「……そうか」

沖田くんは、くるりと振り返ると、私を裏口のドアから外に出した。

沖田くんもそれに続いて出てくる。

私は正面を向いたまま後ずさりしかできなかったけど、沖田くんはハルキシさんには完全に背を向けながら、なにかを惜しむように、ゆっくりと建物から出た。後ろ手に、ドアを閉める。

施錠される音は、聞こえなかった。

「ハルキシが、後ろからおれを刺したりしないってことだけは確信があった。まだ、かすかでも希望はあるかな」

私たちは、表通りに出た。

今の緊張感が嘘だったように、無数の雑踏が談笑交じりに行き交っている。

「帰ろう。遅くなる。……しかし、あいつに金は渡せないかもしれないな」

私たちは、来た道を戻り、電車に乗った。

「衿ノ宮の駅まで送るよ。到着時間を、親御さんに送っておいてくれ」

秋葉原に着くと、私たちはつくばエクスプレスに乗った。柏の一つ手前が、私の最寄り駅だ。

なにかを話そうと思ったけれど、電車の中は混んでいて、今の私たちに必要な会話をするのには向いていなかった。

改札を出ると、まだ周囲の建物やお店には明かりがついていた。

「沖田くん、いいのに。うち近いから」

「そうもいかない。誘ったのおれだしな」

沖田くんはわざわざ一緒に駅を出て、うちの近くまで送ると言って、珍しそうに私の過ごした街を見回していた。

あと一つ角を曲がればもう私の家が見える、というところで、沖田くんが

「衿ノ宮。もう少しだけいいか?」

というので、すぐ傍にあった公園に寄った。

風が近くの梢を揺らして、さらさらと鳴る。虫の声の中、私たちは人気のない小道を並んで歩いた。

沖田くんがベンチの上にハンカチを敷くので、なにかと思ったらそこへ座ってと言われ、「結構です」と「いいから座れ」の応酬の果てに、私は恐縮しながらそこへ腰を下ろした。

沖田くんも隣に座る。

「おれも、恐らくはハルキシも、今までに何度か死のうと思ったことはある。多分、程度の差はあれ、ほとんどの人はそうなんだろうな」

沖田くんの言葉は唐突ではあったけど、自然にも思えた。私は、ただうなずいた。

「その度に思いとどまったから今ここにいるわけだけど。おれは、格別に死にたいと願っていたわけじゃなかった。特別に生きていたいとも思っていなかっただけだ」


沖田くんは背中を丸め、地面に視線を落とす。

「でも、出会いたいとは思ってた。誰かと。もっと楽しくて、生きてるっていいものだなって言わせてくれるなにかと。それで、おれはおかしいやつだから、特別な出会いがあるとしたら、きっとどこかおかしいところでなんだろうなって、漠然と考えてた。初めてハルキシに会った時、これがそうなんだろうなと思ったよ。二丁目を根城にしてる、ピーキーなやつ。少数派の性で生きてる、おれとは色々違うけど、でも同じ側にいる人間……」

その時の、沖田くんの気持ちを想像した。

砂漠に水。闇の中の光明。そんなイメージが浮かんでくる。

「その時におれが、ハルキシに抱いた感情は嘘じゃない。でも――」

沖田くんが、息を整えるのが分かった。本題なんだ、と私も表面には出さずに身構える。

「――もっとおれを変える出会いがあった。しかもそれは、学校なんていうありふれた場所で、同級生なんていうありふれた存在だった。そうと気づいた時は、心底驚いた。最初は……悪いけど、本当になんとも思ってなかったからな」

そうか。

「神くんのこと?」

沖田くんが、がくりと肩をこけさせた。それから一瞬だけこちらを向いて、「違う」と半眼で言ってくる。

「え、じゃあ誰?」

「……まあ、聞いてくれ。衿ノ宮、おれが今日読んだ衿ノ宮の小説、あれはおれとミーがモデルだよな?」

ぎし、と背骨がこわばる音が聞こえた気がした。今日のうちに、ちゃんと話しておきたかったことだけど、いざとなると足が震える。

「ごめんなさい、本当にごめん。もう、絶対にあんなことしない」

「それは聞いたよ。でも、おれが考えてることは、衿ノ宮とは少し違う。いや、全然違う」

違う?

「衿ノ宮の書いた話をいくつか読んだよ。いろんな人間が出てきて、いろんなことが起きてたけど、共通してるのは、登場人物がみんな幸せそうなことだった。誰かを好きになって、それが周りに受け入れられることもあればそうでないこともあるけど、少なくとも当事者たちは報われて終わる。そうだろ?」

「う、うん。私は、読むのでもそういう話が好きだから」

「おれは、今は少しは衿ノ宮のことを分かってるつもりだよ。だから、衿ノ宮がなにを思って彼らを描いたのかも、理解できるつもりだ。……あの話の中のおれは、まだ読んでる途中だけど、幸福になる未来しか見えなかった。衿ノ宮が、そうだといいと思ってくれてるってことだろ?」

沖田くんが、私を見つめた。

公園の街灯の光を、小さく閉じ込めて光る瞳が、どこまでも深い。

「思ってる。いつも、そう思ってる」

言葉にしていないことを分かってもらえるというのが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。それも、私にとって一番大切な人に。私のしたことを考えれば、悪く取られる方が当たり前のはずなのに。

今日、家を出る前にこぼれたのとは全く温度の違う涙が、私の頬に流れた。

「私、今までに書いた小説は、全部消すから。ネットで投稿したものだけじゃなくて、私のパソコンからも」

「え? なんで? 消す必要はないだろう。おれ、喜んでるんだぜ」

「私が、もう、想像の中の沖田くんに逃げたくない。私のお話の中じゃなくて、現実の沖田くんに幸せになってほしい」

「……それと、小説を全部消すことに、つながりってあるのか?」

「分からない。ないと思う。でも、私がそうしたいの」

感謝と罪悪感でできた、線でつながらない点を、無理矢理に手の中で丸めるような、全然論理的じゃない結論。

でも、今の私にはそれしかとるべき行動が思いつかない。

「そうか。おれ、衿ノ宮のことが分かったなんて言って、まだまだだな。でも、早まる必要はないだろ。……おれが今から言うことを、ゆっくり考えてからでも」

え、と私は改めて沖田くんを見た。

「衿ノ宮。君は、おれにとって、ひどく特別になってしまった」

「……特別? 私が?」

「度合いが説明しにくいが、……可能な限り分かりやすく言うと、ハルキシよりもだ」

びくん、と私の背筋が伸びた。

「おれは本当は両性愛者なんじゃないかとか、そうじゃなくて衿ノ宮だけが特別なんだろうかとか、衿ノ宮から告白されたせいで浮かれてるんじゃないかとか、……考えられることは考え尽くした。それでも結局、どんな分かれ道も迂回路も、全部、一つしかない結論にたどり着く」

月明かりが、沖田くんの輪郭を明るくかたどっている。

「おれの性志向や、君の性別や、なにかしらの属性や……そういう前提条件みたいなものは、もう、どれも些末なことだ。今のおれには、たった一つで充分で……」

風の音や虫の声が、一時、全て消えた。