僕だって、ゴーストに関しては、人と揉めたくなんかない。それでも、やはり胸が悪い。

「お、なんだ、行くのか」

「……そうですよ」と僕は振り向かずに答える。

「男のくせに女の格好してる奴に、『お前の方が気色悪い』って言ってやれないのか。余裕があるんだな、平和そうで羨ましいよ」

 その言葉と、続く哄笑に、僕よりも早く、水葉先輩が振り返った。

「私たちがそう言わないのは、気色悪いなんて、本当に思ってないからです」

「あ?」

「それに、……何かあるんだろうな、と思うからです。誰にだって、事情がありますから」

 先輩の背中越しに、ワンピースのゴーストを見る。

 表情が歪んでいた。その口が、ゆるゆると開く。

「知ったふうなこと……何なんだ、お前ら……第一、お前らもこうなったなら、俺と同じなら……あ、」

 ゴーストは、傍らの、市立病院の巨大な建屋に目を走らせた。

「そうか、病院なんて辛気臭いところになんでかと思ったら、辛気臭いよなあ、そりゃ、ああ、はは、なるほどねえ、何か縁があるわけだ、そこの病院に。余裕があるなんて言って悪かったなあ、はは……」

 何を笑っているんだ? と僕がいぶかしみ、問いただそうとした時、ゴーストは地を蹴った。

「じゃあな」

 勝手過ぎる、と僕の頭に血が上った。

「言いたいだけ言ってどこへ行くんだ!」

「決まってんだろ、行きたいところだよ。俺も本当は、まともに生きたかったよ。自分らしい生き方なんか探すより、皆と同じように生きる方がずっとよかった」

 ほの薄い月明かりの中で、わずかに黄色がかった、半透明のワンピースが翻る。風もないはずの空中でふわりとたなびき、上昇していく。

 ゴーストは、ある程度なら宙に浮ける、それは知っていた。そして、建物のおおよそ二階から三階程度の高さで、何ものかによる強烈な負荷を受け、それ以上は上がれない。

 そのはずなのに、あのゴーストは、十メートル近くのと高さまで、瞬く間に蹴り上がって行った。

 そして、星空を背景に、くるくると回りながら、弧を描いて進み出した。

 あの高さにいることは相当な苦痛のはずなのに、それを感じさせない。

 いつかテレビで見た、フィギュアスケートか、バレエのようだった。四肢を伸ばし、体幹を保ち、伸びやかだけども危なげなく。体中の関節と筋を使い、骨を認め、筋肉で操る。止め、回り、跳ね、曲がる。

 空に浮いたゴーストなのに、確かな生身を感じた。

「あれって……」

「うん。踊ってるんだね……」

 彼が、何を思ってあんなことを言い、どうして今こうしているのかは、知りようもない。これから、彼と深い付き合いが育まれるとも思えなかった。

 けれど僕たちはただ、夜空に緩やかに舞う流星のような彼の姿に、目を奪われていた。

 ついさっきまで、あんなにも不愉快だったのに。

 先輩は、彼にも事情があると言った。そのことがようやく、今になって僕にも実感できた。

 僕の知らない何かを背負って、彼は生きている。

 彼のことは好きになれない。

 でも、いつまでも見ていたい。そう思った。

 彼の真下には、大きなドイツトウヒの木が生えている。クリスマスには、ツリーとして飾りつけられる、町のシンボルだった。まるでその頂上から飛び上がった木の精のような、人の形をしたおぼろげな光。

 踊るゴーストは、月の傍らに立ち、まるでこの世界にただ一つの生き物のように、無音の空を彩っていた。