「心臓は動いているよ」

 聞きなれた声がいきなり耳に飛び込んできて、僕のゴーストは顔を上げた。

「もし、勘違いしてたらいけないと思って。頬が冷たかったかもしれないけど、さすがに貧血だし、外で冷えただろうし」

 薄いブラウンのワンピースの裾と、セミロングの髪が、重力も風の支配も受けずに軽く舞う。

「この人、五月女くんのお母さん? 怪我はもうなかったでしょう、私が治したから」

 僕のゴーストの、あるはずのない涙腺が、焼けつきそうなそうな熱に襲われた。

「水葉先輩……!」

「自分のいる世界でゴーストが出せるなんて凄いじゃない。五月女くんは、お母さんについててあげていいよ。もう夜明けだね……よし」

 水葉先輩が身を翻して、車内から消えた。

 僕は母さんの胸の辺りに手をかざす。確かに鼓動を感じた。よく見てみれば、血流もある。息もしている。

 助かっている。

 生きている。

 救急車が走り出すと、僕のゴーストはその場に取り残された。視界が開け、再び、倒れたバスが目に入る。

 僕は慌てて、バスの中に飛び込んだ。水葉先輩が、ぐったりとした壮年の男性に手を当てて怪我を治している。

「先輩! 僕、他の救急車の方へ行きます!」

 先輩がうなずいたのを確認して、僕は手近にあった救急車に入り込む。急いで手のひらを怪我人――若い男の人だった――の体に当て、深刻な傷を探す。腹部のダメージが深く、内蔵が損傷しているようだった。

 その傷を吸い出すと、激しい痛みが僕の体内を襲った。五月女世界に無理して出しているゴーストだからなのか、フィードバックが重い。

 他には深い傷がないことを確認してから、次の救急車へ突入する。

 今度はスーツ姿の女の人だ。右足と右腕に解放性骨折がある。

 両方とも、出血を止めて、痛みをやわらげつつ骨を体内に戻した。ぱきんと音がして、僕の右手足が強烈に痛み出す。

 けれど、構っていられない。

 僕は次の救急車へ向かう。完治させている時間がないので、致命傷かそれに近い重傷だけを狙って治癒させていく。きっと先輩もそうしているはずだ。

 今度は老年の男性が、車内に座っていた。頭を怪我している。脳内で出血していたらどうしようかと思ったけれど、どうやら頭皮への切り傷で済んでいるらしかった。胸をなでおろしながら、治癒を始める。

 しかしこのフィードバックが、思ったよりもきつかった。

 右側頭部の皮膚にぱくりと切れ目が入る感覚があり、見た目よりも深い傷のダメージに体が震える。

「が、は……」

 まだだ。怯むな。

 この救急車には他にもう一人の患者が座っていた。一応自分で歩けるようだけど、手で触れると、肋骨が三本折れている。

 これを吸い取った痛みが、ほとんど軽減なしで僕の体内に弾けると、一瞬気が遠くなった。

 まだだ。次――

 僕は救急車の外にまろび出た。

 あと何人だ、と顔を上げた瞬間、視界が光に包まれた。振り向くと、今まさに、太陽がその鋭い光線を投げかけてようとしていた。

 夜が明ける。ゴーストの時間が終わる。

 もう一人だけでも。あと少しだけでも。

 しかし、抗いようのない力が空から降り注ぎ、焼け付くような痛みをゴーストに与えてきた。ゴーストを体に戻さなくては、このまま魂ごと消し飛ばされてしまいそうな恐怖を感じた。

「くそ……」

 ゴーストの解除による、生身にもたらされるだろうより鮮烈な痛みに、覚悟を決めながら、僕の意識は自分の体に戻った。

 戻った途端、廃工場の物陰の体は、かつてない激痛に晒されて跳ね上がった。

「ぐああああっ!?」

 痛い。痛いなんてものじゃない。頭が、腕が、胴が、体の中身が、許容範囲を超えた苦痛に悲鳴を上げる。

 頭から流れ出した血が目にたれ、視界が赤く閉ざされた。もがく右腕は、肘の先から骨が飛び出ている。右足も同じらしく、筋肉に力を込めるだけで、打ちのめされるような痛みが走った。

 いくつもの内蔵が不快と異常を訴え、その場で吐いた。

 最初の悲鳴の後は、声をあげることもできない。脳の防衛機構で、流血に押し流されるように、急激に意識が遠のいていく。

 ぞっとした。

 即座に出血多量になるほどの失血ではないはずだ。けれどこのままここで気を失ったら、誰も僕を見つけられないだろう。その後、目が覚めるまで、無事で済むだろうか。

 何とか、人目のあるところまで這い出なくては。それなのに、体が動かない。傷はないはずの左の手足も、わずかに動かすだけで胴と右手足に激痛が走った。

 こんなところで――で終わるのか。

 これは、僕が自分の意志でやったことだ。誰かから褒められるためとか、他人に誇るために人を治したわけじゃない。

 でも、こんな思いをして、誰にもそれを知られることがないのは、言いようもないほど寂しかった。

 誰か。

 誰か、見つけてくれ。

 僕を見てくれ。

 帰らなくては。咲千花と、おそらくは軽傷程度で帰ってくるだろう母さんが心配する。

 早く、帰らなくては……

 まぶたが閉じていく。

 そういえば、今日は学校に行くと決めたのに――嘘になっちゃったな。

 嘘といえば、



 ――僕たちはお互いに、嘘をついていたな。



 そんなことを考えた。

 そして、明けゆく世界が暗い帳に断たれそうになった時。

 目の前に、一つの人影が立った。

 重力を無視して、ゆらゆらと揺れながら、人影は、僕の前にかがみ込んできた。