「それは?」

「怪我なんてない方がいいに決まってますし、僕なんかが少しでも役に立てるなら、という……のと」

「というのと?」

 先輩は、穏やかに、伏せ目がちに微笑んでいる。

 これを言葉にするのは、気恥ずかしく、格好悪くて、会ったばかりの人に話すことではないと思った。

 それでも、……ずっと、誰かに聞いてもらいたかったことだった。同時に、同じくらい強く、誰にも聞いてもらえないとも思っていた。

 それを、この人は、聞いてくれる。同じ能力を持って、同じことをしていた、水葉先輩なら。

「入院してる人たちは、本当なら、学校や会社に行くはずの時間を、病院で過ごしている人たちです。……僕は、登校拒否なんです。学校も、学校にいる人間も嫌いだ。でも、行きたい場所がある人たちは、そこへ行った方がいい。いいに決まってる。だから……だから」

 先輩の目は、軽く見開いていた。

 登校拒否のことは、言わない方がよかったかもしれない。どう思われただろう。

 学校に行けなくなる直前、僕はクラスの人たちから、たくさんのひどい言葉を投げつけられていた。

 意気地なし、自信過剰、自意識過剰、格好つけ、弱虫、臆病者、卑怯者……

 言う方は楽しくてたまらないという顔で、気軽に、そして勢い込んで、思いつく限りの罵倒をしてきた。新しい誹謗の言葉や、僕の苦しむ要素を見つけることが何よりの娯楽だと、信じて疑わないその様子に、異様すぎて恐怖すら覚えた。

 これで登校拒否にでもなったらお前は本当の落ちこぼれになるぞ、と指を差して笑われもした。

 とても腹立たしく、しゃくで、絶対に学校に通い続けてやると心に決めた。

 それなのに、僕の足は、登校するために家の門を出ることできなくなった。

 僕の状態がよほど愉快だったのか、数日後にわざわざ僕の家の外までやってきた連中から、辺り中に響く声で「負け犬」という笑い声も浴びせられた。

 悔しくて、恥ずかしくて、死にそうだった。

 思い出すだけで、内蔵がうねりそうになる。

 僕はそういう人間だった。結局学校に行けなくなった、笑われる落伍者だった。ここのところ、幽体で一人出歩いてばかりだったので、失念していた。

 水葉先輩には、言うんじゃなかった。

 そう思った時、先輩の手が、僕の肩に置かれた。

 実体の手は、幽体の僕の体をすり抜けてしまう。けれど先輩は、本当に触れているように、右手を僕の肩先に浮かせていた。

「五月女くんは、善良な人だね。皆が、君みたいだったらいいのに」

「……え。いえ」

 先輩にそう言われて、何か答えなければならないと思った。

 大袈裟です、とか、先輩こそ、とか。

 けれど、先輩の言葉を何度も頭の中で繰り返すうちに、胸の内側で温かさが膨らみ、なす術もないまま弾けてしまった。

 この世界ではかたちのないはずの僕の目から、その温かさがこぼれ落ちた。

 しゃくりあげたら泣いていることに気づかれてしまうと思い、必死で自分を抑えた。

 でも、そんな努力は徒労だったかもしれない。

 何も言えないまま、僕は、ただ、先輩の瞳を見つめていた。

 冬が近いはずの空気は、いつもよりぬるんで風もなく、僕たちを包んでいる。

 そして何より、水葉先輩の手のひらの温度が、確かに僕の肩に感じられた。