「たとえばあ」
がら、と教室のドアが開いて、先生が入ってきた。
まだ立ち歩いていて生徒たちが、カナちゃんとヨウコも含め、慌てて席に戻る。
本鈴が鳴り、授業が始まった。
沖田くが戻ってこない。
平町さんとはどうなっただろう。放課後に聞けるかな。
■
そして、放課後。
私は終礼が終わると、すぐに教室を出ようとした。
「あ、待って、衿ノ宮さん」
声をかけてきたのは、奥野さんだった。黒い髪がさらさら揺れて、遠慮がちにしていても独特の存在感がある。
「うん、なに、奥野さん。どうしたの?」
「噂、……聞いたんだけど。あの、沖田くんの」
おずおずとした口調だったけれど、私は、お腹の中に苦い石を詰め込まれたように感じた。
「ちょっと、場所変えようか。えっと、静かなところ……」
私は奥野さんを連れて、生物室や化学室のある一角に向かった。
生物部などの部活は今日は休みらしくて、ひと気はない。廊下の前後にはどちらも階段があるけど、ひとまず誰もいないのを確認して、私たちは小声で話し出した。
「衿ノ宮さんは知ってたんでしょう? 沖田くんが、その……悪いことをしてるって」
こう単刀直入に言われると、はいともいいえとも言いにくい。
「そんなの……そんなの噂でしょ? 勝手にいろいろ言うの、よくないよ」
奥野さんは、上目遣いに私を見た。長い前髪の間から、細く視線を伸ばしてくる。
「ごめんなさい。私、見てたの」
見てたの。
なにを?
心臓の鼓動が早まる。
なにか、かまをかけられてる? でも、奥野さんがそんな……
「前に、歌舞伎町で、衿ノ宮さんと沖田くんがいるの。ホテルの前だった。大人の男の人と一緒に。……どちらかのお父さんとかじゃ、ないよね」
しらばっくれるという選択肢は、なくなってしまった。
私だけが目にしたと思った秘密は、さらに別の人物に私ごと目撃されていた。
なぜこの学校の生徒は、みんな歌舞伎町に行きたがるんだろう。人のことは言えないけど。
「でも奥野さん、それなら、沖田くんがなにもせずに出てきたのも分かってるってこと……だよね?」
「確かに、そういう風には見えたよ。でも、あれが初めてっていうわけじゃないんでしょう? だったら……」
だったら。
だったら、なに?
「衿ノ宮さん、沖田くんと仲がいいなら、変なことはやめさせるべきだと思う」
変なこと。
おかしいな。私だって沖田くんには、「仕事」をやめてほしいと思っていた。なのにこんな言い方をされると、なぜか、仕事ごと沖田くんをかばいたくなってしまう。
でも、それはやめておく。きっと私の本音とは違うから。今、制御も説明もできない感情に身を任せるのは、とても危険な気がした。
「うん……。奥野さんの言うとおりだと思うよ。でも沖田くんのことに、私が口出しできるわけじゃないし、噂の中身だって確かな……」
そこまで言いかけて、ぎょっとした。
奥野さんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれている。
「私だって……私だって、正義感だけで、こんなこと言ってるんじゃない……」
やっと分かった。奥野さんが、沖田くんをどう思っているのか。
「衿ノ宮さんが、……私より、ずっと沖田くんに近いなら、どうして……私だったら、そんなこと」
「奥野さん。私は」
「ずっと好きだったの。一年の時から。でも、相手にされないだろうって分かってた。見てるだけでよかった。でも歌舞伎町で、あんなこと……あんなおじさんと、そんなことしてるんだって思ったら、すごく気持ち悪くなった。好きな気持ちが、全部吐き気に変わったみたいな、最悪の――最悪の気分。どうして? どうして衿ノ宮さんは、あの場に居合わせて、今も平気でいるの? 今も沖田くんは、続けてるんでしょう? あれを」
さすがに、これでは、言われるがままでいるわけにはいかない。
「……私だって沖田くんのことは知らないことばっかりだよ。でも、知らないからこそ、勝手なことは考えないようにしてる。今の噂のことだけじゃなくて。理由を知っているのと知らないのとじゃ、同じものでも全然違って見えるはずだから。私が決めてるのは、沖田くんの味方でいることだけなんだよ」
奥野さんが、なにか言おうとして、その言葉を飲み込んだ。
――かと思ったら、ヒッと声を上げて、体を強張らせる。
「奥野さん? どうかし……」
その時ようやく、私は背後から響く上履きの音に気づいた。
振り向いて、「ヒ……ヒェッ……」と、私も声を漏らす。
「お化けみたいに言うなよなあ。衿ノ宮まで」
沖田くんが、小首をかしげるようにしながら私の顔を覗き込んで、そう言ってきた。
がら、と教室のドアが開いて、先生が入ってきた。
まだ立ち歩いていて生徒たちが、カナちゃんとヨウコも含め、慌てて席に戻る。
本鈴が鳴り、授業が始まった。
沖田くが戻ってこない。
平町さんとはどうなっただろう。放課後に聞けるかな。
■
そして、放課後。
私は終礼が終わると、すぐに教室を出ようとした。
「あ、待って、衿ノ宮さん」
声をかけてきたのは、奥野さんだった。黒い髪がさらさら揺れて、遠慮がちにしていても独特の存在感がある。
「うん、なに、奥野さん。どうしたの?」
「噂、……聞いたんだけど。あの、沖田くんの」
おずおずとした口調だったけれど、私は、お腹の中に苦い石を詰め込まれたように感じた。
「ちょっと、場所変えようか。えっと、静かなところ……」
私は奥野さんを連れて、生物室や化学室のある一角に向かった。
生物部などの部活は今日は休みらしくて、ひと気はない。廊下の前後にはどちらも階段があるけど、ひとまず誰もいないのを確認して、私たちは小声で話し出した。
「衿ノ宮さんは知ってたんでしょう? 沖田くんが、その……悪いことをしてるって」
こう単刀直入に言われると、はいともいいえとも言いにくい。
「そんなの……そんなの噂でしょ? 勝手にいろいろ言うの、よくないよ」
奥野さんは、上目遣いに私を見た。長い前髪の間から、細く視線を伸ばしてくる。
「ごめんなさい。私、見てたの」
見てたの。
なにを?
心臓の鼓動が早まる。
なにか、かまをかけられてる? でも、奥野さんがそんな……
「前に、歌舞伎町で、衿ノ宮さんと沖田くんがいるの。ホテルの前だった。大人の男の人と一緒に。……どちらかのお父さんとかじゃ、ないよね」
しらばっくれるという選択肢は、なくなってしまった。
私だけが目にしたと思った秘密は、さらに別の人物に私ごと目撃されていた。
なぜこの学校の生徒は、みんな歌舞伎町に行きたがるんだろう。人のことは言えないけど。
「でも奥野さん、それなら、沖田くんがなにもせずに出てきたのも分かってるってこと……だよね?」
「確かに、そういう風には見えたよ。でも、あれが初めてっていうわけじゃないんでしょう? だったら……」
だったら。
だったら、なに?
「衿ノ宮さん、沖田くんと仲がいいなら、変なことはやめさせるべきだと思う」
変なこと。
おかしいな。私だって沖田くんには、「仕事」をやめてほしいと思っていた。なのにこんな言い方をされると、なぜか、仕事ごと沖田くんをかばいたくなってしまう。
でも、それはやめておく。きっと私の本音とは違うから。今、制御も説明もできない感情に身を任せるのは、とても危険な気がした。
「うん……。奥野さんの言うとおりだと思うよ。でも沖田くんのことに、私が口出しできるわけじゃないし、噂の中身だって確かな……」
そこまで言いかけて、ぎょっとした。
奥野さんの目から、ぼろぼろと涙がこぼれている。
「私だって……私だって、正義感だけで、こんなこと言ってるんじゃない……」
やっと分かった。奥野さんが、沖田くんをどう思っているのか。
「衿ノ宮さんが、……私より、ずっと沖田くんに近いなら、どうして……私だったら、そんなこと」
「奥野さん。私は」
「ずっと好きだったの。一年の時から。でも、相手にされないだろうって分かってた。見てるだけでよかった。でも歌舞伎町で、あんなこと……あんなおじさんと、そんなことしてるんだって思ったら、すごく気持ち悪くなった。好きな気持ちが、全部吐き気に変わったみたいな、最悪の――最悪の気分。どうして? どうして衿ノ宮さんは、あの場に居合わせて、今も平気でいるの? 今も沖田くんは、続けてるんでしょう? あれを」
さすがに、これでは、言われるがままでいるわけにはいかない。
「……私だって沖田くんのことは知らないことばっかりだよ。でも、知らないからこそ、勝手なことは考えないようにしてる。今の噂のことだけじゃなくて。理由を知っているのと知らないのとじゃ、同じものでも全然違って見えるはずだから。私が決めてるのは、沖田くんの味方でいることだけなんだよ」
奥野さんが、なにか言おうとして、その言葉を飲み込んだ。
――かと思ったら、ヒッと声を上げて、体を強張らせる。
「奥野さん? どうかし……」
その時ようやく、私は背後から響く上履きの音に気づいた。
振り向いて、「ヒ……ヒェッ……」と、私も声を漏らす。
「お化けみたいに言うなよなあ。衿ノ宮まで」
沖田くんが、小首をかしげるようにしながら私の顔を覗き込んで、そう言ってきた。