東京の街を霧が包み込んでいた。気候的に珍しいことではないが、薄暗い夕暮れ時。街灯やビルの窓に明かりがついているのがわかる。湿気を含んだ温いビル風に私は嫌な感じを覚え、少し早く店じまいにしてしまおう。どうせ客なんてほとんど来ないのだから。と外に出ようと積みあがった本の山にまた一冊、栞を挟んで積み重ねた。すると、まるで見計らったようにドアが開いた。ガラガラとドアに括りつけたベルが鳴る。初老くらいだろうか、少し草臥れた雰囲気の女性だった。今時珍しくもなくなったバケットハットに、少し気温の高いこの時期には不似合いなロングコートといういでたちである。
「すみません、珈琲を一杯、いただけますか?」
彼女はうつむいたままそう言った。
「かしこまりました。お好きなお席にお掛けになってお待ちください」
私は棚から豆の瓶を取り出し、いつも通りに淹れる。珈琲の香りがさして広くはない店内に充満する。
彼女が座る窓近くの席にカップを持っていく。ありがとう、とちいさく会釈をしてからそれを一口啜った。そして、ひとつ溜息を吐くと
「少し、話を聞いてもらっても良いでしょうか?」
と申し訳なさそうに私に訊いた。客は彼女ひとり。いい加減読書にも飽きた私は、テーブルを挟んで向かいに座った。すると、先刻までカウンターで伸びていたジュリエットが私を無視して彼女の膝の上に登り、落ち着いてしまった。彼女は少し驚いたように見えたが、すぐにジュリエットの背中を撫で始める。本人も満更でもない様子でしっぽを揺らす。一呼吸おくと、彼女は口を開いた。
「わたし、あと少しで死ぬんです」
言葉が中々出てこなかった。この類の会話は何度か経験がある。しかし、そのたびになんと返すのが良いのかわからないのである。返答に困っていると、彼女は
「ごめんなさいね。いきなりこんなことを話されてもなんて返せばいいか、わたしもわからないもの」
そう言って苦笑いした。それは、自分自身に向けた嘲笑のようでもあった。私は尚も返答に困る。昔から会話自体得意ではないのだ。しかし、それが沈黙を生むことはなく、彼女は続けて話す。
「癌でね、保ってあと2ヵ月なんですって。治療も、なんだったかしら・・・・・・終末療法?になって。すこし体が楽になったの。それで、今日は霧の濃い日でしょう?どこか寄れる場所を探していて、ここにたどり着いたのよ」
正しくは終末期医療だったと思うが、そこは突っ込むべきではないのだろう。それよりも妙だと思うのは、この店が路地に入った場所にあるということ。なにか明確な目的でも持って踏み込まない限りはここにたどり着くはずがないのだ。
「わざわざ、路地に入ってこの店を?」
思わず訊いてしまった。彼女は少し驚いたような気がする。相変わらず俯いたままでよくわからないが。
「ええ。このねこちゃんが呼んでくれたような気がするのよ」