この日は、土曜日だった。
水葉世界の夜、完全に月が消えた新月の空の下で、僕は市立病院の中へゴーストとなって忍び込んだ。
ここに怪我で入院している人は、比較的足の骨折が多いのだけど、この日は肋骨を二本折った年配の男性を治すことにした。
手をかざし、意識を集中して、男性の胸の下辺りに触れる。
服の上からでも、ゴーストの手に、人の体温を感じる。その奥の異常と痛みも。
呼吸を整えて、体内の傷そのものを吸い出すようにイメージする。いつも通り、「骨折」が僕の体に吸い込まれてきた。
あ、まずい、と思った。吸い込んだ痛みが、思ったよりも強く、僕の体内で肋の骨がきしみ、パキンとヒビが入ったのが分かる。
フィードバックがきつめのやつだ。未だに、何が原因でこうなるのかは分からない。
手足と違い、胴体のダメージは、母さんや咲千花から隠すのが難しい。すぐに不調が顔に出るからだ。
寝ている男性の方は、かなり治癒が進んだのを確認して、僕は病院を出た。
時刻は二十時。さほど遅い時間ではなかったけれど、先輩には病院のベンチではなく、近くのファミリーレストランで待機してもらっていた。
その気になれば窓も壁もすり抜けられるけれど、普通にドアから入ってきた(閉まったままではあったけど)僕に、角の席にいた先輩が小さく両手を振る。
その左手には、当然小指がついていたけれど、僕は実際に目にして少しほっとした気持ちになった。
僕が先輩の向かいに腰を下ろすと、テーブルには、先輩の顔の高さまであるパフェが置かれていた。
「いやあ、指での伝言、うまくいったね」
「案の定、絵面はホラーでしたけどね……」
五月女世界で日没すると、例の缶の中に、ぼんやりと先輩の指が見えてきた。それがぴこぴこと動くので、白紙の上に乗せてシャープペンを糸で縛りつけてやると、ガタガタの文字で「こんや七じ、四丁目の……」とファミレスの名前がつづられた。それから一度ここで待ち合わせをし、その後僕だけが病院へ行って戻ってきたのだった。
「五月女くんがゴーストだから、この、期間限定早出しいちごパフェがおごってあげられなくて、目の前で私だけが食べることになってしまって残念だよ」
「そういえば試したことがありませんでしたが、物がつかめるんだから、食品は食べられるかもしれませんし、そもそも気を使っていただけるなら気になるなら僕がいない時に召し上がればいいのでは」
先輩は僕から視線を外し、
「パフェ食べてる時って、パフェを食べるために生きてるなって感じがするよね」
「斜め上のどこ見てるんです。それにそんな実感をしていたら、食べ終わるとどうなるんですか」
「次のパフェを食べるために生きようという気になるよね」
週末ということもあり、店の中はそれなりに混んでいるので、それなりのものを注文しないと一時間もいづらいということを、あえて遠回しに先輩が伝えてくれているのだろうと思った。そうに違いなかった。
「私、ちょっとドリンクバーで紅茶入れてくるね」
「僕が行きますよ、それくらい」
「ゴーストじゃ、宙を浮くティーカップが目撃されちゃうじゃない」
そう言って立ち上がった先輩が、席から出た時、ピタリと足を止めた。
「先輩?」
僕が顔を上げると、先輩の前に、僕の知らない女子高生が立っていた。黒い前髪を眉の少し上で切りそろえたボブカットで、大人しそうな顔立ちに浮かんだ表情は、先輩を見て固まっている。
制服を見たところ、僕たちと同じ学校のようだった。
「由良ちゃん……」と、ボブの女子高生が先輩の名前を呼ぶ。
「詩杏しあん」
どうやら先輩の知り合いで、詩杏というのだな、と思いながらも、僕は困惑していた。二人の間に漂う空気が、ひどく重い。
「由良ちゃん、一人? ……元気?」
「独りだし、元気だよ」
先輩は僕に背を向けているので、表情は見えない。けれど、親しげな呼び合い方――互いに下の名前だろう――の割に、声が妙に硬かった。
「ずっと由良ちゃんの具合が悪いみたいだったから、心配だった……」
「ありがと。どこが悪いってわけじゃないから」
「それなら、また学校には来られそう……? これ以上長引くようなら、お見舞いに行こうかとも思ったんだけど」
先輩は慌てた様子で、
「あー、そうだっけね。平気平気、何ともないって」
「私のせい?」
ぐっ、と先輩が声を詰まらせた。
僕はもしかして、聞くべきではないことを聞いているのかもしれない、という気がした。
「それ、は……ない、とは言えない、けど」
「そうだよね……」
強まる緊張感に、僕の肌に、無数の小さな針でつつかれているような痛みが走った。
先輩がその時、わずかに身をよじって僕を見た。
「でも、私のことは詩杏が気にしなくていいんだよ。それより、こんな時間まで制服で出歩くと危なくない? 何、夜の散歩?」
「うん……家にいづらくて。それに、幹臣みきおみくんがいてくれるからきっと平気」
穏やかな声でそう言った詩杏さんの後ろに、長身の影が差した。茶色がかった短髪、身長は百八十センチ近いだろう。ほどよく焼けた肌に精悍な顔つきで、しかし、人に圧迫感を与えないような真摯さが見て取れる眼差しをしていた。
「由良、か?」
「……久し振り、かな? 幹臣ミキも一緒だったんだ。って、それはそっか」
こちらも、先輩と親しそうだ。けれど、空気の硬さは更に増した。
「由良、お前、病気って」
「由良ちゃん、重い病気じゃないんだって。その気になれば、学校も来られるみたい」
先輩は一二秒沈黙してから、「まあね」と苦笑した。その背中が、ひどく小さく見える。
「由良、俺、お前とちゃんともう一度話を……不登校のこともそうだけど、俺と詩杏のことも」
「いやー、私はいいよ。誤解もしてないし、落ち込んでもいないから。私だって喜んでるんだからね。ほらほら、デート中なんでしょ? 私ももう帰るし、そのうち学校も行くから」
ミキと呼ばれた男子高生――こちらも制服姿だった――は、詩杏さんに促される形で、自分の席へと戻って行った。
先輩は、空のままのティーカップを置いて、わずかに目を細め、笑顔のような形を顔に作った。
「出ようか」
「先輩」
「親友だったの、二人とも」
水葉世界の夜、完全に月が消えた新月の空の下で、僕は市立病院の中へゴーストとなって忍び込んだ。
ここに怪我で入院している人は、比較的足の骨折が多いのだけど、この日は肋骨を二本折った年配の男性を治すことにした。
手をかざし、意識を集中して、男性の胸の下辺りに触れる。
服の上からでも、ゴーストの手に、人の体温を感じる。その奥の異常と痛みも。
呼吸を整えて、体内の傷そのものを吸い出すようにイメージする。いつも通り、「骨折」が僕の体に吸い込まれてきた。
あ、まずい、と思った。吸い込んだ痛みが、思ったよりも強く、僕の体内で肋の骨がきしみ、パキンとヒビが入ったのが分かる。
フィードバックがきつめのやつだ。未だに、何が原因でこうなるのかは分からない。
手足と違い、胴体のダメージは、母さんや咲千花から隠すのが難しい。すぐに不調が顔に出るからだ。
寝ている男性の方は、かなり治癒が進んだのを確認して、僕は病院を出た。
時刻は二十時。さほど遅い時間ではなかったけれど、先輩には病院のベンチではなく、近くのファミリーレストランで待機してもらっていた。
その気になれば窓も壁もすり抜けられるけれど、普通にドアから入ってきた(閉まったままではあったけど)僕に、角の席にいた先輩が小さく両手を振る。
その左手には、当然小指がついていたけれど、僕は実際に目にして少しほっとした気持ちになった。
僕が先輩の向かいに腰を下ろすと、テーブルには、先輩の顔の高さまであるパフェが置かれていた。
「いやあ、指での伝言、うまくいったね」
「案の定、絵面はホラーでしたけどね……」
五月女世界で日没すると、例の缶の中に、ぼんやりと先輩の指が見えてきた。それがぴこぴこと動くので、白紙の上に乗せてシャープペンを糸で縛りつけてやると、ガタガタの文字で「こんや七じ、四丁目の……」とファミレスの名前がつづられた。それから一度ここで待ち合わせをし、その後僕だけが病院へ行って戻ってきたのだった。
「五月女くんがゴーストだから、この、期間限定早出しいちごパフェがおごってあげられなくて、目の前で私だけが食べることになってしまって残念だよ」
「そういえば試したことがありませんでしたが、物がつかめるんだから、食品は食べられるかもしれませんし、そもそも気を使っていただけるなら気になるなら僕がいない時に召し上がればいいのでは」
先輩は僕から視線を外し、
「パフェ食べてる時って、パフェを食べるために生きてるなって感じがするよね」
「斜め上のどこ見てるんです。それにそんな実感をしていたら、食べ終わるとどうなるんですか」
「次のパフェを食べるために生きようという気になるよね」
週末ということもあり、店の中はそれなりに混んでいるので、それなりのものを注文しないと一時間もいづらいということを、あえて遠回しに先輩が伝えてくれているのだろうと思った。そうに違いなかった。
「私、ちょっとドリンクバーで紅茶入れてくるね」
「僕が行きますよ、それくらい」
「ゴーストじゃ、宙を浮くティーカップが目撃されちゃうじゃない」
そう言って立ち上がった先輩が、席から出た時、ピタリと足を止めた。
「先輩?」
僕が顔を上げると、先輩の前に、僕の知らない女子高生が立っていた。黒い前髪を眉の少し上で切りそろえたボブカットで、大人しそうな顔立ちに浮かんだ表情は、先輩を見て固まっている。
制服を見たところ、僕たちと同じ学校のようだった。
「由良ちゃん……」と、ボブの女子高生が先輩の名前を呼ぶ。
「詩杏しあん」
どうやら先輩の知り合いで、詩杏というのだな、と思いながらも、僕は困惑していた。二人の間に漂う空気が、ひどく重い。
「由良ちゃん、一人? ……元気?」
「独りだし、元気だよ」
先輩は僕に背を向けているので、表情は見えない。けれど、親しげな呼び合い方――互いに下の名前だろう――の割に、声が妙に硬かった。
「ずっと由良ちゃんの具合が悪いみたいだったから、心配だった……」
「ありがと。どこが悪いってわけじゃないから」
「それなら、また学校には来られそう……? これ以上長引くようなら、お見舞いに行こうかとも思ったんだけど」
先輩は慌てた様子で、
「あー、そうだっけね。平気平気、何ともないって」
「私のせい?」
ぐっ、と先輩が声を詰まらせた。
僕はもしかして、聞くべきではないことを聞いているのかもしれない、という気がした。
「それ、は……ない、とは言えない、けど」
「そうだよね……」
強まる緊張感に、僕の肌に、無数の小さな針でつつかれているような痛みが走った。
先輩がその時、わずかに身をよじって僕を見た。
「でも、私のことは詩杏が気にしなくていいんだよ。それより、こんな時間まで制服で出歩くと危なくない? 何、夜の散歩?」
「うん……家にいづらくて。それに、幹臣みきおみくんがいてくれるからきっと平気」
穏やかな声でそう言った詩杏さんの後ろに、長身の影が差した。茶色がかった短髪、身長は百八十センチ近いだろう。ほどよく焼けた肌に精悍な顔つきで、しかし、人に圧迫感を与えないような真摯さが見て取れる眼差しをしていた。
「由良、か?」
「……久し振り、かな? 幹臣ミキも一緒だったんだ。って、それはそっか」
こちらも、先輩と親しそうだ。けれど、空気の硬さは更に増した。
「由良、お前、病気って」
「由良ちゃん、重い病気じゃないんだって。その気になれば、学校も来られるみたい」
先輩は一二秒沈黙してから、「まあね」と苦笑した。その背中が、ひどく小さく見える。
「由良、俺、お前とちゃんともう一度話を……不登校のこともそうだけど、俺と詩杏のことも」
「いやー、私はいいよ。誤解もしてないし、落ち込んでもいないから。私だって喜んでるんだからね。ほらほら、デート中なんでしょ? 私ももう帰るし、そのうち学校も行くから」
ミキと呼ばれた男子高生――こちらも制服姿だった――は、詩杏さんに促される形で、自分の席へと戻って行った。
先輩は、空のままのティーカップを置いて、わずかに目を細め、笑顔のような形を顔に作った。
「出ようか」
「先輩」
「親友だったの、二人とも」