「ただ、クラスの誰にも相談もできなかったし、孤独感だけは大きかったからな。自分と同じ人たちがいる場所に行ってみたかったんだ。ネットでもゲイのコミュニティはたくさんあったけど、なんて言うのかな、生身の人間と会って体感したかったんだ。おれには仲間がいるんだって。それに、ネットの知識なんてさほどないから、妙なサイトや怖いところにつながりそうで、そっちの方がなんとなくおっかなかったしな」

分かるような気はする。

「……去年の夏休みだ。二丁目に足を踏み入れて、最初に会った人間がハルキシだった」



午後三時。

太陽は強く照りつけていた。

さすがに、初心者にしていきなり夜にここへ来る度胸は、この時の瀬那にはなかった。

歩いて通り過ぎる分には、特にほかの街と変わらない。古臭くもなく、かといって新しい街並みというわけでもなく、東京のよくあるストリートだった。

ひとまず適当にうろついてみようか。そう思って角を一つ曲がった時、真正面に人がいた。

視線を逸らし、小さく会釈して通り過ぎようとして、しかし、相手が通せんぼしてくる。

その時初めて瀬那は、相手の長い銀髪に気づいた。至近距離のため、ひどく髪が痛んでいるのまで見て取れる。

その人は、吊り上がった目も、唇の薄い口元も、なにもかもが攻撃的な顔立ちだった。しかし、その全てが整って、つがえられた矢のような迫力を湛えている。

「……あの?」

「なんだ、客かと思った。でかいだけの子供じゃん、紛らわしい。さっさと行きな」

その言い方に腹が立った。

「それはどうも。お仕事中ですかね。お邪魔して悪かっ」

そう瀬那が憎まれ口を言い終える前に、銀髪の男が割り込んでくる。

「君はなに、男とやりたくてここ来たの? そういう勘違いピンク脳野郎っているんだよね。その童貞面見てると吐きそう」

遠慮しないことに関しては、どうやら相手の方が圧倒的に上手らしいと、瀬那は悟った。

「そんなんじゃねえよ。おれはただ、自分が」

「おいまさか、自分が本当に男が好きなのかどうか確認しに来ましたとか、眠たいこと言うんじゃないよね。童貞の骨頂かよ。高校生か? 性欲に脳が生えたような生き物のくせに」

瀬那は言葉に詰まった。

言おうとしたことをまさにその通りに先回りされたし、せっかくここまで来た以上、なにかが起きるのを期待していなかったと言えば噓になる。

だが、わざわざ真正面から挑発に応える必要はないはずだ。

矛先を変えよう。そう思って、

「……あんた、人の話最後まで聞」

「お前はいちいち最後まで聞くのかよ、だったら一生受け身でいな。ほらさっさと行け、この受動態野ろ――」

そこで、瀬那は会話を試みる努力を放棄した。

「一反木綿みたいな頭しやがって!」

「なっ!?」

初めて、銀髪の男の顔色が変わった。

「ど、どこが一反木綿だ!? あれ白だろ! これは銀! シルバー! やだやだ、クソガキはそんな区別もつかな」

「ちょっと見とれたおれがばかだったよ! 一瞬女の人かと思ったからな! おかげで冷静になった、こんなところくるんじゃなかっ――」

「え? どこがだ?」

今度は相手が口を挟んできても最後まで言い切ってやろう、と思った瀬那の言葉が、ふと止まった。

切れ味ばかりが鋭かった相手の眼差しが、いくらか柔らかくなっている。

「言えよ。どこが、女みたいだと思った? 髪が長いからか?」

「……それもある。でも、なんとなくとしか言えねえよ」

「もう少し具体的に言え」

「だからなんとなくだって。……なんか、視線の感じとか、その腕とか腰の感じとか……ほかには、ええと……」

懸命に言葉を探しながら、瀬那は、こんなにまごついているのに相手が横槍を入れてこないことに気がついた。

銀髪は、ただ、瀬那の言葉をじっと待っている。

「……やっぱり、うまく言葉にできない」

瀬那がそう言うと、相手はスマートフォンを差し出してきた。

「な、なんだよ?」

「おれはとてもいい人だから、お前のようなガキにも少しだけ親切にしてやろう。連絡先教えな。ここでのやり方、ちょっとは教えてやるよ」

「……はあ」

「名前はハルキシだ。売春夫だよ。これからお仕事。えらいだろう」

瀬那は、こういう時に本名を名乗っていいものかどうか迷ったが、

「……沖田瀬那。高校生で、……多分、男が好きだよ。だからここに来た」

そう言って、スマートフォンを取り出した。

そうして連絡先を交換した後、瀬那はしばしば二丁目に顔を出すようになった。

ハルキシとその仲間は、平日でも休日でも午後になればたいてい連絡がつき、そこに交じればアルコールや性行為を伴わずに、他愛ないおしゃべりに加えてもらうことができた。

彼らがたまり場にしているのは、潰れているのかいないのかもよく分からない朽ちかけたプールバーで、多い時には二十代前半の青年が十人ほどが集まる。

その全員が売春していた。

特定の店に所属している者もいれば、路上専門の者もいた。ハルキシも、いくつかの店とつながりはあるようだったが、本人はフリーだった。

それまでの学校生活とはまるで違う世界に、瀬那が高揚していなかったといえば噓になるだろう。

クラスの誰もまだ知らない、恐らくほとんどは一生足を踏み入れることのない世界に、片足を突っ込んだ興奮は、刺激的で甘美だった。

どれだけ汚れているか見て取れない夜の湖に、こっそりと足先を浸したような背徳感があった。

プールバーでは当たり前のように売り専の専門用語が飛び交い、そのほとんどは当時の瀬那には意味が分からなかったが、頼みもしなくてもハルキシや仲間たちがわざわざ解説してくれた。

時折、その場の男に瀬那がちょっかいを出されることはあったが、ある時ハルキシが

「瀬那お前、童貞なのは顔見れば分かるけど、処女なのか?」

と訊いてきた。

「……そうだよ。悪かったな」

そう答えてからは、周りからの誘いはなくなった。

瀬那が誰かから酒を勧められた時には、ハルキシがおどけた振りをしてそれを飲み干した。

瀬那はハルキシに守られ、ハルキシは瀬那を公然と特別扱いにし、大切にした。

夏休みが過ぎ、九月の中旬を迎えるころには、瀬那の中にはハルキシへの塔別な気持ちが芽生えていた。



ある土曜の午後、プールバーには珍しく、瀬那ともう一人だけがいた。

峰倉というその青年は二十歳――自称――で、人当たりがよく、瀬那ともよく打ち解けている。

ぐらつくスツールに座り、バランスを取って暇つぶしをしていた瀬那が、峰倉に振り返った。

「峰倉さん。ハルキシって、今日も仕事してんのかな」

「この時間にいないってことは、そうかもね。土日はフル回転だよ、あいつは。まあ平日もだけど。一人でよく管理してると思うよ」

「なんか、飲み屋みたいな仕事もしてるじゃん、あいつ。なのになんで売春もしてんの」