最後まで先輩と視線を合わせながら、僕はドアを閉じた。

 月も星もない分、深夜に帰ってくると、家の中の方が外よりも暗い。足音を殺して、二階へ上がるため、手探りで進んで階段に足を載せる。

 すると、いきなり、真っ暗だった廊下に電気がついた。

「お帰り」

「うわっ!?」

 思わず叫び声を上げた。リビングの入口に、化粧っ気のない顔で、母さんが立っていた。

「少しいい?」と、母さんはリビングを手で示す。

「どうして……母さん、明日も仕事じゃ」

「どうしても聞きたいことがあるの。ごめんね、待ち伏せなんてして」

 楽しい話題であるはずがなかった。

 無理やり振り切ることは、できなくはなかったと思う。けれど、そのただならぬ雰囲気と、こんな時間まで僕を待っていた母さんの気持ちを考えると、とてもできない。

 何より、迷惑を散々かけている母さんに、ごめんと口にされれば、無碍にできるわけがなかった。

 リビングのテーブルで向かい合い、椅子に座る。指が震えているのを自覚した。引いた椅子の背が、冷たかった。

「どこへ行っていたの?」

「……少し、散歩に」

「こんな時間に?」

「昼間は、人目もあるし」

「一人で?」

 ゴーストのことをうまく説明できる自信はない。むしろ、上手に説明すればするほど、信じてもらえないような気がした。

「……まあね。友達もいないし」

 へら、と半笑いになって、とてもしょうもないことを言ったなと後悔する。

「一人だったのね?」

「そうだってば」

「なら、外でお話していた相手は誰? 通りすがりってわけじゃないわよね」

 ぞっ、と背筋に寒気が走った。

 子供のくせに無断で夜中に出歩いていたのは、申し訳ないと思っている。でも、何も悪いことをしているわけではない、という矜恃も僕の中にはあった。

 それが今、平然と嘘をついてしまったことと、それを見破られたことで、一気に罪悪感が襲ってきて、何かを言おうとしても、顎が岩のように重くなって、声を出すことができなかった。

「……自分の子供に、こんな、追い詰めるような話し方をしたくないんだけど」

 母さんの目は険しい。

 分かっている。母さんはいつも僕に優しかった。登校拒否になった時も、理由は深く聞かず、一度も僕を責めなかった。

 母さんは、本当に、こんな状況を望んではいない。

 そして僕だって――やっぱり僕だって、水葉先輩とやっていることについては、胸を張っていたい。

「……がっ、こうの」

「え?」

「学校の、先輩……一個上の。二年生の」

「上級生に、知り合いなんているの?」

 部活も入っていなかった僕に、そんな知り合いがいると言われても、納得はいかないだろう。でも、先輩のことについては、僕は自信を持って言えることがいくつもあった。

「先輩は、いい人で……僕の話を聞いてくれて、信じてくれてる。僕を、善人だって言ってくれたんだ。自分が損をしても人を助ける性格で、夜に出歩いてるのも、事情があってのことで」

 母さんは、目を伏せ、何かを言い淀むような気配を見せた。言葉を探しているのだろう。十数秒して、ようやく、その口が開く。

「お母さんが心配してるのはね。奏が深夜に出かけてること自体じゃないの。それは、危ないこともあるからできればやめて欲しいけど、それが今の奏に必要なら、ある程度はいいことだと思ってる」

「え」

「奏、お母さんが聞きたいのはね、その一緒にいる相手がどこの誰かなのよ。名前を教えて欲しいの。……その人は、その、実在するのよね」

「……え?」

 一瞬、ゴーストのことを言っているのかと思ったけれど、どうやら違う。

「だって奏、あなた、門の前で、ずっと一人でしゃべってたじゃないの!」

 がく、と肩から力が抜けるのを感じた。

 そうか、あれを聞かれていたのか。そして母さんには、水葉先輩のゴーストの声は聞こえない。

 母さんには、僕が、いもしない人間と一人で会話していたように思えたわけだ。

「何を笑ってるの!」

「ち、違う違う。相手は生きた人間で、ちゃんと存在しているよ」

「お母さん、キッチンの窓から、そうっと外を見たのよ。誰もいなかったじゃない!」

 見られてもいたのか。

 現状が概ね把握できてきた。母さんに納得してもらえて、ゴーストのことは話さずに――それこそおかしくなったと思われかねない――、先輩にも迷惑をかけないで済む決着の仕方。

 僕は数秒考えてから、母さんの目を見た。

「電話に決まってるだろ」

「手にスマホを持ってるようには見えなかったけど」

「ハンズフリーだよ。イヤフォンしてたから」

「なら、名前くらい言えるわよね。その先輩は、なんていう人?」

 これは聞かれるだろうとは思った。架空の名前を答えた場合、その人物が存在しないと分かったら、余計にややこしくなる。

 先輩の名前を言ったところで、まさか住所を調べて乗り込んだりはしないだろう。万が一そうなった場合は、この五月女世界の水葉先輩は僕を知らないわけだから、これはこれで面倒なことになりそうな気はするけど、今、まるでデタラメの名前を言うよりはましだと思う。

「水葉由良、っていうんだ。ただ、先輩にも事情があってのことだから……」

「心配しなくても、向こうの親御さんに連絡したりしないわよ。きれいな名前ね、女の人みたい」

 ん?

「それにしてもやっぱり、時間が遅すぎるわ。もう少し何とかならないの」

 話が別方向に変わったけれど、ここで、女子を夜中に連れ回しているなどとなったらまた揉めそうなので、黙っておく。ちょうど、時間の問題は解決したのだし。

 僕は、すっかり汚れた息子になってしまった。