「な、なんのこと?」

「先輩が言ってくれたんです。でも僕は、僕を迫害したやつらを恨んでいるし、二つの世界が平衡したがるなら、例えば水葉の彼らを駅のホームから突き落としでもすれば、五月女世界でも同じことになるんじゃないかって、何度も思いました。他にも、母の乗ったバス事故の原因は、自転車の危険な走行が原因だったらしくて、僕もちらりとその当事者らしい自転車を見たんですが、彼にも何か、酷い目に遭って欲しいと思いました。全然善良じゃないです」

「……そう思っても、実行しないなら、それで充分偉いよ」

「偉くなんかありません。僕はずっと、自分に嘘をついていました。自分はそんな悪いことを考えるような人間じゃないはずだって、自分に言い聞かせていました。学校に行かなくなってから、家族以外には誰とも話さなかったから、自分しかいなかったから、嘘をつけと言う人もいませんでした。自分のことは無限に騙せた。でも、彼らをどうにかしてやりたいと思ったのも、僕の本当の気持ちです。見て見ぬ振りをすれば、本当の自分の一部は、損なわれて欠けてしまう。それは辛いんだ。悪い感情でさえそうなんです、良い感情なんて、尚更だ。失われるなら、そちらの方が、ずっとまずい」

 僕は、隣で中空にたたずむ、水葉先輩を見た。

 月明かりの中で、わずかに透けるゴースト。すっかり見慣れているはずなのに、その頼りなさが、今日はひどく物悲しい。

「先輩も、自分で自分を騙さないでください。そのせいで選んだ選択肢になんて、従わないでください」

「私が……何で自分を騙してるって言うの?」

「生きたいはずです。死にたくなることがあっても、生きていたいはずでしょう」

「私、嘘なんてついてないよ。本当に死にたいの。それが、今の私にとっては自然なことなの。いいことだとは思わないよ、でも悪い感情だって本当の自分だって、五月女くんが言ったじゃない」

「それが嘘だとは言いません。騙しているというのは、生きたいと願いながら死にたいって心から叫ぶ、そういう時が人にはあるっていうことです」

「……分かった。分かる気がする。でも……」

「理屈では、止まれないですよね。だから僕が、現実を変えます」

「? 何言ってるの、五月女くん……?」

「すみません、先輩」

 怪訝な顔をする先輩の右腕を、僕の右手が掴んだ。手首から先だけの、右手が。

 ここにくるまでに、僕はこっそりと、ゴーストの右手を皮一枚で繋がる程度に切りこみを入れていた。それを今、完全に切り離して先輩の右腕を掴ませている。その場所から、水葉先輩が動けないように。

「な、なにこれ!? 怖いんだけど! 五月女くん!?」

 両手をなくした僕は、ドイツトウヒのてっぺんから、空へ体を投げ出す。

「さよなら、先輩」

 そして一路、僕のゴーストは夜空を駆け出した。

 僕の家へと。

 そして一度体の中に入ると、再びゴーストを頭上に飛ばした。

 今度は、五月女世界ではなく――水葉世界へ。

 すぐに到着した水葉世界で、僕が真一文字に向かったのは、病院だった。

 切り離した右手から、水葉先輩が必死に逃れようとしている気配が伝わってくる。もう、僕の考えに気づいたのだろう。

 数分とかからず、僕は市立病院に舞い戻った。水葉先輩の病室へは、あっという間に到着する。

 そこには、水葉世界の先輩が、すやすやと寝息を立てていた。

 僕は、左右共に手首までだけになった両腕の先を、水葉先輩の体にかけられた薄い布団に当てた。

 存在しない肺を落ち着かせて呼吸を整え、精神を集中する。

「やるぞ」

 水葉先輩の体に巣食う、免疫不全。それを今、僕が吸い取る。

 今まで、考えたことは何度もあった。けれどそんなことをしても先輩は嫌がるだろうし、そんなに切羽詰まったことでもないと思っていた。何しろ先輩は、ずっと昔から免疫不全であることが当たり前だったのだから。

 けれど、それは間違いだった。事態は僕が思うよりずっと切羽詰まっていたし、先輩が小さい頃から悩まされていたからこそ、一刻でも早く治してあげるべきだ。

 意識の端で、五月女世界で水葉先輩のゴーストを捕まえていた僕の右手が、振り払われるのを感じた。

 構わずに、僕の神経が、先輩の体温をかき分けるようにして侵入していくのをイメージする。

 これか。

 目当ての症状は、すぐに見つかった。しかし特定の臓器ではなく、全身が囚われているせいか、ひどく漠然としていて、とらえどころがない。

 水の中に落ちた泥を掴むような心持ちでゴーストの意識を集中させていると、鋭い声が僕の耳朶を打った。

「五月女くんッ!」

 水葉先輩が、目を見開いている。

「先輩……」

「誰がそんなことを頼んだの!? やめなさい、今すぐに!」

「先輩、ひどいですね……」

「どっちがよ!? 私は、君にこれだけはさせたくなかったのに!」

「違いますよ。先輩の病気がです」

「……え?」

「こんなに大きくて、重くて、当然のように広がってのさばってる……今までどんなに辛かったんだろうって……子供の頃から、こんな……」

「……分かったら、やめなよ。私には、これが当たり前だったの。このせいで友達はうまく作れないし、作れても大抵すぐに離れていった。それはそうだよね、私が調子が悪くなる度に、自分たちのばい菌が原因なじゃないかって悩まなくちゃんらないんだから。それにずっと入院し続けるような病気じゃないなら、段々、大したものじゃないんだなって目で見られていった。辛かったよ。小さい時から、早く、少しでも楽になりたいって思ってた。それが今、――凄く後ろ向きな方法でも、叶うんだから。それも、人助けをしながら」

 水葉先輩がうつむいた。

「いえ、先輩。僕が、先輩の前提条件を変えます」

「前提……条件?」

 先輩の顔が上を向く。僕と目が合った。

「ずっと先輩を苦しめていた病気を治して、そして、先輩のことを心から思いやれる人間を傍にいさせます。恋人でも家族でもありませんが、だからこそ何の遠慮も負担もない、先輩の傍に寄り添ってくれる人間を」

 水葉先輩がかぶりを振った。

「いいんだよ五月女くん、私はいいの」

「よくありません。僕だってもう先輩と会えなくなるのは寂しいんですから、我慢してください」

「え?」

「ゴーストは、死にたい人間だけが使える能力です。でも、先輩が元気に暮らしていってくれるなら、そう思えるなら、きっと僕はもう死にたいとは思わないでしょう。だから、ゴーストは出せなくなると思います」

「な……」