部屋に戻り、太陽がちょうど消えたのを確認して、ベッドに座った。

 早まらないでくれ。無事でいてくれ。

 そう願いながら、神経を集中する。

 ゴーストが、僕の頭上にまろび出た。

 空に向かって落下するような感覚で、向かう。あの場所へ。あの人のいる、水葉世界へ。

 数回瞬きすると、僕のゴーストは、僕の育った次元とは似て非なる、その世界の僕の部屋に到着した。

「先輩!」

 ベッドに腰掛けている「水葉世界の僕」には一瞥もくれずに、家を飛び出た。

 一路、市立病院へ。

 門をくぐり、質量のない足で階段を駆け上がる。

 水葉先輩の病室に飛び込んだ。

 先輩は、そこにいた。

「水葉先輩」

 目を閉じた顔の下で、緩やかに胸が上下に揺れている。

 生きている。

 特に、目立つ外傷が増えたわけでもないようだ。

 僕のゴーストは、深深とため息をついた。五月女世界での僕の悪あがきが、少しは役に立ったのか。それとも、僕と咲千花の自殺願望のフィードバックが、さほどでもなかったのか。なんにせよ、ひとまず胸をなでおろした。

 寝入っている先輩を起こすのは気が引けたけれど、今夜は、何もしないで帰るわけにはいかない。

「あの、水葉先輩、おはようございます……も変か。もしもし、すみません、先輩ー……」

 女子の体に触れるのはためらわれたけれど、そうも言っていられなかった。僕は先輩の肩に布団越しに手のひらを当て、ゆさゆさと揺する。

 それでも、全く起きる気配がない。

 さすがにおかしい、とゴーストで直接、先輩の頬に触れた。けれど、新たな、目立った外傷は感じられない。体は無事で、ただ寝ているだけだ。

 十二月の日暮れ直後だというのに、随分早い就寝ではある。

 いや。

「これは――」







 水葉由良は、とぼとぼと、五月女世界をゴーストで歩いていた。

 ことさらにゆっくりと、これまでのことを思い出しながら、月明かりの下を進む。

 まだ夜と言うには早く、人通りがそれなりにある。

 だが、誰も由良を見咎める者はいない。

「いいよね、こう、こんなに人がいるのに、誰も私を気にかけないっていうのは」

 ゴーストで五月女世界を訪れる時というのは、ここのところずっと、五月女奏と待ち合わせるのが当たり前になっていた。

 こんな風にあてもなく、一人で過ごすのはずいぶんと久し振りだ。

「すっかり、五月女くんといるのが心地よくなっちゃってたけど。本当は、誰も私を見つけなかったらよかったのかもしれない。お父さんも、お母さんも」

 ――でも、私はいいことしたよね。

 今朝、五月女奏とその妹の心の傷を吸い取った後、ゴーストから生身に戻った直後は、ひどかった。

 不快感を固めてできたハンマーを頭に打ち込まれたような、煮えたぎる湯を腹の中に流し込まれたような、たとえようもない苦痛に襲われて、ナースコールをする余裕もなくのたうち回った。

 そういえばいつもより看護師が神経質に見回りに来たが、あれは何だったのだろう。虫の知らせのようなものかな、看護のプロは凄いな、などと考えながら、

「じゃ、そろそろ行こうかな」と由良はその足を市立病院に向ける。病院は、ここからは、歩いて十五分ほどのところにある。

 その時だった。

 欠けている左手の小指に、刺激を感じた。

「んっ!? 何!?」

 小指の背が、とんとんとん、と軽く叩かれている。

 誰に叩かれているのかは、考えるまでもない。

「私がこっちにいるって、もう気づいちゃったかな……てことは、日が沈んですぐに、水葉世界の病院に行ってくれたのかな」

 後輩の顔が頭に浮かんだ。彼がそこまで由良のために必死になっているのかと思うと、心が痛む。

「この叩き方は、『今どこですか?』ってことなんだろうね、たぶん。それに『早まるな』かな。 ……私を、呼んでる」

 自分から切り離してあっても、指の位置は分かる。

 小指は五月女家の中から動いてはいなかった。ということは、奏は今、そこにいるのだろう。

「ごめんね、五月女くん。もう会えない」

 由良は、病院へ向かう足を早めた。

 間もなく、門が見えてくる。

 奏と初めて遭った雨の日を思い出す。

「五月女くん、君を助けられてよかった」

 門を抜けて、敷地に入った。あとはその辺の入口から中に入るだけだ。最後の仕上げのために。

 由良の小指は、奏の部屋の位置で、相変わらずとんとんという刺激を受け続けていた。今からはもう、慌てて奏がここに来ても、由良を止めるには間に合わない。

 これで終わる。

 由良が考える限り、最善の終わり方で。

「さあ……やるぞ」

「何をです?」

 いきなり傍らからそう声をかけられ、由良のゴーストが飛び上がった。

「き、きゃあっ!? 誰!?」

 誰と聴きながら、間違えるはずもない。

 薄暗闇の中から、五月女奏が、ゆらゆらとした足取りで立ち現れた。

「ずいぶん冷たいんじゃないですか? 一言も言わずにというのは」

「五月女くん!? どうして!?」

「むしろ、他に先輩が行くところが思いつかなかったですよ。今夜先輩の向かう可能性が高いのは、僕の家か、先輩の家か、ここくらいでしょう」 

「わ、私の指はどうしたの? 今の今まで、確かに五月女くんの部屋で、誰かに触れられてたはず……」

「先輩の小指は、確かに今も僕の部屋にありますよ」

 そう言われて、由良は再び小指の在処を確認した。確かに、奏の部屋にある。そこから動いていない。そして、相変わらず、誰かが小さく叩くように触れている。

「えっ、ちょっと待って怖いんだけど……これ、誰……?」

「それも自明ですよ。そもそも、生身ではゴーストに触れませんから」

 由良は、ようやく気づいた。目の前に立つ、奏の体が透けている。

「五月女くん、それ、ゴースト……!?」

「そうです。ごく最近、自分のいる五月女世界でもゴーストを出すコツを掴んだものですから。それに――」

 奏は、左手をついと上げた。

「――それに、ゴーストの一部を切り離すことができると教えてくれたのは水葉先輩です」

「あっ!?」

 奏の左手には、手首から先がなかった。