行きつけの喫茶店にでぶ猫がいる。毛並みは滑りのある黒。店主は「彼女はパリの美人ですよ」と自慢げに語る。それにしては随分と肥えていると思うのだが、店主のシュミなのだろうか。かの森茉莉とジャポに失礼だと私は思う。いつも店を訪れると「よう、貴様」と言うような目線で、でんと横たわったままでいる。
こいつの名前は知らない。店主も「お前」と呼ぶばかりなので、もしかしたらそれが名前なのかもしれない。
こいつは通い始めのうちは見向きもしてくれなかった。ただ、テスト期間もめげずに通い続けた結果、触らせてくれるところまで心を開いてくれた(苦手な物理で赤点を頂戴したことは反省している)。店主が言うには、とても人慣れしにくい性格らしく、”彼女”を撫でられた客は初めてらしい。艶のある黒毛はムカつくほど手触りがよく、顎下を撫でてやるとごろごろと喉を鳴らした。
ブラック珈琲を飲み干して、店を出る時には先ほどの態度が嘘であったようにカウンターにでんと寝転び「またこいよ、貴様」と言うように一瞥し、毛繕いを始めた。
安心しろでぶねこよ、明日も来てやる。明日は私の勝負日だ。

私には片思いしている男がいる。特段モテるような男ではないが、屑な男でもない。至って普通な男である。しかし、その飾り気のなさは、個性にもみくちゃにされてきた私にとって、とても魅力的だった。半年ほどアプローチをかけてみたが、気づいていないのか私がきらいか、愛の告白の気配はなかった。よって私から勝負を賭けることにしたのだ。私の初恋を無碍(むげ)してくれるなよ、とわざわざ前日に場所を前調べしに来たのだ。普段行く店だが、げん担ぎ程度の効果はあると信じよう。
実は、この喫茶店を選んだ理由はちゃんとあるのだ。あの男、どうやら「趣味は珈琲です—その後しばらく豆の話—」と自己紹介でかますほどにコーヒー狂いのようで、彼の周囲はいつも豆を挽いた時の香ばしい香りがする。そこで、おそらく知らないであろう路地のこの店を選んだのだ。