□
翌日は金曜日だった。
すずめの声に追い立てられるように、かけ布団を体から引き剥がす。ベッドから半身を起こして、あくびした。
ゴーストを出した翌日は、睡眠時間を確保していても、脳が夜中起きているということなのか、寝不足気味になる。しかしそれは、単純に夜更かしした実体でも、当然同じことだった。
水葉先輩とは基本的に、別れ際に次に会う日時を決めるのだけど、昨夜はうっかりしていて約束するのを忘れてしまった。思いがけない第三者に気を取られていたせいだ。
昨日は先輩がゴーストを出したので、今日は僕が向こうへ行く方が順当だろう。
適当な時間になったら、今までに待ち合わせした水葉世界の場所をいくつか巡ってみよう。
そういえば、今までは欠かさず会う約束をしていたので、取り決めた日時と場所なしには、確実に先輩に会う方法はないのだと、今更ながら思い知る。
携帯電話の番号を教えてもらっても、僕が五月女世界で電話すれば、つながるのは当然、「五月女世界の水葉先輩」だ。
いざとなればお互いの住所を知っているので、全く落ち合えないということはないだろう。それでも、やはりひどく心細い心地がした。
朝の光を部屋に入れようと、カーテンを開ける。
学校には行けなくても、なるべく生活のリズムは保つようにしていた。いずれは、……あちら側に戻るのだから。
階段を降りると、ちょうど母さんが出かけるところだった。
「……じゃ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃい。……なに、その目は」
「最近の、息子の風紀が気になる……」
「悪かった、悪かったよ。でも、無責任な付き合いをしてるわけじゃないんだ」
「えっ!? じゃあ責任が伴うお付き合いを!?」
「違うっ!」
眉根を寄せた母さんを送り出すと、咲千花が降りてきた。
「見送ってやればいいのに」
「ん、そうなんだけどね……へへ、最近、ちょっと、一言もお母さんから責められないのが、ちょっと辛くなってきた」
「……それは分かる」
「お兄ちゃんも、私が不登校になった理由、聞かないよね」
「僕は、できることなら、理由どころか、登校拒否になったことさえ家族には知られたくなかった。母さんはもちろんだけど、咲千花には尚更。だから咲千花にも聞かないよ。聞いて欲しくなるまでは」
咲千花は一度うつむいてから顔を上げて、キッチンへ向かった。今日は朝食を作ってくれるらしい。
僕がリビングのテーブルにつくと、冷蔵庫から卵を取り出しながら、咲千花が聞いてきた。
「お兄ちゃんは、最近、昼間何して過ごしてるの?」
僕が登校拒否になってから大分経つけれど、これを聞かれたのは初めてだった。
「家にいる時は、ほとんど本を読んでる。といっても、一度のみならず読んだものばかりだけど」
「あたしはずっとスマホ見てる」
「ふうん。ゲーム?」
「そう。かなり廃人」
「ほどほどにな。目と画面はできるだけ離せよ」
「うん」
他愛ない会話をしていると、フライパンに油の跳ねる音が響き出した。
自然光による明るさを増していく家の中で、衣食住の生活音を聞く。嫌いな光景ではなかった。
でも、どうしても考えてしまう。
僕たちはなぜ――ここでこうしているんだ?
罪悪感に囚われながら、本来なら送っているはずの生活に立ち直ろうと願い生きていくべきなのは、迫害した側の人間じゃないのか?
キッチンに立つ咲千花の後ろ姿は、我が妹ながら、可愛らしかった。
それだけに、悔しかった。噛んだ唇が小さく裂け、血が滲む。
正解が欲しい。
全てが丸く収まり、全ての傷が癒えて取り戻しがつくような、正しい選択肢が欲しい。
けれどそんなものが、そもそも存在するのかどうかさえ分からない。
□
夜が来た。まだ、黄昏が終わったばかりの、幼い夜が。
空を見る。
明日は新月のようで、僕の頭上には今にも消えそうな、糸のような月がかろうじてその姿を留めていた。
僕はゴーストを出そうと、ベッドに座った。
近頃は、僕の方が幽体離脱する番になると、ほっとする。水葉先輩の病気というのは、他人の病気をゴーストで吸っても障りのないものなのか、先輩もはっきり言おうとしない。
ただ、どう考えてもいい影響が出るわけはない。
どうすればいいだろう、と考えているうちに、ゴーストが体から抜け出る感覚が起こりかけた。
その時。
机の上に置いた、僕のスマートフォンが鳴った。
電話の着信音が鳴るのは、いつ振りだろう。
きっと母さんからだと思い、ゴーストを引っ込めて、慌てて机へ駆け寄る。
しかし、そこに表示されていたのは、見知らぬ番号だった。特に心当たりもない。
いぶかしみながらも、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「あっ、もしもし! 五月女くん!?」
一瞬、耳を疑った。
それは紛れもなく、水葉先輩の声だった。
軽いパニックに陥る。なぜ。どういうことだ。五月女世界の水葉先輩とは、会ったこともないのに。
しかし。
「五月女くん、私私、いつもの、水葉世界の水葉! こっちにゴーストできてるの。やっと夜になったからね」
「先輩ですか? どうやって電話かけてるんです?」
「前に番号教えてもらったでしょ。今、五月女世界の瑞葉のところにきてるんだけど、こっそりスマホ借りてかけてるの。いやー、自分の横にいるって何だか変な感じだね」
なるほど。確かにそうすれば、僕と先輩は電話でやりとりができる。ゴーストがものを掴めるなら、電話も使えるのだろう。ゴーストの声がどんな風に電気信号に変換されているのか、興味深い。……が。
「でも、どうしたんですか? もしかして、待ち合わせの連絡のために?」
「違うの、五月女くん、そこでニュースとか見られない?」
僕の部屋にはテレビはない。
「僕のこのスマホで、通話しながら見られるかもしれませんが」
「全国版ではやってないだろうし、私もニュースになってるかは分からないんだけど、知らせたいことがあって。私たちの学校の近くで、今日の朝、その……自殺、をした人がいるの」
「自殺……ですか」
学生同士のネットワークで広まった話なら、ろくに友達もいない僕には知りようがない。
「それでね、私も直に見たわけじゃないんだけど……その人、男性で、首を吊って亡くなったみたいなんだけど、場所がね……昨夜見た、毎年クリスマスツリーになる大きい木あるでしょう? その根元なんだって」
ぞく、と足元が冷えた。
翌日は金曜日だった。
すずめの声に追い立てられるように、かけ布団を体から引き剥がす。ベッドから半身を起こして、あくびした。
ゴーストを出した翌日は、睡眠時間を確保していても、脳が夜中起きているということなのか、寝不足気味になる。しかしそれは、単純に夜更かしした実体でも、当然同じことだった。
水葉先輩とは基本的に、別れ際に次に会う日時を決めるのだけど、昨夜はうっかりしていて約束するのを忘れてしまった。思いがけない第三者に気を取られていたせいだ。
昨日は先輩がゴーストを出したので、今日は僕が向こうへ行く方が順当だろう。
適当な時間になったら、今までに待ち合わせした水葉世界の場所をいくつか巡ってみよう。
そういえば、今までは欠かさず会う約束をしていたので、取り決めた日時と場所なしには、確実に先輩に会う方法はないのだと、今更ながら思い知る。
携帯電話の番号を教えてもらっても、僕が五月女世界で電話すれば、つながるのは当然、「五月女世界の水葉先輩」だ。
いざとなればお互いの住所を知っているので、全く落ち合えないということはないだろう。それでも、やはりひどく心細い心地がした。
朝の光を部屋に入れようと、カーテンを開ける。
学校には行けなくても、なるべく生活のリズムは保つようにしていた。いずれは、……あちら側に戻るのだから。
階段を降りると、ちょうど母さんが出かけるところだった。
「……じゃ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃい。……なに、その目は」
「最近の、息子の風紀が気になる……」
「悪かった、悪かったよ。でも、無責任な付き合いをしてるわけじゃないんだ」
「えっ!? じゃあ責任が伴うお付き合いを!?」
「違うっ!」
眉根を寄せた母さんを送り出すと、咲千花が降りてきた。
「見送ってやればいいのに」
「ん、そうなんだけどね……へへ、最近、ちょっと、一言もお母さんから責められないのが、ちょっと辛くなってきた」
「……それは分かる」
「お兄ちゃんも、私が不登校になった理由、聞かないよね」
「僕は、できることなら、理由どころか、登校拒否になったことさえ家族には知られたくなかった。母さんはもちろんだけど、咲千花には尚更。だから咲千花にも聞かないよ。聞いて欲しくなるまでは」
咲千花は一度うつむいてから顔を上げて、キッチンへ向かった。今日は朝食を作ってくれるらしい。
僕がリビングのテーブルにつくと、冷蔵庫から卵を取り出しながら、咲千花が聞いてきた。
「お兄ちゃんは、最近、昼間何して過ごしてるの?」
僕が登校拒否になってから大分経つけれど、これを聞かれたのは初めてだった。
「家にいる時は、ほとんど本を読んでる。といっても、一度のみならず読んだものばかりだけど」
「あたしはずっとスマホ見てる」
「ふうん。ゲーム?」
「そう。かなり廃人」
「ほどほどにな。目と画面はできるだけ離せよ」
「うん」
他愛ない会話をしていると、フライパンに油の跳ねる音が響き出した。
自然光による明るさを増していく家の中で、衣食住の生活音を聞く。嫌いな光景ではなかった。
でも、どうしても考えてしまう。
僕たちはなぜ――ここでこうしているんだ?
罪悪感に囚われながら、本来なら送っているはずの生活に立ち直ろうと願い生きていくべきなのは、迫害した側の人間じゃないのか?
キッチンに立つ咲千花の後ろ姿は、我が妹ながら、可愛らしかった。
それだけに、悔しかった。噛んだ唇が小さく裂け、血が滲む。
正解が欲しい。
全てが丸く収まり、全ての傷が癒えて取り戻しがつくような、正しい選択肢が欲しい。
けれどそんなものが、そもそも存在するのかどうかさえ分からない。
□
夜が来た。まだ、黄昏が終わったばかりの、幼い夜が。
空を見る。
明日は新月のようで、僕の頭上には今にも消えそうな、糸のような月がかろうじてその姿を留めていた。
僕はゴーストを出そうと、ベッドに座った。
近頃は、僕の方が幽体離脱する番になると、ほっとする。水葉先輩の病気というのは、他人の病気をゴーストで吸っても障りのないものなのか、先輩もはっきり言おうとしない。
ただ、どう考えてもいい影響が出るわけはない。
どうすればいいだろう、と考えているうちに、ゴーストが体から抜け出る感覚が起こりかけた。
その時。
机の上に置いた、僕のスマートフォンが鳴った。
電話の着信音が鳴るのは、いつ振りだろう。
きっと母さんからだと思い、ゴーストを引っ込めて、慌てて机へ駆け寄る。
しかし、そこに表示されていたのは、見知らぬ番号だった。特に心当たりもない。
いぶかしみながらも、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
「あっ、もしもし! 五月女くん!?」
一瞬、耳を疑った。
それは紛れもなく、水葉先輩の声だった。
軽いパニックに陥る。なぜ。どういうことだ。五月女世界の水葉先輩とは、会ったこともないのに。
しかし。
「五月女くん、私私、いつもの、水葉世界の水葉! こっちにゴーストできてるの。やっと夜になったからね」
「先輩ですか? どうやって電話かけてるんです?」
「前に番号教えてもらったでしょ。今、五月女世界の瑞葉のところにきてるんだけど、こっそりスマホ借りてかけてるの。いやー、自分の横にいるって何だか変な感じだね」
なるほど。確かにそうすれば、僕と先輩は電話でやりとりができる。ゴーストがものを掴めるなら、電話も使えるのだろう。ゴーストの声がどんな風に電気信号に変換されているのか、興味深い。……が。
「でも、どうしたんですか? もしかして、待ち合わせの連絡のために?」
「違うの、五月女くん、そこでニュースとか見られない?」
僕の部屋にはテレビはない。
「僕のこのスマホで、通話しながら見られるかもしれませんが」
「全国版ではやってないだろうし、私もニュースになってるかは分からないんだけど、知らせたいことがあって。私たちの学校の近くで、今日の朝、その……自殺、をした人がいるの」
「自殺……ですか」
学生同士のネットワークで広まった話なら、ろくに友達もいない僕には知りようがない。
「それでね、私も直に見たわけじゃないんだけど……その人、男性で、首を吊って亡くなったみたいなんだけど、場所がね……昨夜見た、毎年クリスマスツリーになる大きい木あるでしょう? その根元なんだって」
ぞく、と足元が冷えた。