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 時期としては、そんな五月女奏の過ごす一月末よりも、少し前のことになるが。

 彼とは異なる世界――水葉世界の水葉由良は、冬休みが終わって再開したばかりの高校から帰るバスの中、シートに座って文庫本を読んでいた。

 今はなきゴーストを通じて知り合った、異世界の後輩から借り受けた小説は、残りあと二三冊といったところだった。

 全て読み終えたら返すべきなのだろうとは思うのだが、返す相手は、こちらの――水葉世界の「五月女奏」ということになる。別世界からやってきたもう一人の本人が、こちらの世界の当人の部屋から持ち出してきた本というのは、どのようにして返せばいいのかは、いまだにいい方法が思い浮かばない。

 バスの中であまり熱中して読書をすると酔ってしまうので、由良は適当なところで本を閉じた。

 すると、隣に立っていた制服姿の男子が、あ、と声を出した。思わず由良は、そちらを見上げる。

「何か?」

 そう聞いて、すぐに絶句した。男子の顔には、見知った後輩の面影があった。

「あ、い、いえ、すみません。僕が好きな、昔買った本と同じだったので、つい。……あれ、表紙の端、少し破れているところまで同じだ」

 それはそうだ、これは君の部屋にあったのを、もう一人の君が持ち出して私に貸してくれたものだから。

 思わずそう言ってしまいそうになって、由良は慌てて口をつぐむ。代わりに、

「そうなんだ。本が好きなんだね。君は、うちの高校の一年?」と、癖になっている左手の小指で円を描きながら、聞いた。

「はい。僕、去年の暮れまで不登校で、本はよく読んでいたんです」

 少し恥ずかしそうに、男子は頬をかく。

「そうなんだね。実は、私も」

 え、と男子が意外そうに目を見張った。

「最近復帰したばかりなんだけど、私なりに、不登校を解決できるような活動を学校でしてみたいと思ってるんだ。よかったら、君も参加してくれない? 私、二年の水葉由良といいます」

 男子は、慌てて名乗った。由良が数え切れないほど呼んできた、彼の名前を。

 頑張ってくれたんだな。向こうで、彼が。

 由良は、胸に膨らむ思いを口には出さず、胸中で目の前の少年に語りかける。



 すぐにではないけれど。それに、全てではないかもしれないけど。いつか、もう一つの世界からやってきて私を助けてくれた、もう一人の君の話を聞いて欲しい。

 そうしたら、なんで私が君の本を持っているのか、納得してくれるかな。それとも、不思議すぎて信じてはもらえないかな。

 私がどんなに、もう一人の五月女奏くんに助けてもらったかってことを。



 幹臣や詩杏とも、これから少しずつ打ち解け直していけるだろう。

 由良は、久し振りに、自分を取り巻く世界の広さを感じた。

 バスの外に広がる空は、鈍い鉛色を端にわずかに残しながら、鮮やかな青に染まっている。その反対側の端には、心地よさそうな黄昏のオレンジ色が、穏やかに広がりかけていた。