<第四章 君がいたから>

八月の半ばを過ぎようとしていた頃、木乃香ちゃんに誘われて、新宿に来た。

今回は特にBLがらみの用事ではなく、画材屋を少し覗いたら、勝手知ったる街で遊ぼうということだった。

「どうしたの、その顔」

午前十一時、待ち合わせ場所に着くなり、先に到着していた木乃香ちゃんにそう言われて、両手で顔を挟む。

「ど、どうって? なにか変?」

「まるでのぼせてるみたい。心なしか表情に締まりがないし。なにかあったの?」

「じ、実は……この間」

私たちは手近にあったファミレスに入り、少し早めのお昼をとった。

温泉卵を落としたドリアと、小ぶりなピザを二人でつまみながら、私は正直に白状した。

「ほおっほおお。燈ちゃんから告白を。この前は、進展しようがないみたいなこと言ってなかった?」

「言ってました……」

「進展させてるじゃん。我が手で」

「私も、まさかそんなことになるとは……」

木乃香ちゃんが軽く身を乗り出し、

「で、返事はどうなったの?」

「保留……」

「えー。なにそれ」

少し考えさせてくれ。

そう言われてから、もう何日たっただろう。直接会うのはもちろん、電話やメッセージを送るのも、ひどく緊張してしまってできない。

その間に神くんから、「二人の様子がおかしい気がするが、なにかあったのか?」と鋭く勘繰られてしまった。

さすがに私からその理由を言うことはできず、はぐらかしてしまったけど、あっさり看破されているかもしれない。

表面上はなにも起きていなくても、私の胸の中は毎日が難破船のようで、その苦しさを吐き出すように、ノートパソコンの中のBL小説はかつてない進捗を見せていた。

以前から少しずつ進めていた、沖田くんと神くんをモデルにしたカップリングの作品は、そろそろ六万字に達しようとしている。

ドリンクバーでオレンジジュースに炭酸水を注いで戻ってきた時、スマートフォンが鳴った。

その着信音は、ただ一人にだけ設定していたものだった。危うく、グラスを取り落としかけた。

「……燈ちゃん、分かりやすいねえ。出なよ出なよ」

私は木乃香ちゃんに目で謝りながら、席を外して、スマートフォンの通話ボタンをタップした。

「……衿ノ宮? ずっと連絡しなくてごめん。今日、少し時間もらえないかな」

「い、いいよ。柏がいい? 今新宿だから、夕方くらいなら。カフェとか、ファミレスとか?」

「いや、静かなところの方がいいな。本当はうちでって考えてたんだけど、実は、少し前から親が二人ともおれの部屋に来ててさ。その相手に気を取られて、なかなか落ち着いて考えられなかったってのもあるんだ」

今日は確かお母さんの帰りが遅かったな、と思い出して、私の家ではどうかと提案した。

沖田くんは分かったといって、夕方にうちで会うことになった。

「あらあらー、じゃあ早く帰らないと」

にやにやとしている木乃香ちゃんに、私は首を横に振り、

「い、いやいやそんな、これで切り上げるみたいなことしないけど!」

「だって、そっちはかなりの重要イベントっぽいじゃん? 私とはいつでも会えるんだし、早めに帰って心の準備しておいた方がいいって。ていうか、私はもう帰る。今すぐ帰る。ふふふ、頑張ってねー」

木乃香ちゃんが伝票を持ってひらひらと振った。

「う、うう。ごめん、木乃香ちゃん……」



夕方五時。

「お邪魔します」

「どうぞ」

上ずる声を落ち着かせながら、沖田くんを私の部屋に通した。ドアは私の方から開けておく。

「もう夕方だけど、衿ノ宮のお母さんは?」

「多分、今日は帰ってくるの七時くらいだと思う」

そうか、と言って沖田くんはローテーブルの前にかしこまって座った。

「なぜ正座を」と言いながら私も向かいに正座で座る。

「いや、なんだか自然に。そう、それで衿ノ宮への返事だよな」

心臓が一つ跳ねた。

「ずっと考えてるんだ、あれから。おれは衿ノ宮とどうしたいのか。いきなり帰ってきた親の相手しながら、ずっと考えていて。朝から晩までずっと」

「う、うん」

そう言われると恥ずかしい。

沖田くんは両手で顔を覆い、

「そうしたら、顔が見たくなって、電話してしまった……。結論も出てないのに」

「全然いいよ、そんなの。私は、ほら、沖田くんには……会いたいわけだし」

もう隠す意味もないので、正直にそう言ってしまう。顔が赤くなってしまうので、今一つ締まらないけれど。

「実は、昨日ミーにも相談したんだ。おれよりはあいつの方が、この手のことには慣れてそうだし」

「神くんに?」

「衿ノ宮が告白してくれたことは言ってないよ。ただ、傍から見ていて、おれは衿ノ宮のことをどうしたいように見える? ってな」

いえ、私の気持ちは、とうに神くんはお見通しです。

「そうしたら、『お前は多分本人と会わんと答えが出せん』だとさ。それは当たってるかも、と思った。……衿ノ宮」

「は、はいっ?」

「これは、本当のことだから正直に言っておく。……衿ノ宮は、おれが男が好きだってことは知ってるよな?」

「うん」

「それは本当だ。ただ、……なかなか表現が難しいんだが。女性に対して、なにがあっても絶対に恋愛や性の対象として意識しないというわけではない。異性愛者だって、魅力的な同性に対してドキッとすることくらいあるだろう? それと同じだ」

それは、そうかもしれないと思う。

「その上で、前にも言ったが、衿ノ宮はかわいい。しかも、おれにとってはかなり」

「ひえ」

「茶化すなよ」

「茶化してないから悲鳴が上がるんですが」

「なんで敬語だ。とにかく、そういうわけで、おれは条件が揃えば、……こんな言い方はしたくないが、君を恋愛対象として意識するだろう。平たく言えば、……暗がりの密室で二人きりで近距離にいれば、衿ノ宮に、こう、悪いことをしたくなる可能性が非常に高い」

あまり平たくなっているようには思えないけれど、とても大事なことを言われているような気がしたので、口を挟むのはやめた。

「でもおれは、衿ノ宮をそういう目で見るのは、なんて言うのか、汚らしいと思ってしまうんだ。これはもちろんおれの責任だ。……おれが、やってきたことのツケだから」

そんな、と言おうとするのを、沖田くんが視線で抑えた。

「おれにとって衿ノ宮は特別だよ。でも、恋愛対象として見ているのかが自分でも分からない。好きだけど、おれの罪悪感がその気持ちを抑制しているのか。それとも……」

そもそも恋愛対象ではないのか。きっとそう言おうとしたのだろう沖田くんは、口をつぐんだ。

その口が開いて、苦笑を漏らす。

「弱ったな。衿ノ宮と会ったのに、答えが出ない」

困らせている。

そう思うと、私の方こそ罪悪感が胸に込み上げてきた。

「わ、私は待つよ! ううん違う、答えてほしくて言ったわけじゃないから! 第一人の気持ちのことなんて、割り算みたいに解答が出るようなものじゃないと思う! それに――」

そこで、一度言葉が止まる。促すように小さく首をかしげる沖田くんに、私は正座から腰を浮かせ、前のめりになって言った。

「――それにその間、沖田くんと会えなくなったり、話したりできなくなるのは、その方がつらいから。だ、だってその、好き……なわけだし」

熱を出して寝込んだ時でもこんなに熱くなったことのない顔を突き出して、言い切る。

「……そうか。おれも、衿ノ宮が――」