【完】桜の降る日、君の隣で死ねますように


「そうよ、小説の中の紫苑は椿。そこにあることがすべて」


わたしのものより何オクターブか低い声で、菫は告げた。

ほんの少し視線を落としたのに合わせて、肩上で切りそろえられた真っ黒な髪が揺れ、白い頬の半分以上を隠す。


「柊依は自分の命と引き換えに、椿の命を救ったの。未来日記を使って。そして椿の中にある自分に関する記憶を消した」

「じゃあ、柊依は……」

「……ええ。高2の夏の日、亡くなったわ」


ぱん、と自分の胸の中で絶望の塊が弾ける音がして、体中から力が抜けていく。


せめて、その部分だけは物語上の設定であるように、現実ではないように。

それだけを願ってここまできたのに、あっさりとその願いは打ち砕かれた。


改めて事実として突きつけられると、ショックでうまく息を吸うことができなくなる。


「これが未来日記」


菫は座っていた机の一段目の引き出しから、水色のノートを取り出した。

そしてあるページを開き、わたしに差し出してくる。


これが、ずっと架空の存在だと思っていた本物の未来日記だ。

どくんどくんと圧迫感のある重い音をたて、心臓が脈打つ。


罫線が引かれた空白が続く真っ白なページの中、一日分の欄にだけ文字が記されていた。

角張った字がひっそりと。


『7月1日(Sat)
俺は逢沢椿に余命をあげる。
椿は市村柊依に関するすべてを忘れる。』


「……っ」


息をのむ。

きゅうっとまるで見えないなにかに心臓を握り潰されているような苦しさ。


いったい彼は、どんな思いでこの文字を記したのだろう。

どれだけわたしを思ってくれていたの……?

文字に指を這わせても、彼が答えてくれることはない。


彼はこのノートで、そして彼のすべてで、わたしを救ってくれたのだ。


初めて、霧のように曖昧だった市村柊依という存在を実感した。


さらに畳み掛けるように脳裏に思い出す出来事があった。

あれは、高校2年生の夏。

事故で入院している時の話だった。

同じ高校の男子が亡くなったという話を、お見舞いに来たお母さんから聞いたことがある。

けれど入院中の身では詳しいことを知ることはできず、菫に問うても『椿は全然知らない人よ』とはぐらかされてしまったのだ。

それはきっと、柊依のことだった。


悲しみに暮れた声で、でも菫は口の動きを止めることはなかった。


「柊依は私に未来日記と日記帳を託した。柊依が亡くなったあと、すべてを読んで知ったわ。柊依の椿への想いを。だって日記帳は椿のことでいっぱいだったから」


そこで初めて菫の声が震えた。

はっとして顔を上げれば、そこには漆黒の瞳を揺らめかせ、きつく唇を横に引き結ぶ双子の妹がいた。

いつだって冷静でぶれることのない菫が、深い悲しみの前に立ち尽くしていた。


「真っ暗だった柊依の世界が、椿と関わったことで色づいていくのがわかった。この日記を見るまで、私は柊依の苦しみの深さに気づいてあげられなかった。でも椿だけは柊依の心に寄り添っていたのね」


つんと鼻の奥が痛くなる。

熱いものが目の裏を刺激してくる。