「言っただろ。衿ノ宮はそんなんじゃない」

粘ついた、くぐもった声が断続的に聞こえた。ややあってから、それがハルキシさんの含み笑いだと気づく。

「結局瀬那はノンケなんだろ? 悪かったなあ、つき合わせて。しんどかったよね、あんな仕事。お客おっさんばっかだもんな。色恋は使ったか? 使ったんだろうなあ。でも瀬那がやりたいって言うからさあ」

「ハルキシ、おれは必要なもののために必要なことを」

「理屈言うなら死ね! 利口なことしゃべんじゃねえ!」

バン、と音がした。

ハルキシさんが、壁かテーブルでも叩いたんだろう。

戻ろう。そう思って、身じろぎした。でも、緊張で体を強張らせていたせいで、うまく手足が動かない。

静かに、静かに……

「おい? なんだハルキシ、どこ行く?」

「ちょっと待ってて。渡したいものがあるから」

そう言ったハルキシさんの気配が遠ざかっていく。

チャンスだ。

静かに歩を進めて、あと少しで通りに出そうになった時。

「ほらいたあ」

と後ろから聞こえた。

「ひっ!?」

そこには、ハルキシさんが立っていた。

「そこに裏口があってね。ここ、瓶の破片やらゴミやらで、足音が響くんだよ。なんか人の気配がするなあ、まあお前かなあと思ってたら、案の定だ」

「ご、……ごめんなさ……」

「ああ、ムカつく、本当に腹立つなお前。なにをどうしたらこんなにムカつく人間が出来上がるんだ。……こっち来い」

言われるがままに、私は裏口から、お店の中に入っていった。

やっぱり、沖田くんたちが話していたのは給湯室だった。三人も入れば窮屈になってしまう程度の広さで、申し訳程度のガス台と流しの横に、古いポットが置かれていた。

「衿ノ宮!? 帰ってなかったのか!」

「ご、ごめんなさい……」

「いやあ、全部聞かれちゃったねえ。じゃあ分かったろ、あたし(・・・)は頭の中は女で、いずれ手術で体と戸籍を女にしたいわけよ。瀬那は、せっせとそのために割のいいお仕事をしてくれてたわけ。どう、羨ましいかな?」

ハルキシさんが、後ろから私の両肩に手を置いた。

私たちの正面に沖田くんがいる。

肩を包む指は細長いのに、私よりもずっと力が強そうで、今にも首を絞められてしまうような気がして、ぞくりとした。

「そんな、……こと」


「瀬那は心が広いよねえ。ノンケなのに、頭が女なら、体が男のやつにでも貢いでくれるんだってさ。こういうのもフェミニストか?」

「おい、だからおれはノンケだなんて一言も言ってないし、そもそ」

「その上、仕事ならただの男が相手でもいいと。あれ、これノンケか? そうしたら、やれないのは身も心も女のやつだけかあ! クソガキ、お前やってもらえないなあ、あはははは!」

「ハルキシ!」

「女かばってあたしの名前呼ぶなクソが! で、どうだよ、頭は冷えたのか!? こんなあたしのために尽くしてやるのがばかばかしいってやっと気づいたのかよ!」

すぐ耳元で、ハルキシさんの声が弾ける。

狭い空間の中で、空気の震えとは別のものが私の頭蓋骨を揺さぶってくるようで、くらくらする。

「そうじゃない。おれは後悔なんてしてないからな。……ただ、けじめをつけたいんだ。おれは、今までの稼ぎを全部お前に渡したいと思ってる。普通のバイトでよければ、それで稼いだ金も渡す。……それこそ冷静に考えれば、そんな金をはいそうですかって受け取ってもらえるとは限らないのにな」

「あははあ。手切れ金か」

「違うだろ」

「いやあ、そうかあ……ははは……」

力なく漏らした笑い声とともに、肩に置かれたハルキシさんの手から、力がかくんと抜けた。

そして、

「瀬那も――」

「……ハルキシ。衿ノ宮をこっちによこせ」

肩が強く握りしめられた。痛いほどに。

「――瀬那も、あたしのこと、嫌いになっちゃった……?」

言い終わったと同時に、肩から手の感触が消えた。

沖田くんが踏み込んできて、私の手をつかんで引く。

「あっ!?」

「来い、衿ノ宮」

沖田くんの腕の中で、私は体を半回転させて、後ろを見た。

ハルキシさんが、左手を伸ばし、流しの下から包丁を取り出していた。

その時、青白い手首から肘の内側辺りまで、ハルキシさんの素肌が見えて、足がすくんだ。横に十数本、縦にも三本ほど、赤黒く盛り上がった傷跡がひきつれながら走っていた。

「帰れ」

「ハルキシ。それがお前の本音なんだな?」

「こうなるって分かってたから会わなかった」

「それでも、また来る。……お前はおれにとって、特別すぎるからな」