「あの辺だ。衿ノ宮、マスクして、この伊達メガネ――色つきの――かけておいて。この帽子もな」

「この前の歌舞伎町の時と、同じ理由?」

「そ。衿ノ宮の安全のため、顔は覚えさせたくない」

瀬那くんがそう言ってから百メートルほど歩いて、私たちがドアを開けたのは、少し古びた喫茶店だった。

二十人くらいで定員になりそうなお店の奥、テーブル席に一人の男性が座っている。

四十歳くらいだろうか。ややけば立ったブラウンのアウターに、白いズボンには染みが浮いている。沖田君のお客さんにしては、なんとなく、意外な感じだった。

「あ、ああ。セツナくん」

セツナくん?

沖田君が小声で、「源氏名」と教えてくれた。

「どうも、ヤスダさん。この子がおれの彼女です。こういう場であんまり顔見せたくないんで、ちょっと変装してます」

「はあ。参ったなあ。信用されてないんだな」

そう言って緩やかに笑うヤスダさんに、私は、(申し訳ないけど)あまり好感が持てなかった。自信ありげにふるまっているのが、変に浮き上がって見える。

そして沖田くんは、「信用されていない」というヤスダさんの言葉を否定しなかった。

「今までヤスダさんにはよくしてもらいましたから、これが最後の恩返しです。というか、店のルールとしてははっきりと違反してるんですけどね。おれの精一杯の誠意ですよ。だからこれっきりにしてください」

「君のところは、店なんてあってないようなものじゃないか。それより、なにか頼んだらどうだい」

「いりません。もう話は済みましたから。行こう、ユミ」

沖田くんが偽名で私を呼び、立ち上がる。

説得は十五分もあれば、と言っていたのに、わずか数秒で切り上げるのには驚いた。

「待てよ。こっちの話が済んでない」

「これ以上の話はないんですよ。大事な彼女を危険を冒してここへ連れてきた、これがおれの精一杯の誠意です。約束通り、もう店にも来ないでくださいね」

「ついていくぞ。お前の家までだ。そう言ったろう」

ぴた、と沖田くんの動きが止まる。

今度は、私は、はっきりとヤスダさんに不快感を覚えた。

こんなふうに脅されていたんだ。だから、沖田くんはこんなことまでして。

「……ヤスダさん。奥さんいるんですよね。おれもあなたもお互い、今終われば、ちょっとした人生のアクシデントというだけで、なにも失わないで済むじゃないですか?」

「おれの言うことを聞け!」

ヤスダさんが、テーブルを叩いて立ち上がった。

思わずびくりとのけぞってしまった私の方に、彼はねばっこい視線を向けてくる。

「……この子の家についていくのもいいな」

それを聞いた沖田くんが、ヤスダさんに詰め寄った。

「そんな真似だけはしないと信じていたんですがね」

「セツナくんもその子も学生だろ? 君たちのダメージを考えた方がいい」

「あの」

私は、おずおずと手を挙げた。

「なんだよお嬢ちゃん」

「私の父は、警察官なんですが……」

今度は、ヤスダさんの動きがぴたりと止まった。

「私もそこそこ、世の犯罪行為については父から教えられているんです。ヤスダさんは、私が思うに、今すでに結構まずい状態でして……本当に、ここまでにしておいた方がいいと思います。セツナくんも、ヤスダさんのために言っていることなんです」

「な、なにを言ってるんだ。そうだ、警察の娘だからこそまずいだろ? こんな仕事してる男と付き合ってるなんて。君は本当に彼女なのか? なら知ってるんだろうな、この子がおれとどんなことをしているか。たとえばだな――」

沖田くんの「仕事」について、ヤスダさんは大きな声でまくしたてようとしたのだろう、大きく口を開いた。

まったく興味がないといえば嘘になるし、沖田くんが私の知らないと心でどんなことをしているのか、知りたい気持ちは確かにあった。

そんな気持ちを持っていたことに、私は罪悪感を抱いた。

沖田くんが、誰にも見られずに、壁の内側でしていた内緒の行為は、他人の口から聞くことではない。

ヤスダさんの言葉が喉から出かけた時、私は機先を制して言った。

「全て知っています。その上で私は、彼のことが好きです」

ヤスダさんが一瞬あっけにとられたような顔になり、そして、あのいやらしい笑顔を浮かべる。

「はあ。ははは。そうか。君もおかしいんだな……」

沖田くんが、ヤスダさんの胸ぐらをつかんだ。

「やめて、セツナくん」

「いや、今のは聞き逃せない。誰がおかしいって?」

「ひ、ひい。ネットに……」