さよならはまるいかたち

「私と一緒に死んでくれますか」

 少女は振り返り、長い髪を風になびかせながら告げていた。
 切り立った絶壁の前、白いワンピースをきた少女は麦わら帽子に表情を隠しながら僕へと手を差しのばす。

 崖の向こう側からは打ち付ける波音が、誘うように僕達を呼んでいる。
 ここから飛び降りたら確かに死ねるだろうな、と軽く思う。少女の微笑みは全く現実感を伴わなかった。悪質な冗談。普通に考えればそれ以外には有り得ない台詞だった。

 僕は彼女のことを知らない。年の頃は僕よりも少し歳下の十五、六歳くらいだろうか。高校生くらいだろう。初めて会う見たこともない少女は、どこかにあどけなさを残しながらも、その端正に整った可憐な顔立ちには、思わず目を奪われてしまう。

 そんなとびきりの美少女が手をのばして、一緒に死のうと僕に誘いかける。

 冗談以外ではありえないその台詞は、だけどもしも「はい」と答えればすぐにでも手をとって、そこから飛び降りてしまいそうな冷たい匂いを漂わせていて、僕は思わずその身を震わせていた。

 どこかこの世のものでないような笑顔は、まるでそこにいるのは人ではないかのようにも思えて、僕に現実感を覚えさせなかった。

 僕は海の匂いは嫌いだ。潮の香りは少し鼻について、いつも少し気分を落とす。
 だけど今は鈴蘭がささやくような、爽やかな香りが僕を誘っていた。
 何も答える事が出来ずに、ただ顔を上げてまっすぐに少女を見つめていた。
 響くのは海の歌声だけ。ここへおいでと呼んでいる。







浩一(こういち)。きいてる?」

 眼前で呼ばれた声に、僕は一気に現実に引き戻される。
 見慣れたいつもの教室。もう授業は終わった後のようで、ほとんど人は残っていない。数人の物好き達が必死でホワイトボードを写しているか、あるいは夏休みを前にしてだべりを重ねているだけ。

 声の主の方へと視線を移す。大きくて切れ長の目が何よりも目に止まる。首元で切りそろえられた髪が、彼女が動くと共に揺れていた。

「ああ、麗奈(れな)。悪い。聴いてなかった」

 あまり悪びれた様子もなく答えると、それから少しだけ外へと視線を移す。何の話をしていたんだっけと思いを巡らせていた。
 しかしその答えが出る前に麗奈は、まくし立てるように言葉を紡ぐ。

「ああ、また聞いてなかったのね。どうせ浩一はいつも通り興味がないんでしょうけど、話くらいは真面目にきいてくんない。で、どうなの。くるの、こないの。伊豆旅行」

 麗奈の台詞に、仲間内で旅行に行こうという話をしていた最中だという事をやっと思い出す。

 ただこれは僕がぼぅっとしていたからという訳じゃあない。例えるなら「降ってきた」というべきだろうか。それはいつも僕の頭の中に突然浮かんでくる。それはまるで実際にその場いるかのように思えるほどに鮮明に感じられて、意識を一気に奪われてしまうのだ。

 まるでドラマの中に迷い込んだような色彩は、けっして僕の空想などではない。その風景はこれから先に確かに起こる出来事なんだ。

 僕には未来を視る力がある。

 いま頭の中に浮かんできた海辺の光景。そして「一緒に死んでくれますか」と誘う見知らぬ少女の姿。それはこれから先に起きる未来なんだ。
 そしてどんなに避けようとしても、必ず訪れてしまう光景だった。

 今までも幾度となくあった未来視に、僕は吐き気すらもよおす。
 この力は自分の好きなように未来を視る事はできない。いつも突然に降りてくる。例えるなら、僕の意識だけが未来に飛んでその場を見つめているような、そんな感じだ。
 そして忌々しい事に、この力はただ未来を視るだけの力ではなかった。

「麗奈、どこにいく旅行だって」

 僕は麗奈へと向き直って、少しいらつきそうになるのを抑えながら訊ねる。
 いぶかしげに見つめる麗奈はため息と共に答えていた。

「だから、伊豆だっていってるでしょ。何で浩一は人の話をきかないのかしら」

 わざとらしくもらした息は、僕の鼻先をかすめていく。
 相変わらず整った顔をしているよな、と心の中でつぶやく。十人が見れば十人とも美人だと答えるだろう。ほっそりとして折れそうな腰つきも、その上にある確かな膨らみも、男なら触れたいと思うものかも知れない。

 だけど僕は麗奈に触れたい、抱きしめたいとは思えない。もちろん女性に興味がないからという訳ではなくて、僕にとっての麗奈は恋愛の対象外だというだけの話だ。

 麗奈は双子の妹だ。家族としてずっと一緒に暮らしてきた見飽きた顔で、それだけにそういう感情を抱くことはない。

 だけど今は麗奈の言葉をきいて、僕の胸の中は激しく揺れていた。

 このタイミングでの伊豆旅行。それはまさにいま見えた未来が確実に訪れるだろう証拠だった。海辺の景色はおそらくは伊豆の風景なのだろう。

「うるさいな。人の勝手だろ」

 見えた未来はどうやっても避ける事が出来なかった。なんど避けようとしても、どうしても訪れる。だからいらつきが隠せなかった。

 そしてただ未来が訪れるだけでなくて、その未来には必ず別れがつきまとう。

 別れの形はさまざまだ。引っ越して転校していくだけのこともあった。大げんかして友達つきあいが無くなった事もあった。
 だけど時には死という別れがふりかかることもあった。そんな別れをともなう未来が、いま僕の脳裏に浮かび上がってきた。

 私と一緒に死んでくれますかだって。冗談じゃない。死んでたまるか。死ぬなんてあり得ない。声には出さずに心の中で叫び声を漏らす。

 麗奈はため息をもらすと、それから少し早口でもういちど訊ねる。

「勝手じゃないわよ。もう。とにかく、くるの。こないの。はっきりして。どーせいつも通りこないんでしょうけど」

 麗奈はいらつきを隠せない様子で顔を背ける。だけどそれでも気になるのか、横目で僕の顔を見つめていた。
 そんな麗奈の様子にため息をもらす。こんなこと言っているけれど、こいつブラコン気味なんだよなと口の中でつぶやいていた。

 なんだかんだいっても麗奈はいつも僕の近くにきて、一緒に何かをしようとする。いくら双子の妹だとはいっても、少しまとわりつきすぎじゃないかと思う。ただ決して言葉にはしない。もしもそんな事を口にしようものなら、百倍になって返ってくるのは目に見えていたし、余計な言い合いをして体力を消耗する事になる。

「いくよ」

 僕はあえて誰へとでもないように告げていた。
 見えた未来は誰とも知れない少女との風景。もしも別れが彼女との別れなのだとすれば、一緒につきあう理由はない。今度こそ、今度こそ未来を変えてやる。強く心に誓う。

 そのまま麗奈へは目をやらずに、立ち上がって教室を後にする。もう頭の中は、さきほど見えた幻の事だけで占められていた。

 目の前の麗奈の事も、伊豆旅行の事も全て頭の片隅においやっていて、ただ未来を変えてやるんだと、その事だけを強く思う。
 未来が押しかけてくるから、むしろ自分から行ってやる。未来なんてぶちこわしてやる。強く意思を固めると、そのまますたすたと歩き始める。

 何事もなかったかのように歩き出していく僕に、麗奈は始め何が起こったのかわからずに立ち尽くしていた。しかしすぐに慌ててその背中を追いかける。

「ちょ、ちょっと。浩一、いくってどういうこと。ねぇ、何があったの、こーいち」

 麗奈は後ろから大声を張り上げながら、早足で後ろをついてくる。しかし僕は気にもとめずに、ただ帰路を歩んでいく。
 教室の外は夏の熱気に溢れていて、蒸した空気が肌をなでる。みんみんと蝉が鳴き声をかしましいほどに主張していた。

 夏だな、と思う。さっきの未来視もただの夏の幻であってくれればいいのに。

 僕はまだ死ぬつもりはないし、誰かに死んで欲しいとも思わない。ましてや見知らぬ誰かと一緒に死のうだなんて思わない。内心で毒づくように吐き捨てると、そのまま廊下の向こう側を見つめる。

 僕には不思議な力がある。未来を見る力だ。だけれどその力は僕の思うように使う事は出来ない。脳裏に浮かんだ幻は、空想でも白昼夢でもない。確かな現実なんだ。今までの経験からすれば、今から二週間以内に必ず起こる事象だった。

 僕は幾度となく見えた未来を覆そうとしてきた。けれど一度も避けられた事はない。どんなに避けようとしても、なぜかつじつまが合わされて現実となる。
 初めはただ見えた事態が現実になった事に驚くだけだった。だけど何度となく繰り返されて、未来を見ている事に気がついていた。そして見えた未来には必ず別れを伴うことに気がついてからは、ずっと未来を変えようと抗って、見えた風景を避けようとしてきた。

 だけど避けられなかった。避ければ避けるほど、未来の方から押しかけてくる。
 それなら。避けようとしても避けられないのなら、こっちから飛び込んでやるんだと強く思う。

 海辺の風景をみたと同時に伊豆旅行への誘い。あからさまに未来への道筋を作られている。いつもであれば未来を避けるために断っていただろう。でも結局は自分の意思との関係なく海辺に向かう事になる。それならば自分から未来へと飛び込んでやる。そして未来を変えてやるんだと心に決めていた。

 見知らぬ少女、何も知らない海。
 知らない相手から一緒に死のうと誘われたからといって、それで一緒に死ぬほど僕は弱ってはいない。

 今まで見た夢は必ず現実になってきた。どんなに避けようとしても、変える事は出来なかった。そして未来は誰かとの別れを連れてきてしまった。
 親しい相手との別れは、心に影を落とす。だから避けようとしてきた。

 だけどどんなに避けようとしても避けられないのなら、もう避けてやるものか。今度は自分から向かっていってやる。夢の中で出会った見知らぬ少女に、そして必ず起きてしまう未来に立ち向かってやる。

 今までの経験からすると、近いうちに必ず新しい映像が見えるはずだった。今まで繰り返されてきた未来視の経験を顧みながら、今後こそ変えてみせると心に誓う。

 未来は変えられない。変わらない。そんなバカな事があってたまるか。運命で全て決まっているだなんて、そんな人生はつまらない。こんな力なんていらない。普通に生きさせてくれ。心の中で叫びを漏らした。

 いつも忌々しい事実ばかり見せる夢。だけどいまみたばかりの夢は、まだ現実になった訳ではなかった。まだきっと変えられるはずだ。

 だから振り返らずに前に進んでやるんだ。

「ちょっと、浩一。待ちなさいよっ。何で人の話をきちんときこうとしないの。だいたい浩一ってば昔からそうなんだから、自分勝手が過ぎるのよ」

 後ろからきゃんきゃんとした甲高い声で文句を告げる声が響いていたが、聞こえなかった事にして歩き続ける。廊下を進みながら、まだ見ぬ風景を心に描く。
 夏の時間。暑い日差し。海の香り。潮の囁き。

 僕は夏が嫌いだ。夏の暑さはただでさえ少ない気力を奪うし、べとべと貼りつく汗が不快感を増す。

 でも今は不思議とどこか期待に満ちていた。今まで抗おうとして避けたはずなのに、流されるように未来に向かっていて、いざと言う時には避けようとして避けられなかった。だけど今回は違う。まっすぐに本気で立ち向かってやるんだ。

 逃げていたって事態は変わらなかった。どこかでつじつまを合わせるようにして未来は訪れていた。だったら自分からその未来に向かってやる。その上で未来を変えるんだ。

 絶対に新しい別れなんて避けてみせる。
 僕が見た未来には必ず別れがつきまとう。悲しい出来事はいつも突然にやってくるものだけれど、さよならは深く胸の中を切り裂いていく。

 さよなら。優しげに聞こえる別れの言葉は、どうして胸を奥に冷たく(うた)うのだろう。

 空をじっと見上げてみる。澄んだ絹のような青い青い空に、真っ白な入道雲がもくもくと沸き立つ。みんみんと鳴き続ける蝉たちの声が、遠くから呼んでいるように思えた。

 海の色と空の色は似ているようでいてどこか遠くて、思い浮かべるだけで鼻腔をくすぐるかのような潮の香りが漂う。

 この先に待ち受けている未来はいったいどんなものなのだろうか。どんな別れが待っているのだろうか。思いを巡らせるが、思う時に未来が見える訳でもない。

 僕には力がある。不思議な力だ。

 だけどこんな力は欲しくなかった。僕にとっては無用な力だった。出来るのならば捨ててしまいたい力だ。この力はただ悲しみばかりを呼び寄せる。

 なぜ自分だけがこんな力を持っているのだろうか。こんな思いをしているのは自分だけなのだろうか。それとも実は誰もが力を持っていて、心の中にそれぞれの想いを秘めているのだろうか。わからない。だけど今度こそ。

 想いを巡らせながら、空を見つめる。
 そのうちすぐに麗奈が追いついてきて、甲高い声で僕の名を呼ぶ。

「こーいち。もう、こーいちってばっ。妹をもう少しいたわりなさいよー。ね、浩一ってば」

 ゆっくりと振り返ると麗奈はわずかに笑顔を浮かべるが、すぐに元の渋い顔に戻って眉を寄せる。
 変な奴と思いながらも、麗奈へと無愛想な声で答えていた。

「妹を可愛がれと言うなら、兄を敬ったらどうだよ。普段はぜんぜん兄だなんて思ってないだろ、お前」

「だって浩一、歳かわらないし。誕生日も学年もずっと一緒だったじゃない。だから兄って感じぜんぜんしないし。浩一、いつも無愛想な顔してるばっかですっごくつきあいよくないし」

 麗奈はぶつぶつとつぶやくように告げると、少し眉を寄せる。その表情が私は悪くないんだからと主張していた。たぶん敬うつもりは何もないのだろう。

 ため息を漏らして、この話題は打ち切る事にする。このまま会話を続けていても麗奈には勝てない事はわかっていた。いまさら麗奈にこんな事を騒ぎ立てても変わるものじゃないだろうと声には出さずにつぶやく。

 僕と麗奈はいわゆる双子だけど、二卵性双生児だから性格も見た目もさほど似ていない。同じ歳だからか、それとも元の性格によるものなのか、麗奈は僕をさほど兄だとは考えていないようで、兄として敬うことない。

 それでも兄妹ゆえにか、それとも都合が良いからか、何かと麗奈は僕のそばをついて回ってきていた。そして何かと僕を同席させようとする。たぶん伊豆旅行だって行かないと答えても、結局は麗奈がああだこうだと言って参加させられていただろう。

 それは少しうるさく感じる事もあるけれど、あまり人付き合いをしない僕にとってはむしろ助かっている事もあるかもしれない。

 ちらりと麗奈へと視線を送る。麗奈は僕の視線に気がついたのか、きょとんとした顔を向けてきていた。
 僕はあまり話す方ではなかったけれど、麗奈はとにかくよく喋る。そして少しばかり口が悪い。一緒にいてたまにひやひやとする事もあるくらいだ。そんな麗奈と言い争いを始めたとしたら、この夏が終わるまで止まらないだろうな。

 双子といえども僕達はあまり似ていない。

 だからもしかしたら麗奈にもこんなことがあるのかと思って、未来が見える話をした事もあった。だけど麗奈はバカにしたように一笑に付しただけで、信じてはくれなかった。それ以来まともに話はしていない。

 何度も話し続ければ、さすがに信じてくれたかもしれない。

 だけどこの力で見えた未来は必ず別れを伴う。時には強く辛い想いをする事すらある。その重みを麗奈にまで背負わせるのは、兄として出来なかった。

 みーんみんみんみんと蝉の鳴き声が伝う。じりじりと焦げるような熱気が、窓ガラスごしでも十分に感じられた。

「暑いな。溶けそうだ」
「そりゃ夏なんだから暑いに決まってるじゃない。暑くない夏なんか、食べられないケーキと一緒だもの」

 麗奈は外の様子をみてとると、それからすぐに僕の手をとって早足で歩き出す。
 こうして手をとって歩くのは麗奈のいつもの癖だ。小さな頃からこうして麗奈に引っ張られていくのはずっと変わっていない。

 しかし夏をケーキに例えるなんて、麗奈らしい。

 麗奈はたまにこうしてどことなく幼い言葉を漏らす。でもこんな時にこそ、ああこいつは僕の妹なんだと再認識させられるし、案外そういうところが嫌いではなかった。

「夏なんだからかき氷くらいに例えたらどうだよ」

 ぼそりと声を漏らして、それから別にどうでもいいことだけどと口の中で続ける。
 麗奈はきょとんとした顔を浮かべると、その後にすぐに吹き出して笑い始めていた。

「浩一、おかしいよ。熱でもあるんじゃないの。さてはこの熱暑にやられたか。惜しい人を亡くしたものだ」

 麗奈はそのあともくすくすと笑いながら、よくわからない事を言う。死んでないからな。

 何にしても、伊豆旅行か。こうも都合よく海に関わる事が脳裏に浮かぶなんて出来過ぎというものだろう。未来は必ず起きるのだと意地の悪い誰かに笑われているような気すらしていた。

 あまりにも露骨な運命の導きだけど、それでも僕は変えてやる。未来は絶対に変えてやるんだ。もうさよならはいらない。僕は絶対に帰るんだ。

 心の中で誓う祈りは、どこかに届いているのかはわからない。だけどただ空を見上げる。
 空はどこまでも青く白く、遠い場所にある海へと誘うようにも思えた。
 伊豆旅行当日になった。
 八時五十分の待ち合わせまで、あと十分。もちろんいつも通り誰もいない。常に早くからいるのは麗奈だけで、他はぎりぎりだったり遅刻したりだ。僕もよくこの時間にいるが、それは早く来たい訳ではなくて、麗奈につきあわされているだけだ。

「浩一。誰もいないわよ。なんで」

 麗奈はなかば怒りを含んだ口調で、独りごちると眉を寄せる。
 どうしてこう毎回同じ反応で飽きないのかと疑問に思うし、実際にそう言ってやりたいところなのだけれど、麗奈がそれで行動を改めたことなど一度もない。それどころか当たり散らされてひどい目に遭う事になるだろうから、声には出さないようにする。

 麗奈はこういう時には必ず朝早くから起きてきて、僕を巻き添えにして早く到着する。待ち合わせの三十分前にいる事なんて当たり前で、おかげで朝が弱い僕も遅刻した事は無い。良くも悪くも。

 正直僕としては朝なんてこなければいいと思うし、朝がどこから来るかわかっていたら、三日ばかり閉じ込めておくのにとすら思う。しかし麗奈は早起きが得意で、何の予定もなくても僕の事も起こしにくるんだ。

「なんでって、いつもの事だろ。みんなどうせぎりぎりにしかこないんだから、慌てて行動する必要なんてないのに」

「だって電車がいっちゃうじゃない。九時すぎの電車にのるのに、間に合うのかしら」

 麗奈はまだぶつぶつと言い続けていたが、僕は気にも留めずにただこの先に待ち受けている未来の事を考え続けていた。

 駅はまだ通勤客でごったがえしていたが、特急のホームには比較的人がいない。ベンチに腰掛けて、さきほど買ったホットコーヒーをすする。

 熱い。それから暑い。こんな暑い中でホットコーヒーをすするのは僕だけかもしれないと心の中でつぶやく。

 じりじりと迫る夏の日差しが、コンクリートに反射して余計に不快感を増していた。僕はあまり汗はかかない体質だと思うけれど、さすがにじっとりと肌をしめらせている。

「あつい」

 思わずつぶやく。
 その言葉はホットコーヒーの熱に対してか、それとも夏の輝きに向けたのか。自分でもよくわからずに息を吐き出す。

「浩一はこの暑いのになんでホットかな。こんな日は冷たいキャラメルフラペチーノに決まってるじゃない」

 生クリームのたっぷりのった甘い飲み物を手にして「浩一って馬鹿みたい」と勝手な事をつぶやいていた。

「暑い日には熱い飲み物の方が身体にはいいんだ」

 ほとんど独り言のように告げると、麗奈から顔を背ける。飲み物くらい自分の好きにさせてくれと口の中でつぶやく。

 もっとも半分は強がりで、さすがにアイスにすべきだったかと思う部分もある。ただ残りの半分では、本来温かい飲み物は温かい状態で飲むのが美味しいんだとも思っていた。

 それは僕の考え方全般にも共通していて、本来あるべき姿であるのが一番だと考えていた。だから麗奈は自分の事を兄と呼ぶべきだと考えていたし、知り得ないはずの未来なんて見えてはいけないんだとも思っている。

 今度こそ未来を変えるんだと、熱いコーヒーをのぞき込むと、揺れる水面に影が差した。

「暑い日に熱いお茶を飲むと、代謝は良くなるっていうね」

 背中側から掛けられた声に僕は顔を後ろへと向ける。見知った顔が一人そこに立っていた。

 ジーンズにTシャツのラフな姿。やや大きめの水色のナップサックを肩にかけて、旅行用のキャリーバッグをひきずっている。首筋を覗かせる少し短めの髪は、いわゆるボブカットという奴だろう。すらりとのびた細身の体は一見すると男性にも見えなくもない。しかしよく見れば微かな胸元の膨らみが、それを何とか否定している。

 クラスの仲間で、麗奈の親友でもある矢上(やがみ)真希(まき)がそこに立っていた。

「真希ちゃん、おはよ」
「ああ、井坂(いさか)さん。おはよう」

 麗奈が軽快な口調で告げると、少し仰々しいような声で矢上は応える。このいつもどこか芝居掛かったような口調で話すのが、矢上のいつもの話し方だ。たぶん宝塚の男役だと言われれば、信じる人もいるだろうとなとも思う。

「八時四十八分。うん、時間通りだね」

 矢上は腕時計を確認すると満足げにうなづいていた。

「相変わらず君達だけか。まったくみんな時間にルーズだね。電車に間に合わなかったら置いていこう。あとから勝手に追いかけてくるだろ」

 矢上はやっぱり少し芝居じみた口調で告げると、ホームの向こう側を見つめていた。

「矢上、おはよう」

 かけそびれていた挨拶を向けると、矢上は爽やかな笑みを口元に浮かべた。

「ああ、浩一。おはよう。今日もいい天気だね。旅行にはもってこいだ。少々この暑さは難儀だが、夏らしくていいかもしれない。海について暑くなければ泳ぐ気もしないからね」

「あのさ。前から言おうと思ってたけど、なんで麗奈は名字にさんづけで、僕は名前を呼び捨てなんだよ。普通逆だろ、逆」

 矢上へと言葉を向けると、矢上は何かいたずらな笑みをもらして、まっすぐに視線を合わせてくる。
 整った凜々しい顔にみつめられて、思わず少したじろぐが、しかし矢上はそんな僕の様子も大して気にもしていないようだった。

「気にするな。これも親愛の情、好意の現れということにしておこうじゃないか」

「と、いうことにしておこうってなんだよ。しておこうって」

「まったく細かい事を気にしていると早く禿げるぞ。私は君の禿げた姿なんてみたくもないし、想像もつかない。従ってこの話はここまでだ。それより座席の場所でも確認しようじゃないか」

 矢上は勝手に話を打ち切ると、すぐに麗奈の方へと向き直っていた。
 自分のペースで話す矢上に思わずためいきを漏らすが、しかしこれ以上話を続けてもろくな事にならないのはわかっている。どうせはっきりした答えが欲しい訳でも無かったので、素直に話の流れに乗ることにした。

「えーっと、十二号車の十のA席が真希ちゃんで、B席が私。C席は(あい)ちゃんかな。その一列前の九のA席が浩一で、B席が月野(つきの)くん。C席は竹川(たけかわ)くん」

 麗奈がチケットの番号をみながら、勝手に席を割り振っていく。

「勝手に座る場所を決めてるのか」

 まだ残りのメンバーは到着もしていないのにとも思うが、しかし麗奈は悪びれる様子もなく、どこか嬉しそうに言葉を返す。

「いいの。だって入ってから決めていたら、他のお客さんに迷惑じゃない」
「ふむ。一理あるな、ではその席で決定としよう。すでに本来の待ち合わせ時間も過ぎているし、遅れてきたヤツが悪い」

 矢上は大きくうなずくと、僕へと目線を送っていた。特に言葉は無かったもののその目は「不満は無いだろうね」と訴えている。

 座席順からすれば、たぶん麗奈は進行方向側の席に女性陣を置きたかったのだろう。実際それならそれで特に不満はない。確かにいま決めておいた方が、面倒は無いかも知れないと胸の中で思う。

 ただ続けて言葉を発しようとした瞬間だった。僕の頭の中に何かが降りてきていた。

 目の前の風景が一瞬にして切り替わる。

 どこかはわからない場所。どこか暗くて、あまり周りは見えはしない。
 その中に麗奈が一人、その身体を横たわらせている。息をしているのかどうかもわからない。だけどじんわりと床に血がにじんでいた。

 思わず息を飲み込む。だけど続いて見えたその映像に、僕は呼吸をする事すら忘れて、その場に立ち尽くすことしか出来なかった。

 麗奈の前に僕が立っていた。僕が右手にナイフを持っていた。僕はその僕の姿を上空から見つめていた。

 ナイフからは真っ赤な血が滴っている。そして僕はそのナイフを落とした。からんと鈍い音が響いた。

 僕は僕を見ていた。この僕は僕なのか。違うのか。それよりも僕がナイフを手にしているというのはどういうことなんだ。

 僕なのか。僕が麗奈を刺したのか。そんなはずはない。僕が麗奈を刺すなんてことはあり得ない。

 だけど目の前では麗奈が倒れている。血を流して横たわっている。小さな声でうめきをもらしていた。

 まだ麗奈は死んでない。でもこれだけの血が流れている。時間の問題なのかもしれない。どうして僕はこんなことを。なぜ僕が麗奈を刺すんだ。

 なんだよ。なんなんだよ。なんなんだ。これは何なんだ。
 なぜ僕がそこにいる。僕は僕の姿を観ている。手がしびれる。じんじんと冷たい衝撃を僕の中に伝えてくる。

 このしびれは僕がナイフで麗奈を刺したからなのか。でも刺したのは僕だけど僕じゃなくて、僕の目の前にいる未来の僕だ。でもいま僕は手のしびれを感じていて。

 なんだ。何が起きているんだ。これは何なんだ。何なんだよ。

 目の前が大きく揺れていた。何もかもがごちゃまぜになって、世界が揺らいでいるような気すらしていた。
「浩一。またぼーっとしてる。もうみんな揃ったんだから。電車に乗らないと置いていっちゃうよ」

 掛けられた声に思わず意識を取り戻す。
 さきほどまでいた駅のホームのままだった。いつの間にか電車は到着していてようで、他のみんなの姿も見える。

 ほんの少し時間は流れたのかもしれないけれど、特に何が変わった訳ではない。

 でも僕の心の中は思い切り冷え込んでいて。まとわりついてくる夏の空気が、なぜか肌寒さすら覚えさせた。
 思わず両手で僕は身体を抱え込む。まだ現実と幻の区別がついていなかった。

 僕の頭の中は真っ白に染まっていて、何も考えられないでいた。

 今の映像は何なんだよ。そんな未来があるはずがない。あるはずがないだろ。僕が殺すのか。麗奈(れな)を。僕が。あり得ない。あり得るはずないだろ。声には出せない叫びをもらすと、思わず自分の手を見つめていた。

 その手はいつも通りの手だ。血で濡れていたりはしない。それもそうだ。僕が麗奈を刺すだなんて事があるはずはない。だったら今見えた風景はどういう事なんだよ。頭の中で知らない誰かに訊ねかけるが、答えはどこからも戻ってこない。

 未来を変えなければいけない。そのために前へと向かうはずだった。しかし垣間見えた未来は、僕にしてみれば絶対におとずれてはいけない未来だ。

 どうすれば避けられる。どうすればいいんだ。自問自答を繰り返すものの、答えは出ない。未来は避けようとしても絶対に訪れる。だからこそ自分から飛び込んでやろうと決めたはずだった。

 でも見えたあまりの未来に僕の心はくじけそうになる。ここでひるがえせば未来を変えられるんじゃないかと僕の心は揺れてしまう。

「帰る」

 思わずぼそりと告げると、そのままホーム上を歩きだそうとする。しかしその瞬間に強い力で引っ張られていた。

「浩一、何いってるのよ。なんでここまできてそんな事いうの。自分勝手にもほどがあるってものでしょう。みんな浩一が来るの楽しみにしていたんだから、いい加減にしてちょうだい」

 麗奈が怒りすらにじませた声を漏らしながら、僕の手を引いていた。

 その瞬間に僕の胸の中に小さな痛みが走る。

 今から帰宅する事が、皆にどれだけの迷惑をかけるのかなんて事は理解していた。本当は僕だってそんな事はしたくはなかった。それでもいま去ればこの未来は訪れないんじゃないかと僕の心を揺らしていた。

 だけどそうすれば未来を避けられる訳ではない事は知っていた。むしろ今まで避けようとした時ほど、その未来は残酷に襲いかかってきていた。

 そうだ。ここで帰る事は逆にその未来を近づける事になる。だから僕は未来に立ち向かわなければいけないんだ。目をぎゅっとつむる。

 同時に発車ベルが鳴り響いていた。

「ほら。浩一、もう時間ない。はやくはやく」

 麗奈が強引に僕の腕をつかんで電車の中へと駆け込んでいた。僕はそれに抗う事は出来ずに、うなだれるようにして電車のドアをくぐった。

 電車に乗ってしまった。おとずれてはいけない未来へ近づいてしまった。だけどあの場から去ったとしても、未来は必ずやってくる。ならどうすれば良かったんだろう。僕はどうすればいい。僕の胸は不安で埋め尽くされていくかのように思えた。

 今まで見えた未来に家族の姿が映った事はなかった。ましてや自分の姿が映った事などあるはずもなかった。浩一の未来視の中で見えた相手は別れを告げる事になる。その別れは時にはこの世からの別れであった時もあった。だとしたら麗奈と、そして自分ともさよならを告げる事になる。

 友達であれば引っ越しや転校かもしれない。しかし家族である麗奈と別れるとなれば、その別れは死である可能性が高い。ましてや自分自身との別れというのは、それ以外には思いつかない。

 麗奈が、僕が死ぬのか。この旅行で別れを告げる事になるのか。いやそうとは限らない。僕が麗奈を刺すなんて事はありえない。僕自身の姿が見えるのであれば、自分の意思で介入出来るはずだ。だから変えられる。未来を絶対に変えるんだ。

 不安に思う心を何とか抑えつけながら、僕は未来を思う。

 変える。変えるんだ。絶対に変えてやるんだ。僕は未来を変えるんだ。
 なかば自分に言い聞かせるようにして、胸を抑える。大きく息を吸って、少しずつ心を落ち着かせていく。

 皆でいく伊豆への旅行は、僕だって楽しみにしていた。未来を変えてやろうという意気込みもあったけれど、見知らぬ少女との別れは僕にとって悲しくもないはずだ。

 もしかしたら彼女は一人命を失ってしまうのかもしれない。でも所詮は他人だ。割り切って考える事が出来る。

 でも麗奈であれば話は別だ。ときどき邪魔に感じる事がないとは言わない。でもやっぱり僕にとってのたった一人の妹だ。麗奈との別れは絶対に許容出来ない。

 迫ってきている未来に、でも今の僕には何も出来ない。

 窓の外を見つめる。青く澄んだ空と大きな白い雲が、どこまでも嘘のように広がっていて、まるでこの先に訪れるはずの痛みなんてないはずだと告げているように思えた。

 この旅行を楽しもう。そしてその中で未来を変えるんだ。
 僕の想いが届いたのか、外の雲は少しずつ姿を変えていく。
 変わりゆく雲の姿に何となく未来は変えられる。そんな気がしていた。

「浩一、ぼさっとしてないでこっちに座ったらどうだ。まさか伊豆まで立っているつもりじゃないだろう」

 矢上(やがみ)の声にうなずくと、素直に座席についた。あまりいつまでも仏頂面のままいる訳にはいかない。僕には未来を変えるという別の目的があるとはいっても、皆にとってはただの仲間うちでの旅行に過ぎない。それを台無しにするような事は避けたいとも思う。

 それだけになるべく皆の前では普通にしていようと、いま見えた未来の事は頭の中から追いだしておこう。
 すでに皆は座席に座っていた。いつの間に(ひびき)大志(たいし)楠木(くすのき)も来ていたようだ。さきほど麗奈が決めた席に座っている。

「おお、浩一。どうした、ぼうっとして。腹でもいたくなったのかね。ちゃんとトイレにはいっておくのだよ。それからおやつは五百円まで、バナナはおやつに入らないぞ」

 響が軽口を叩くと、隣に座っている麗奈が笑みをこぼしていた。相変わらず響の独特なセンスにはついていけなかったが、麗奈には受けが良いようだ。彼の整った顔がそうさせるのかもしれない。他の人間が言えば軽薄さが先に立つような台詞でも、響が告げる分には独特の空気を醸し出していて、微笑ましさすら感じさせる。

「小学生か、僕らは」

 響の軽口を受けて立つ。僕は響の事は嫌いではなかった。それどころか友人の中ではかなり仲が良い方だ。むしろ親友とすら言えるかもしれない。僕は学校でも響と一緒にいる事が多い。

「いいね。小学生。リュックを背負って、てとてと遠足。そんな訳でレジャーシートを敷いて、お弁当を広げようじゃないか」

 響がまた訳のわからない事を告げるのを聴いて、呆れてため息をもらす。

 もちろん電車の中でレジャーシートを広げられる訳もないし、そもそも弁当も持ってきてはいない。響は何か変わった事を言わずにはいられないのだ。

 その声を聴いて隣に腰掛ける大志がのんびりとした口調で話し始めていた。

「そういえば、お腹すいたよね。今日は寝坊したからさぁ、なーんにも食べてないんだよねぇ」

 ころころ転がれそうな飛び出たお腹を押さえながら、大志がため息をもらしていた。

 やや太り気味な体型の通り、大志はかなりよく食べる。食事についての興味は他の誰よりも強い。はやくお弁当売りにきてくれないかなぁ、などとのんきな声をこぼしていた。

 その隣で楠木がにこやかな顔で大志を見つめている。ストレートの髪を、サイドだけ三つ編みにして後ろで束ねている。いかにもふわふわとしたお嬢様といった感じの彼女は、このメンバーの清涼剤でもある。彼女の優しい空気に何度救われた事があるかはわからない。もっとも彼女の天然ぶりに頭を抑える事も多々あるのだが。

「そうなんですか。じゃあ竹川(たけかわ)さん、これいただきますか? 私のお手製ですからお口にあうかどうかわかりませんけども」

 楠木はゆっくりとした口調で告げると、自分の鞄の中からラップで包まれたサンドイッチを取り出していた。どうやらお手製のサンドイッチのようだ。

(あい)ちゃんは気がきくねぇ。じゃあ、せっかくだから一ついただこうかなぁ。どれどれお相伴」

 大志が言いながら楠木の作ったサンドイッチを美味しそうに口にしていた。その向かいで響が「おお、遠足にはサンドイッチかおにぎりか。これは永遠の命題だな」などとつぶやいていたが、その辺は聴かなかった事にして窓の外へと視線を向けていた。

 窓際に座っている矢上と視線がからんで、矢上が爽やかな笑みを浮かべてくる。何となくばつの悪さを感じて、慌てて少し矢上から視線を逸らした。

 ただそんないつもの風景は、僕の張り詰めかけていた心を少しずつほぐしてくれていた。

 とにかく変に思い詰めても意味はない。見えてしまった風景を本当の未来にしないように、何かを変えていくしか無い。それまでは僕も旅行を楽しもう。心の中でつぶやくと、再び車窓から外を見つめる。

 いくどとなく見た見知った風景は、やがて少しずつ遠ざかっていき、次第に見慣れない新しい姿へと変わっていく。

 それが今度こそ未来を変えられる啓示のようにも思えて、僕の心は少しずつ晴れ上がっていく。今はただ旅行を楽しもう。そう思えるくらいには落ち着きを取り戻していた。

 しばらくの電車の旅が終わって、僕達は海辺の街へと到着していた。

 辺りには潮の香りが漂っていて、海に来たのだとはっきりと感じさせる。どこか湿っぽい空気と、輝くばかりの陽光が激しく辺りを包み込んでいる。みんみんと鳴き叫ぶセミの声も、いつもはうるさいばかりなのに、この場所ではどこか楽しげにすら感じさせる。

「みたまえ、みんな。あれが伊豆の海、青と白の交わる場所だ。この夏らしい熱い輝きを吸い込んで、澄んだ水音を奏でているじゃないか。宿に荷をおいてさっそく向かおう」

 響は海が見えるなり両手を広げて大きく叫ぶ。

 真面目なんだか、芝居がかっているんだかわからなかったけれど、響の通常営業である事には変わりが無い。

 海はもうはっきりと目に見えて辺りにも潮の香りが漂っていた。どこか湿っぽい空気が、しかし夏らしい空気に満ちている。みんみんと鳴き叫ぶ蝉達の声が、いつもはうるさいばかりなのに、ここではどこか楽しげにすら聞こえた。

 ふと振り返る。いままで歩いてきた道。特に変わりばえもしない平坦な田舎街だけども、それでも忘れられていた、いや忘れようとしていた事実を思い出させる。

 海辺の風景とどこか感じる匂いは、あの時みた未来と同じものだ。やはり未来を避ける事は出来ないのだろう。

「浩一、またぼーっとしてる。ほら、はやくしないと置いていくわよ」

 麗奈の声にぴくんと身体を震わせていた。
 それでもまた向き直って前へとゆっくりと歩き出す。

 まだ垣間見た未来は気になっていたけれど振り返らずにいようと誓う。
 旅はいま始まったばかりだ。
「ほぅ、ここが私達の泊まる旅館か。これはまた古風というか歴史を感じさせるというべきか。はっきりと言ってしまえばおんぼろだな」

 矢上はどちらかといえば楽しそうな口調で目の前の旅行を興味深そうに見つめていた。
 良く言えば歴史を感じさせる建物。悪く言えば今にも壊れそうなほど古い建屋だ。なるほど。この時期にしては安かった訳だ。

「おいおい。真希くん、失礼だろう。ぼろを着てても心は錦というではないか。この旅館だって見た目はぼろでも、もてなしは最高級かもしれない。少々見た目がぼろなのくらい我慢しようじゃないか」

「その言いようもずいぶんひどいと思うけど」

 響の台詞に応えるように僕はひとりごちる。しかし確かに矢上や響の言う通り、かなり古い木造の旅館は時代を感じさせる。

 もっともこれはこれで風情がある気もするな、と口の中でつぶやく。

「僕はごはんが美味しいならそれでいいなぁ」

 大志がお腹を押さえながら、小さく溜息をつく。電車の中であれだけ飲み食いしたにも拘わらず、もうお腹が空いたらしい。

 確かに時間的には昼食をとっても不思議ではない時間だが、大志は楠木のサンドイッチの他にも弁当を二人前は平らげていたような気はする。相変わらずよく食べる。

「ちょっと、みんなひどい事ばかりいって。ここは部屋の窓からすぐ海が見えるのよ。それに噂では――でるんだって!」

 麗奈が心底嬉しそうに告げていた。その言葉に呆れて眉を寄せていた。麗奈の心霊現象好きはいいかげんにしてもらいたいところだ。今までも心霊スポットに何度連れていかれたか数えたくもない。

 もっともそれで霊が出た事は一度たりともなかったし、僕はそもそも霊なんて信じてもいない。それなのにこう変な趣味につきあわされる方の身にもなってほしいと切に願う。しかし僕の内心をよそに麗奈は嬉々として目の前の旅館を見つめていた。

「そうなんですか。確かに、お化けの一人や二人くらい現れても不思議じゃなさそうですね。あ、そもそもお化けって一人二人と数えるものでしょうか?」

 楠木は首を傾げながら目の前の旅館をじっと伺っていた。どこかずれた質問が楠木らしいと言えるが、みんなして失礼な事を言っているなとも思わなくも無い。
 少したしなめようかと口を開きかけると、同時に背中からふと声が響いていた。

「確かにこの旅館はぼろですよね」

 かけられた声に皆は一斉に向き直る。
 そこに背を向けて立っていたのは流れるような黒髪の少女。軽やかな笑みをこぼしながら、僕達を見つめていた。

 赤いチェックのフレアスカートが微かに揺れる。夏の光で微かに透き通った白いブラウスに、スカートとお揃いの赤いリボン。年頃はまだ高校生くらいだろうから、恐らくはこれが学校の制服なのだろう。

 楽しげな顔が満面に広がっている。長い髪が風に吹かれ、さぁと流れた。やや細面の優しそうな笑顔を浮かべた極上の美少女がじっと皆を見つめていた。

 彼女は。

 僕の心臓が激しく跳ね上がった。血液が逆流しているんじゃないかとすら思えた。ばくばくと激しく鼓動を打って、僕の胸の奥を叩いていた。

 僕が見た未来、僕へと「一緒に死んでくれますか」と誘いを掛けた少女だ。突然の来訪に僕は思わず目を見開いていた。

 彼女は僕の内心になど気がついてはいないだろう。だけど口元にいたずらな笑みを浮かべて、まるでささやくような甘い声でゆっくりと言葉を紡ぐ。

「でも当の旅館の娘の前で言うのはやめてくださいます?」

 少女は軽く首を傾げると、人差し指だけをたてて目の前で軽く振るう。

 まだ胸の高鳴りが収まらない。喉の奥から何かが出かかっているのに、何もかもが言葉にならなくて、乾いた口の中が貼りついて離れない。

 あまりにも突然の出会いに、彼女が目に焼き付いて離れなかった。

「これは失礼した、非礼は詫びよう」

 矢上が目の前の少女へと軽く頭を下げると、それからくるりと皆を見回していた。皆も矢上に習うように礼をする。

「おっと、俺としたことが身内の前で批判めいた事を言うなど無礼だったかね。願わくば今日の晩飯の隠し味に、わさびの山盛りなど入れないように頼み申そうではないか」

 響ははっはと笑いながらぜんぜん詫びになっていない言葉で返す。
 むしろ失礼にあたるだろうと呆れて溜息を漏らすものの、今さら響に何を言うのも馬鹿らしいので黙っておいた。言ったところで治るものではないだろうし余計に物事を複雑にするだけだ。

「いやですね。いくらなんでもそんなことはしませんよ。でも、ちょっとばかり砂糖と塩を間違えたりするかもしれませんけどね?」

 しかし彼女は響の失礼な物言いにもさして気にした様子もなく、今にも舌を出してきそうないたずらな笑みを向けて冗談を交えながら返していた。だけどどこか遠くを見ているかのような細やかな瞳が、まるで気まぐれな猫のようにも思えた。

「で、今日いらっしゃる予定のお客さんですよね。もう部屋は用意出来てますからゆっくりなさってくださいね。……ぼろですけど」

 少女はちょっと意地悪な言葉を付け足すように告げるが、微笑みながらの台詞にはそれほど嫌味なものは感じなかった。

 だけど僕の胸の鼓動はまだ止まらなかった。もしも何もなかったとしたら、恋にでも落ちたかと勘違いしたかもしれない。でもいま覚えている動悸は、明らかにそうではなかった。

 垣間見た未来に現れた少女。手を差し出して「私と一緒に死んでくれますか」とささやきかけてきた少女。甘い誘惑のように思えたその言葉が、いま目の前の優しげな瞳と結びつこうとして、それでもどこかばらばらなパズルのようで、なかなか噛み合おうとはしない。

 僕はいま起きている事の理解が出来ないまま、でも時間と共に少しずつ波は小さくなってきて、詰まっていた息も取り戻してくる。

 大きく息を吐き出す。呼吸すら忘れていたような気がする。
 何とか気持ちを落ち着かせて、それから皆の様子をうかがってみた。もちろん彼らは何も思うでもなくて、おのおの目の前に現れたユーモアをふくんだ少女に旅館への期待を膨らませているのだろう。

 ふと矢上と目が合う。彼女もまた軽やかな笑みを浮かべると、僕の肩に手をおく。

「どうかしたかね」
「いや何でも無いよ。とにかく一度荷物を預けよう」
「ふむ」

 矢上は僕の態度に何かを感じたのかもしれないが、これ以上には追求してこなかった。

 同時に楠木が声を漏らす。

「そうですね。じゃあ、お言葉に甘えておじゃまいたしましょうか。せっかく海に来た事ですし、海辺で潮干狩りなどしませんと」
「……なんで潮干狩りだよ」

 楠木の言葉に思わずつっこみを入れてしまう。探せば貝の一つや二つくらい見つかるかもしれないが、時期も外しているし、わざわざ伊豆まできてする事とも思えない。

「潮干狩り、いいねぇ。あさりとかはまぐりとか美味しいよね」

 大志がぼーっとした顔のまま空を見上げている。恐らくはあさりだのはまぐりだのの料理が視線の先で漂っているに違いない。

「む、何を言っている。伊豆の海といえば磯に決まっているだろう。磯と言えば磯釣りをして釣れた小魚で浜鍋にするのが醍醐味だ。味は味噌でしっかり野趣にいこう!」

 響の叫びに大志がぽんと掌を打つ。どうやら浜鍋の方により強く惹かれたらしい。

「ちがうわよっ。なんだって夏の海にきて、そんな事しなきゃいけないのよ。海といったら泳ぐに決まってるでしょ。せっかく水着だって新しいの買ったのに、海に入らずして夏を満喫したとは言えないんだから」

 麗奈は皆を見回してばっかじゃないの、と続けていた。視線の先に僕も含まれている気がするのは、何も言わないのも同類と言いたいのだろうか。

「ふむ、井坂さんのいう事にも一理あるな。ではまずは泳ぐ事にしよう。何、滞在期間はそれなりに長い。釣りでも潮干狩りでも楽しむ時間はまだたっぷりとある」

 矢上の言葉に反論は一つも上がらなかった。格段おとなしいという訳でもないが、普段はあまり物言うタイプでもない矢上の一言はその分だけ重みがある。響のように軽薄でもないし大志のように視野が狭くもない。あるいは楠木のようにずれてもいないし、麗奈のように自己主張が激しくもない。少々マイペースな部分はあるが、おおむね正論だ。

 と、先の少女が小さな笑みを浮かべて、一同を楽しそうに見つめていた。
「話はまとまりました? じゃあお部屋に案内しますね。あ、いちおう自己紹介しておきますと、私はこの旅館『佐々屋』の女将代理で、佐々木(ささき)桜乃(さくの)と申します。何かありましたら、私の方に遠慮なく申しつけてくださいね」

 制服姿でお辞儀をする少女と、女将という言葉がどこかミスマッチに思えて思わず笑みを浮かべていた。

 通学鞄を手にしているところをみると夏期講習か何かの帰りなのだろう。たまたま皆が到着したところに居合わせたという訳だ。

「女将代理? では女将さんはどうしているのかね」

 響は興味深そうな目をして少女へと身を乗り出す。

「あ、母はいまちょっと具合を悪くして静養中なんです。といっても大した事はないんですけど、大事をとって私が出来る事は代わろうと思いまして」

「ふむっ、なるほど。親孝行なのだね、泣かせるじゃあないか。いや孝行をしたい時には親はなし、というからな。偉いものだよ、うむ。これは立派な女将になれるぞ」

 少女の言葉に響が大きくうなずいて見せる。どうやら本気ですっかり感心しきっているようで、それだけでこの旅館のぼろさへの気持ちもどこかにいってしまったようだ。

 響のそういうところはやや流されやすいかとも思うが、僕が響を嫌いになれない理由の一つでもある。

「そんなこと言われると照れますよ。あ、そうそう私の事は女将さんでなくて、気軽に桜乃とお呼び下さい。代理っていっても、ほんとはただのお手伝いですから」

 さらと流れるような笑みを浮かべて、そのまま旅館の中へと入っていく。玄関をくぐると大きな声で「井坂様、ご一行到着でーす」と叫んでいた。

 ばたばたと奥の方から旅館のはっぴを着た男の人が現れて、ようこそいらっしゃいましたと告げて僕達を部屋へと案内していく。桜乃はその様子を見送っていたのだろうか。僕はどこか視線を感じて振り返る。

 桜乃と軽く視線が交わる。彼女は少し首をかしげて微笑む。同時に強く胸が跳ね上がっていた。どきどきと心臓が鼓動する。

 この動悸は未来に見た少女が目の前にいるからなのか。それとも見た事もないような美少女が微笑みかけてくれているからなのか。僕はどこか頭の中がスパゲティのように絡み合っていて、ひたすら理由を探ろうと頭を働かせようとしていた。

 しかし桜乃はそんな僕の内心など知る事もなく、まるでその名のように桜が舞い散るような微笑を浮かべていて、僕の心を余計にかき乱した。

 理由はともかく、彼女の事を意識してしまっているのは確かなのだろう。僕は少しずつ息を吐き出して、何とか気持ちを落ち着けようと少し視線を逸らすかのようにうつむいていた。

 彼女は僕が意識しているだなんて思ってもいないのだろうな。声には出さずにつぶやく。ましてや僕が彼女に会うためにここに来ただなんて、想像すらしていないだろう。

 もっともこれだけ可愛らしいのだから、男性から意識される事自体は珍しくはないかもしれない。でもそれだけに少し挙動不審気味な僕の様子を気にしてはいないようではある。でもまさか僕が彼女と出会うために。そして別れを避けるために。未来を変えるためにここに来ただなんて、思ってもいないだろう。

 彼女はどうして僕に「一緒に死のう」と呼びかけたのだろう。死にたいほどの何かを抱えているのだろうか。もしかしたら少し病に伏せているという母親が、本当は軽い病ではないのかもしれない。あるいは大きな借金を抱えているのかもしれない。

 でもたとえ彼女に死ぬ理由があったとしても、それは僕と一緒に死ぬ理由にはならない。

 なぜ僕を誘うのだろう。ここから僕と彼女の間に何かが生まれるのだろうか。それとも質の悪い冗談だったのだろうか。考えても考えても答えは出ない。出るはずもない。

 僕はまだ彼女の事を何も知らない。桜乃という名前と、おそらくは高校生だろうという事以上に何もわかってはいないのだから、わかるはずもなかった。

 ほとんど何も知らない少女の事を思って、心臓の高鳴りを感じているだなんて、まるで恋をしているみたいだと思う。もしかしたらこれが一目惚れというものなのだろうか。いやそうではないはずだ。だけど彼女に何か特別なものを感じていた。彼女は何かを僕を惹きつけていく。いややっぱりそれは恋心なのだろうか。

 どこか苦笑を浮かべてため息をもらす。

 僕はいつの間にか立ち去っていた桜乃の後ろ姿を、いつまでもじっと見つめていた。彼女の姿が見えなくなった後も、ずっと。ただ立ち尽くして呆然と見つめていた。

 同時にすぐ目の前に麗奈の顔が現れる。

「うわ!?」
「浩一。さっきからずっと呼んでるのに、ぼーっとして。もしかしてさっきの桜乃さんに見とれていたのかな。もうやらしいんだから」

 麗奈はとがめるような口調で告げると、眉を寄せて僕をにらみつけていた。
 人の気も知らないで、麗奈は勝手な事を言う。僕は未来を変えるために彼女と出会いに来たんだ。

「そうだよ」

 思わずそう答えると部屋の方へと向かう。
 麗奈はそんな答えは想像もしていなかったのか、きょとんとした顔を向けたあと、すぐに僕を追いかけてきていた。

 僕が彼女を気にしている理由は、麗奈が思うような理由では無い。無いはずだ。でも彼女を気にしていた事には変わりはない。だから素直にそう認めていた。

「え? だ、駄目駄目。そんなの駄目っ、絶対だめだかんね」

 しかし麗奈は目を大きく開いて、強く否定し始めていた。突然の剣幕に少しあっけにとられてしまう。

 いつものブラコンが出たのかもしれない。麗奈はすぐに文句つけるくせして、僕を束縛して独占しようとする癖がある。そんなところが妹として可愛く思える時もあるけれど、今は少しいらつきを覚えさせていた。

「何がダメなんだよ」
「何でも絶対だめ。だって、それじゃけいか……っと、そうじゃなくて。とにかくだめなの。そんなやらしい浩一は嫌いなんだから、浩一はいつもしゃんとしてて」

 麗奈は何かをいいかけてやめると、それからぷいっと顔を背けていた。
 何が言いたいんだよと思うものの、こういう時の麗奈は強情だから問い詰めても答えは戻ってこないだろう。

 諦めて部屋の中に入っていく。もちろん部屋は男女で分かれているから、部屋の中に入ってしまえば麗奈からは解放されるだろう。

 けっして麗奈の事は嫌いじゃない。大切な妹だと思う。でもいつでもべったりとくっついてくる麗奈に、多少うんざりとする時もあるのは確かだ。今はまさにそんな気分だった。

 それは桜乃と出会って、これから未来は確かにやってこようとしている。その事に恐れを覚えていたからかもしれない。

 僕は未来を変えられるだろうか。未来は変わるのだろうか。

 少なくとも僕が麗奈にナイフを刺すだなんて事はないはずだ。例え神様がどれだけ意地悪だとしても、僕自身の行動を縛り付ける事は出来ない。僕がナイフに触れなければいい。そうすれば麗奈を刺すなんてことはない。

 僕の行動は僕が決める事が出来る。だからこんな未来は変えられるはずだ。

 本当に? 僕の中にいる誰かが問いかけてくる。

 わかっていた。僕は不安を覚えている。今までどんなに未来を変えようとしても、避ける事は出来なかった。

 だからこそ今は逆にその未来に向かって進んでいこうとした。でもそれこそが未来を呼び寄せているのだとしたら。

 僕は麗奈を刺してしまうのか。麗奈を傷つけてしまうのだろうか。
 それだけはあってはならない。麗奈を傷つけるなんてごめんだ。

 僕の頭の中は少しずつ迫ってくる未来へのおびえと、そして麗奈を失うかもしれない恐怖が、どこか重なり合うようにして埋められていく。

 それでも僕はその気持ちを振り払う。
 絶対に未来を変える。変えるんだ。

 僕は決意を再び胸にする。
 ただ自分の中に、未来への恐ればかりがあるわけではないこともどこかで感じていた。

 白昼夢の中で見た少女。桜乃はでも現実では、夢の中よりもずっと細くて、どこか華奢な体つきは彼女を守らなければという気持ちにもさせていた。

 やっぱり麗奈の言う通り可愛らしい子に出会って、浮ついているのかもしれない。
 でもそんな気持ちがもしかしたら未来を変える力になってくれるかもしれない。何が幸いするかなんて僕にはわからない。

 だからいま覚えかけている気持ちが、決して悪い方向には向かわないことを信じたいと思う。きっと僕の信じたい未来を連れてきてくれる。

 これから起きる事態を思えば、楽しい気分には到底なれはしない。それでも桜乃と出会って感じた何かが、この先の未来を良い方向に変えてくれる。そんな気すらしていた。

 未来を変えたいんだ。そう思う僕の心は、口の中を渇かして儚い望みを渇望させる。

 それがどれだけ微かな希望だとしても、僕は信じようと思う。きっと未来は変えられる。深く心の中で祈る。

 少しだけ目を閉じて、僕は大きく息を吐き出していた。