しばらく歩くと、水葉先輩はある家の前で足を止めた。

 僕の家からは、まっすぐに来れば三十分はかからなかっただろう、国道を挟んだ別のブロック。

 リビングには大きなガラス戸がはまり、濃いグレーだと思われる屋根と調和して、落ち着きがあって居心地がよさそうに見えた。

 小さな池のある庭には、冬に備えて剪定された植え込みが、品よく眠りについている。

 家の中には電気がついていた。寝静まるには、さすがに早い時間だから、当然ではある。これから水葉先輩はこの家に帰り、眠り、そして明日の朝はここから学校へ行くのだな、と思った。

 初めて触れる先輩の生活感は、妙にむず痒がった。

「ここ」

「ここ、ですか」

「じゃあ、予行演習してみよう」

 人目がないことを確認しつつ、僕は封筒を塀に当ててペンを取り出した。

 ゴーストが見えない人から見たら、封筒とペンが宙に浮いているように見えるだろう。ここまで持ってくる間もひやひやしたけれど、一応、ゴーストの腕などで覆えば、本も含めて人目からは隠すことができた。そうでなければ、先輩に持ってもらうしかなかったところだ。

「いや、予行演習というよりほぼ実習だと思いますが。……ええと、じゃあまず封筒に、『水葉由良先輩へ』……これでいいですよね」

「いいね。そうしたら本を封筒に入れて、ポストに入れる」

 口のやや広いポストの中に無事本を入れ込み、僕は先輩に向き直った。

「これでいいですか?」

「うん。読むのが楽しみ」

 水葉先輩は門を開けてポストの取り出し口に裏から手を入れ、封筒を取り出した。

「いやあ、こういうのっていいね。手紙っぽくて」

 そうですか? と感銘を共有できない僕に、いいものなんだよと念を押して、先輩はドアの方をちらりと見る。

「すみません、少し遅くなってしまって」

「これくらいなら大丈夫だよ」

「あと、少し気になったんですけど、先輩、この頃少し痩せてませんか?」

「え、そうかな。お正月に備えて体型管理?」

「何で疑問形なんですか。こころなしか、最近少し顔色も悪いような。……ゴーストで、病気の治しすぎじゃないですか?」

「あはは、そんなことないない。でもそう見えるなら、ちょっと気をつけるよ。寒くなってきたしね」

 僕の方も、先輩の様子には目を配ろうと思った。前々から心配していた通り、病気を治す先輩は、怪我専門にしている僕よりも自身の体調のコントロールが難しいはずだ。

「では、今日はこれで。水葉先輩、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 僕と同じ轍を踏ませないように、言葉少なに別れを告げた方がよかったと思ったのは、その後だった。僕は本当にしょうがないやつだ、もう少し気を遣え、と自戒する。

 先輩はこっちを見たまま後ろ歩きして、微笑みながらドアの向こうに消えた。

 何となく立ち去りがたくて、十数秒そうしていたけれど、あまりいいことではないと自分に言い聞かせて、歩き出した。

 ゴーストから実体に戻る時は、ゴーストを出す時と同じ要領で、意識を上空に飛ばすような感覚で集中すると、やがて気が遠くなっていつの間にか体に戻っている。

 けれどこの日は、変に高揚感があって、夜道を歩きたい気分だった。これから病院へ向かうこともできたけれど、そんな気にもなれない。

 なぜこんなに、僕は浮かれているんだろう。登校拒否になって以来、こんなにも体が軽く感じられるのは初めてだった。もちろん、ゴーストだからではない。

 けれどその時、先輩の家の中から、先輩の両親のものらしい叱責の声が聞こえてきた。そんなに激しいものではなかったし、すぐにやんだけれど、冷や水を浴びせられたような気分になった。

 そうだ、人が起きている時間に出歩くといのは、見つかる可能性も上がるということだ。それでも、深夜に外をうろつくよりはいいけれど。

 今日は、色々なことを話して、聞いてもらって、改めて気づいたことや新しく始めたこともあった。

 学校に行かずに、こんなに濃密な日を過ごしたのは、初めてだった。







 家の中。

 水葉由良の父親は、娘への一通りの注意を終えると、肩の荷が降りたように表情をやや緩めた。

「あまり心配させないでくれ。言いたいことはそれだけだ」

「うん。ごめんなさい、お父さん」

 娘の謝罪を聞いて、元々柔和な顔立ちに努めて険を残していた父親は、自分が叱られたような顔になる。

 母親は、ソファに向かい合って座った夫と娘に順番に目をやり、訪れた穏やかな雰囲気に胸を撫で下ろした。

「由良、具合はどう? 今日は、……幾分、顔色がいいみたいね」

「それはそうだよ。自分の家にいるんだもの」

 そう言って、水葉由良は笑った。