夏休み中にゴーストを別世界に送り込む能力を得ていた由良は、市立病院で他人の治療をし続けた。

 外傷の治療も可能ではあったが、フィードバックされるのが怪我では、治ってしまえばそれまでだし、家にいて怪我をした理由を考える必要がある。

 それに比べ、病気のフィードバックは、ある程度原因不明で押し通すことが出来た。

 元々免疫不全を患っているので、急に体調を崩すことは、小さい頃からよくあったためでもある。

 健康が損なわれれば損なわれただけ、学校への復帰は遅らせられる。



 どうして自分が学校に行きたくないのか、明確な説明は、由良自身にもできなかった。

 学校に行かないことで解決できる問題もない。

 理由はやはり、どう理屈を考えても、由良にも分からない。

 確かなのは。

 確かなのは、ただ――







「辛い、ってことかな」

 一方的にしゃべり続けた水葉先輩は、ちょうど到着した家の門の前で、くるりと振り向いた。

「直接の原因は、やっぱりミキと詩杏の急接近だと思うんだけど。私、本当に、そうなるように望んでたはずなんだけどなー。何でこんなに辛いんだろ。本当は、物凄く寂しがり屋なのかな、私。取り残されちゃって落ち込んでるのかな」

「……いえ」

 風が吹いて、電線が軽くきしんだ。

 先輩が僕から目をそらす。

「最近、結構公然といちゃつき出したらしくてさ、あの二人。周りには彼氏彼女ですって堂々と言ってるみたいだよ。まあ、ミキも私なんかに血迷うより、かわいい詩杏の魅力に気づいたなら、よかったよかった」

「……好きだったんですか」

「実際、詩杏はかなりのポテンシャルがある原石だと思うのよ、磨き出したらそれはもう……」

 身振りまで交えだした先輩の手が、空中でぴたりと止まる。

「……何?」

「その幹臣さんという人が、水葉先輩は、好きだったんですか」

 先輩の両手が力なく、体の脇に降りた。

 夜が浅いためにいくらか聞こえてくる町の生活音は、そのどれもが、遥か遠くから響いてくるようだった。

「いや、それはさ、だめじゃない?」

「だめと言うと」

「不純になっちゃうでしょう。二人がくっついたらいいなっていうのは、私、本当に思ってたもの。今、詩杏にミキを取られたからショック受けてるみたいなことになったら、それが嘘になっちゃう」

「ならないですよ。僕はまだ体験したことがないのでよく分かりませんが、誰かを好きな気持ちと、その誰かに幸せになって欲しい気持ちは、矛盾しません。どう考えたって」

 水葉先輩が、ゆっくりと顔を伏せた。その顎の下で、喉元が少し上下したらしい。肩が震えるのが、宵闇の中でも見える。

「僕は先輩のことを、少しは分かっているつもりです。先輩が何を喜んで、何を悲しむのか、それくらいは。だから、……誤解はしない自信がありますよ」

 先輩の顔を隠した前髪の奥から、雫が二滴落ちた。

「いいのかなあ。本当のこと言っても」

「はい。誤解しませんから」

 荒い呼吸を三度。それから、先輩は堰を切ったように話し出した。

「私は、ミキに幸せになって欲しいと思ってたし、その相手が私ならいいって、ずっと思ってた。でも詩杏が……あんなに怖がりだった詩杏が、好きな人ができたなら、その人と好き同士になれたらいいって、それも本当に思ってた。そうなったらきっと私も幸せだって。それなのに、こんなに……こんなに、辛い」

「……はい」

「ミキが私を好きだって言ってくれて、本当に嬉しかったよ。叫びそうだったよ。でもそのせいで、詩杏が傷ついたのは本当に辛かった。詩杏が自殺しかけたって聞いた時は、心臓が止まるかと思った。その後私にだけ会ってくれなくて、私はどうすればよかったのか、全然分からなかった」

「はい」

「今、詩杏とミキが仲良く学校に行ってるって聞くのも、辛いんだよ。何で私だけが家に閉じこもってるのって、どうしても思っちゃう。ゴーストで人の病気を治せるってことが、嬉しいのは本当。でも、学校に行かないで済むように病気を吸い取ってる自分が、凄くみじめなのも本当。誰にも言えなくて、言ったって分かってもらえる気がしなくて、ネットでも本でもそういう時は人を頼れって書いてあるけど、本当のことを話して、分かってないのに分かった気になられたら、そんなことにこそ私は耐えられないよ」

「はい」

「言葉にしたら、そんなに大したことじゃないよね。私が笑って学校に行けばいいだけで、何でこんなに辛いのかも全然納得いく理由なんてない。でも、私は辛いの。登校しようと思っただけで、胸も、お腹も、頭も痛くなる。だったら――」

 僕は先輩の次の言葉を待ったけれど、そこで一度、先輩の口が閉じた。

 そして、ふっと息を吐く音がする。

 伏せたままだった顔を、水は先輩が軽く上げた。目元に微笑みが浮かんでいる。

「はいしか言わないじゃん」

「先輩の話を理解するのに、必死なんです」

「そっか。誤解しないでいてくれるんだもんね」

「ええ」

「……がっかりした? ゴーストでの治療が、学校さぼるためにやってたことだったっていうの」

「いえ。それで病気が改善している人たちがいるのは、事実ですから。人のためにやっているのも本当だと、今聞きましたよ」

「君は本当にいいやつだね、五月女くん」

「ただのお礼です」

「お礼? ……私の指をあげたのが、そんなに嬉しかった?」

「違います」と即答する。「水葉先輩は、……僕も治してくれましたから」

 先輩はきょとんとしてから、眉を軽くしかめた。

「五月女くん、どこか悪かったの? 私、いつの間に?」

「許せない、と言ってくれました」

「え? ……誰を? 何だっけ、それ?」

 先輩はますます濃い混乱を顔に浮かべた。

「いいんです。何だか僕はそれで、自分の感情を信じて、やりたいことをやるってことがどうして大切なのか、分かったような気がするんです」

「全然分からない……」

 先輩の家の中から、先輩を呼ぶ声がした。家族が、僕との会話を聞き咎めたのだろう。

 門の前で話したせいでの、自分の失敗談を思い出す。

「じゃ、五月女くん、また指で連絡するね」

 先輩は左手の小指――今日は実体なので、もちろんちゃんとそこにある――を指差し、ひらひらと手を振ってから、門の向こうに消えた。