兄貴だけが逃げたようで俺は許せなかった。父親同様に。
「……あの時はそうするしかなかった。父さんは愛人と出て行って逃げたと思うけど、違うんだよ。逃げたのではなく……」
 兄貴は俺の腕を掴んで、当時の状況を話した。
 だが、俺にとってその言葉は何にも意味がなかった。
 兄貴が俺に許してほしいように言っているようにしか聞こえなかった。
「ここで父さんの弁解をするの。兄貴は」
 俺はその態度に腹が立ってしょうがなかった。
 どんな理由があるにしろ俺は自分の気持ちに正直になった。
「……そうだな。どんな理由にしろ、俺は母さんと剛といればよかったんだな」
 兄貴は納得したのか俺に申し訳なさそうに言ってきた。
「……そういう答えが返ってくるとはね。そうだよ。兄貴は俺と母さんといればよかったのに…なんでだよ、おい、兄貴」
 俺は兄貴の胸を手で叩いた。叩いて叩いても、兄貴は俺を止めなかった。
 止めても無駄だと思ったのだろう。
 何分間か兄貴の胸を叩いて、俺が止めると兄貴は声を発した。
「……分かった。俺が悪かった。母さんに会いに行くよ。生活費は俺がなんとかするから」
 兄貴はそれだけ言ってから、俺の肩をトントンと優しく叩いてから職員室に戻っていた。
 俺はそんな兄貴に何も言わなかった。自分が悪いって認めているけど、そうではない。
 口で言っていただけで、俺が来たことは父さんにも言うのだろう。
 昔から兄貴は父さんの方についていた。
 父さんの顔色を観察して、うまい具合にコミュニケーションを取っていた。
 母さんと俺は違った。二人でいる時は、大抵父さんと兄貴の話はあまりしない。
 俺の話をして、母が聞き役になった。
 逆に母さんの話を聞いて俺が聞き役になることもあった。
 たわいのない話をしていたのだ。あの頃は楽しかった。
 笑って、励まして、怒って、喜んで感情を出していた気がする。