沖田くんが、そう言って画面の方へ向き直った。

唇が震えた。

今すぐ、その肩口にしがみつきたかった。彼の白いうなじにすがりついて、ありがとうと言いたかった。

でも、それより先に、私の口をついて出たのは。

「言いたかったのは、それだけじゃないの」

え? と沖田くんが振り向く。

「私、……昔、友達とけんかしたことがあって」

なぜそれを言おうと思ったのかと訊かれれば、沖田くんのプライベートだけを聞いて、私の方は隠し事をしたままでいたくなかったというのはある。

でも、もっと根源的な気持ちとして、沖田くんに聞いてほしくて仕方なかった。

「中一の時、小学校から仲がよかった子が、同じクラスの男子を好きになったの。私にも協力してって言われて、なにをすればいいのか分からないって言ったら、連絡先を聞いてきてほしいって言われて。そうしたら、私がその男子を好きらしいって噂が立っちゃって、……それで、なんていうか」

「こじれた?」

沖田くんが首だけでなく、体ごと私の方を向いた。

「それまで、私とその女子の子は、一緒によく遊んでたりしてたの。親友ってほどじゃなかったけど、大事な友達。私はもちろんすぐに否定したんだけど、……」

私が言いよどむと、沖田くんがあっさりと、

「その男子の方が、衿ノ宮を好きになったのか」

「なんで分かるのっ!?」

「小中学生の男子には、女子から好きになられると、自分もその子を好きになるっていう習性を持つタイプのやつが一定数いるんだよ。でもなるほど、それはこじれるな。……告白までされた?」

「……された。……みんなの見てる前で」

「それはまた。例の友達もその場にいた?」

かくん、とうなずく。

私はお腹の前で指を組んで、ベッドに座った。

「起こったこと自体は、そんなに大したことじゃないと思ってるんだよ。そもそもは誤解だし。でも私が、……ちょっと、その時、友達の子に言われたことが……」

今でも覚えている。

その女友達は、朝比奈さんといった。

放課後の、西日になる前の日差しが差し込む、中学校の明るい教室。日に日に冷たくなる視線を私に向ける朝比奈さんを尻目に、彼は私のクラスまでやってきた。

まさか、そんなわけがない、と胸中で叫ぶ私の前で、彼はそのまさか、自信満々に、つき合おうと言ってきた。

クラスの全員が私たちを見ていた。あの時のみんなの表情は、死ぬまで忘れられない気がする。最高の見ものが始まった、と無邪気に沸き立つ含み笑いの群れ。

告白をされてからのほんの数秒の間に、膨大な思考が私の頭を通り過ぎ、その中でひときわ鮮やかに明滅したのは、「私が彼を好きだという誤解だけは肯定したくない」という意志だった。

――ごめんなさい。

彼は告白の成功を確信していた顔を硬直させて、棒立ちになった。

私はその横を駆け抜けて、家に帰った。

翌朝に昇降口で会った朝比奈さんは、見たこともないほど顔をゆがめて、涙を浮かべながら、本当に軽蔑しきった相手にだけ向ける視線と共に、一晩中唱え続けたのだろう言葉を私に吐いた。

――嘘つき。裏切り者。

それは、卒業までに彼女が私に向けた、最後の言葉だった。

なんとか関係を修復しようと、胸襟を開ききって彼女と向き合おうとしていた私は、その敵意に対してあまりにも無防備だった。

子供ながらに、心からの憎しみを湛えて吐かれたその言葉は、私の胸に深く突き刺さった。

朝比奈さんはクラスの人気者だった。それなりにいた私の友達は、無責任な周囲が私を悪役に仕立てた噂が広まると、波が引くように私の周りから遠ざかっていった。

噂は、浅薄だけど、悪質だった。

いつも地味で目立たない襟ノ宮燈は、かわいくて明るい朝比奈さんの隣で、いつも彼女に嫉妬していた。朝比奈さんに好きな人ができたのをいいことに、私がその男子に色目を使った。普通なら、私なんかが、朝比奈さんを出し抜けるはずがない。それなのに男の子の目をこちらに向けさせたのは、なにかはしたない手を使ったからだ。

朝比奈さんはそう信じてしまっていたらしいし、ほとんどのクラスメイトも――こんな話に、真相を究明するほどの手間をかける人はいなかったので――同じように思っていた。

どうしてそうなってしまうのか、説明してみろと言われても、私にも、クラスメイトたちにもできないのではないかと思う。

急速に一人になった私は、なにか気のまぎれることはないかとうろついていたネット上で、たまたまBLの小説を見つけた。

初めて読んだBLは、文章がきれいで、挿絵の水彩調のイラストがきれいで、主役二人が互いを思い合う気持ちが丁寧で、それらは私の胸に空いたうつろな空間に柔らかく染み込んできた。

穏やかな恋愛物語に癒されて、その時初めて、私は深く傷ついていたんだということを自覚した。

「……衿ノ宮。それは、全然、大したことなくないな」

「もっと、うまい立ち回り方があったんだと思う。……でも私が、……なにかを失敗して」

「おれの中でのBLのイメージは、今かなり上がったけどな」

それとこれとは、と私は苦笑した。その小さな振動で、目元に熱を持った水分が集まっているのを感じる。

「衿ノ宮のことだから、つらい思いをしたんだとしたら、ほかの誰かのためだったんだろうなってなんとなく思ってたよ」

私は、情けなさにまた笑って、かぶりを振る。

男子の告白を断った時、私は自分のことしか考えていなかった。

「そんなんじゃないよ。今言った通り、私が全然だめで……私が、私のことしか考えずにものを言ったり、その後もなにもできなかったり、だったから」

「なら、それくらい、譲れないもののためだったんだな」

静かに告げられた沖田くんのその言葉は、あれ以来向き合いたくもなかった私の思い出に寄り添って、分厚い埃を振り払うように、胸の奥に抱き続けていた痛みの正体を教えてくれた。

そうだ。譲れなかった。

絶対に誤解だけはされたくなかった。あの時、私が朝比奈さんの初恋のために力になりたかったこと、彼女の恋を邪魔しようなんて全く思っていなかったこと、あの男子に特別な気持ちなんて全然抱いていなかったこと。

それなのに、絶対に避けたかった道だけが、結果として私には与えられた。

「どうして……」

「ん?」

「どうして、これだけは守りたいと思ったものがあると、それだけは守れなくなるんだろう。どうして――」

沖田君が口を開くより早く、私が先を続けた。

「――どうして、今まで誰も、私だって自分で分からなかったことが、沖田くんには分かるの」

自分から誰かに過去の話をして、理解してもらえる気がしなかった。誰にも分かってもらえないことを抱えて生きるなんて当たり前のことなんだろうと、割り切ろうとしていた。