・・・」
(何だろう)
「『お前は王宮には必要なかった。お前のせいでサファイアが悪魔に惑わされて愛し合ってしまったのだ。全部お前が悪い、この虹石から出ていけ!』と言われた時は悔しかった! どうしてわれが国から追い出されなければなかったのか、今でも分かりません」
「ガーネットさん」
 一方的に腹を立てたガーネットの憎しみがこもった言葉は終わろうとはしない。
「虹石で一番美しいガーネット魔法を無理やり使えるようにして、最後は道具と同じように捨てるなんて勝手すぎます」
「天使と悪魔は魔法が使えるんですね」
「そうです。天使は宝石、悪魔は闇の魔法を使います。あの子供が使う魔法は虹石の翡翠魔法ですね」
 あっさり魔法についても話してしまったガーネットはそれに気づくどころか、止まらなくなってしまう。
「えっ、翡翠も魔法が使えるんですか?」
「使えますよ。それにしても、あなたはどうしてあの子供のことを『翡翠』と呼んでいたのですか? 意味が分かりません」
 顔を限界まで近づけて聞いてくるガーネットを、叶は少し怯えながら答える。
「えっと、瞳の色が宝石の翡翠と同じ色で綺麗だったからです」
 納得出来る叶の言葉に、ガーネットは自分はどうなのかと落ち着いて距離を取る。
「ではわれの瞳の色はどうですか? 色が変わってそれなりに良くなったはずですが」
「そうですね。宝石のガーネットと同じ色でいいと思います」
「あなたは白よりもガーネットがいいみたいですね」
(色が変わる、どういう意味なのかな)
「えっと、瞳の色が変わることはあるんですか」
「ありますよ。われの場合はガーネット魔法の衝動ですが、痛みはありませんでした」
 正直に話し続けるガーネットに、叶はさっきから気になっていた疑問を問いかける。
「ずっと気になってたんですけど、ガーネットさんの名前の由来は魔法の名前ですか?」
「そうですよ。国王が適当にその名前をわれにつけました。最初は嫌でしたが、今はもう気にしていません」
「そう、ですか」
「ただいまー」
「漆黒ですね。お帰りなさい」
「あれ? どうしてお隣さんがあたしたちの部屋に居るの?」
 漆黒の怪しげで怒りの声に、ガーネットは慌てて叶を指差す。
「この人間と世間話をしたくて、われが上げました」
「世間話なら外ですればいいのに。はああ」
 学校帰りで機嫌が悪い漆黒を、ガーネットは慌てて深く頭を下げて謝る。
「漆黒の邪魔をするつもりはありませんでした。早く帰らせます」
「それはいいよ。あなたはガーネットと何を話してたの?」
 漆黒の威圧感に圧倒される叶だったが、下を見て「世間話を、してました」とガーネットの話に合わせた。
「そっか。ガーネットの言うとおり、今日はもう遅いから早く帰った方がいいよ」
 そう言って、漆黒が指差した方を見てみると、壁時計が十八時五十五分になっていた。
「か、帰ります」
「うん、またね」
 家に帰り、急いでハンバーグの下準備をして望が帰って来るまでに部屋で待つことにする。
(久しぶりにいつもどおりじゃなかった気がする。一年前も今日みたいにいつもどおりじゃなくて嫌だったけど、それは全部翡翠が来てくれる前置きだったなんて一年前は気づかなかった。今はそれが恋しくて仕方ないよ)
 翡翠が居なくなってから涙をたくさん流してきた叶は翡翠が置いて行った写真を眺めて微笑むのと同時に、開いていた窓から風が吹き、写真が飛んで行ってしまった。
「待って、それは、それだけはやめてよ!」
 急いで靴を履いて写真が飛んで行った方角を走って止まったのは、七年前翡翠と出会って二年前、一度目の再会を果たしたあの河川敷だった。
「はあ、はあ、はあ。良かった、早く拾わないとまた飛んで行ってしまう」
 残りの体力で走り、写真を拾おうとした時、目の前に見覚えのある人物が写真を左手で受け止めた。
「翡翠?」
「お久しぶりです、叶さん」
 月明かりで姿を現したその人物は写真の後ろ姿と全く同じで、叶だけをずっと好きで居続けた七年前の一人が寂しい少年だった。
「翡翠、だよね?」
「はい!」
「嘘じゃ、ないよね?」
「はい! わたしは七年前天空から落ちて地上であなたに受け止められて、名前を言えなかった一人ぼっちの少年です」
 その言葉に、叶の瞳から大粒の涙が自然と溢れ出していく。
「うっ、くっ・・・はあ、嬉しい」
「寂しい思いをさせてすみませんでした。これからはずっと一緒です」
「うっ、ほ、本当?」
「本当です」
「よ、良かった」
「叶さん、泣かないでください。わたしはここに居ますから」
 少年が叶の隣に立ち、写真を渡す。
「ありがとう」
「わたしの名前、結びと書いて『結』です」
「結、いい名前だね」
「ありがとうございます」
 満面の笑みで叶を見つめる結(ゆい)が、地面にしゃがんでポケットから箱を出す。
「結?」
「改めまして。叶さん、わたしはあなたが好きです」
「うん、知ってるよ」
「今度こそ約束します。わたしはあなたを絶対に離しません」
「うん」
「たとえこの天地が壊れても、わたしはあなたを永遠に好きで居続けます。わたしとずっと一緒に居てくれますか」
 箱の中から紺色の指輪を叶に差し出した結に、叶は微笑みながら指輪を受け取る。
「俺も結が好きだよ。今度こそ、ずっと一緒に居よう」
 その叶の微笑みで、結は一瞬信じられないような喜びと不安で言葉を失いかけたが、静かに首を縦に振って頷く。
「はい! ありがとうございます、叶さん」
(嬉しい、やっと想いを伝えられた。夢みたいだよ)
「指輪、交換しよう」
「はい」
 左手の薬指にそれぞれ指輪をはめて、手を重ねる。
「結、遅くなったけど、この指輪を君に返すよ」
 はめていたラピスラズリ色の指輪を外そうとすると、結は首を横に振って止める。
「ありがとうございます。でも、その指輪はもう叶さんの物です。叶さんが持って居てください」
「いいの?」
「はい。その指輪は叶さんに一番似合っています」
「結、ありがとう」
「叶さん、抱きしめてもいいですか?」
「いいよ」
 叶の体を丁寧に抱きしめて、叶に気づかれないように結は目を閉じてそっと唇にキスをする。
「結?」
「すみません、結婚もしていないのにこんなことをしたら叶さんは傷つきますよね」
「・・・いいよ」
「え」
「前に言ってたよね。『ぼくは絶対に叶を嫌ったりしない! 傷つけない!』って」
「はい、言いました」
「好きだから傷つけないんじゃなくて、好きだからこそ傷つけてもいいんだよ」
 叶の真剣で真っ直ぐな瞳が結の瞳によく温かく包まれるように伝わって、それが少し怖くなり、一歩後ろに下がる。
「でも、それは」
「俺を傷つけないようにしてたら、結はストレスになって自分を苦しめるだけだよ」
「あっ」
 以前と同じように言葉が出てこない結は叶を抱きしめていた腕を離そうとする。
「離さないで。俺は結のこともっと知りたいし触れてほしい」
「え」
「結は俺に気を遣うのはやめて、素直に何でも言ってほしい。それが俺の願いだよ」
 力強い瞳で見つめる叶に、結が叶の髪にキスをする。
「分かりました。叶さんを好きになって良かったです」
「結、前にも言ったけど、恥ずかしいから敬語はやめてほしい」
「嫌です」
「え」
「あれは『翡翠』だったから敬語で話さなかっただけで、過去も今もわたしは結なので、敬語で話すのを許してください」
 満面の笑みで心から自分と出会えた喜びをその綺麗な翡翠の瞳を見た叶は、もう素直にそれを受け止めて首を縦に振って頷いた。
「分かった。もう、帰ろう」
「はい」
(もしあなたが天使と悪魔の間を好きだと言うのなら、わたしはあなたに全てを差し上げます)
 二度目の運命の再会を果たした叶と結は幸せを感じながら家に帰り、お互いの体を飽きることなく、満足しながら触れ合うのだった。



   
  第六章
  夢と愛
 
 それから七年が経ち、叶は進路どおり、駅の近くにある高級ホテルの一階にあるパン屋さんで、パン職人として働いている。
(ふうー、今日はこれで終わりかな)
 今日の分のパンを全て作り終えて、いつもどおり完売にし、午後十八時になる前に働いている皆が帰り、叶もマンションに帰って玄関のドアを開けると、エプロン姿とポニーテールで綺麗に髪をまとめている結が叶を抱きしめてきた。
「わっ! 結、危ないよ」
 叶の困った顔に、結は満面の笑みでそっと離れて指を重ね合う。
「叶さん。お帰りなさい。ちょうどご飯ができましたよ」
 結の笑顔を見て、叶も明るく微笑んで靴を脱いでリビングに行くのと同時に、結がキスをしてくる。
「ん、結。は」
「叶さん、寂しかったですよ」
「うん、ごめんね」
 これもいつもどおり。仕事から帰って来た叶を結が抱きしめてキスをする・・・二人は出会った時以上に今がとても幸せで、毎日がかけがえのない宝物になっている。
 そして・・・。
「ほら、パパが帰って来ましたよ。夢」
 恥ずかしそうに結の足を小さい手で掴み、後ろに隠れているのは灰色の背中まで太く長い髪に、宝石のエメラルド色の瞳を持った叶と結の間に初めてできた娘の夢(ゆめ)だった。二回目の再会を果たして、叶と結は一緒に家に帰り、お互いを熱く触れ合って、結の元に夢が来てくれて生まれてから、叶は「パパ」となり、結は「ママ」となったのだ。
「夢、ただいま」
 叶がそっと頭を撫でたら、夢は顔を真っ赤にして嬉しそうに抱きしめてくれた。
「パパ、お帰り、なさい」
「うん、ただいま」
 夢が六歳になって言葉も上手に話せるようになったけれど、なぜか叶と夢の間に小さな溝があることを、結は何となく感じていた。
(叶さん。最近は仕事が忙しくて大変なのは分かってはいますが、もう少し夢と仲良くしてくれたらいいのに、なぜ・・・)
 結が二人の仲を心配しているのは叶もよく知っているはず。だって、夢の名前をつけたのは他でもない叶だから・・・けれど、二度目の再会で触れ合ったあの一夜、叶はあることを口に出す。
『ねえ、もしこの一夜で結の元に子供ができたら、夢って名前にしてほしいんだけど、どうかな?』
 突然の提案。自分で言った叶本人がなぜか布団の中に潜ってしまったが、顔を真っ赤にする叶の髪を結がそっと撫でて、美しく輝かしい微笑みで、大きく首を縦に振って頷く。
『いいですね。素敵な名前だと思います』
 本気で嬉しそうな結の微笑みに、叶も笑顔でその頭をそっと撫でる。
『うん! 楽しみだね!』
『はい』
 天空に生まれた者は誰でも子供を産むことができるという伝説を辿り、叶も結もそれを心から信じて、またお互いを抱きしめ合う。
 あの時は夢が溢れて叶の言ったとおり、結の元に夢が来てくれて無事に生まれたこと。一番喜んでいたのは叶だったのに、今六歳で四月から小学生になる夢の成長を見てほしいのに、今の叶は少しだけ夢を避けている気がして、結は怖くなっている。
(叶さん。夢を嫌いになっていないのなら、もっと夢を見てあげてください。この子はあなたとわたしの大事な宝物なのですから)
 三人で仲を深めたいという想いを込めて、結が叶と夢を抱きしめると、二人はすぐに離れてリビングに入って行った。
「はあ、これは時間がかかりそうですね」
 深いため息と共に結もリビングに行き、台所でできた料理とかごに入っているパンをダイニングテーブルに並べていく。
「叶さん。今日はあなたの好きなハンバーグにしました」
 結の明るい笑顔に、叶もなるべく笑顔で椅子に座り、隣に夢を座らせると、嫌がって向かい側の椅子に座った。
「あっ。夢、たまにはパパの隣でご飯を食べませんか? あなたの名前をつけたのはパパなのですから」
「えっ・・・」
 意外な言葉を、初めて聞いた言葉を、夢は前に座っている叶を見て驚き、怖がって結の足に隠れる。
「夢?」
「・・・嫌。私の名前をつけたのがパパだなんて信じられない!」
「ゆ、夢」
 夢の怖がっている様子に、叶も怖くなって何も言えずに床を見つめた。
(夢は俺がつけた名前を好きじゃなかったんだね。はあ、あんなに嬉しかった思い出がどんどん暗くなって、輝きが失っていくのは俺の心の弱さなのはよく分かってる。でも、夢が成長する度に、いつかは俺と同じようになってしまうんじゃないかと不安で、怖くて。どうすればいいの?)
 お互いを怖がっている叶と夢を、結はそれぞれ頭を撫でてあげて、怖い想いを消したと思ったら、叶が立ち上がって涙を浮かべた。
「叶さん? どうしましたか?」
「う、ふっく。俺、しばらく外にいるね。邪魔みたいだから」
「え」
 涙の意味を理解しようとした瞬間で、叶が家から飛び出して手遅れになってしまった。
「か、叶さん。なぜこうなるのですか」
(わたしはただ、二人の仲を取り戻そうとしただけなのに・・・こんな形で消えてしまうのは嫌ですよ!)
 急いでエプロンを脱ぎ、しゃがみ込んで夢と真剣に向き合う。
「ママ、私、パパを傷つけた。どうすればいいの?」
 小さな涙を流す夢を、結はそっと抱きしめてポンポンと頭を撫でて微笑んだ。
「大丈夫ですよ。夢がパパを好きでいるのなら、その想いを恥ずかしくても照れても、伝える勇気があればすぐにパパのところに行って仲直りをしましょう。そうしてくれたら、ママはとても嬉しいです」
 結の美しい微笑みに、夢はその魅力に惹かれて自然と首を縦に振って頷き、涙も同時に止まり、決意の笑顔を見せる。
「うん、私、パパと仲直りする。私はママもパパも大好きだから・・・絶対に仲直りしてパパともっと仲良くなる!」
 そう言って、夢が元気よく立ち上がる姿に結の心は少しずつ嬉しくなって、自分も立ち上がって一緒に家を出ようとしたところに、ちょうど仕事帰りの望と顔を合わせてしまった。
「望さん・・・」
 結の動揺した焦りの表情に、望は叶の靴がないことに不安になる。
「結君、叶はどうしたの? まさかけんかして家を出て行ったの?」
 ギュッと距離を一気に縮められて驚く結を、望が気にせず叶を心配している姿に、夢がそっと手を握って首を横に振る。
「夢?」
(何を言うつもりですか?)
 叶とのけんかをあまり知られたくない結の気持ちを尊重して夢がゆっくりと口を開く。
「おばあちゃん、違うの。私がパパに私の名前をつけてくれたのが信じられないって言ってしまって、私がパパを傷つけたの。だからママを悪く言わないで・・・」
 夢の小さな涙が詰まった言葉に、望がそっと抱きしめて自分も涙を浮かべる。
「夢、私も違うの。私はただ、パパがどこに行ったのかが不安で、ママに聞いていただけなの。私はママを絶対に責めたりしない、夢と同じように大好きだからね」
「あっ」
 望のとても心の底から嬉しい言葉を聞いた結は顔を真っ赤にして照れている。
(そんな、望さん、わたしはまだまだ未熟です。血の繋がっていないわたしまで好きになってくれていたなんて・・・その言葉だけでわたしは全てを受け入れられる気がします)
 結の珍しく黙っている様子に、望が涙を止めて、二人を思い切り抱きしめて、歯を見せて豪快に笑う。
「うふふっ、あははっ! 結君、夢。叶を必ず見つけて連れて帰って来なさい。私の家族は、あなたたち三人だけなんだから」
「はっ」
 生まれて初めて「家族」と認められたことが嬉しくて、結は自然と溢れた涙を隠さず、首を縦に振って深く頷いた。
「はい! 必ず叶さんを見つけて、家族の仲を取り戻して見せます!」
 そっと望の抱きしめられている腕を離し、夢と二人で叶の思い当たる唯一の場所。叶と結の出会い場所である河川敷に行き、暗く俯く叶を見て、心からホッとする。
(良かった、いました)
「叶さん!」
 大きく手を振りながら自分の目の前に立った結と夢を見て、叶は下ろした髪を風に靡かせながら深いため息を吐く。
「はああっ、結。俺は今でも思うんだ、結と出会ったことがダメだったんじゃないかってね」
「え・・・」
 自分との出会いを生まれて初めて大好きな叶に否定されたことが悲しくて結はつい、頬を叩いてしまう。
「い、痛い」
 頬を叩かれた叶の顔は無表情で、感情を失った心がないような人形に変わって見える。
「ママ?」
 隣で二人の姿に心配する夢の頭を、結がそっと撫で、叶の肩を掴んだ。
「叶さん。なぜそんな悲しいことを言うんです! わたしはあなたと出会った時から今もあなたのことが好きなんです! あなたがいなければ夢はこの地上で生まれていなかったんですよ! いい加減、前を向いてわたしたち家族と家に帰りましょうよ!」
 大粒の涙を流している結の気持ちをようやく理解して心を取り戻した叶はその涙を手で拭い取り、舌で舐めていく。
「ん、はあっ」
「か、叶さん?」
 舌で舐められた感触が温かく、まるで雪の中で凍えているのを、ポケットの中で温めた手の温もりを知った結はすぐに叶を抱きしめて美しく微笑む。
「結、ちょっと」
 突然のことで興奮して頭が追いつかない叶を、結が頬にキスをして、夢も一緒に三人で抱きしめ合うと、夢が叶の頭を撫でて、暗く地面を見下ろす。
「パパ、ごめんなさい。私、パパにひどいことを言った。私の名前はパパがつけてくれたのに、私はそれを嫌に思って、う、ああ」
 続きの言葉が出てこず、涙で声が中々出てこない夢の頭を、叶がそっと撫でて満面の笑みを見せた。
「ううん、いいんだよ。パパは元々暗い性格だから、些細なことでも落ち込んで寂しくなる。でも、絶対に夢は悪くないから、気にしないでね」
 父親としてまだまだ未熟な自分を娘に心配させてしまったことを、叶はなるべく笑顔で夢と向き合い、抱き合っている腕を離して、夜空を見上げる。
「ふうー、今日の月は綺麗だね」
 風に髪が揺られて月よりも綺麗な叶を、結は夢を抱っこして隣に立ち頬にキスをした。
「そうですね。一度目の再会の夜と似ていて、とても気分がいいです・・・」
 家族で同じ空を見上げられる喜びは決して悪い景色には見えない。一人よりも大事な相手と見られるなら何よりも幸せだと、叶と結はお互い顔を近づけ合って、そう温かく感じていくのだった。


 家に仲良く三人で手を繋ぎ合ってマンションに帰った後、叶の姿を見て安心した望が中々叶から離れずに、ご飯を食べ終わってからも一向に離してはくれない。
「母さん、そろそろ離して。もう寝たいんだけど」
 力づくでもこの腕を精一杯離そうとしても、望は叶の言うことを聞く気配が全く見えなかった。
「は、うう。叶、私は叶がいなくなったら、他に誰を家族と見ればいいの?」
「あっ」
 少しずつ瞳の中から涙がポツポツと雨の雫のように流れていく望の姿に、叶はおでこを擦り合わせて目を瞑る。
「ごめんなさい、母さん。もう二度とこんなことはしないから・・・許して」
 深く反省をし、ゆっくり目を開けると、望は涙を手で拭い、満面の笑みを見せた。
「うっふふ! まあ、反省しているならもういいわ。離してあげる」
 そう言って、笑顔が全く消えずに満足している望を、叶は少し短いため息を吐いてから自分の部屋に戻って行った。
「はあ、母さんは俺に過保護過ぎるよ」
 夢を隣の部屋に寝かせていた結もちょうど今部屋に入り、叶の肩を撫でて美しく微笑む。
「まあ、望さんにとって叶さんは一番大事な家族ですから。過保護になるのも分かりますよ。あっはは」
 結に触れられている肩が、叶にとってはドキドキして目を離さず、そのまま抱きしめてベッドに押し倒す。
「叶さん?」
 不思議そうに自分の瞳の中で美しく輝かすのが嬉しくて叶は電気を消し、舌で耳を舐めていく・・・。
「う、はっあ」
(嬉しい。叶さんからわたしの体に触れてくれるなんて、夢みたいだ)
 舌で舐められた感触がとても気持ち良く、次第に結も叶の頬を舌で舐める。
「はあっ、うう。結、俺はいいから、気持ち良くなって」
 耳元で甘く囁いたのが逆効果で、叶を押し倒した結の顔は真っ赤に照れて、とても可愛くて仕方がなく、お互い熱いキスを何度も繰り返して満足するまで舐めて、撫でて、服を床に脱ぎ捨てて抱きしめ合う。
「は、ああっ。気持ちいい、結、もっと俺を感じて」
 自分よりも先に気持ち良く息が荒ぶる叶を結はそっと髪を撫でて、満面の笑みになる。
「あっはは! 叶さん、わたしも気持ちいいです。もっとあなたを感じさせてください」
「は、ああっ」
 自分の体がめちゃくちゃに溶けて甘くて、心地良くて・・・もう全てが結で心が満たされて止まらなくなる。
「結、愛しているよ」
「え」
(今、愛していると言った?)
 突然の「愛している」という嘘みたいで本物の幸せを見せられていると思った結は、叶から一瞬離れて顔を手で隠した。
「結、どうしたの?」
「・・・・・・」
「俺、何か言ったかな?」
「・・・・・・」
「結」
「・・・・・・」
 何も言ってくれない結を、叶がそばに寄り添い、頭を撫でておでこにキスをする。
「はっ」
 今の叶が今まで以上に甘えていることを、手を顔から離して結は叶の瞳を見て、そっと頬に触れて耳を舐めていく。
「え、はああっ、う」
 叶のとても気持ち良さそうな真っ赤になった顔が幸せで、どんどん結が手で全身を撫でて触れていき、気づくと夜中の三時になっていた。
「叶さん、すみません。つい止まらなくなってしまって・・・」
 布団の中で可愛くうずくまる結を、叶は笑顔で首を横に振って否定する。
「ううん、俺は嬉しかったよ。久しぶりにこういうことが出来て」
 その笑顔が、心に強くこれ以上にないほどに満たされて、全てが溶けて抱きしめた。
「はい。わたしも、叶さんと触れ合えて幸せです。またしましょうね」
 もう一度、いや、何度でも触れ合えたい気持ちが強く残っている結の楽しそうな翡翠の瞳が輝いているのならそうしようと、叶も温かい微笑みで抱きしめられている腕の中で、そう実感するのだった。
「うん、またしようね。約束だよ」
「はい!」
「あははっ、俺は本当に幸せ者だよ。こんなにも綺麗で、温かい結のそばにいられて」
「叶さん・・・」
 まだ結婚をしていない叶と結は正式な家族ではないが、結にはまだそれが実現できないと思っていたのだ。
 自分が人間ではなく「異なる二人の子供」という間の生まれである限り、夢を二人で育てる勇気が、まだ自分には覚悟が足りていなかったから・・・。


 一週間後、叶はパン職人として実績を誰よりも積み上げ、それがこの地上で一位という成績を残し、今日はその受賞式に参加している途中だ。
(どうしよう、緊張して声が出ない)
 参加者、いや、受賞者の数は叶を含めたたったの三人。その三人のうちの二人は叶よりも三十歳以上も年上で歴史が深く、腕の高いパン職人で、何年もこの授賞式に出るのが夢だった髭の長い顔が険しい男に、ほんわかと柔らかくいつもにっこりしている髪の長い男の間に立たされている二人よりも遥かに若く経験が短い叶を、男二人はじっと見つめてばかりいる。
「わしよりも実績が短いのに、よくも一位を取れた物だな」
 髭の長い男に距離をぐーんと縮まれて睨まれた叶の顔はただ申し訳なく、自分がここにいる状況に耐えきれなくなっていったのを、髪の長い男がそっと肩をポンッと叩いて、優しく笑いかける。
「まあまあ、わしはここにいるだけで幸せだから、君は堂々と立っていなさい。そうじゃないと、わしは悔しさのあまり、泣いてしまうからな」
 そう言いながら、髪の長い男が本当に泣きそうなのを、叶は深呼吸を四回繰り返して気持ちをビシッと姿勢を良くして堂々と立つ。
「すみません、俺、自分が一位なのに、お二人よりも何か負けたように思ってしまって」
 丁寧に頭を下げて謝る叶に、髪の長い男がそっと手を伸ばして、首を横に振った。
「いいや、気にしなくていい。君はわしとは違う何だろうな・・・そう、『愛』が見えるな」
「愛? どういう意味ですか?」
 突然の「愛」という不思議な言葉・・・ではなく、一週間前の夜にも、叶は自分で結に伝えているのを思い出し、顔を真っ赤にして照れた。
「そ、そうですかね。あははっ、『愛』だなんて、嬉しい言葉です。ありがとうございます」
 もう子供ではなくなった叶にも、言葉遣いや礼儀には気をつけているつもりでも、周りにはそれが微笑ましく、にっこりとみんなが笑顔になり、同時に式が始まった。テレビの中継も繋がって、画面の前で叶の様子を見ようと、結と夢が心配して一瞬でも目が離せない。
「ママ、パパ大丈夫かな? 緊張しているよね?」
 自分の膝の上で手を震わせる夢を、結も同じように体が震えて言葉が詰まる。
「そう、ですね。ママもパパが緊張していないか心配で寂しいです・・・」
 叶の性格をもう七年も一緒にいれば自然と全てを理解した結にさえも、画面に映る叶を心配になるのは仕方がない。
 自分を「愛している」と言ってくれた相手が今、自分の理想を超えて、嘘みたいな夢を叶えている姿を見て、心が震えて。美しい微笑みが自然と溢れて止まらなくなっていく。
「あっははは!」
「ママ?」
 結の突然の笑い声に、驚いていた夢だったが、その微笑みに続いて自分も可愛らしい笑顔で一緒に笑う。
「うふふっ! ママが笑っていると、私も嬉しくなる」
 美しい天使の国虹石よりも、遥かに結と夢の親子の姿を見れば、誰もがその姿に心奪われて惹きつけられる魅力を、天空で生まれ育った結とその娘として生まれてきた誰も知らない秘密の親子関係を持った二人は、叶を大事にしない理由など他にはない・・・。
 この「家族」という強く美しい物を手に入れてしまえば。
 それから授賞式は順調に進み、一位に選ばれた叶が段に上がって賞状と金の盾を堂々と前を向いて受け取り、感謝の言葉を大きな声で伝える。
「このような素晴らしい賞をまだまだ未熟な私が選ばれたこと、とても嬉しく光栄です。私が今まで積み上げてきた努力と実績、いえそれ以上に、たくさんの人たちが私の作ったパンをおいしいと食べてくれたことを励みに頑張った結果がこの賞だと、私は深く実感しています。今まで私を支えてくれた温かい職場にこの天地で一番愛している大事な家族。この二つがなければ、私は今こうしてこの場に立つことは不可能でした。本当にありがとうございます」
 テレビの画面越しからもよく伝わってくる叶の心にもなかった最高で嬉しい言葉に、結は大粒の涙を流しながら夢をそっと抱きしめて頭を撫でる。
「ママ?」
「う、ふっ、う。パパは、わたしたち家族の誇りです。本当に、ふ、叶さんを好きになって、わたしたちはとても幸せです。だから、夢も、パパのこと、もっと好きになってくださいね」
 親として、好きな相手のことを娘の夢にもその想いが届いてほしいという結の願いを、これからの未来で感じてくれれば、きっとこの家族は永遠にそばで寄り添えると信じられるはずだから。


「ただいま」
 授賞式が終わり、ネクタイを緩めながらリビングに来た叶に気づいた結は満面の笑みで思い切り叶の疲れを癒すように抱きしめた後、いつもどおりの熱いキスをお互い感じる。
「はあっ、ふ」
「叶さん、お帰りなさい」
 キスで顔が真っ赤に照れて可愛い叶の姿を見て、ニコニコと何かを期待しているように感じた結の頭を、叶は指輪がひっそりと輝きを放つ左手で撫でてあげる。
「結、ありがとう。俺、今日は結構頑張ったんだけど、どうかな?」
 ゆっくりと右手を自分の胸に当てて、今夜の誘いをしてみた叶を、結は翡翠の瞳をよーくはっきり見せながら首を縦に振って頷き、耳元で小さく囁いた。
「はい。今夜は今までとは違う特別な夜にしましょうね」
「はっ」
(今、特別って言ったよね。それってどういう意味の?)
 特別にも色々な種類がある。
 結が楽しそうにホットミルクのように温かく包まれているような甘い囁きの意味がどんな物であるのかは、この後のお楽しみとなっている。
「パパ、お帰りなさい!」
「あっ」
 明るく可愛く結と同じように満面の笑みで叶の足に抱きついてきた娘の夢に、叶は父親として、そっと静かにしゃがみ込んで頭を撫でてあげた。
「ただいたま、夢。今日のパパの姿を見て、その・・・どう思ったかな?」
 少し遠慮して目を逸らした叶とは違って、夢はエメラルドの瞳を興味深く輝かせる。
「今日のパパはとっても綺麗に輝いていて、私も大きくなったら、いつかパパみたいに一番に輝いて、いつかママとパパの自慢の子供になりたい!」
 その言葉を聞いた叶と結はこれ以上にない夢の将来の姿が一瞬だけ見えて、それが心から楽しみになり、お互い顔を美しい微笑みで合わせながら、夢をそっと抱き上げて、三人で家族としての心地良く温かい空間が一生この天地で残ってほしいと、そう思えたのだった。
「あははっ」
(とても幸せだよ)
 それから一時間が経ち、久しぶりに叶の手作り、夢の大好きなオムライスを望が帰ってきたところで四人で食べ終わり、望と夢が仲良くお風呂に入って、叶が使った食器を洗っている間に、結が夢に絵本を読んであげて眠りにつかせた後、お互い今日の仕事が終わった叶と結は久しぶりに二人一緒にお風呂に入ることになった。
「叶さん、久しぶりですね。こうして二人でお風呂に入れるのは」
「そうだね。結構新鮮でドキドキするよ」
(結と二人で居る時間は夢が生まれてから子育てに夢中になっていて、中々お互い時間が合わなくて、一言も話さない日もあって。その時は悲しくて寂しかったけど、今はもう夢も四月から小学生になって、今から少しずつ二人の時間が増やせるはずだから、だから今は、結と居るこの時を大事にしよう)
 お互い初恋の相手で、一緒にいる時間が短くなったことで、たくさんけんかをして傷ついたりした日々も多くあったけれど、それでもこの「好き」という簡単な言葉よりも「愛している」という難しい言葉を叶から聞けたことが結にとっては、とても大きな一生忘れられない出来事だった。これからの人生も、家族全員で過ごせるように頑張っていきたいと、お互い顔を合わせて、キスを一瞬だけ軽くして結が叶の体に遠慮なく上から触れてくる。
「あっ、結、今夜は特別って言ったけど、それはどういう意味なの?」
 その問いかけを聞いた結は顔を真っ赤にしながら触れるのをやめて、丁寧に叶の右手にキスをして、覚悟を決めて、深呼吸を四回繰り返した後、自分の白い方の髪を雑に撫でながら口を開く。
「叶さん、わたし、その・・・二人目がほしいです」
「え?」
 突然の二人目という言葉に、叶の感情は嬉しいでも驚きでもない、不安と心配の感情が心の中でごちゃごちゃに混ざり合って、複雑な気持ちになってしまった。
(二人目って、どうして急にそんなことを言ったのか俺には全く分からない。夢のためにほしいなら分からなくもないけど・・・でも俺は絶対に結には負担をかけたくない。夢が生まれてから、結はあまり外に出ることがなくなった。ずっと家にいて、俺に気を遣って一人で夢の子育てをしてきた。だから二人目がほしいっていう結の想いには、答えることはできない)
 叶がパン職人として仕事についてからは、結は叶に負担をかけないように、ほとんど一人で夢を育ててきた。仕事から帰ってきた叶のご飯も掃除も洗濯も全部結がしてくれて、叶や望はとても助かっていたけれど、叶にはそれが結の負担に、ストレスになってしまっているのではという、不安と心配が強く心の中であるため、叶は翡翠の瞳から目を逸らして、静かに湯船に浸かり暗く俯いた。
「叶さん?」
「・・・はあ、結、俺は君のことを一番愛しているよ」
「はい。それは聞きました」
「でも、愛しているからこそ、君に負担は絶対にかけたくない。君がもし倒れてしまったら、俺たち家族はすごく不安になるし、同時に怖くもなる」
「叶さん、それはつまり良いってこ」
「だから二人目は反対するよ」
「えっ・・・どうして」
(子供が増えることが嫌、なんですか。どうしてそんなことを)
 二人目がほしいという自分の想いを反対されたことが結にはとても息苦しくなった。目の前にいるはずなのに、叶がどこか遠くに見えて、手を伸ばそうとしても全く届くことなく、諦めかけた時、叶が自分の手を握って、湯船の中にそっと抱きしめて入れられた。
「・・・叶さん、どうして」
「結は俺と結婚したいと思っているの?」
「え」
(なぜ急に結婚の話を。二人目は反対なのに結婚はいいと言うのですか)
「・・・ちっ」
「ねえ、答えを教えて」
 早く結婚の答えを聞きたくて、首を傾げながら満面の笑みを見せてくる叶の頬を、結はそっと傷がつかない程度に叩いた。
「ゆ、結?」
「はあ、はあっ。叶、ぼくはもう君を好きにはならない。結婚もするつもりもない」
「え、どうして!」
「二人目は反対したのに、どうして結婚はいいの? ぼくにはもう叶なんて必要ない。夢と二人でこれから生きていくから、もう二度とぼくの前に現れないで」
「そんな・・・」
(俺、そんなつもりで言ったわけじゃないのに・・・)
「結、待」
「その名前で呼ばないで! もう今のぼくは翡翠。これからもその名前を使わせてもらうから、さよなら」
 そう言って、翡翠は湯船から立ち上がり、一度目の再会で着ていた紺色のロングジャケットに着替えて眠っている夢を静かに抱き上げて、そのまま家を出て行ってしまった。
「翡翠・・・嫌、嫌だよ。せっかく好きだと伝えられたのに、三度目も離れるなんて、俺はこれから誰を好きになればいいの?」
 一度目も二度目の時も、寂しい想いで結を待っていたのに、三度目にして、結は叶がつけてくれた「翡翠」と七年前と同じような温かくも愛おしい少年に戻ってしまい、叶はその寂しい想いがまたじんわりと心の奥底から蘇って、涙が止まらずに湯船に顔をつける。
「ふ、ううっ、あ。俺はただ翡翠と結婚してお互い余裕ができたら二人目もいいと言うはずだったのに・・・どうして俺はこんなにも不器用なの? どうして俺はこんなにも暗い人間になってしまったんだよ! あああっ、嫌だよ、嫌だよ」
 翡翠は叶とは違って、大人で、歳も当然翡翠の方が上。天空で一人ぼっちの時間が多すぎたせいか、相手の想いに深く傷ついたり、自分の中で焦って叶のために何かしてあげたいという、自分の想いを伝えることがまだまだ苦手だったのだ。
 それが叶にも同じ想いがあるように、翡翠にも同じように、別の想いが存在するため、今はお互い距離を離して、余裕ができたらその時にもう一度話し合えば、きっと分かり合えるはずだから。


 二週間後、叶はすっかり望との親子生活に今までどおり慣れて、今日の朝もいつもどおりの時間に起きて顔を洗い歯を磨く。足まで伸びてしまった髪をポニーテールよりも少し高い位置で丁寧に乱れないようにお団子に結び、リビングに行く。
「おはよう、母さん」
 できるだけ満面の笑みで翡翠と夢がいない寂しい想いを押し殺して、胸に手を当てながらダイニングテーブルの椅子に座る叶を、望もできるだけその寂しい想いに寄り添えるように、そっと頭を撫でて明るく笑う。
「おはよう、叶。今日のフレンチトーストは叶の好きなテディーベアーにしたから、今日の仕事も元気よく頑張りなさい、ね」
 皿に盛りつけられたテディーベアーの形をしたチョコレート風味のフレンチトーストを久しぶりに見ただけで、楽しい想いが心の底から湧き上がってきた。
「あははっ」
 母親の思いやりという温かさが撫でられている頭の感触からよく伝わってきた叶はそれに少し甘えて抱きしめる。
「ありがとう、母さん。大事に食べるよ」
 一瞬だけでも、心からの陽だまりに包まれて、同じように、温かい笑顔が見えた叶の姿が、望にはとても嬉しくて、思い切り抱きしめ返す。たった一人の血の繋がった親子の在り方が誰もが心奪われるように感じられたような気がした。
「いただきます」
 しっかり手を合わせて食べ始めると、翡翠との二度目の再会の日がちょうど今日と同じようにいつもどおりから少しずつずれて「なってしまった」という言葉が頭の中で浮かんでくることに、叶はすぐに気づいてしまい、握っているナイフとフォークをそっと皿に下ろして、手が止まってしまった。
「叶?」
「・・・ねえ、母さん。俺はこれからどうすればいいと思う?」
 叶の真剣で、動揺で手が震えている様子に望は母親として、できるだけ無理をさせないように肩を撫でてあげながら答える。
「それは翡翠君と話し合わないと分からないことよ」
 そんな当然の答えを聞いてしまった叶の感情は激しく体中の熱が一気に氷に包まれたように冷たく、居心地がとても悪くて、自分にできることなんて何もないと感じ始める。
「でも、話し合っても何も変わらない気がする! 大体、こんな暗いことしか考えられない俺のことなんて、きっともう翡翠は好きになってくれない、会いたいとも思わないよ!」
「あっ」
 そう自分の本当の想いを自分自身で否定してしまった叶の頬を、ついに腹を立てた桃君が自分の足で歩いて、一瞬で飛び上がって力強く叩いた!
「え・・・桃君、どうして」
「叶! 君はどうして自分に嘘をつくの、どうして彼から逃げようとするの! 君は夢の父親なんだよ、仕事に行くのはもちろん大事だけど、それ以上に彼の想いをちゃんと理解してあげないと、夢には二度と会えない。いや、会うことなんて絶対に許されない! それでいいの?」
「・・・・・・」
(桃君にも当然のことを言われてしまった。でも俺もちゃんとわかっているつも、はっ)
 高校生だった自分と同じように、暗く少し反抗的な態度を桃君に取っていた頃の自分を悔しくも思い出してしまった叶は、一気に力が抜けて床にしゃがみ込み、頭を抱える。
「はあああっ、俺は、俺はどうすれば良かったの? 翡翠と話し合う勇気がない、翡翠の顔を見るのが怖い。どうして俺はこんなにも不器用で、好きな相手のことばかり傷つけてしまうの!」
「叶・・・」
 自分の中でずっと抱えていた本音を、そう溢れた涙で言った叶に、望がそっと頭を撫でてあげて首を横に振った。
「叶、好きな相手をたくさん傷つけてしまうのは悪いことじゃないわ」
「え? でもそれはダ」
「ダメじゃない。私だって、あの人を好きになって結婚して、色々なことで悩んで苦しんで、あの人をたくさん傷つけてそのまま見捨てられてしまったけど、でもそれは私の人生経験で、叶はまだその先の人生がある。あなたの人生はまだまだこれから。桃君の言うように、翡翠君の想いをちゃんと理解してあげないと二度と夢には会えなくなる。だけど、あなたたちはまだ恋人同士で夫婦じゃない。そして結婚をすればみんな喜ぶわけじゃない」
「え、そうなの?」
(結婚はみんな喜んで、家族が増えたらもっと幸せになれると思っていたのは、間違いだったの?)
 今まで親戚の結婚式に行って、何度も感じた夫婦となった二人の幸せそうな満面の笑みが叶にはまだその記憶が残っていて、それがみんなの幸せになると思い違いをしていたのが、今望の言葉でそれが現実とは遥かに程遠いと、生まれて初めて知った。
 しかし、それでも叶にはどこか譲れない想いも存在していて・・・。
「母さんと桃君は、俺と翡翠が結婚をしてもいいと思うの?」
 ゆっくり顔を上げて、不安気に二人に手を伸ばして救いを求めた叶の手を、後ろから夢が大粒の涙を流しながら握って抱きしめた。
「えっ、夢! どうしてここにいるの、まさかママもこ」
「そうだよ、ここにいるよ」
「はっ」
 そう低い声で叶を睨みつけているのは、恋人の翡翠だった。
「翡翠! どうして君たちがここに、もう俺なんて必要ないんじゃないの?」
 まともに自分の顔を見ようとしない叶に、翡翠は強い怒りを覚えてしまい、叶と握っている夢の手をそっと丁寧に離して、そのまま抱き上げてもう一度叶を睨む。
「翡翠・・・どうして君は」
「ちっ。別に、夢が君に会いたいと言ったからここに来ただけで、君のために会いに来たわけじゃないから」
 今まで一度もそんな冷たく突き放されたような苦しい態度。何年も叶を好きでいた翡翠なのに、なぜか今はもう叶のことなんてどうでも良く、もう永遠に好きになる気もないと、その翡翠の綺麗な瞳が宣言しているように見えた叶は最後でいいから、この言葉を言うことを、そっと静かに立ち上がって、翡翠を無理やりにでも横に抱えてそう覚悟を決めた。
「ちょっと離し」
「君の瞳は宝石の翡翠と同じ色で綺麗だね」
「あっ」
 その言葉をもう七年も聞いていなかった翡翠は一瞬で叶への好きな想いが元に戻った。翡翠の瞳を言葉どおりに輝かせるも、叶はそれに全く気づかず、すぐに床に降ろして、そのまま飛び出して出て行こうとした叶の手を翡翠が、いや、結が必死にこの好きになる想いを、顔を真っ赤にしながら実感して、握ってしまった。
「翡翠? 俺のことが嫌いなら、この手をすぐに離して。仕事に行くのに邪魔だか」
「ぼくは絶対に叶を嫌ったりしない、傷つけない!」
「え」
(その言葉、前に大雨に打たれていた時、翡翠に言われた告白みたいだった、ね)
 今でもはっきりと覚えている翡翠に言われた全ての言葉。七年も経てば、翡翠は絶対に忘れていると叶は深くも悲しくも思い込んでいたけれど、現実は、翡翠もはっきりと叶と同じように全く同じように覚えていて、叶はすぐに翡翠を心の底から愛が飛び出るように深く抱きしめる。
「叶?」
「ごめんなさい。俺、翡翠の想いなんて全く理解していなかった。自分のことばかり考えて、翡翠と夢のことは全く見ていなかった。本当にごめんなさい」
 深く頭を下げて自分と夢に謝る叶の肩を、翡翠がそっと撫でてあげて首を横に振った。
「・・・それを最初から言えば良かったのに、本当にわたしの夫は不器用で暗くて、誰よりも愛おしいんですから」
「え?」
(今俺のこと、夫って言ったの? じゃあそれは)
「俺は君と結婚してもいいんだね?」
「はい。もちろんです」
「パパ、ママ。おめでとう!」
 生まれて初めて自分のことを「夫」として夢の父親として、結に改めて認められた叶の心からの満面の笑みに、結は何度でも、絶対に離さないように、永遠に残る本当の夫婦になる瞬間が、今ここに起きていたのだった。
「結、もっと俺のそばに来て」
「ふ、ううっ、は」
 叶の結婚をしたい想い。結の二人目が欲しいという想いがやっと同じになって、叶は結の体に遠慮なく触れていき、結も同じように指や舌で叶から伝わる熱で自分の気持ち良さを涙が溢れそうなくらいに嬉しく感じる。叶もそんな結のために、今は自分から結との人生を幸せと感じられるように、何度も抱きしめ合って、激しく体と体をくっつけていく。この天地が壊れても、絶対に叶と結は離れることなく、お互いがお互いを永遠の物にできるように、今はもう、自分の欲のままに、時間が止まれれば、それで満足できたと深く愛情に満ち溢れていたはずだから・・・。


 一年後の三月。叶と結はこの地上で正式に結婚をし、二人目が生まれて、夢はお姉ちゃんになり、一番に喜んでいた。
「わああっ、私より小さくて一番可愛い」
 小学生になってから、夢は叶から宿題を教えてもらったり、夏休みには二人で買い物に行くなど、やっと親子らしい姿になれたことを、叶自身も心から喜んだ。毎日がとても幸せで、理想なんて物はもうとっくに超えてしまっている。二人目が生まれた時も、夢は叶と結以上に大きく両手を上げて喜んだ。生まれてきてくれたその瞬間から、夢は自分からその子のお世話をしたり、一緒に遊んであげたり・・・。
 それから学校生活も、何も変わらず、いつまでも小学生のままでいるガーネットと漆黒のおかげで何事も順調に人生が永遠に輝きが溢れるような宝石と同じようにこの「家族」の生活は進み、今日も二人が遊びに来ているようだ。
「ガーネットさん、漆黒さん。いつも夢がお世話になっています」
 叶が丁寧にお辞儀をして、ココアをテーブルの上に乗せた叶に、ガーネットも漆黒も満面の笑みで軽くお辞儀をした。
「いいえ、お気になさらず」
「うん、夢は本当にいい子供であたしたち二人とも仲良くしてくれてる・・・だからもうそんな堅苦しいことは言わなくていいから」
 全く変わらない小学生の小さくも可愛い姿でいる二人に、叶は自然と笑みが溢れて「はい」と丁寧に返事をしていると、その子が泣き出して、台所で料理を作っていた結が先に抱っこしてあげる。
「あっはは。お腹が空きましたね、今ミルクを作っているところですから、少しだけパパに代わります」
 そう言って、結がそっとその子を叶の腕の中に入れて、抱っこを代わった。
「愛、少しだけパパが抱っこさせてね」
「・・・ん?」
 ぎこちない笑顔を見せる父親の叶に愛(あい)という二人目の可愛い可愛い夢と同じ灰色の糸のように細い髪に、ダイヤモンド色の綺麗な瞳はやはり結に似ている。夢と愛は天空と地上の間に生まれた特別で、天空のように寿命は千歳で夢と愛が大人、九百歳になった頃には叶と結はもう・・・どうなるかは分からないけれど、それでも、娘二人が幸せになれる未来が待っているならと、叶と結はその覚悟で、夢が生まれて、愛が生まれて。今を幸せに生きているのだ。
「叶さん」
「結」
 作り終えたミルクを持って、叶と結に抱きしめられている愛の様子をじっと楽しそうに見つめる夢。
 この天地で一番愛おしい幸せな家族に関わった望にガーネット、漆黒に、今はもうどこに行ったのかも分からない伊李、そして阿良川君。
 みんなが叶と結の、いつこの天地が壊れてしまうのかも分からないという恐怖と不安があっても、この二人が、天地に選ばれた永遠の二人が、幸せになれるなら。あとは将来に繋げるために、夢と愛が、二人が、生きた記憶を受け継いでくれると信じて、未来へと羽ばたけたらきっと、それ以上の恋が生まれてくるだろう。