「たとえばあ」

がら、と教室のドアが開いて、先生が入ってきた。

まだ立ち歩いていて生徒たちが、カナちゃんとヨウコも含め、慌てて席に戻る。

本鈴が鳴り、授業が始まった。

沖田くが戻ってこない。

平町さんとはどうなっただろう。放課後に聞けるかな。



そして、放課後。

私は終礼が終わると、すぐに教室を出ようとした。

「あ、待って、衿ノ宮さん」

声をかけてきたのは、奥野さんだった。黒い髪がさらさら揺れて、遠慮がちにしていても独特の存在感がある。

「うん、なに、奥野さん。どうしたの?」

「噂、……聞いたんだけど。あの、沖田くんの」

おずおずとした口調だったけれど、私は、お腹の中に苦い石を詰め込まれたように感じた。

「ちょっと、場所変えようか。えっと、静かなところ……」

私は奥野さんを連れて、生物室や化学室のある一角に向かった。

生物部などの部活は今日は休みらしくて、ひと気はない。廊下の前後にはどちらも階段があるけど、ひとまず誰もいないのを確認して、私たちは小声で話し出した。

「衿ノ宮さんは知ってたんでしょう? 沖田くんが、その……悪いことをしてるって」

こう単刀直入に言われると、はいともいいえとも言いにくい。

「そんなの……そんなの噂でしょ? 勝手にいろいろ言うの、よくないよ」

奥野さんは、上目遣いに私を見た。長い前髪の間から、細く視線を伸ばしてくる。

「ごめんなさい。私、見てたの」

見てたの。

なにを?

心臓の鼓動が早まる。

なにか、かまをかけられてる? でも、奥野さんがそんな……

「前に、歌舞伎町で、衿ノ宮さんと沖田くんがいるの。ホテルの前だった。大人の男の人と一緒に。……どちらかのお父さんとかじゃ、ないよね」

しらばっくれるという選択肢は、なくなってしまった。

私だけが目にしたと思った秘密は、さらに別の人物に私ごと目撃されていた。

なぜこの学校の生徒は、みんな歌舞伎町に行きたがるんだろう。人のことは言えないけど。

「でも奥野さん、それなら、沖田くんがなにもせずに出てきたのも分かってるってこと……だよね?」

「確かに、そういう風には見えたよ。でも、あれが初めてっていうわけじゃないんでしょう? だったら……」

だったら。

だったら、なに?

「衿ノ宮さん、沖田くんと仲がいいなら、変なことはやめさせるべきだと思う」

変なこと。

おかしいな。私だって沖田くんには、「仕事」をやめてほしいと思っていた。なのにこんな言い方をされると、なぜか、仕事ごと沖田くんをかばいたくなってしまう。

でも、それはやめておく。きっと私の本音とは違うから。今、制御も説明もできない感情に身を任せるのは、とても危険な気がした。

「うん……。奥野さんの言うとおりだと思うよ。でも沖田くんのことに、私が口出しできるわけじゃないし、噂の中身だって確かな……」

そこまで言いかけて、ぎょっとした。

奥野さんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれている。

「私だって……私だって、正義感だけで、こんなこと言ってるんじゃない……」

やっと分かった。奥野さんが、沖田くんをどう思っているのか。

「衿ノ宮さんが、……私より、ずっと沖田くんに近いなら、どうして……私だったら、そんなこと」

「奥野さん。私は」

「ずっと好きだったの。一年の時から。でも、相手にされないだろうって分かってた。見てるだけでよかった。でも歌舞伎町で、あんなこと……あんなおじさんと、そんなことしてるんだって思ったら、すごく気持ち悪くなった。好きな気持ちが、全部吐き気に変わったみたいな、最悪の――最悪の気分。どうして? どうして衿ノ宮さんは、あの場に居合わせて、今も平気でいるの? 今も沖田くんは、続けてるんでしょう? あれを」

さすがに、これでは、言われるがままでいるわけにはいかない。

「……私だって沖田くんのことは知らないことばっかりだよ。でも、知らないからこそ、勝手なことは考えないようにしてる。今の噂のことだけじゃなくて。理由を知っているのと知らないのとじゃ、同じものでも全然違って見えるはずだから。私が決めてるのは、沖田くんの味方でいることだけなんだよ」

奥野さんが、なにか言おうとして、その言葉を飲み込んだ。

――かと思ったら、ヒッと声を上げて、体を強張らせる。

「奥野さん? どうかし……」

その時ようやく、私は背後から響く上履きの音に気づいた。

振り向いて、「ヒ……ヒェッ……」と、私も声を漏らす。

「お化けみたいに言うなよなあ。衿ノ宮まで」

沖田くんが、小首をかしげるようにしながら私の顔を覗き込んで、そう言ってきた。