翌朝、母さんのどたばたと慌ただしい足音で目が覚めた。

 そういえば、今日は朝が早いとか言っていた気がするな、と僕は布団の中でぼんやりと思った。

 日曜日だというのに大変だとは思うが、日曜日でないと会えない人や、できない仕事があるらしい。

 時計を見ると、七時前だった。確かにいつもよりは少し早い。

 僕が玄関へ行くと、ちょうど母さんが出かけるところだった。

「ああもう、ぎりぎりになっちゃった。行ってくるから後よろしく!」

 ヒールをサンダルのようにつっかけて、母さんが出ていく。

 僕はキッチンに向かうと、手早く朝食を済ませた。

 咲千花は文句を言うかもしれないが、今日は少しやることが多い。

 部屋に戻ると、クローゼットから制服を取り出した。黒色の、いわゆる学ランの生地はざらざらと粗く、僕の持っている他のどんな服よりも固い。

 まるで鎧か、鎖かたびらのようだなと思った。

 うっすらと積もった埃を、埃取りで丁寧に取る。

 学校指定の通学カバンを開け、月曜日の科目を確認して、教科書とノートを詰める。

 暖房を強くしているわけでもないのに、手のひらが汗ばんでいた。

 ホームルーム、英語、日本史、数学、現代国語、選択科目の美術。

 一度カバンに入れた教材を取り出すと、まずは英語のそれを広げた。

 今は、どこの範囲をやっているんだろう。

 とりあえず、六月に中断していた箇所から、教科書を読み始めた。

 全部は無理だろうけど、明日からに備えて、それなりに予習をしておこう。

 時折休憩をとり、廊下やリビングで顔を合わせた咲千花と適当に言葉を交わしていると(昼食も時間が合わず別々だった)十二月の空の帳は気を急いたように降りてきた。もう夕方だ。

 空が、藍色の混じったオレンジ色から、徐々に青に染まっていく。

 トワイライトブルーがすっかり町を覆うと、まるで海の底にいるようだった。

 いつか、夜空を見上げてそう感じた気がする。この地上は、ただ呼吸ができるだけの海の中。自分が本当はいる場所ではない、無理にそこに残れば死んでしまう。そんな場所。

 登校拒否は悪いことではない。登校拒否にさせるのは悪いことだ。でも、多くの場合、前者は当然のように哀れまれたり、弱い人間だと勝手に決めつけられ、そして後者は裁かれない。

 辛ければ逃げていいというのも、逃げなくていいんだというのも、強者の理屈だ。被害者が逃げるべきではなく、その場を追われるべきなのは加害者の方だ、というのもそうだ。

 どんな道を選んでも、強者の決めた道に、僕のような人間は従うことになる。

 どんな恥知らずな行為も、やった方ではなくやられた方の屈辱になるように、世の中の多くのことはできている。それは認めざるを得ないのだろう。

 それでもせめて、僕を、なかったことにはされたくない。

 恥ずかしいのは僕ではない。あの学校にある、僕以外のものだ。

 今の僕には、それが言える。今まではできなかったことでも、今は。そしてこれからは。

「変わらないものなんて、死ぬまでない」

 僕はそう呟くと、机の引き出しから、缶を取り出した。

 蓋を開けると、ちょうどぼんやりと、先輩の指が現れてくるところだった。外は日が暮れようとしている。

 昨夜聞いた話では、わざわざ水葉先輩がゴーストにならなくても、幽体離脱をするのと同じように感覚を集中すると、この指は水葉世界から操れるらしい。

 順番からいくと、今日は先輩が五月女世界にくる日だ。今まさに、意識を飛ばす寸前かもしれない。

 僕は先輩の指の腹に、僕の小指で、文字を書いた。

「きょうは やめます」

 最初大人しかった指は、途中でくすぐったさに暴れつつ、最後にはまた静かになってくれた。

 指の腹に指で字を書かれても判読しづらいだろうとは思ったけれど、丁寧に一文字ずつ綴っていく。

「はやくねます」

 先輩の指も、空中に文字を書いた。分かりにくかったが、「ナゼ?」と書かれていた。

「あす がっこういきます」

 先輩の指は、電源コードを抜かれたように、ぴたりと動きを止めた。

 そしてややあってから、指は丁寧に、空中に「オヤスミ」と描いた。

 僕の方も、その小指の腹に「おやすみなさい」……少々複雑になってしまった気がするけど、これは分かるだろう。

 そうして今度こそ、先輩の指は静止した。

 僕は、現代国語の予習を再開する。

 時折横目で、蓋を開けっ放しにした缶を見る。

 数分置きに、半透明の指は、何かを掻くようにふわふわと動いた。

 向こうで、本でも読んでいるのだろうか。僕の貸した本だろうか。それなら、今は確か、有名な密室もののミステリー小説を読んでいるはずだ。もう犯人の目処はついただろうか。

 そんなことを考え出すと、妙にそわそわしてしまうので、自制心を総動員して、教科書に向き直る。

 どうということはない。

 行くべきところに、行くだけだ。