「僕よりも前に、僕が想像しているよりずっと多くの人が、この場所で、こんな先生やクラスのために、同じ目に遭ってきたんじゃないでしょうか。あんな風に笑われたり、他人に勝手に色んなことを決めつけられたり。そう思ったら、急におぞましく思えてきました、学校というところが。そうしたら、登校ができなくなった。……そんなところです、が」

 先輩の表情が、見たことのない色を讃えていた。

 怒っているようで、泣いているようで、苦しんでいるような。

 そうして僕が不登校になった後、夏休みを終える頃には、うちの学校で生徒の自殺未遂なんかの事件も起きて、単に登校拒否に過ぎない僕は、話題として優先順位が低かったのだろう。まともに取り合ってくれた人というのは、僕が知る限りいなかった。

 ましてや、水葉先輩のように、他人なのに怒る人なんて。

「……許せない。1―Eの担任て、竹中先生だっけ、吉村先生だったっけ」

 そういえば、学校の話をあまりしていなかったので忘れていたけど、僕と水葉先輩は同じ学校だった。一応どの個人名も伏せていたのに、あまり意味がなかったかもしれない。

「……そんなに激昂してもらえるとは思いませんでした。自分で言っておいてなんですが、人が聞いたら、なんだそんなことって言われそうだと思ってたので……」

「本人は身を切られるほど辛いのに、周りから見たら大したことに見えないっていうのは、悔しいけど、有り得ることだよ。それも、結構頻繁に」

 先輩の口から、ガラスをこするような異様な音が聞こえて、ぎょっとする。一瞬遅れて、それが歯ぎしりだと気づいた。

「私は、学校で迫害されたことがないから、五月女くんの気持ちが分かるとは言えない。でも、悔しいな。凄く悔しい」

 僕は、そんな先輩に、今、そんなに救いようのない気持ちではないんですと言えなかった。

 口に出せば、もっとみじめになると思っていた。

 先輩に知られることで、恥ずかしくもあるだろうし、何かを大きく損ねたような苦しさを味わうことを恐れていた。

 分かるよ、と言われるのは嫌だった。それは嘘だから。

 大したことじゃない、と言われるのも嫌だった。それは間違いだから。

 水葉先輩は、そのどちらもしなかった。

 正面の虚空を凄まじい眼力で睨んでいる先輩につい見とれていると、その首が、ぐりんと僕の方を向いた。

「五月女くんッ」

「は、はいっ」

「本読むのが好きって言ってたよね。私もそうなの。特にどんな本が好きなの?」

「え、ええと、そうですね、ミステリとか、思春期小説とか……」

「……思春期小説ってジャンル名?」

「聞いたことがある気もしますけど、僕は勝手にそう呼んでます」

「私は恋愛小説とお仕事系のやつが好き。ミステリをちょこっとと、冒険物のファンタジーとか。興味ない?」

「あります……けど」

「じゃあ、貸しっこしよう。……って、ものは持ってこられないか……」

「タイトルや作者名は二つの世界とも同じですから、本のおすすめくらいはできますよ」

 実際、僕自身、水葉世界の僕とは顔立ちや生活ぶりは少し違うようだけど、名前や基本的なスペックは同じだった。

 以前、こっそりとゴーストで水葉世界の自分の部屋をあらためた時に本棚も見ているけれど、ラインナップはほぼ同一なのを確認している。

「でもどうして、そんなことを急に言い出したんです?」

「私、もっと、五月女くんとは色んな話をしてみようと思って。病院に行って、今日はこんなのを治した、こんな患者だった、って話ばかりじゃ寂しいじゃん」

「じゃんとか言われても。あ、そうだ。僕、結構昔に読んで、お気に入りだけどしまい込んじゃった本がいくつかあるんですよね。ああいうのなら、水葉世界の僕の家から失敬しても、こっちの僕には気づかれないと思います」

「あ、それは助かる。私もそういう本なら何冊かありそう。でも、いいのかな。厳密には、こっちの五月女くんは別人なんだし」

「別人だけど、本人ですから、まあいいんじゃないですか」

 何それ、と先輩が笑った。

「じゃあ、五月女くんにも、私の住所を教えるよ。早乙女くんの家は前に教えてもらったからね」

「教えたと言うと、僕が自発的に言って知らせたみたいな感じになりますが……。そもそも最初は、先輩が……」

 水葉先輩は僕の主張は全く気にしない様子で、

「私あんまり家にいないけど、連絡取りたいことがあったら、手紙でも何でも直接ポストに入れてくれていいからね。本も、『由良へ』って書いて封筒にでも入れてくれれば、私が確実にポストから受け取れるから」

「こうして会う時に手渡しじゃだめなんですか?」

「本の一二冊分でも、荷物は少ない方がいいと思う。その時その時必要のないものを持ってるって、意外に身動きが取りづらくなるでしょう」

 それは、そうかもしれない。

「では行こう」

「え、今からですか」

「今じゃだめな理由はないでしょ」

「だったら僕、一度家に戻って、本を取ってきます。せっかくなので」

「紙封筒とペンも持って来られる? ついでだから、練習しとこう」

「するほどのものでしょうか?」

「人間、練習したことしかうまくできないものだよ」

 僕は急いで家に向かおうとして、公園の中央に掲げられている時計を見ると、二十時半になるところだった。

 まだ深夜とは言えないが、先輩を一人残していい時間とも言えない。

「どうしたの?」

「迂闊でした。歩かせてしまって済みませんが、一緒に家に来てもらえませんか」