このまま帰りたくない。

私は、ハルキシさんが上がっていった階段を駆け上がり、地上に出た。

一言言ってやりたい。

夜の街を突っ切り、再び歌舞伎町に入る。

沖田くんが指定していたファストフード店はすぐに見つかった。

でもそのすぐ外で、沖田くんがハルキシさんに詰め寄っていた。

意気をくじかれて、私はつい傍らのビルに隠れた。今日、こんなことばかりしてるけど。

「ハルキシ、あれだけ言ってなんで無視できるんだお前」

「無視したんじゃねえよ。ちょっと遅れただけだろう」

どうやら、時間通りに来なかったハルキシさんを沖田くんがとがめているようだった。

「じゃ、それはいい。本題だ。しらふで答えろよ。なんでおれの学校のやつに、仕事の噂なんて流した? 好意的に受け取りようがないんだがな」

「ああ、あの女な。こんなところまできて売りやってる男子高校生探してるとかいうから、お前のことかと思ったら当たりだったな。……お前の仕事のことを教えた理由? 分からねえか?」

「全く分からん」

「瀬那、お前が足洗おうとしてるからだよ。この界隈から。だからあの下品な女に、本当のことを教えてやっただけだ」

沖田くんが、顔に疑問符を浮かべる。そして、

「……つまり? おれに、仕事を続けさせたいってことか?」

「そう」

「……なんでだよ? ハルキシ、なんでお前にそんな筋合いがある?」

「いいじゃないか。稼ぎもいいし、知り合いも増えただろう。瀬那は、一見の客が多い割りにリピーターは少ないが、人当たりいいからな。後輩たちにもずいぶん慕われてるようだしよ」

「おれは、この仕事におれたちの年代のやつらが増えるのが、いいことだとは思ってない」

「ほお。そんな仕事を、どうしてお前はやるんだ?」

沖田くんが言いよどんだ。遠目にも分かるくらい狼狽しているし、急に赤面している。

「……いいだろ、そんなのなんでも」

「言うんだ。瀬那。言えよ」

数歩踏み出したハルキシさんの胸が、沖田くんのそれに重なった。

「よせ、ハルキシ。お前なんのつも」

「こっちにこい」

ハルキシさんが沖田くんの腕を強く引き、どこかへ歩き出す。

私は慌てて体の角度を変えて隠れた。

沖田くんは、さっきハルキシさんの勤め先だといったお店の中に連れていかれた。


閉められたドアに近づいてみると、クローズドの看板がかかっている。

私はそのお店――店名のロゴは英文字が崩されていて、よく読めなかった――の壁づたいの路地に入り込んだ。

暗く、狭く、見通しの悪い奥の方から人が来そうで怖かったけど、そうせずにいられない。

給湯室があるのか、壁に小さな窓と換気扇がついていたので、そこに耳を寄せる。

沖田くんの声が聞こえてきた。

「ハルキシ、お前店開けなくていいのかよ」

「店なんて。瀬那、いい?」

いい? ってなにが?

「いきなりだな。だめに決まってんだろ。言っとくけどおれ、そんな気一ミリもないからな」

「でも、男なんてすぐその気になるよ。ほら」

衣擦れの音。

「瀬那、久し振りなんだ、こういうの? 分かるよ。ね……」

ハルキシさんの声の調子が、私と話していた時とは全然違う。上ずって、甘くなっている。

「なにが分かるよだ。おれがここのところ仕事してなかったの、知ってるだけだろ」

「ううん。射精自体、ここのところしてないよね。見れば分かるんだってば」

しゃ、……と声に出しそうになって、懸命に耐える。

沖田くんは否定しない。本当なんだろうか。

え、そういうのって分かるものなの?

男の人同士なら分かるの? 女子同士で、あの子調子悪そうかなって思っても、男子が全然分かってくれないみたいに? 同性だったら? そういうもの?

「……ほっとけよ。これはちょっと、思うところあってのことっていうか」

「……あの女?」

ややあって、衣擦れの音が止まった。

「ハルキシ。おれは中学くらいから、みんなが通う学校は、おれのいるところじゃないんだろうって思うようになってた。だからもっと広いところに行きたかったし、二丁目や歌舞伎町に来たら、そこではおれを受け入れてくれる人がたくさんいた。世間の目はともかく、凄く出会いに恵まれていたと思う。……でも今は、学校におれの居場所があるんだ」

「学校。……冗談でしょ?」

「居心地がいいんだよ。衿ノ宮もそうだし、ミーもそうだ。隣にいると楽しい。おれは別に、今まで仕事でつき合いのあったやつらと縁を切りたいわけじゃない。ただ、いてもいいと思えるところが増えただけなんだ。それを守るために、やめるべきことをやめようとしてる。……だから信じられないよ、ハルキシが、おれの新しい居場所を……」

ぽつりぽつりと続く沖田くんの言葉を、ハルキシさんの、強い口調が遮った。

「なら、早く質問に答えろよ。元々はどうしてあの仕事を始めた? なんのために?」

今までどこか甘えるような響きのあったのとはがらりと変わって、低く唸るような声。

さっきの犬歯を思い出して、私は思わず首筋を抑えた。

「……意地悪だな」

「今更だね」

そして沖田くんの声は、観念したように、低くなった。

「ああ、分かった。そうだよ。ハルキシ、お前の手術代を、おれが払おうって思ったんだよ。普通のバイトじゃ何年かかるか分からないし、受けることが決まってるなら、一年でも若い方がいいんだろ? 全額じゃなくても、何割かだけでもよかった。それでも、おれが払いたいくらいだってただ思ってるのと、本当に相応の額を差し出すのとでずいぶん違うだろう。……ハルキシのためならって、決めたんだよ」

……手術代?

「あっはっはあ。いやあ、嬉しくって泣けちゃうな。それで、瀬那は自分の体を犠牲にしたんだ、病気でもない体に、穴開けるために手術のために」

「そんな風には思ってない、そんな言い方はやめろ。……病気じゃなくたって、自分に必要なら、手術でも受ければいいし薬も飲めばいいだろ」

これは――

「飲むよ。飲むだけじゃなく、注射も打つよ。おかげで年中体調不良だよ。それで店休めばサボってるだの気まぐれだの、お前らもやってみろってんだ、くそ……」

――これはもしかして、私が勝手に盗み聞きしちゃいけない話なんじゃ……

「ハルキシ」

「触るな! ……でも、そっか。そんなにあたし(・・・)のことを思ってくれてたのに、今はあの女が好きなんだ。いいじゃん、あいつ瀬那のこと好きだよ。ちょっと誘ってやれば、平気で家についてくるって。それでやらせてもらえば、いいじゃん」

ハルキシさんの声から、どんどん険がとれていく。

まるで、小さい女の子のような甘えまで混じってきた。