「でも、ここまで来たじゃないですか。私と沖田くんどっちかなんかじゃなくて、本当に会いたかったのは、」

「お前意外に食い下がるな。その気力に免じて、あと一個だけ教えておいてやるよ」

ぱらぱらとある人通りにちらりと目をやって、ハルキシさんはもう一度私のすぐ前に来た。

ささやくような声は、空気を最小限に震わせて、私の耳に届く。

「あたしがあいつの初めての相手なんて嘘だよ。男役も女役もどっちもしてない」

「それは……聞きました」

「そうか。あいつ、バニラだからな。顔がいいから客はよく食いつくけど、そのせいで、仕事でもリピーターは多くはなかったな」

なにか重要事項のように言われたけれど、今一つ意味が分からなかった。

「……アイスの好みですか?」

「あん?」

「バニラってなんです?」

するとハルキシさんは、呆れたような笑顔を浮かべた。

「さああねえ。瀬那に訊けばいいだろ。喜んで教えてくれるわ。ちゃんと訊けよ。今のが、あたしがお前にくれてやれる中で、一番いい話かもしれないんだからな」

ハルキシさんが私から身を話す。

冷房の中でかすかに感じていた体温がすっと離れ、ひどく物悲しい気持ちになった。

ハルキシさんと私は、仲良くもなんともない。お互いに知らないことや、知っても分かり合えないことがきっと多い。

でも。

「ハルキシさん、もう手首切ったりしませんよね」

「ああ、手首ね。しばらくは予定はねえな。ほら」

ハルキシさんが、ズボンのポケットからひょいと細長い刃物を出したので、ぎょっとした。一応鞘はついていたけど、その鞘を、細い指が外してしまう。昨日のナイフだ。

「見てみろ。分かるか? 昨夜は見えなかったろうが、刃が潰してある。もうずっと前から、あたしはこのナイフしか持ってない。……カッとなった時に包丁出したのは、……悪かった」

ハルキシさんが、左腕を差し出した。明るいところで見ると、赤と紫の筋がいくつも走っているのがよく見えて、一層痛々しい。

でも、目を背けはしない。

「よく見ろ。切り傷はどれも古いもので、新しい怪我は打撲ばかりだろ。このナイフを叩きつけた跡だよ。どんなに痛くても、死ぬことはない」

死なないからって。

どうして、そんなことをするんですか。そんなナイフで、なぜわざわざ自分を傷つけるんですか。

そんな私の疑問は、顔に出ていたのだろう。

「本当に死んでしまわないようにと、思うようになったんだ。そうでないと、捨て猫みたいなクソガキが、会いに来れなくなるから……」

ハルキシさんは、切れ味を失った刃先を見つめる。

「昨夜、ずっと考えてた。……あたしをこんな風に変えた、あいつのこと……そうしたらこんなところまで、ノコノコとな……ははは」

私は、たまらない気持ちになって、スマートフォンを取り出した。

「連絡先、交換しませんか」

「冗談だろ」

私はバッグから手帳を出して一枚破り取り、

「じゃあ、これ私のハンドルネームです。変わった名前だから、人違いはしないと思います。私、ネット上で小説書いてるんです。ネットでお話しませんか。したい話だけすればいいんです。私にだって、沖田くんにだって」

あっけにとられているハルキシさんのポケットに、紙片を突っ込む。

「お前、友達めちゃくちゃいるか、めっぽう少ないかのどっちかだろ」

「……後者です」

「……まさか、瀬那と巳一郎だけか?」

「いえ、クラスに三人、趣味で一人、女子の友達もいます。友達がほぼゼロだった中学の時から考えたら、破格です」

ハルキシさんは、憐みの視線を隠そうともしないまま小さく嘆息して、

「あたし、小説なんか読まねえぞ」

「いいですよ。……沖田くんに読んでもらって、知ってる人に読まれるとどんなに恥ずかしいか思い知りましたし」

「連絡もしねえ」

「いいです。時々、あいつなんかやってるなって見てさえくれれば。そのつもりで、投稿し続けます」

「は」

ハルキシさんが背中を向けた。

今度は、振り返らずに歩いていく。

そして、

「このナイフはまだ持っておく。必要なくなったら、捨てる。多分そうなる」

周りにはばからずに、大きな声でそう言った。

「はい!」

ハルキシさんの姿が、駅に消えた。

私も、沖田くんとの待ち合わせ場所に歩き出す。

今あったことのなにを話して、なにを黙っておこう。

ぐるぐると考えていたら、カフェにはすぐに着いてしまった。

すると、沖田くんもちょうど来たところで、一緒にお店に入って、私はアイスティ、沖田くんはアイスラテを注文した。

「むう……」

「な、なに、沖田くん?」