ベッドに戻っても暫くは眠れず、ようやくうとうとしてふと目を覚ますと、もう昼時のようだった。

 スマートフォンを見る。

 十一月六日、月曜日。十三時十六分。

 もう、高校は昼休みも終わっている。

 スマートフォンをぼとりと枕の横に投げ出し、一度起こした体を、また仰向けにしてひっくり返った。

 母さんの気配は、階下から伝わってこない。もちろん、もう会社へ行ったのだろう。

 本棚から、適当に文庫本を引っ張り出す。お気に入りの本はもう何度も読み返しているものだから、大抵表紙が傷んでいた。ページをぱらぱらとめくり、やることが見つからないでいる自分を認めて、本棚に戻す。

 パジャマから部屋着に着替え、台所へ降りる。

 余っていた野菜を適当に炒め、冷凍庫に入れてあったトマトスープを温めた。

 階段の下まで出て、二階へ声をかける。

「咲千花さちか。起きてるか? 何か食べる?」

 返事は聞かずに台所へ戻り、パンをトースターに入れた。

 野菜の香ばしい香りと、トマトらしい酸味を湛えた空気が満ちて、台所はちょっとした楽園のようだった。

 外は晴れており、雨上がりの陽光は、秋らしい穏やかさで差し込んできている。

 紅茶がちょうどいい水色になった時、咲千花がリビングへやってきた。モノトーンの部屋着に、長い黒髪を適当に押さえつけただけの頭。それでも、僕と違って元々愛嬌のある顔立ちのおかげで、リビングの明るさが更に増したように思えた。

「……起きてる。食べる」

 上目遣いに言ってきたその言葉が、さっきの僕の問いかけへの答なのだということに、一瞬遅れて気づいた。

「じゃあ、皿を出して、野菜をトマトスープに入れてくれ。それにもう昼時だから、パンとスープだけじゃなくて卵も焼こう」

 僕と妹は、これが今日一番のおお仕事だと言わんばかりに、朝食――だか昼食だか――の準備をした。

 実際、今の僕たちが生活の中で受け持つ役割というのは、とても少なかった。目の前の作業に頭と体を尽くさなくては、持て余した時間に押し潰されそうだった。

 リビングのテーブルに食器と料理を並べると、白い器が日の光を反射し、卵の黄色、トマトの赤、トーストの褐色が鮮やかに食卓を彩った。

 ティーバッグの紅茶は安っぽいけどいい匂いで、いつもは朝だと面倒でやらないのに、この日はレモンなど切って添えてみる。

 当たり前のような料理。当たり前のような時間。

 向かいには咲千花が座り、小さな仕草でいただきますと唱える。

 どこまでも平和で、穏やかな光景だった。

 けれどそのすぐ裏側には、僕たちの罪悪感と無力感が常に漂っていた。

 トーストの上にバターを伸ばし、黄金色の雫をこぼさないように気をつけてかじる。

 じゅわっとした感触。小気味よい音。

 こんなにも満ち足りているはずの景色の中で口にしたそれは、けれど、味があまりしなかった。







 昼食を済ませると、僕と咲千花はそれぞれの部屋に戻った。

 僕は自分の分のコーヒーを大ぶりのマグに入れて部屋に持ち込み、勉強机について読みかけの本を開く。

 母さんは、僕が今年の七月に登校拒否になってから、晩秋の今日まで、小説や随筆は望んだだけ買ってくれる。ただそれが分かると、むしろ無心しづらくなった。

 図書館が、夜中でもやっていればいいのに。

 そう思ってしまうのは、筋違いだと分かっているけれど。

 ページをめくる度に、時計の針はねじを回すように勢いよく回っていく。日が暮れ、空が夜に向かっていくのは、心地よかった。それが朝に近づいていくと、胸がざわつき始める。

 今まで手をつけていなかった歴史小説は、思ったよりも読みやすく、僕は平安末期の戦乱にどんどん引き込まれていった。平家物語を下敷きにしたテンポのいい展開に、源義経を真横で見ているような感覚に陥った。

 読書の合間にスマートフォンでニュースを見て、十九時過ぎに母さんが帰ってきたので咲千花と三人で夕食をとり、再び部屋に戻って本を開く。

 さすがに読み疲れてうとうとし、ふと時計を見ると、十一時を回っていた。二度ほど入れ直したマグの中のコーヒーは、あと一口分を残して、すっかり冷えきっている。

 そろそろ母さんが寝る頃だろう。僕は本を閉じてベッドに座り、目を閉じた。

 この頃は、すっかり「いつものこと」になっていた。

 体から、もう一人の自分が浮き上がっていく様子をイメージする。

 最初に「これ」が起きたのは、登校拒否になった次の週の、新月の夜だった。

 ここではないどこかに行きたい、知っている人が誰もいないところに行きたい、と願っていた。そうしたら、いきなり、あんなことになった。

 今はもう、夜であれば、自分の意志でこの現象を制御できる。

 意識がすうっと遠のいていく。

 頭のてっぺんから、ただ一筋流れ落ちているか細い滝が逆流するような、体から僕の精神が上空へ抜け出す感覚。

 なぜか、これは、昼間ではできない。

 むき出しの魂が、天井を突き抜け、夜の空へ落下・・していく。

 そういえば、昨日は、僕以外の「これ」をやれる人に会ったんだな。

 そう思った瞬間に、僕の意識は途切れた。幽体離脱を起こして。