ある日、突然「旅に出よう」と思った。それはいわゆる「旅行」の類ではなく、幾週間もかけるような”旅”である。勢いのまま会社に休職届を蹴り飛ばし、身支度を整えて、6回指差し確認をして急ぎ足に家をでた。文字通り「脚」で。歩いてどこか遠くを目指そうと思った。とりあえず海を目指そうと、ありきたりなこと(今思えばありきたりどころか、ぶっ飛んでいるとしか思えない)を考えて歩き始める。
歩きを選んだことが正解だったのか不正解だったのかはまだわからない。鎌倉で道に迷った時は車を使うべきだったと後悔したが、その後大通りに出るためには車では通れない道を通る必要があったため、その時はやはり歩きで来て良かったと華麗な掌ドリルを決めた。今のうちに警告しておくが、小学生の頃の記憶などあてにならないということは知っておくべきである。
何度か野宿も経験しつつ、潮風を嫌になる程堪能したあと、次はどこを目指そうか決めるために、わざわざ東京まで向かうことにした。おおよそ二週間歩き、都会のど真ん中にたどり着いた。ここからさらにどこか遠くを目指すつもりであったが、履いていた靴が限界を迎えてしまったので、今回の旅は終えることにした。

せっかくならと思ってしばらく駅の周りを歩いていると、1人の女子高生と思しき少女が目の前を横ぎって言った。どうやら路地から出てきたらしい。どうにもなぜそんなところから出てきたのかが気になってしまい、いてもたってもいられなくなってしまった。もう夕暮れに差し掛かっていたが、東京は電車多いし大丈夫だろう、と路地に入る。
いかにも路地裏、というような煤けた空気の中に、微かではあるが珈琲豆のような、何かの香ばしい匂いが混じっている。突き当たり近くまで行くと、そこには珈琲店があった。どうせならとは入ってみると、目の前のレジスターに被さるようにして、大きな黒猫が横たわっていた。体型だけでいえば、『猫の恩返し』に出てくるムタさんのようなそれである。そいつはむくりと立ち上がると、横に置いてあった呼び出しベルを踏んづけてチーンと音を鳴らした。すると奥から店の店主と思われる男が現れ、カウンター席へと促した。言われるがままに座ると、いつの間にか床へ降りていたムタ(こいつにはちゃんとした名前があるのだろうが)がぬるりと俺の足に体を擦り付けた。そして、隣の空き椅子を使って再びカウンターへと上がると、でんと横たわりナン、と鳴いた。俺は「紳士たるもの、常に靴は綺麗に保つものだぞ」と言われた気がして、つい「余計なお世話だ」と毛づくろいをはじめた黒猫に返してしまった。
店主に聞かれていてしまっていたら恥ずかしいので、頼んだブラックコーヒーを早々に飲み干して、いそいそと店を出る。でぶねこは、店を出る時も俺を睨んでいて「次は綺麗な靴でこいよ」と言われた気がした。確かにうまいコーヒーだったし、また来てもいいかもしれない。