その時、私のスマートフォンが鳴ったので、飛び上がりそうになった。お母さんからの電話だった。

「も、もしもし?」

「あ、もしもし燈? ちょっと私の職場まで、届け物してくれない? 机の上にUSBがあるでしょ。今日入用だったのに、置忘れちゃって。それがないと中締めが終わらないの」

確かに、ダイニングのテーブルに黒いUSBが置いてある。

私は電話を切ると、部屋に戻り、

「ごめん沖田くん、ちょっとお母さんに届け物しなきゃいけなくて。自転車で行けば二十分くらいで帰ってこられると思うんだけど、待っててもらっていい?」

「え、でもおれ一人でいちゃ悪いだろ。一緒に行こうか?」

その提案にはちょっと喜んでしまったけど、自転車は一台しかないし、二人乗りさせるわけにもいかない。

「いいの、せっかく来てくれたんだし。なにか、時間の潰せるもの……」

「あ、それなら、衿ノ宮の書いた小説が読みたい」

私の手持ちの本で沖田くんの趣味に合いそうなものがあるだろうか、と考えを巡らせていた頭の動きがぴたりと止まった。

なんですと?

「おれの家パソコンないから、スマホで長いの読んでると目が疲れるし、衿ノ宮のノート使わせてくれるんならいい機会かなって。ネットに上がってるのは一通り読んだから、ほかにもあれば」

「……い、今の私の小説、BLしかないよ」

今でなくても、BLじゃないものはもともと数える程度しかないけど。

「BLな。実は、先日本屋でも適当に二三冊買って読んでみた。言ってなかったけどな。特に拒絶反応はないし、衿ノ宮の言う通り文章も絵もきれいでいい本だったぞ」

それは思いがけず喜ばしいことだ。よかった。でも。

前に私の書いたものを沖田くんが読んでくれた時、とても嬉しかった。けれど。

「……笑わない?」

「笑わない。家で読んでても笑ったことはない」

私は手早くノートパソコンの電源を入れると、小説のファイルだけが入れてあるフォルダを示して、USBをつかみ、「行ってきます!」とドアを開けた。

冷房のきいた家から外へ出ると、一気に汗が肌に浮いてきた。

夕暮れが降りかけていてもまだまだ明るい空の下で、アスファルトが伝えてくる熱に下から煽られながら、ペダルを漕ぐ。

うわあああああ、と胸中で叫び声がこだました。

今まさに、沖田くんが、私が妄想を重ねて書いた男の子同士の恋愛物語を読んでいる。そう思うと、恥ずかしくて、くすぐったくて、たまらなかった。

ネットに上げたものは全部読んでくれたというのを思い出すと、これはこれで喉から妙な声が漏れてしまう。

お母さんが勤めている会社までは、あと五分。

正直に言えば、ゆっくり読んでほしいという気持ちも否めなかったので、帰りは少し速度を落として帰ろうかなどと考えていた時、あることに思いが至って、背中に冷水を流し込まれたような気持ちがした。

いけない。

あのフォルダには、今までに私が書いた小説が、完結済みのものもそうでないものも、全て詰め込まれている。

その中には、例の、沖田くんと神くんをモデルにした書きかけの小説もあるのだ。

万が一にも、あれを沖田くんが見たら。主人公の名前は変えてあるけど、見た目や設定はほとんど実在の二人そのままだから、少し読めばすぐに分かってしまうだろう。

私は、沖田くんの仕事や志向を、面白がったことはない。

ただ、沖田くんのことばかり考えてしまうから、その気持ちを吐露するように想像上の彼を書いただけだ。でも、なにも言われずにあの話を読んだ人に、そう思ってもらえる自信はかけらもない。沖田くん本人なら、なおさらに。

私は、沖田くんのことをまだよくは知らない。沖田くんも私のことをよく知らない。だから、いずれお互いのことを知るうちに、がっかりされたり、嫌われてしまうこともあり得る。とてもつらいけど、それはまだいい。

でも、この誤解だけは絶対にされたくない。そして、一度誤解されたら、どんなに言いつくろっても、ちゃんと解けるとは思えない。

……いや。

誤解じゃ……

「誤解じゃないじゃん……」

たとえば、作中の沖田くんは、自分の「仕事」を冷めた目で見ながらも肯定的に受け止めていて、全然辞める気なんてない。

これは、私の書いた人物が沖田くん本人じゃないことを、百も承知だから創作できたことではある。

でも、モデルにした本人に隠れて、私がその場を見たこともないプライベートを――私を信じて打ち明けてくれた秘密を、勝手に心の内側まで想像して、決めつけて書いているようにしか、他人からは思えないだろう。。

いや、当の私にだってそうとしか見えない。

沖田くんがそれを読んだら。


――おれの仕事や恋愛の志向が珍しくて、おもちゃみたいにとか、珍奇な動物見るみたいに興味持ってるわけじゃないよな?

あれほど上気していた顔から、ざっと血の気が引いた。

体重を一気にペダルにかけ、加速する。

事務所の裏口をノックすると、お母さんがすぐに顔を出し、

「ありがとう。あと一時間ちょっとくらいで帰れるからね」

私は作り笑顔とほとんど条件反射のようなうなずきで答え、すぐに自転車に飛び乗った。

幸い空いている道を、事故にだけは気をつけながら、可能な限りのスピードで走る。

時間にすれば十分かかったかどうかというくらいの帰り道が、何十キロもの道程に感じられた。

あんなもの、書くんじゃなかった。どんなに私が好きなものでも、どんなにやりたいことでも、そのせいで一番大切な人を傷つけてしまうものなんて、形にするべきじゃなかった。

やっとうちのアパートについて、自転車をとめ、息を整える。

なに食わぬ顔で、私は玄関に入った。

「戻ったよ、沖田くん」

返事はない。

けれど靴はある。

私は無意味な抜き足差し足で、部屋に向かった。

そこには、私のパソコンに向かう沖田くんがいた。

画面には、横書きの文字列が映し出されている。私の小説だった。それはいい。問題は、どの話を読んでいるのかだ。

後ろからそっと近づき、文字列を目で追う。

今までに書いたものの中には、ちょっときわどいシーンのあるものも、書いた人間の顔が見たくなるような突飛なものもある。でも、どれを読まれても構わない。あれでさえなければ。

「お帰り。衿ノ宮」

沖田くんは振り向かずに言ってきた。表情は見えない。

「う、うん。お待たせ」

口でそう言いながら、私の神経は目に集中していた。

「禁断、なんだな」

沖田くんのその一言に、私の思考はぷっつりと打ち切られた。

『禁断の二人』というのが、沖田くんを主人公にした話のタイトルだった。誰に見せる気もなかったので、あまり凝りもせず、大して工夫もなくつけたもの。

読まれている。あれを。今。

「……あの」

「衿ノ宮から見て、おれとミーって、やりそうに見える?」

なにも考えられないまま、ぶんぶんと首を横に振った。

そのしぐさが、後ろ向きの沖田くんに見えたはずはないのに。