「来ちゃったね」

 水は先輩は、市立病院のベッドに横たわりながら、ゴーストの僕を見上げた。

 先輩の家から帰り、日が沈むと同時に、ゴーストを水葉世界に飛ばした。

 市立病院の、長期入院患者が入っている病棟は、今まであまり足を踏み入れたことがなかった。さすがにゴーストでも手に負えない患者が多かったからだ。

 だから、先輩がここで暮らしているということには、気づきもしなかった。

「あまりこんなとこ見られたくなかったから、内緒にしてたんだ。ごめんね」

「……それだけじゃないでしょう。免疫不全は、聞いている限りでは、長期入院が必要なほどのものではないんですよね?」

「……うん」

「ならこの状況は、ゴーストによる治療のフィードバックですよね。昨日の僕たちを治したせいで、かなりのダメージがあったはずです。……今、布団の下はどうなってるんです?」

「幸い、今は寝てるだけで検査もしばらくないから、ばれないで済んでるよ。開放性の骨折や、外出血はないし。ちょっと痛いし、お腹の中が苦しいけど」

 水葉先輩は微笑んでいた。ちょっと、のわけがないのに。

 僕は歯ぎしりをこらえる。

「今、僕がもう一度先輩の怪我を吸い取って治します」

「え、やだ、五月女くんのえっち、すけべ」

 身をよじる先輩に構わず、僕はその細い肩をゴーストで掴んだ。

 けれど、いつも人を治している時とはまるで違う感覚がした。確かに先輩の怪我の具合――思ったよりは軽そうだったが――は感じ取れるのに、それを吸い上げることができない。

「……どうやら、私が一度吸い取った傷は、もう一度移すことはできないみたいだね」

 先輩が、ほっとしたように言う。

「……なんでそんな無茶をするんですか。昨日の僕の怪我の治療は、フィードバックの度合いによっては、深刻な傷を追うところですよ。おまけに夜明けで、ゴースト自体どうなるか分からない状況で。そもそも、元々病気なのに、人の病気を請け負うなんてやっぱりおかしい。先輩、あなたは……あなたがゴーストで人を治すのは」

 僕はそこで一度、喉を詰まらせた。

 けれど、言わなければ、止められない。

「人を治すのは、自殺するためなんですね」 

「そうだよ。五月女くんと同じだね」

 僕は息を呑んだ。とっくに見透かされていたのだ、そんなことは。

「いまだに、ゴーストを出せる人と出せない人の、確かな違いは分からないよね。でも、少なくとも、ゴーストを出せる人の共通点を一つ見つけたよ」

 僕も気づいていた。でも、見てみぬ振りをしていた。そんなわけがないと信じたかった。目の前にいる人が、そんなことを考えているわけがないと思いたかった。

 先輩は、僕を見つめて、告げた。

「自殺したいと思っている人。あの月の下で踊っていた男の人も、私も、五月女くんも」

「それ……は……」

 僕の嘘は破れた。いや、きっと、騙せてもいなかったのだろう。

「先輩……僕が学校でいじめられていた時、先生たちは、校内で起きた別の生徒の自殺未遂で、それどころじゃないようでした……もしかして……」

 先輩は、困ったように笑った。

「私だね。ちょっと、今年は、参ってたから。実はね、五月女くん。私、ゴーストのことで、君に黙ってたことがあるの」

「どうやら、……おっかないことですね?」

「そうかも。五月女くんはさ、体の怪我や病気じゃなくて、人の心を治したことはある?」

「心? 精神病の類ってことですか? うつ病とか、そういう?」

「そう」

「ないですよ。それこそ、フィードバックがきつければ、自分の手に負えないですから。外傷が見えない分、体の怪我よりある意味大変ですよね――」

 そこまで言って、ようやく僕は気づく。

「――……治したってことですか? 先輩が、誰かの精神病を?」

 水葉先輩がこくりとうなずく。誰だ。しかし僕に思いつくのは、一人しかいない。

「詩杏さん……ですか?」

「私がミキから告白された後の夏休みはね、詩杏はひどい状態だったの。何度かは自殺までしようとして、その度にご家族やミキたちが必死で止めるから、皆へとへとにくたびれて。仕方なかったんだよ。私がやるしかなかった」

 確か、先輩がゴーストに目覚めたのは、今年の夏休みだと言っていた。詩杏さんの具合が明確によくなったのは、二学期からとも。

「水葉先輩が精神を治療したから……詩杏さんはよくなった?」

「そう。死ぬ気がなくなったら、ゴーストは消えるっぽいね。詩杏を見てる限りは、だけど」

「そんなばかな……自殺願望がある人にだけゴーストが出せるなら、……そんな状態で、自殺未遂を繰り返す人の、心の傷を吸い出してしまったら……」 

「これは私見だけどね。ゴーストは、自殺願望があるだけじゃなくて、未遂まで進んだ人じゃないと生まれないっぽいよ」

 ――君も、そうでしょう?

 僕の頬がかっと熱くなった。そんなことまで見抜かれてしまった。

 夏休み最後の日の夕方、キッチンの包丁立てから包丁を抜き取り、自分の部屋で、左手首に刃を振り下ろした。二撃、三撃と繰り返したところで、苦痛の叫び声を上げてしまった。

 自分が家に閉じこもっている間に、未来の選択肢が狭まり、可能性が奪われていくという恐怖の前に、人生で最も精神的に不安定な状態だった僕は、あまりに脆かった。そんな恐怖にさらされて生きていくくらいなら、自分の手で終わらせてしまいたかった。

 ちょうど仕事から帰ってきた母さんが僕の部屋の中に飛び込んできてしがみつき、学校は行かなくていい、行かなくていいからやめなさい、と泣きわめいた。

 思い出したくもない。でも、忘れることができない。今でも僕の左手首には三つの筋が色濃く残っている。

 死ぬほど痛かったし、巨大な罪悪感も背負った。

 もう死にたくなんてない、僕は生きていく、いくらそう言い聞かせても、皮肉なことにこの手首を見る度にこの世から消えたくなる。

 いや、今はそれすら雑念だ。僕はかぶりを振って、叫んだ。

「それなら余計ですよ! いや、実際、そのせいで水葉先輩も自殺未遂したんでしょう!?」

「そうだよ。そうして、今も死にたがってる。……五月女くんと同じ」

「なんで……分かるんですか」

「分かるよ」

 先輩は、静かに告げてくる。

 それを見ている僕の方が、泣きそうだった。

「僕は……今はもう、自分から死のうとなんて、していません……」

「うん。揺れ幅があるよね。死ねない、と思ってるうちはなんとかやり過ごせる。五月女くんの死ねない理由は、ご家族?」

「……そうです」

 母親がいる。妹がいる。咲千花はいいやつだ。不登校から立ち直る前に僕が死んだら、きっと打ちのめされてしまう。

 しばらく学校に行かなければ、僕の心の傷はきっと浅くなっていくと思っていた。けれど実際には、学校に行けない罪悪感と、将来への不安ばかりが膨れ上がって、胸の奥の重苦しさは増すばかりだった。

「五月女くん。一つだけ教えて。五月女くんは、不登校になった後も、昨日みたいに、学校に行こうとしたことがあった?」

「……ありました。下駄箱で、Uターンでしたけど。僕の箱の蓋を開けたら、そこに……あいつらの書いた、貼り紙が」