<隔絶した世界の小さな箱の中で>

八月三日の午後一時。

平日なので、お母さんはいつも通り、仕事で出かけている。

帰ってくるのは夕方だ。

平日の昼間に、人が家に来るのは久し振りだった。

「い……いらっしゃいませ」

「お邪魔します」

沖田くんはボーダーのプルオーバーシャツとネイビーブルーのタイトなパンツで、真夏のお昼だというのに涼しげに見える。

昨日のうちに片づけておいた私の部屋に沖田くんを通し、クッションに座ってもらった。

「衿ノ宮、うちでもよかったんだぞ? 上がっておいてから言うのもなんだけど」

私が麦茶を持っていくと、沖田くんが「いただきます」と受け取ってから、そう言ってきた。

「ううん、何度も一方的に上がり込むのも申し訳ないし。……普通こういう時、ジュースとか出すのかな。私、人が遊びに来たことってあまりなくて……」

「え、麦茶がいいよ麦茶最高じゃん、ジュースだと喉乾くし。……でも、女子の部屋に上がり込むって、女子が男の部屋に来るのとはちょっと違うかなって思うんだよな。極力礼儀正しくするよ。ドア開けといてな」

「誰もいないのに」

「だからだろ」

ローテーブルを挟んで座った私へ向けて、沖田くんが半眼になる。

「で、でも沖田くんは私のことはなんとも思わないわけでしょ? それなのに私が身構えるのも、失礼っていうか」

「……失礼じゃないよ。身構えててくれ、それとこれとはまた別問題だ。それはそうと、おれとハルキシのことだったな。大して面白い話じゃないんだけど、巻き込んじゃったからなあ。……話す前に、一つだけ訊いていいか?」

「え? うん。なんでも」

「衿ノ宮は、おれが――おれの仕事や恋愛の志向が珍しくて、おもちゃみたいにとか、珍奇な動物見るみたいに興味持ってるわけじゃないよな?」

思わず、私はがたんと膝立ちになり、

「あ――」

当たり前だよと言おうとして、一瞬言葉に詰まったのは、頭の中に、私のBL趣味のことがよぎったからだった。沖田くんと神くんを題材にして、よからぬ妄想を繰り広げていたことも。

沖田くんが同性を好きだということが、私にとって本当になんでもないというわけじゃない。悲しいとも思うし、同時に、私の趣味との一致振りに、心惹かれてしまう部分があるのも本当だった。

二人を主人公にした私の小説は、すでに二万字ほどになって、机に乗ったノートパソコンの中に納まっている。というか、今日沖田くんがうちに来ることになって、気分が盛り上がってしまってついさっきまで書いていた。

まさかそんなものが、ほんの右手二メートルの位置にあるなんて、沖田くんは想像もしていないだろう。改めて考えると、凄く悪いことをしていると思う。

でも、そんな私の都合は今は関係ない。沖田くんは、この間のハルキシさんの言葉が引っかかっているんだと思う。私がここで、はっきり否定しないといけない。

「――当たり前だよ!」

沖田くんが、ほうと息をついた。

「だよな。変なこと訊いたな。もちろん、おれも衿ノ宮のこと信じてるよ」

そう言われると、じわりと罪悪感が湧いてしまう。

「今言ったとおり、大して面白い話じゃない。要点だけかいつまんでいくぞ。おれが初めて人を好きになったのは中学の時で、バスケ部の先輩だった。男のな」

「バスケットやってたの?」

「やってたんだよ。ただその時はなにも打ち明けられずに、先輩は卒業していったし、おれも普通に諦めた。ただ、気づいてはいたんだ。おれは男が好きなんだと。女子をかわいいと思うことはあっても、つき合いたいとは思ったことがない。……そうすると、自分なりに、少しでも居心地のいい場所を探すわけだ。幸か不幸か情報化の時代のおかげで、すぐに二丁目って場所を知った。その時は、特にパートナーを探そうとか、特別な経験をしようと思ったわけじゃなかった」

私は小さくうなずく。

「ただ、クラスの誰にも相談もできなかったし、孤独感だけは大きかったからな。自分と同じ人たちがいる場所に行ってみたかったんだ。ネットでもゲイのコミュニティはたくさんあったけど、なんて言うのかな、生身の人間と会って体感したかったんだ。おれには仲間がいるんだって。それに、ネットの知識なんてさほどないから、妙なサイトや怖いところにつながりそうで、そっちの方がなんとなくおっかなかったしな」

分かるような気はする。

「……去年の夏休みだ。二丁目に足を踏み入れて、最初に会った人間がハルキシだった」



午後三時。

太陽は強く照りつけていた。

さすがに、初心者にしていきなり夜にここへ来る度胸は、この時の瀬那にはなかった。

歩いて通り過ぎる分には、特にほかの街と変わらない。古臭くもなく、かといって新しい街並みというわけでもなく、東京のよくあるストリートだった。

ひとまず適当にうろついてみようか。そう思って角を一つ曲がった時、真正面に人がいた。

視線を逸らし、小さく会釈して通り過ぎようとして、しかし、相手が通せんぼしてくる。

その時初めて瀬那は、相手の長い銀髪に気づいた。至近距離のため、ひどく髪が痛んでいるのまで見て取れる。

その人は、吊り上がった目も、唇の薄い口元も、なにもかもが攻撃的な顔立ちだった。しかし、その全てが整って、つがえられた矢のような迫力を湛えている。

「……あの?」

「なんだ、客かと思った。でかいだけの子供じゃん、紛らわしい。さっさと行きな」

その言い方に腹が立った。

「それはどうも。お仕事中ですかね。お邪魔して悪かっ」

そう瀬那が憎まれ口を言い終える前に、銀髪の男が割り込んでくる。

「君はなに、男とやりたくてここ来たの? そういう勘違いピンク脳野郎っているんだよね。その童貞面見てると吐きそう」

遠慮しないことに関しては、どうやら相手の方が圧倒的に上手らしいと、瀬那は悟った。

「そんなんじゃねえよ。おれはただ、自分が」

「おいまさか、自分が本当に男が好きなのかどうか確認しに来ましたとか、眠たいこと言うんじゃないよね。童貞の骨頂かよ。高校生か? 性欲に脳が生えたような生き物のくせに」

瀬那は言葉に詰まった。